しんごの部屋

出会いを大切にしたいと思います。私の言葉が、慰めとなり、心にいやしをもたらす、さわやかなHPとなるように願っています。

愛の評価値

2023-07-15 22:01:38 | しんごの想い

80才ともなると、さすがに長く私を見てきた人の私自身への評価と、私の自己評価とは近いように思います。

妻を愛する夫であるかどうかの評価を高評価を5として五段階評価すると、3と4の間あたりとするのが当を得ているようです。

ところが、私がブログで認知症の妻との生活を発信すると、返ってくるコメントの評価は4以上時には5を超えるかのように評価されます。

嫌々妻の介護をしていても、文字を通して伝わるのは介護した実績であることが多いからだと思います。誤解されないように、嫌々ながら介護しているのだと書いても、行った実績を評価されることが多いようです。

けれども、私の愛の自己評価は、心から喜んで行わない介護は他人を評価する場合は3以下で、自分を評価する場合は0となります。

妻を在宅介護していた頃の私の愛を自己評価すると良い時で3、平均は2といったところだったと思います。

介護施設を利用し始めてからは、会うことに喜びがありましたので、4くらいに跳ね上がったと思います。そして、コロナ禍でたまにしか面会出来なくなった時には会っている短い時だけを評価の判断基準とするなら純愛に近かったと思います。

けれども、夫としての愛を考えるなら、コロナ禍で会えなくなる時のことも予測して施設の利用を考えておくことが出来なかった責任は大きいと思います。自然災害のせいにするのは容易いですが、それでよいとの自己評価はできません。

人は5と評価しても私は1としか評価できないのが今の心境です。

 

 

 

 


ぼくを忘れていくきみと

2022-07-27 23:08:04 | 認知症の妻と楽しむ

今年(2022年)1月より、月刊誌『百万人の福音』に、『ぼくを忘れていくきみと~アルツハイマー病の妻と生きる幸せ~』とのタイトルで、認知症と向き合って共に生きてきた夫婦の16年間を回顧して投稿しています。

1年間の約束で、すでに編集部には10月号までの原稿を送ってあり、校正も終えています。残り11月号、12月号の二回分の原稿の内容も決めてありますので、「責任を果たせて良かった」との思いと「もう少し書き続けたい」との思いが交錯していました。

すると、編集部から連絡があり「連載が好評なので、あと1年間続けていただくことが出来るでしょうか?」との打診がありました。喜んでO.K.の返事をしましたが、その後すぐに、毎回の原稿を書くのに苦しんできたこれまでを思い出して、不安がやってきました。月刊誌では出版部数の上位に入る長い歴史のある雑誌ですから、ブログに想いを書き綴るような訳にはいきませんでした。最初の内は、何度も、編集部から校正を求められ、ようやく書き慣れたころには終了間際という有様でした。

妻と私の生き方が、高齢化社会で認知症が大きな日本の社会にとって大きな課題となり、しかもコロナ禍で愛する者との関係を裂かれる多くの人々がいる、今の時代のニーズに合っているからでしょうか、新聞やテレビでも私たち夫婦の姿が多く取り上げられました。少しでも、私たちの存在が人々の慰めや励ましとなるなら、その姿を人々の前に曝すことにやぶさかではありません。

今は、妻とは窓越しで週に1度、短い時間顔をあわすだけの現状です。信じあうことと、語り合ってきた共通の希望と、これまで培ってきた愛の記憶だけが二人を夫婦として結び合わせているのですが、あと12回の投稿では、これまで二人を夫婦として結び合わせ、幸せと思える人生を歩ませてもらうことが出来た、信仰、希望、愛の力を書き表したいと思っています。


妻が私を忘れていても。

2020-05-17 14:56:44 | しんごの想い

妻が若年性アルツハイマー型認知症と診断を受けたのは2006年の4月でした。在宅で過ごした後2015年6月から大阪市立の認知症専門の特別養護老人ホーム『あんず苑』に入所しました。その時、私も妻を足しげく訪ねて多くの時間を持ちたいと思い、『あんず苑』の近くに引っ越しました。それ以来、五年近くほとんど毎日妻を訪問し、数時間を妻と過ごして来ました。

