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「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房)
日本語版前書き
物語の背景
また野外の実験では、少なくとも数万人の中国人及び中国在住の人々が死亡した。野外実験は早くも1939年に(おそらくは1938年に朝鮮で)始まり、1945年8月に日本が降伏するまで続いた。研究施設や野外実験で一体どれだけの人間が殺されたのか、正確な数字は誰にもわからない。しかし、本書で示した死者の数はあくまで最小の見積もりであることをご記憶いただきたい。
日本が降伏すると、日本と他のアジアの諸国、オーストラリア、及び太平洋諸国では戦犯裁判が行われた。その代表的なものが「東京裁判」(1946-48年)である。東京裁判の被告以外にも、戦犯として裁かれるべき軍隊や政府・民間機関の元メンバーが多数いた。1人ひとりの名前を挙げれば、恐ろしく長いリストができあがったことだろう。しかし実際には、日本と占領国で裁かれた日本人は5700人しかいなかった。そのうちの3419人が懲役刑を言い渡され、984人がその非道な犯罪により死刑となった。(明日に続く)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を化学兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
(ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●戦後補償
・731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!
・731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?
・石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。(1995年現在)
・日本政府は平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られている。国としては過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。
・中国人強制連行裁判で2007年4月に最高裁西松判決では、「日中共同声明第5項により、個人賠償請求権は放棄された」と判示された。しかし、中国外務省は直ちに「国の戦争賠償請求権は放棄したが、被害者個人の請求権は放棄していない。最高裁判決は『違法』、『無効』である」と非難している。
・最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。No66より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)
被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る
判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。
賃金支払いについては退ける
ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。
・戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei №66より)
松岡 創(弁護士)
・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。
日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていますした。
中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。
中国人戦争被害者の要求を支える会
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
趙克珍(女、57歳)の証言
日本軍が南京を占領した時、家は玉帯巷24号でした。1937年の冬、日本兵の一群が銃を持ち、刀をさげて、たけだけしく玉帯巷に闖入してきたので、母は髪がごま塩だったのですが、恐ろしくてぶるぶる震え、あわててお茶を一杯両手で差し出したのを、憎らしい日本軍は鼻も引っかけずに、フンと言っただけで、銃剣を母の胸に刺してきて、母は刺し殺され、血溜りに倒れ込み、11歳だった私は母に跳びかかって行って大泣きに泣きました。お隣の門が閉まっていたのを、日本軍が銃床でがんがん叩き、白いひげのお爺さんが出てきて、門を開け終わらないうちに、銃剣でその爺さんを刺し、老人はウアーと絶叫して地に倒れました。その息子さんが聞きつけて中から急いで見に出てきたら、パーンと1発、銃で撃ち殺されました。こういう風にして15分と経たない間に、日本軍は玉帯巷に沿って5軒もを血で洗い、みんなで13人撃ち殺しました。日本軍の狂暴な行為は私は永遠に忘れられません。
(蒯世鋼が記録)
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房)
日本語版前書き
物語の背景
また野外の実験では、少なくとも数万人の中国人及び中国在住の人々が死亡した。野外実験は早くも1939年に(おそらくは1938年に朝鮮で)始まり、1945年8月に日本が降伏するまで続いた。研究施設や野外実験で一体どれだけの人間が殺されたのか、正確な数字は誰にもわからない。しかし、本書で示した死者の数はあくまで最小の見積もりであることをご記憶いただきたい。
日本が降伏すると、日本と他のアジアの諸国、オーストラリア、及び太平洋諸国では戦犯裁判が行われた。その代表的なものが「東京裁判」(1946-48年)である。東京裁判の被告以外にも、戦犯として裁かれるべき軍隊や政府・民間機関の元メンバーが多数いた。1人ひとりの名前を挙げれば、恐ろしく長いリストができあがったことだろう。しかし実際には、日本と占領国で裁かれた日本人は5700人しかいなかった。そのうちの3419人が懲役刑を言い渡され、984人がその非道な犯罪により死刑となった。(明日に続く)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を化学兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
(ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●戦後補償
・731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!
・731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?
・石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。(1995年現在)
・日本政府は平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られている。国としては過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。
・中国人強制連行裁判で2007年4月に最高裁西松判決では、「日中共同声明第5項により、個人賠償請求権は放棄された」と判示された。しかし、中国外務省は直ちに「国の戦争賠償請求権は放棄したが、被害者個人の請求権は放棄していない。最高裁判決は『違法』、『無効』である」と非難している。
・最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。No66より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)
被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る
判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。
賃金支払いについては退ける
ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。
・戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei №66より)
松岡 創(弁護士)
・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。
日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていますした。
中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。
中国人戦争被害者の要求を支える会
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
趙克珍(女、57歳)の証言
日本軍が南京を占領した時、家は玉帯巷24号でした。1937年の冬、日本兵の一群が銃を持ち、刀をさげて、たけだけしく玉帯巷に闖入してきたので、母は髪がごま塩だったのですが、恐ろしくてぶるぶる震え、あわててお茶を一杯両手で差し出したのを、憎らしい日本軍は鼻も引っかけずに、フンと言っただけで、銃剣を母の胸に刺してきて、母は刺し殺され、血溜りに倒れ込み、11歳だった私は母に跳びかかって行って大泣きに泣きました。お隣の門が閉まっていたのを、日本軍が銃床でがんがん叩き、白いひげのお爺さんが出てきて、門を開け終わらないうちに、銃剣でその爺さんを刺し、老人はウアーと絶叫して地に倒れました。その息子さんが聞きつけて中から急いで見に出てきたら、パーンと1発、銃で撃ち殺されました。こういう風にして15分と経たない間に、日本軍は玉帯巷に沿って5軒もを血で洗い、みんなで13人撃ち殺しました。日本軍の狂暴な行為は私は永遠に忘れられません。
(蒯世鋼が記録)
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。