日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆ジョン・パウエルが暴露した免罪取引
ダグラス・マッカーサー将軍といえば、日本を専制支配した時代が彼の権力の頂点だった。彼の指揮下にあった朝鮮半島の国連軍は不名誉な形でその任務を終えた。彼は1964年に他界した。
ジョン・パウエルはどうなったのだろうか。扇動罪及び反逆罪の裁判で、彼の新聞人としてのキャリアは終わってしまったが、彼はアメリカの生物兵器開発計画に対する興味を失うことはなかった。東京裁判で日本側の加害者に相対する証人の役割を果たすために生きた彼の父のように、パウエル・ジュニアは彼を迫害した人々に対して、きちんとした記録を明らかにしたいと切望していた。1977年、彼は骨董品のビジネスを妻に任せ、施行になったばかりの情報公開法を使って、公文書館の探索を始めた。彼は何百通という手紙を書いた。そしてついに2万頁以上に及ぶそれまで極秘扱いとなっていた記録文書を収集した。
1980年、パウエルはついに回答を出すことができた。今では『ブリテン・オヴ・コンサーンド・アシアン・スカラーズ』(憂慮するアジアの科学者誌)と呼ばれている『ブリテン・オヴ・アトミック・サイエンティスツ』(核科学者誌)の誌上で、彼はフォート・デトリックや他の軍関係の公文書館から選りすぐった情報を使って、731部隊とアメリカ政府との免罪取引を暴露したのだ。それはマッカーサー、ウィロビー、法務部長のアーヴォ・カーペンター、そして国務・陸・海軍合同委員会の間にやり取りされた覚え書きだった。パウエルの記事は731部隊の身の毛もよだつような実験の一部を詳細に説明している。アメリカのマスコミは大騒ぎとなり、公式に反応せざるをえない事態となった。フォート・デトリックは、「我が国の科学者がこれらの実験の情報を得たという可能性は高いし、ありそうなことだと思われる。我々が行ったすべての攻撃的な性格を持つ軍事情報は、必要性から、安全上厳重に隠ぺいした」というコメントを出した。
※マッカーサーは、731部隊員に戦犯免責を与え、アメリカは細菌戦のデータ入手をした。
GHQは731部隊の戦争犯罪を裁かず、731部隊で行われていた細菌戦の情報を収集した。
パウエルは、この間のマッカーサーと731部隊との取り引きや米国本国とのやり取りを克明に追い、その過程を明らかにし暴露した。パウエルの苦難に満ちた人生の中で大きな収穫だった。
マッカーサーは本物の軍人であった。日本の開発していた細菌戦のデータを買い取らせ、それを使って開発した細菌兵器を朝鮮戦争で実戦した。また、朝鮮戦争に参戦した中国に対しては空爆と核攻撃を主張した。そして、解任された。全く恐い人だ!!
以下ウィキペディアより:1951年になると、北朝鮮軍と「中国人民志願軍」の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。しかしトルーマン大統領は、「核兵器を使用することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない」としてこの意見を退けた。
マッカーサーが核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を無視して北上を続けたために、中華人民共和国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーに対する更迭を発令した。
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
方秀英(女、60歳)の証言
1937年の12月に日本軍が南京を占領した時、家は渡船口23号でした。お隣に姚二子という精神病の人がいて、それに一家は回族で、竹製品の商売をし、玉帯巷に住まっていました。その人たちはその時は自分の家の防空壕に隠れていたのですが、日本軍が戸別に門をたたき、何とその家の爺さんとその息子たち4人とを銃剣で突っつき殺し、病気していた姚二子がその時日本軍にお茶を汲んで言ったら、やはり日本兵に門の所で突っつき殺されました。やがて日本軍は袁という名の車を造る大工の家に来て、老夫婦で若い息子を1人連れてたのですが、日本軍は爺さんを11太刀突っついてくれ、爺さんは自分で民間の漢方薬を傷口に塗っていて、何年かして死んだのでした。日本軍は家の門の所に屍があるのを見かけると、我が家の家の戸は叩きませんでした。その時道を通りかかった和尚さんが、私たちに急いで寧海路の難民区に行けと命じたので、私たち家中でその夜の内に難民区まで逃げたのでした。
難民区では、日本軍がしょっちゅう人を捕まえに来てはホアクーニャン(=若い娘)を欲しがっていて、ある小さな女の子でほんの13歳のが、日本軍に捕まって行って強姦され、放たれ戻ってきてから何日かで死んでしまいました。渡し船にはまだ李爺さんがいて、江西の人で、父と子の2人で竹製品を手で造っていましたが、息子が頭を坊主にしていて、日本軍は彼を中国兵だと言い、突っつき殺してから、刀で幾つか斬り、紅土橋の暗い溝に投げ込み、父親が死体を片付けに行きたがりましたが、日本兵がまた来るのを見て、吃驚して逃げてしまいました。後にやはり他の人たちが息子の屍を埋めてやったのです。(沈崇峰と王佩如が記録)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。
戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*
731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】