進行性の病ですが、緩やかな進行でしたので、入所時には手助けがあればまだ自分でできる事がたくさんありました。散歩することと、夫婦のコミュニケーションをできるだけ多くとることを心がけていました。「私は私として生きてゆきたい」と妻自身が認知症と告知された初期の時代に語っていた言葉を私はもっとも大切なこととして心に留めて妻に接してきました。それは、認知機能の低下が進行しても、『妻の人としての尊厳を重んじること。』『妻の内面の人格、妻らしさを尊重し敬うこと。」でもありました。

新型コロナウイルス感染症の流行が日本で始まりだしたとき、『あんず苑』では素早い対応で、2月19日から家族に面会の自粛要請がありました。面会できなくなる前日、私は妻と長時間過ごしました。妻の夕食の介助をしているとき、妻が盛んに笑顔で私に語りかけました。このころは妻の語るほとんどの言葉は誰にも理解できず、ただ私のことが分かる時には「おとうさん」という言葉が間に入っていました。分からない言葉でも、注意して聞いていると、妻の調子のよい日には合間あい間に短い「ほら」「あれ」といった言葉が聞き分けられるときもありましたが、別れの最後の日には「おとうさん」だけしか聞き分けられませんでした。

facebookに妻との生活を登校して8年ほどになります。朝日新聞の記者が私の投稿を目にされて、電話での取材を申し込まれました。4月8日の全国版に、<認知症の妻に忘れられても「受け入れたい。」>とのタイトルで、私が語った言葉が紹介されていました。

すでに並んで座っていても、時々夫の私が分からなくなり逃げるように私から離れて行くことがよくあり、わたしが後ろをついて歩き、しばらくして妻を笑顔でのぞき込むようにすると、「お父さんやね」というような状態でしたから、長く会えないうちに完全に夫である私を忘れてしまうのでは、との不安があります。「最初は忘れないで欲しいと願っていました。けれど、今は私が覚えているからそれでいい、と自分に言い聞かせています。私の名前を忘れても、心の深いところでは、誰よりも私を認めてくれていると信じています。」と私が電話で語った言葉がまとめられていました。

電話では、進行する病を持つ認知症の妻に「忘れないように」と求めるのは愛に反することで、夫としては病の進行している、ありのまま妻を妻として受け入れることの大切さを語りましたが、それは本誌には取り上げられないで、デジタル版や英語版で取り上げられていました。

面会が出来なくなった初めの頃は、長い別離の生活が続くと、夫婦の絆が弱くなるのではないか、と思いましたが、私の妻を恋い慕う思いは強まるばかりで、むしろ絆が強くなっているようにすら感じています。妻がノートに記した言葉や聖書の余白の覚書きから、妻を想うにつれ、私の知らなかった妻の人柄に触れて愛おしさが増してきます。アルバムを見返し妻の折々の言葉や行動を思い巡らせていると、私が妻の人格を正しく評価していなかったことなども気付いて、申し訳けなく思ったりもします。

会いたさは募りますが、『あんず苑』の内部の様子を知っていますから、施設のウイルスへの対応は慎重にされるべきだと思っています。そのためには、私にもさらに長い忍耐の期間が必要だと覚悟しています。この期間を妻をより深く理解する期間としたいと思います。そして、これまでよりも強い、心とたましいの絆で結ばれた夫婦の交わりを楽しむ希望を膨らませながら忍耐強くその日を待ち望んでいたいと思っています。

 


≪イスラム国による人質殺害予告に心が痛む私の想い≫

2015-01-21 07:27:39 | しんごの想い

イスラム国による人質殺害予告に心を痛めています。私が心の痛みは、皆さまの痛みとあるいは少しちがっているかも知れません。イスラム国のテロ行為と、人の命をもって主張を通そうとし、身の代金をとろうとする、やり方は卑劣ですから、「テロ行為には断じて屈しない」というのも間違いでないと思います。 

イスラム国の人道に反する暴力的な行為に、私の心が痛み、映像が事実であるなら、その犠牲となっておられると思えるお二人を想い、そのご家族や親しい方々のお心を思って心が痛みます。速やかな解放を願って祈っています。

