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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-11-26 07:36:47 | Weblog

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『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房)

日本語版前書き

戦後の倫理的退廃

 日米両国政府が共同で推し進めてきた政策によって生み出されたものは、集団忘却論である。50年以上にわたり、日本人は政府とそれに協力する学者たちが築き上げた閉鎖的な教育環境にどっぷりとつかってきた。第2次世界大戦における日本の実体を知らないまま育った世代はすでに2世代を数える。彼らに教えられてきたものは、広島、長崎に原爆が投下された戦争の犠牲者としての日本のイメージ、あるいはヨーロッパおよびアメリカの帝国主義者たちに長い間搾取されていた植民地の人々を抑圧から解放した救世主としての日本のイメージである。しかし、世界中から圧力と非難を浴びたため、この数年間、総理大臣たちは日本軍の過去の残虐行為に対して口頭での謝罪を行ってきた。
 ただ1つ例外が韓国である。1998年、韓国は書面による謝罪を日本政府から受け取った。しかし、中国に対しては書面による謝罪はない。江沢民国家主席は1998年末に日本を訪問したが、日本政府は、韓国と違って中国は日本の植民地になったことがない、というまことしやかな論拠を持って、書面による謝罪を拒否したのである。おかしなことに日本政府は、1931年から中国の東北3省が日本軍の占領下に置かれていたという事実を忘れたか、無視したのである。当時、日本軍は次々と侵略を重ね、満州国という傀儡政権まででっち上げたのだ。満州国が東京の支配から解放されたのは終戦の時であった。(明日に続く)

※従軍慰安婦問題では故中川昭一・安倍晋三などがNHKの番組に口をはさんだり、何かと圧力をかけてきた。以下中帰連のホームページより引用。

2000年12月に行なわれた女性国際戦犯法廷で、中国帰還者連絡会に属する元兵士2人が、「裁きがあって和解がある」という同法廷の趣旨に賛同し、戦場における性暴力の証言を行ないました。

2001年1月に放映されたNHKのETV特集では、この元兵士の証言が伝えられるはずでした。しかし、放映された番組からは何故か元兵士の証言は消えていました。被害者の証言や、判決文の読み上げも消えていたのです。この改竄の背景に政治的圧力があることは以前から関係者のあいだで囁かれていましたが、朝日新聞のスクープによって、これが安倍晋三・中川昭一という自民党の極右議員による圧力であったことが明らかとなりました。憲法の精神にもとる放送の自由への干渉へ断固として抗議し、彼らが人々の目から隠そうとした戦場の証言を掲載します。

●元陸軍伍長・金子安次さんの証言
検事  金子安次さんは1920年1月28日生まれ、80歳ですね。あなたは1940年11月に北支那方面軍に入隊されたのですね。

金子  はい。

検事  それ以後、中国山東省などを転戦されて終戦を迎えられたのですね。

金子  はい。

検事  あなたの軍隊における最後の地位は何でしたか。

金子  伍長です。

検事  それでは、これからあなたが中国大陸で体験されたことについてうかがいます。あなたが軍隊に所属されていた間に、自分で体験した「慰安所」というのはどういうものでしたか。

金子  私は、昭和17年に山東省の東昌というところにいました。その時に中隊の命令で、巡回慰安婦の移動を警備をしろという命令を受けました。そして機関銃中隊から少尉以下9名、機関銃を持って大隊本部にまいりました。その時にすでに小銃隊が15名ほどおりまして、2台のトラックに乗りました。私たちが2番目のトラックに乗ったときに、そこには絣の着物を着た従軍「慰安婦」の方が3人おりました。しかしながら、敵地区をまわるので八路軍に襲撃される恐れがあるからまずいということで、携帯用の外套を上から着せました。そして軍帽をかぶせました。その車中の中で、古い兵隊が「おれはおまえたちのために警備して送るんだが、もしも途中で八路軍に敵襲を受けて戦死したらこんなに恥ずかしい話はないよ」と「慰安婦」の人に言ったんです。そうすると「慰安婦」の一人の方が「だったらやめたらいいでしょう」、こういいました。「馬鹿野郎。おれは勝手に来てるんじゃないんだ。命令で来ているんだ。そんな勝手なことができるか」。そうすると、「慰安婦」の方が、「あたしだって何も好きこのんでこんな危ないところに来ませんよ。軍隊の偉い人のお陰でここに来ているんですよ」と言いました。

検事  今のは、あなたが軍隊に入って「慰安婦」の輸送にかかわったときの出来事ですね。それでは、次にあなた自身が「慰安所」に行くようになったときの体験をお話し下さい。

金子  私が一番最初に「慰安所」に入ったのは、昭和18年のことでした。それは、臨清県というところにいたときです。当時私たちは「慰安所」とは呼びませんでした。「ピー屋」と呼んでいたんです。そこにまいりました。女の方が4人いました。すべて朝鮮人の方だという話でした。女の方が「いらっしゃい」といいました。ところが日本語がたいへんうまいのです。「おまえ朝鮮人か」、私は聞きました。「違うわよ。私は日本人よ」。「なに日本人? 大和撫子がこんなところにいるなんて、日本人の恥さらしだ」。そういうようなことで、そこで口論になりました。そして払いましたお金をふいにしてしまったんです。このようないきさつがありました。その時に彼女はこういいました。「兵隊さん、私は好きこのんでこんなところにいるんじゃないですよ。私の夫は上海事変で戦死しました。ふたりの子どもと母親をかかえて、どうやって生きていけばいいんですか」。彼女はこういったんです。私は二の句も告げずに立ち去りました。こういういきさつがありました。

