不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-07-25 07:00:13 | Weblog

日記@BlogRanking

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
第三章 新しい証言者と新資料の出現
昭和天皇死去・「731部隊展」以降
陸軍参謀の業務日誌
(1)中国での実戦
農安県と新京のペスト流行の真相
井本日誌にある、1940年9月から10月にかけて実行された、浙江省各地における6回の細菌攻撃については、被害地の証言とともに後述する。
 これに先立つ6月には、支那派遣軍総司令部直轄の実施部隊を設置、責任者は関東軍防疫部長石井四郎大佐と決定していたことが分かる。また、この実戦部隊は後に奈良部隊と呼ばれ、航空基地として杭州市筧橋(ジェンチャオ)の「旧中央航空学校」を使用したことが分かる。元航空班員の最近の証言や残された日誌などから、この奈良部隊は、731部隊(石井部隊)と1644部隊(南京)との混成部隊で、南京をベースにしていた。井本日誌には、実戦当事者として、石井の右腕といわれ、当時中支那防疫給水部(1644部隊)部隊長だった増田知貞、平房の731部隊の実戦パイロット増田美保大尉、731部隊で実戦研究を担当していた太田澄中佐などの名前が記されている。このことはまさに、731部隊が研究・開発部隊であると同時に、実戦部隊であったことを裏付けている。
 「大塚備忘録 第1巻」によれば、石井は1943年11月1日の陸軍省医務局会報で、農安(ノンアン)県でのペスト攻撃既往実績として、以下のような報告をしている。

 既往実績
  農安県 田中技師以下6名
 密偵ニヨルハ最効果アリ
 時限信管
  1kg PX 500-1000斃シ(たおし)得

 中国の研究者解学詩(シェンシュエシー)は、1940(昭和15)年の農安県及び新京(シンジン)でのペストの流行は、浙江省の細菌攻撃に連動させた、大都市人口密集地帯での感染状況を調べるための、ペスト菌散布実験だったと論証している。石井はこのとき、100名もの部下を率いて新京に乗り込み、150人の中国人を「ペスト患者」として千早病院に監禁し、そのうち30名を「真性ペスト」と称して虐殺(生体解剖)したという。このとき石井部隊の一団は、「関東軍臨時ペスト防疫隊本部」という巨大な垂れ幕を、満州国首都新京の中心地にある国防会館に掲げた。10月には、新京の北西61キロにある農安県で猛威を振るっていたペストを鎮圧するとして、総勢2600名にも及ぶ「関東軍農安防疫隊」が派遣された。この防疫隊の中核をなしたのは、やはり「雁部隊」と呼ばれた石井部隊だった。
※農安県におけるペストの発生も、石井部隊によるペスト菌の散布が原因だった。
とにかく、石井部隊も大日本帝国軍も戦果をあげたかった。今までの巨費を投じての人体実験や研究の成果を見たかったのであろう。それにしても、自らペストを発生させ、またその地に防疫隊として赴き、苦しんでいる人に助けるポーズを見せて、解剖するのだから、本当に恐いことだ!!
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
李文国(75歳)の証言
 日本兵は1937年の陰暦冬月に入ってきました。確か冬月20日の午前8時過ぎに、私は明瓦廊14号の家に戻り漬物を難民区に持って帰って食べようとしました。菜を持って帰途につき、高家酒館まで来たところで、日本兵の1人に捕まり、日本軍の後方病院(今の新華日報社)に連れて行かれ雑用をさせられたのですが、1日やり、夜になって私が通訳に家に女房と子供がいて帰りたいのだと言ったら、日本兵が私を放って帰らせてくれました。門の所まで行ったら、歩哨に立っていた日本兵が私に出て行かそうとせず、又日本の通訳を探しに戻り、通行証を1枚書いてもらってやっと門を出られました。その時日本軍は私に明日また来るようにと言っていたのですが、、私は表面だけ請け合っておいて、通行証を手にしたら飛ぶように門を出て難民区の家に走って帰り、明くる日は、もう出て行かれませんでした。
 私が明瓦廊の家に行ったら、我が家の戸口に屍が3体あって、日本軍に殺されたものでした。お隣の謝爺さんが日本軍に銃剣で突っつかれて家に戻って死んだのでした。難民区では日本軍にまた捕まって行くといけないので、出かけられませんでした。ある時止むを得ずに、米を買いに出かけた時、鼓楼の三条巷や四条巷の道沿いにずうっと屍が見えました。
 私たちが難民区に住まったのは、良民証が発行された後までで、春節が過ぎて、やっと明瓦廊14号の家に帰れました。(段月萍と劉柏雲が記録)
●731部隊と天皇

  欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする