日曜日の教会学校で、今日は、紙相撲を作って遊びました。
子供たちが続けて教会学校に来るように先生たちは、
毎回苦労して準備しています。
子供たちが作る紙のお相撲さんを見ていて、
わたしが、小学生の5,6年の頃、熱中していたのを思い出しました。
最初は従兄に教えてもらって一緒に遊んでいたのですが、
そのうち、一人で遊んでいました。
さまざまな個性のある人形を、50体ばかり造り、力士の名前をつけ、
番付表も作って、という具合でした。
今は、こんな遊びに、わたしのように熱中するような子供はいないようです。
テレビゲームに熱中する子はたくさんいますが。
わたしは、自分で考え出した遊びで、けっこう楽しめる子供時代でした。
私たちの時代には、大した遊びの道具も無かったから、
同世代の子供たちは大体同じようなものだったのではないでしょうか。
それにしても、人がつまらないと思うことに夢中になるのは、
私の性質かも知れません。
ボールを3個使って、お手玉を何回続けられるか、とか、
1メートルほどの棒を指先で何分立てていられるかとか、
万年筆のキャップを机の上で回転させて、指で立てるのに、
何回続けて成功するかとか。
こま廻しの綱渡りとか、肩掛けなどのより高度のテクニックに挑戦するとか、
ビー玉を、どのくらいのとおい距離まで命中させられるか、
記録を書き込んで挑戦する、などなど、
つまらないことに時の経つのも忘れて楽しんでいました。
高校になっても、受験勉強の合間にそんなことに、まだ時間をかけていました。
わたしが、いつまでも、子供っぽいのは、今もなお、ややもすれば、
大切なことをなおざりにして、意味の無いようなことに夢中になってしまって、
貴重な時間を生かしていないからかもしれないと考えたりします。
ただ、言い訳かも知れませんが、
私はそういった無意味に思える様なことをしながら、
多くのことを考えることが出来たと思います。
遊びの中で、思索し、大切なことを発見してゆくという利点があります。
人と遊ぶことで、社会性は成長するように思いますが、
一人で遊ぶことで、考える頭脳が成長し、維持されるように思います。
遊びに人生のすべてをかけていたら、それこそ無為に人生の時を浪費してしまう
ことになりかねませんが、自分が趣味でする遊びは、つまらないものでも
大いに意味あることだと思います。飲む、打つ、買う、といった遊びは、
わが身と人を不幸にしかねませんから、避けるか、ほどほどに・・
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