検事  あなたが見た「慰安所」というのは、女性たちは自分たちの意志できていた人たちですか。

金子  違います。日本には公娼制度というのがあり、それは営業であり金儲けです。しかし、そこで働いている人は、みんな苦しいから働いているんです。金で縛られているから自由に行動できない。そこに「慰安婦」の「慰安婦」らしいところがあるんです。

検事  自由がないということですね。
 こうした「慰安所」があることは、強姦の防止に役立ったと思いますか。

金子  役立っていません。

検事  それは何故でしょうか。

金子  「慰安所」にいって1円50銭払うんだったら、強姦だったらただです。我々の月給というのは、だいたい一等兵で8円80銭くらい、上等兵で11円くらい。その中から強制的に貯金をとられるんです。ですから金があまりありませんから、1円50銭払うくらいだったら、作戦にいって強姦をした方がただだというような考えがありました。

検事  あなた自身も、そういう考えの中で強姦に加わったことがありますか。

金子  あります。昭和18年、作戦にまいりました。その時にあるで若い兵隊が一人の若い女性を連れてきました。21、2歳でしょうか。それを、6人の兵隊でくじ引きをひいて順番を決めて、ひとりひとりその女を輪姦しました。こういう事実がございます。

検事  そういった強姦をすることについて、あなたの所属していた軍隊は、どのような指示が出ていたのでしょうか。

金子  昭和14年から15年、当時日本では「生めよ増やせよ」というスローガンがありました。男の子がうまれたなら、労働力にも戦力にもなる。女の子だったら、将来のいわゆる再生産になる。だから子どもをどんどん産みなさい。そうすれば日本はどんどん栄える、こういうスローガンがありました。だからそのつもりで戦地に行きました。そうしますと命令がくるっと変わりました。女は殺せ。子どもを産むから殺せ。子どもが大きくなったら我々に反抗するから子どもも殺せ、というように上官の命令がくるりと変わったんです。そういうことですから、私たちたちはどうせ殺すのならどんどん強姦してもいい、そういう考えで私たちは強姦しました。

検事  くり返しますが、上官は女を見たら殺せという指示が出ており、どうせ殺すのなら強姦してもよい、このような考えでいたわけですね。

金子  そうです。

検事  このような証言をするのは楽なことではないと思いますが、あなたはなぜこのような場で証言をする気になったのですか。

金子  はい。これは正直なことをいいますと、私も自分の妻や娘にこういうことはいっさい話しておりません。実際できないんです。しかしながら、私たちがやったことについてどれだけ中国人民が泣いていたのかということを、私たちは撫順の戦犯管理所でしみじみとわかったんです。これは二度とこういうことを起こしてはならない。これを止めるのは、現在残されている私たちしかないんだ、こういうことからこの問題を皆さんに聞いてもらいたい。こういう気持ちです。(拍手)

金子  先ほど強姦の問題がありましたが、陸軍刑法では強姦をすると7年以上、現場にいただけでも4年以上という刑罰があります。しかしながらなぜ私たちが強姦したかというと、確かに金の問題もありますが、現在では私たちは中国人といっていますが、しかし当時は支那人、あるいは差別的に「チャンコロ」といっていました。「チャンコロ」の女を強姦して何が悪いんだ、どっちみち殺すんじゃないか、こういうような気持ちをもって強姦したわけです。従いまして、中隊長あるいは大隊長でも自分の部下がたとえ強姦罪を犯しても陸軍刑法を出さない。自分の功績に関係するんです。そしてもう一つは、チャンコロだという劣等視があるんです。だから、われわれ兵隊は強姦をしたんです。以上です。

検事 これで質問を終わります。

戦後補償
最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。№66より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)

 被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る

 判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。

 賃金支払いについては退ける

ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
 また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。


戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei №66より)
                         松岡 創(弁護士)
 ・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
 長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
 最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
 中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
 今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。 日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていました。
 中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
 今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。 

南京大虐殺     

「この事実を・・・・」


(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

余海龍(男、69歳)の証言

 1937年に日本兵が南京を占領した時、母は56歳でしたが、母はこの家が見捨て切れないで、門番するのに家に留まり、私が避難しに難民区へ行きました。ある日日本兵が何人か来て、ホアクーニャン(=若い娘)を見つけようとし、「ここにホアクーニャンはおらん」と母が言うと、日本軍は二の句を継がせずに、刀で母の頭に斬りかかり、母が両手で頭をかばって、指を2本斬り落とされ、同時に、頭も幾太刀か斬られましたが、手でかばっていたので、斬り殺されるまでには至りませんでした。母は1965年までずっと生きていましたが、84歳で世を去りました。(陳如華と王秀珍が記録)

南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント


南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)

■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/  
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10

○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
  ※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
  ※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)

主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp


「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。

 事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
 中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。

 事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。

 しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。

 事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。

日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。

 この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。

 映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。

 そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
 ぜひお越しください。

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