妻が若年性アルツハイマー型認知症と診断を受けたのは2006年の4月でした。在宅で過ごした後2015年6月から大阪市立の認知症専門の特別養護老人ホーム『あんず苑』に入所しました。その時、私も妻を足しげく訪ねて多くの時間を持ちたいと思い、『あんず苑』の近くに引っ越しました。それ以来、五年近くほとんど毎日妻を訪問し、数時間を妻と過ごして来ました。
進行性の病ですが、緩やかな進行でしたので、入所時には手助けがあればまだ自分でできる事がたくさんありました。散歩することと、夫婦のコミュニケーションをできるだけ多くとることを心がけていました。「私は私として生きてゆきたい」と妻自身が認知症と告知された初期の時代に語っていた言葉を私はもっとも大切なこととして心に留めて妻に接してきました。それは、認知機能の低下が進行しても、『妻の人としての尊厳を重んじること。』『妻の内面の人格、妻らしさを尊重し敬うこと。」でもありました。
新型コロナウイルス感染症の流行が日本で始まりだしたとき、『あんず苑』では素早い対応で、2月19日から家族に面会の自粛要請がありました。面会できなくなる前日、私は妻と長時間過ごしました。妻の夕食の介助をしているとき、妻が盛んに笑顔で私に語りかけました。このころは妻の語るほとんどの言葉は誰にも理解できず、ただ私のことが分かる時には「おとうさん」という言葉が間に入っていました。分からない言葉でも、注意して聞いていると、妻の調子のよい日には合間あい間に短い「ほら」「あれ」といった言葉が聞き分けられるときもありましたが、別れの最後の日には「おとうさん」だけしか聞き分けられませんでした。
facebookに妻との生活を登校して8年ほどになります。朝日新聞の記者が私の投稿を目にされて、電話での取材を申し込まれました。4月8日の全国版に、<認知症の妻に忘れられても「受け入れたい。」>とのタイトルで、私が語った言葉が紹介されていました。
すでに並んで座っていても、時々夫の私が分からなくなり逃げるように私から離れて行くことがよくあり、わたしが後ろをついて歩き、しばらくして妻を笑顔でのぞき込むようにすると、「お父さんやね」というような状態でしたから、長く会えないうちに完全に夫である私を忘れてしまうのでは、との不安があります。「最初は忘れないで欲しいと願っていました。けれど、今は私が覚えているからそれでいい、と自分に言い聞かせています。私の名前を忘れても、心の深いところでは、誰よりも私を認めてくれていると信じています。」と私が電話で語った言葉がまとめられていました。
電話では、進行する病を持つ認知症の妻に「忘れないように」と求めるのは愛に反することで、夫としては病の進行している、ありのまま妻を妻として受け入れることの大切さを語りましたが、それは本誌には取り上げられないで、デジタル版や英語版で取り上げられていました。
面会が出来なくなった初めの頃は、長い別離の生活が続くと、夫婦の絆が弱くなるのではないか、と思いましたが、私の妻を恋い慕う思いは強まるばかりで、むしろ絆が強くなっているようにすら感じています。妻がノートに記した言葉や聖書の余白の覚書きから、妻を想うにつれ、私の知らなかった妻の人柄に触れて愛おしさが増してきます。アルバムを見返し妻の折々の言葉や行動を思い巡らせていると、私が妻の人格を正しく評価していなかったことなども気付いて、申し訳けなく思ったりもします。
会いたさは募りますが、『あんず苑』の内部の様子を知っていますから、施設のウイルスへの対応は慎重にされるべきだと思っています。そのためには、私にもさらに長い忍耐の期間が必要だと覚悟しています。この期間を妻をより深く理解する期間としたいと思います。そして、これまでよりも強い、心とたましいの絆で結ばれた夫婦の交わりを楽しむ希望を膨らませながら忍耐強くその日を待ち望んでいたいと思っています。
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