けれどもたとえ卑劣な相手であっても、この問題を解決する方法が、武力によったり国際世論を背景に抑え込もうとするやり方が、私の心が痛む一つのことです。むしろ解決を遅らせ、さらに多くの人命だ失われるような、泥沼化を招くように思えてなりません。

センタービルがテロの攻撃の崩壊した後、米国は報復でアルカイダを攻撃するためにアフガニスタンに軍を送りましたが、多くの人命は失われましたが、本当に解決したというより、より問題が深刻化していったように思えてなりません。イスラム国もアルカイダとたもとを分かったとはいえ、同じ流れにある勢力であることを考えると、力による世界平和は困難であることは明らかで、指導者たちも、それに気が付いているはずですが、現実に迫っているテロの脅威から、自分の身を守るためには、力に頼る以外に方法がないと思えるのでしょう。そのことも国を守る立場にある人々ですから、理解できます。

 私も。理不尽に殴りかかられたら、全力で身を守るでしょうし、家族や愛する人々が攻撃されても、まず守る方法を考えます。しかし、攻撃する者の理不尽を一方的に悪と決め付けて仲間の助けを得てでも、徹底的に戦うかといえばそうではありません。火に油を注ぐように、相手の怒りを助長するような、愚かなことはしないと思います。身を守りつつも、何処か争いを止める道があると信じて、努力をするはずです。声高に、テロに対する闘いだけを叫ぶだけで、他の和平の道への努力が感じられないことに私の心が痛みます。 

もう一つ心を痛めていることがあります。それは2億ドルの難民支援が、イスラム国と闘う軍事的なものでなく、「人道的な支援だ」とイスラム国にいくら説明しても、説得力がないことに気が付くべきです。あるいは分かった上で、敵対する相手ではなく自分の陣営を納得させるために、人道的を強調して、相手の卑劣さを示すためかと、うがった思いをしてしまいます。 

なぜ、「人道的支援」が相手に説得力がないかと言えば、イスラム国の側からすれば、敵対する側に対する支援は、人道的であろうと軍事的であろうと変わりがありません。彼らにすれば、こちらの側にも、人道的に支援されなければならない者が多くいるから、我らは戦っているのだ、ということになるでしょう。

「日本が十字軍に加わった」というイスラム国の言葉は、「敵の側に多くの支援をすると総理大臣が表明した日本は、われらの敵となる旗印を鮮明にした。」ということになるでしょう。人質を殺すというような卑劣な脅しをしているイスラム国の肩を持つことは絶対に出来ませんが、中東に対する人道的支援は、私たちにとっては当然と思えても、イスラム国の彼らを逆なでするような支援であることも、問題の解決のためには、知っておかなければいけないことだと思っています。

一方的な自己の正義の主張だけでは、解決は遠のくばかりだと私は考えています。ですから、二人の方の人命だけではなく、今後、日本もテロの標的になる恐れのある、今の危機的な状況で、政府が進めようとしている方針に心が痛みます。相手に理解を示さないまでも、戦いの相手側の事情や、心理、組織の現状などを、理解したうえで、国の指導者が発言し、行おうとしているようには、今報道されていることだけで判断する限りは、私には思えないので、心が痛みます。ついこの前に私たちが選挙で選んだ方々ですから、批判する批判は、選んだ国民の責任に帰ってくることを考えて、余計に心が痛みます。 

とはいえ、総理大臣を始め政府関係者が、二人の人命を守ることを大切にし、精力的に働いている努力と行動力には敬服しています。相手があり、日本の立場があり、一旦約束した支援を取り下げることも出来ないでしょうから、解決は容易ではないでしょうが、私は国民のひとりとして、また人質になっておられるお二人を思うものとして、祈りをもって解決に向けて働いておられる方たちを応援したいと考えています。 

政治的な発言は、立場上差し控えていますが、お二人の人命が盾に取られていますし、世界的なテロとの戦いの中で、日本も傍観者ではおれなくなったこの時、「剣を取るものは、みな剣で滅びます。」との私の立場を確認したいと思いこの文章を書かせていただきました。

 


小旅行でも良いから・・・

2014-11-12 19:54:28 | しんごの想い

              

阪和道を堺市から貝塚市まで走行し、一般道を通って帰るという、小さな旅行を計画しました。白雲の浮かんだ青空、山並が見え、木々が美しければ、妻と二人車の中で十分に楽しめます。岸和田のサービスエリアが二人のちょっとしたお気に入りです。ちょうど紅葉が美しく、小さな日本庭園が眺められ、店員さんも明るい、レストランで昼食をとりました。食後、庭園を散策しながら、水辺に映る竹と泳いでいる金魚の群れを見て喜び、SAに作ってある小さな岸和田城を紅葉越しに眺めては、「ここから見るのがいいわ!」と言う妻に合槌を打ちながら、写真を撮っていました。時を過ごしていました。二人にはちょうど良い外出でした。

 定年になって時間に余裕が出来たら妻と旅行を、と考えていましたが、妻の認知症が進行するにつれて、二人で行動できる範囲は次第に狭くなってしまいました。7年前に働きに一区切り付けていったん退職した時に、大阪から北海道までのんびりとドライブした2週間が、妻との最も長い旅行となりました。 その後、1,2泊の休暇で出かけることはありましたが、最近では一泊することも難しくなってきています。先日、東京での息子の結婚式にも、日帰りで行きましたが、それも私が少し目を離した間に東京で数時間妻を捜すようなこととなってしまいました。

                              

 そのような状況ですが、最近、なぜ妻と旅したいと思っているのか、私の気持ちについて考えていました。そして、感動を共有して会話が弾み夫婦で喜び合う時が持ちたい、と思っていることに気が付きました。そして、妻の喜びが私の喜びであることを再確認出来ました。その結果、私たちに関していえば、小さな旅行を数多くする方が良いのでは、と考えるに至りました。喜ぶ場所であるなら、同じ場所でも、前に行ったことは忘れてしまいますから、問題はありません。ですから、季節に合わせて場所を選びます。当たり外れはありますが、落ち葉があるだけでも喜べる人ですから、あまり気にしないで、きままに選んでいます。

                     

 43年間、良い夫婦だったとは言えないけれど、妻が感動することに私もなるだけ関心を持つように心して来ました。その結果、行きなれた所への旅でも、妻とともに楽しむことが出来るようになっています。食べ物に関しては、豪華な食事でなくても、一杯のきつねうどんでも喜べる二人ですから、食事処を探さなくて済みます。特に最近は、少し高級レストランに行って「美味しい!」と食べ始めても、食べきることが出来ないのが嬉しくないようですから。


日本庭園の菊花展

2014-11-07 20:26:16 | 認知症の妻と楽しむ
私の落ち度で東京で徘徊させてしまった妻に申し訳ないことをしたとの思いがあって、喜ばせたいと思って、堺市の大仙公園へ行きました。折しも菊花展が開催されていました。まだ足の痛みがある妻のために、散策はやめて、菊花展だけを見て帰りました。

