日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆関東軍参謀で天皇の従兄弟
さらに続けて「個人的な立場から、来るべき東京オリンピック大会も同じ方法を採用するよう提案したい。それ以上にこのような集まりを決して外交上の口喧嘩大会にしてしまってはならないのだと書いている。
その次の年『ジャパン・タイムス』は竹田の人物紹介の記事を載せて、次のように書いている。
彼の机の脇に掲げられた真実、公正、善良の文字は彼の人生の道しるべとなっている原則を示している。皇族の大儀(大義?)を擁護したいのなら、この議論に関しては竹田恒徳よりも完璧なモデルは捜しても他にない。
真実を追求するという彼のモットーにもかかわらず、今では引退して東京に住んでいる竹田は731部隊について語ろうとしない。
※1964年に東京オリンピックは開催されたが、日本が犯したアジア・太平洋戦争の爪後はその当時相当残っていたのではないか?アジアの人々が「日の丸」「君が代」を見たり聞いたりしたら、戦争中の暗い記憶がすぐに蘇ってくるだろう!!竹田自身、日本軍がアジアで何をやったかを一番よく知っていたはずだ!!外交上の口喧嘩などでおさまる話ではないと思う!!私は東京オリンピックで「日の丸」「君が代」がどのように処理されたのか知らない!!日本人で戦争に行った者で心ある人ならば、「日の丸」「君が代」を見たくも、聞きたくもなかったのではないか?今、現在はサッカーのワールドカップでテレビでは当たり前のように流すが、私は「日の丸」も「君が代」も見たくもないし、聞きたくもない!!
竹田に限らず、他の皇族、731部隊の幹部連中も、戦後みな申し合わせに従い、731部隊のことを公に話さず、隠ぺいし続けた!!勇気ある発言をしたのは、下級隊員に多かった!!
彼の掲げた「真実・公正・善良」と戦時中の彼の行動はどう結びつくのか?ほとんどの日本の軍人は戦時中のことを語らず隠し、戦後活躍した!!もちろん、戦友会などの圧力もあったのだろう!!組織ぐるみで隠ぺいした!!
ジャーナリストの西里扶甬子氏が竹田にインタビューした時の模様が書いてある一節がある。(『生物戦部隊 731』あとがきより)
【ピーターに頼まれて、関東軍参謀で、昭和天皇の従兄弟の竹田宮(戦争中は宮田と名乗っていた)のインタビュウのコーディネートと通訳の仕事をした。武田恒徳(つねよし・・竹田宮の戦後の名前)は自宅から、道路を隔てて坂を少し登った、高輪プリンスホテルのロビーに私たちを案内した。武田はシャンデリアの下に座って「ここは私の家の居間だった」と言った。戦争直後の皇族返上の話から、関東軍参謀当時、731部隊とどのようにかかわったのかという質問にたどり着くのに長い時間がかかった。質問が核心に触れたとき、新聞記者2年目のピーターの膝が震えていたのを見て、私自身も緊張して、口のなかが急に渇いてしまったことを懐かしく思い出す。2人ともプロ根性がまだ少し足りなくて、テープレコーダーを回す余裕がなかったため、このインタビュウを証明する証拠は今何も残っていない。暴露的回顧談というようなことは一切なくて、むしろ帝国陸軍のイメージと自分を結び付けられることを嫌っているようだった。】
※皇族は皆731部隊に関しては語らないであろう!!昭和天皇の戦争責任に大きく関係するから!!戦後、皇族たちは何も戦時中なかったかのように、皆紳士的に生きた?自己矛盾はなかったのか?
以下の文でも731部隊については何も書かれていない!!
「日華事変と山西省」
お忍びで太原を訪問した元宮様
日本オリンピック委員会(JOC)会長を務め、戦後日本スポーツ界の発展に尽力した故竹田恒徳氏。1987年、中国政府はオリンピック復帰の橋渡しをした彼に、答礼の意味を込めて二週間の中国旅行に招待している。そこで彼はお忍びで太原を訪れている。
彼は戦後皇籍を離脱した元宮様だ。戦前は竹田宮恒徳王と呼ばれた。明治天皇の意向で皇族男子は全員軍人になることが慣例で、竹田宮は騎兵将校だった父のあとを継いで陸軍を選んだ。陸士42期陸大50期。騎兵第十四連隊勤務を経て、1938年(昭和13年)8月から一年ほど、山西省を担当した第一軍に作戦参謀として勤務している。
二週間の旅行の公式スケジュールでは、成都、桂林、西安、河南少林寺、北京などを訪れたことになっている。しかし昔勤務していた第一軍司令部をひとめ見たいと内緒で太原に日帰りで立ち寄ったそうだ。太原で案内をしたのが戦争体験談で紹介している李献瑞さんだ。太原第一軍司令部は四階建てに瓦屋根、車廻しの正面玄関がある立派な建物で、その風格は関東軍司令部にも負けない威風堂々としたものだ。今でも外観をほとんど変えずに人民解放軍が使っている。李さんが案内すると彼はとても喜んだが、そのうち写真を撮りたいと言い出した。軍事施設で撮影禁止だったが、李さんはどうしても彼を説得しきれず、結局、司令部前を車で走りながら車内でカメラを構えるというスパイまがいの手で写真を撮ることになった。李さんは冷や汗をかいたが、彼は戦友会で自慢できると喜んでいたという。
彼が第一軍に赴任したのは1938年(昭和13年)8月で、当時司令部は石家荘にあり、太原に移駐するのは翌年2月のことだ。太原での司令部勤務は半年ほどの短い時間だったが、竹田宮にとっては思い出が深かったようだ。彼は第一軍で初めて参謀勤務を経験したわけだが、その時に練った作戦計画は梅津司令官から四回も作り直しを命じられたという。彼が赴任したとき、第一軍は臨汾に戦闘司令所を設けており、そこでの中国家屋での生活はネズミに悩まされたというから、太原に引越した時には別天地にさえ感じたかも知れない。ちなみに第一軍赴任時に半年ほど蓄えていたカイゼル髭は、実はメンソレータムで形を整えていたという。後に写真を見た昭和天皇が似合うと述べられたという。自伝でのちょっとしたエピソードだ。
竹田恒徳氏は中国旅行から五年後の1992年に亡くなった。83歳だった。元宮様の中では戦後最も成功した人と言われている。
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
李徳標(男、62歳)の証言
1937年の冬に、日本兵が南京を占領しましたが、あの時私はやっと15歳でした。その時私と父とは栖霞寺の難民キャンプに入りました。ある日、私は栖霞寺の外で遊んでいて、日本軍が若くてたくましい男子の一群を連行して御花園の方向から下って来るのを見えましたが、みんなで27人でした。後で聞いたのでは、その人たちは頭に帽子のたががあり、手にたこが出来ていて、中国兵だったと日本軍がみなし、長江の岸辺に連行し機関銃で掃射して、集団殺害したのでした。(周士発が記録)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。
戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*
731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】