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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-23 11:41:14 | Weblog

「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
         
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 
          Ⅲ
少なくとも24名の細菌戦の科学者がインタビューを受け、その主題は噴霧器からチフスにまで及んだ。そのやりとりの目的は、「細菌戦をテーマに日本人によって提出されたレポートの意味内容を明らかにするために必要な情報を得ることであり・・・人体を使用した病理学上のデータを検証することであり・・・・その病理学上のデータの重要性を理解するために必要な実験の実施要綱を手に入れることであった」。以下の内容は、731部隊の研究者たちが提供したデータのうちから代表的なものを取り上げたものである―。
 二木秀雄博士は、結核についての彼の実験に関して報告する中で以下のように記している。カルメットバチルス(BCG)を扱った人体実験においては、「すべての実験体が回復をみた」が、ヒト型結核菌を扱った試験においては、「すべての投薬が粟粒結核症をひき起こし、10.0ミリグラム注射された被験者については1ヶ月以内に死に至り、他の者も重病になり前者より長くは生きたものの、後におそらく死んでいる」。別の試験では、「〔薬剤の〕注入後直ちに熱を伴った激しい症状が現れ、その後1ヶ月で死に至っている」。二木は満州の子供たちを使って実験し、陽性のツベルクリン効果を達成している。彼は、結核病原菌の「オリジナル・ストック」を「自然状態」から採取した―「病毒性は、人体実験材料に感染させることで保存された」。二木秀雄博士の実験は、結核が細菌戦の戦略としては効果的なものでないだけに特にぞっとするものである。通常、結核は効いてくるのがゆっくりすぎて、細菌兵器に求められる効果的なインパクトを得ることができなかった。それゆえこれらの実験は、純粋に学問的な目的で、被験者たちの命を犠牲にして行われたと結論づけるのが合理的である。
※もし、二木のやった実験がナチス・ドイツで行われていれば、その後のニュルンベルグ医師裁判において死刑判決が出ていただろう!!何人の満州の子どもたちが犠牲になったのだろうか?

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
任素華(女、68歳)の証言
 中国侵略日本軍が南京を占領した時、私の家は江寧の東山○村金山廟の近くでした。1937年の農暦冬月7日に、夫の任永泉が避難して防空壕に隠れていたために、日本軍に見つかり捕まって行きましたが、同時に捕まったのに夫の本家の任財宝がいました。日本軍は夫に南京へ行く道案内をさせようとしましたが、いくらも行かないところで、日本軍はみんなの着ている物を全部脱がせて捜査し、身に付けていたお金をかすめ取りました。それから銃で夫を撃ち殺し、その死体を道の角の老鴉塘に押し込みました。ここまでやっても日本軍はまだ飽き足らずに、浮かび上がってきた屍に向かって又もや続けざまに発砲し、みんなで4発撃ちました。任財宝は老鴉塘の向かいのもう1つの沼の中で銃殺され、みんなで7発当たりました。2人の屍をすくい上げた後で、私は夫の身体に当たった傷痕が4箇所あるのを見つけました。
この他に、ある時私は東門で日本軍に出くわし、あわててわらの堆に潜り込んだのですが、日本軍が銃剣でわらの山をむやみに突っつき、危うく身体が突っつかれるところでした。その時、幸いに犬が1匹駆けてきて、日本軍に吠え立てたので、日本軍は発砲して犬を撃ち殺し、それでやっとわらの堆をめちゃくちゃ突っつくのをやめたので、私は難を免れたのです。(王天柱と達式宏が記録)○は日本の漢字に変換できない字
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
・チチハル毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月25日(月) 10:00~
場所:東京地方裁判所 611号法廷

この裁判の結審です。国及び原告の補充弁論が行われます。いつもより小さな法廷で、被害者は来日しませんが、ぜひ傍聴・応援ににいらして下さい。
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 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
         care-news☆care-mirai.net
         (☆を@に直してください。)

日本政府は考えてください!!

日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
News Letter 8 より引用
                       化学兵器CARE みらい基金
子どもたちが未来を生きるために
~終わらない戦争・・・遺棄化学兵器問題を考える(日本軍が戦争中、中国に遺棄した毒ガス弾による被害・・・ノブ)~

こんな人たちをサポートします(case17)
李双義さん(1969年8月生まれ)
李双義さんは農村出身で、5人兄弟ということもあり、幼い頃の家の経済状態は厳しかったのですが、やんちゃで元気な少年時代を送っていました。中学生の時には全校から2名選ばれて野戦軍に配属されたというほど頑強な体の持ち主でした。その後、ユンボ(ショベルカー)の運転をするようになり、14年間、ユンボのベテラン運転手として、妻と息子と何不自由なく生活していました。2003年8月4日は妻がケーキを用意し、友人たちが集まって帰宅後パーティーをする予定でしたが、その日、李双義さんは被害に遭ってしまいました。
 その日の朝7時頃、李双義さんが工事現場に着くと、すでに5本の毒ガス入りのドラム缶は掘り出されてユンボの近くに置かれており、その下の土はドラム缶に入っていた液体で黒く変色していました。強いにおいが立ち込める中、李双義さんは採掘作業を始めました。やがて顔が熱を持ち、目が痛み始め、吐き気がしてきました。夜、近所の病院に行きましたが埒が明かず、友人の勧めで軍付属の病院に行き、3ヶ月ほど入院しました。
 以前はバスケットボールをやっていましたが、事故後は非常に疲れやすく、ゆっくり歩いても5、6分くらいで疲れてしまいます。風邪も引きやすく、朝方には咳きが出、気管に何かつまったような感じがします。体重は10キロ程度減りました。他にも発汗症状、性機能障害、めまい、動悸がするという状態が続いています。また、大腿骨頭壊死や半月板損傷で歩行の際には痛みが生じ、ひざを曲げることができなくなってしまいました。1度ユンボの運転を試みましたが、すぐに疲れてしまい、休憩時間にユンボから降りるのさえ困難だったそうです。
 現在は奥さんの収入(1000~1700元。1元は約13円)に頼って生活していますが、足の治療費さえまかなえず、友人への借金が4万元以上にふくらんでしまっています。
●731部隊と天皇
 
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
 
その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●マッカーサー
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)【 同上 221頁】
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。【『731部隊の生物兵器とアメリカ』:ピーター・ウイリアム/デヴィド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 65頁】
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 226頁】
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 【同上 231頁】
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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