チャペルの活け花

2014-11-02 22:18:28 | しんごの想い


教会堂の活け花は私の妻の担当でした。

認知症が進行しても、7年間も続けることが出来たのは幸いなことでした。

私も妻を手伝ううちに、次第に観賞する目が養われたように思います。

昨年はからついに妻はほとんど出来なくなったので、若い活け花の先生に

バトンタッチしました。妻が辞める前の一年ほどは、ほとんど私が活けていましたが、

皆さんは、認知症の妻が活けたものとばかり思っておられて、

「綺麗ですね!」「いつもありがとうございます。」などと、妻に声をかけて下さ

っていました。妻も、自分が活けていると思っていましたから、「うれしいわ!」

「良かった!」「ありがとう!」などと言っていました。



今朝、私はチャペルの花を活けて下さった女性に、花の名前を尋ねながら、

ねぎらいの言葉をかけていました。カーネーション、アスターなど色とりどりの花に混じ

って綺麗なナデシコがありました。「綺麗な撫子ですね?」と声をかけると、「撫子とカ

ーネーションを掛けあわせた、撫子カーネーションだそうです。」と教えてくださいまし

た。それを聞いた時、私の娘がまだ小学生の頃、口の悪い友人が「この父親と母親から

こんな良い娘が生まれるなんて考えられない。」と言った言葉を思い出してしまいまし

た。その娘も今はやんちゃな男の子二人を育てる、普通の女性になっています。



<家に帰ります>

2014-09-29 20:56:54 | しんごの想い
はやいもので、このブログに妻のことを書いてから、一年が経過しています。
妻の病状は認知症に関しては一年で相当進みました。介護するのに、相当な知恵が必要になってきました。
今夜も、私が夫であることも、自分の家にいることもわからなくなって、他人の家にいるように思い「私嫌われているのでしょう?」家に帰らせていただきます!」と言いだして、私がいくら説明しても聞く耳を持ちません。とにかく眠らせて一安心して、私も眠りました。けれども、玄関の戸が閉まる音に、はっとし、妻がいないのに気がついて、急いで外を見ましたが、姿が見えません。
これまでも、何度かありましたが、以前に住んでいた所に向かっていましたので、すぐに見つけることが出来ました。しかし、今日は、その道には向かっていないので慌ててしまいました。夜のことなので、徘徊することになるのでは心配し、娘と息子に電話し、友人にも捜してもらいました。
交番にも届けましたが、のんびりとした対応で、時の経過とともに捜す範囲が広がることを考えて、私の焦りは募りました。
携帯の電源が切れて、充電のため急いで家に帰ると、蒲団の中で妻は眠っていました。
最近は自分の家が分からなくなっていたので、驚きでしたが、一安心でした。
捜して下さっている皆さんに電話をしましたが、今はまた妻は起き出して「家に帰らなければいけなせんね?」と言いだしています。

私、もう子ども産めないかしら

2013-09-11 04:54:54 | しんごの想い
多美子との会話は根気がいるけれど、楽しいことも多い。生来、明るく、まじめで、面白い人だったのだと、最近になって気付いた私です。

自分に与えられた使命に真剣で、私のように肩の力を抜いて、楽しみながら働くといった芸当など出来ない人で、ユーモアの解せない人だと私は思っていました。50年近くの付き合いになるのに、彼女の楽しい一面を私がほとんど見ることの出来なかったのはなぜだったのでしょう。

夫としての私に原因があったようにも思い当たる所もあります。私は人々からは、ほっとすると言われることがしばしばありました。けれども、多美子にとっては、私は緊張感を与える夫であったのかもしれない。

あるいは、多美子に与えられた働きが、彼女の成し得る容量を超えていたにもかかわらず、真面目さのゆえに、その働きを忠実に成し遂げようと頑張って来たゆえに、明るく楽しい人柄が覆い隠されていたようにも思える。もしそうであるなら、彼女は私よりも遥かに豊かな報いを天に置いて受けることになるのでしょう。

私たち二人が、主要な働きから解放された今、私は多美子のことを多く思えるようになりました。夫婦生活を楽しむ余裕が持てるようになりました。もし、結婚して以来ずっと、私たちに今のように楽しむ余裕があったなら、あるいは多美子の病いは違っていたかもしれません。医学的に未だ病の原因が解っていないので何とも言えませんが、彼女は、ストレスの多い道を歩んで来たのは確かなようです。自身で選んだ道でしたから、悔いのない人生であったと思いますが。

いずれにしても、余裕をもって夫婦生活を楽しんでいると、多美子の明るい面がより多く出てきます。彼女が笑顔でいると私はもっともっと彼女を喜ばせたいと思うようになります。



 

手をつないで

2013-09-11 04:14:28 | しんごの想い
古希を過ぎ、共に白髪になった私たち
もう手をつないで散歩をしても
誰も後ろ指もささないでしょう
爽やかな秋の風を楽しみましょう

あなたの肩を抱きながら
讃美歌を歌って歩いていても
とがめる人もいないでしょう
無邪気な幼いこどもになって
秋の夕陽の野菊のみち歩きましょう
もうスキップはできないけれど