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全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
Ⅱ
石井と北野政次(1942年初頭から1945年春にかけての石井の後の隊長)は、細菌兵器の利用に潜在的に有効な病原体の研究をするに際して、とりあえず思いつく限りのすべての可能性を研究してみる、乱れ撃ち方式を採用した。彼らは人体を使って、炭疽病から黄熱病に至る病気について研究した。彼らは、人間(人体)の以下の病気や症状に対する反応を研究した。すなわち、ペスト、腸チフス、A型パラチフスおよびB型パラチフス、発疹チフス、天然痘、ツラレミヤ、伝染病の黄疽、ガス壊疽(えそ)、破傷風、コレラ、赤痢、馬鼻疽、猩紅熱、波状熱、ダニ脳炎、「孫呉熱」もしくは流行性出血熱、百日咳、ジフテリア、肺炎、丹毒、流行性脳脊髄膜炎、性病、結核(症)、サルモネラ菌、凍傷のほか、731部隊給水部門の担当範囲であった地域社会とその周辺地域に特有の、その他無数の病気が、それである。満州に散らばる種々の「死の工場」が実験材料になった人たちにこうむらせた病気をすべて網羅して挙げることは、誰にも不可能であろう。
※731部隊では本当にいろいろな病気の人体実験が行われていたことが分かる。これも戦争に勝つための最新兵器を作るために!!
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
楊余氏(女、1905年生まれ)の証言
日本軍が南京を占領した時、私には子供が7人いて、大きいのが10歳で、小さいのはまだ1歳になっていませんでした。その頃、自分で6人養い、もう1人の女の子は偉子街に住んでいた弟に預けて養ってもらっていました。
1937年の冬月に、日本軍が南京に入って来たので、私は家から6人の子供を連れ出し、それに隣の家の15歳になる女の子を連れて、家から遠くない防空壕に身を隠しました。ところが隠れきれずに、すぐに日本兵に見つかってしまったのですが、彼らはまず機関銃を防空壕の中に向けて掃射してからまた防空壕を狙って火をつけいぶしたのです。日本軍が行ってしまってから分かったのですが、私の子供6人と、隣のあの女の子とが、みんな殺されてしまっていて、私1人だけが生き残っていたのです。私は焦りもし恐くもあり、大慌てで掛け布団1枚抱えて逃げ出したのですが、真っ暗な夜に寒さを冒し、近道をして偉子街の弟の家まで一気に走って行きました。ここで振り返って補いますと、私が子供たちを引き連れて防空壕に隠れた時、ちょうど夫は家にいませんでした。家に帰って来てから、私たちが多分防空壕に避難したのだろうと思って、急いで私たちを探しに来たところが、あいにく、日本兵と鉢合わせしてしまい、その振り上げた軍刀で活きながらに斬り殺されてしまいました。(明日に続く)(王梅影と郭嘉友が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●マッカーサー
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
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「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
Ⅱ
石井と北野政次(1942年初頭から1945年春にかけての石井の後の隊長)は、細菌兵器の利用に潜在的に有効な病原体の研究をするに際して、とりあえず思いつく限りのすべての可能性を研究してみる、乱れ撃ち方式を採用した。彼らは人体を使って、炭疽病から黄熱病に至る病気について研究した。彼らは、人間(人体)の以下の病気や症状に対する反応を研究した。すなわち、ペスト、腸チフス、A型パラチフスおよびB型パラチフス、発疹チフス、天然痘、ツラレミヤ、伝染病の黄疽、ガス壊疽(えそ)、破傷風、コレラ、赤痢、馬鼻疽、猩紅熱、波状熱、ダニ脳炎、「孫呉熱」もしくは流行性出血熱、百日咳、ジフテリア、肺炎、丹毒、流行性脳脊髄膜炎、性病、結核(症)、サルモネラ菌、凍傷のほか、731部隊給水部門の担当範囲であった地域社会とその周辺地域に特有の、その他無数の病気が、それである。満州に散らばる種々の「死の工場」が実験材料になった人たちにこうむらせた病気をすべて網羅して挙げることは、誰にも不可能であろう。
※731部隊では本当にいろいろな病気の人体実験が行われていたことが分かる。これも戦争に勝つための最新兵器を作るために!!
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
楊余氏(女、1905年生まれ)の証言
日本軍が南京を占領した時、私には子供が7人いて、大きいのが10歳で、小さいのはまだ1歳になっていませんでした。その頃、自分で6人養い、もう1人の女の子は偉子街に住んでいた弟に預けて養ってもらっていました。
1937年の冬月に、日本軍が南京に入って来たので、私は家から6人の子供を連れ出し、それに隣の家の15歳になる女の子を連れて、家から遠くない防空壕に身を隠しました。ところが隠れきれずに、すぐに日本兵に見つかってしまったのですが、彼らはまず機関銃を防空壕の中に向けて掃射してからまた防空壕を狙って火をつけいぶしたのです。日本軍が行ってしまってから分かったのですが、私の子供6人と、隣のあの女の子とが、みんな殺されてしまっていて、私1人だけが生き残っていたのです。私は焦りもし恐くもあり、大慌てで掛け布団1枚抱えて逃げ出したのですが、真っ暗な夜に寒さを冒し、近道をして偉子街の弟の家まで一気に走って行きました。ここで振り返って補いますと、私が子供たちを引き連れて防空壕に隠れた時、ちょうど夫は家にいませんでした。家に帰って来てから、私たちが多分防空壕に避難したのだろうと思って、急いで私たちを探しに来たところが、あいにく、日本兵と鉢合わせしてしまい、その振り上げた軍刀で活きながらに斬り殺されてしまいました。(明日に続く)(王梅影と郭嘉友が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●マッカーサー
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。