日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
新しい地平
在米華僑団体と日本人戦犯リスト
日本人対中国人という図式で運動を続けてきた在米・カナダの華僑団体が、かつての侵略者であったことを認めて、残虐行為の告白証言を使命として余生を送る元日本兵や、若い世代の目覚めた日本人と連携していくには、このような自己矛盾を克服しなければならない。東裁判は最高裁でも覆ることなく、「郵便袋に中国人の男性を入れガソリンをかけて火をつけ、池にけり落として殺した」という東の目撃した事件は虚偽と認定され、一審の50万円の罰金刑は確定された。
篠塚はそれでも予定通りのUA便で出発を決行した。行き先は最初の証言集会の地、カナダのバンクーバーで、シカゴオヘア空港が経由地だった。篠塚はオヘア空港の入国審査のカウンターですぐに発見され、同行者と引き離されて、日本人戦争犯罪人強制送還第1号となった。
731部隊関係者については、50年前に情報提供を条件に戦犯免責した同じ政府が、今度はその非人道性を訴え、自らの残虐行為を告白・謝罪する下級隊員を「戦犯」として、その証言の機会を奪うことの真意を測りかねるところである。篠塚は戦後、中国で戦犯として4年間管理所生活を送り、寛大な扱いを受ける中で731部隊の非人道性に目覚め、少年隊員としてかかわった細菌の大量生産、ノミの飼育、毒力試験のための生体解剖など、知りうるかぎりの事実を告白し、起訴免除となって1956年に帰国した。そして帰国後は、中国帰還者連絡会の一員として、積極的に細菌戦部隊の秘密を証言し続けている。
※最高裁の判決はどうも政治勢力の力が大きく働いているように強く思う!!
日中戦争の真相を国は明らかにしようとしているとは全然思われない!!国民に隠そうと必死である!!以下は『東史郎裁判』のホームページからの引用です。
司法の最高責任を放棄した最高裁「決定」
東 史郎
最終更新:2000年4月27日
62年前に戦場で書いた日記が、62年後に最高裁判所まで裁判を続けねばならなくなるとは想像もしなかった。最高裁判決定については、空野先生の言われる通りです(略)。
私はひとこと言いたい。東京高等裁判所での審議の際、(略)私の判決の予定日が11月26日でした。中国国家主席の滞在中に、「判決」を下すことを避けて、判決を延ばしたのであろうと解釈しました。結審から80日間もあるのに、裁判官という専門家が「判決文が書けない」などということがあるはずがない。私は、12月8日の開戦の日に判決かと思っていた。12月22日はどういう日かというと、A級戦犯の東条英機以下7名が絞首刑になった日なのです。22日の深夜12時から40分の内に絞首刑になっている。この日を選んで判決を下すということは、私を戦犯として見ているのかという気がいたしました。そいうことがありました。そして、今回の最高裁判所の「決定」で、その東京高裁の判決を「追認」しました。
われわれ日本軍が中国に攻めていったのであって、中国軍が日本に攻めてきて東京を占領したのではないのです。私が、中国に攻めていって南京を占領したのです。1937年12月12日午後10時にピタッと銃声が止んだのを覚えています。そして13日に入城したのです。虐殺については、充分に知っています。第4中隊の玄武門の内側の集団虐殺、私たちも7000人の捕虜を連行した。京都16師団長中島今朝吾の日記にもそのことがかかれています。また、私は下関で無数の中国兵捕虜の死体を見ました。私は現実に戦った者ですから、南京がどうあったかを知っています。
1月23日ピースおおさかで開催された集会は「20世紀最大のウソ・南京大虐殺の徹底検証」ということです。なにが「最大のウソ」か。そんなことはあり得ない。
1987年、私が始めて南京に謝罪に行ったときに、高興祖先生から、「東さん日本軍の蛮行は20世紀文明の恥です」と言われた。私は本当に懺悔しました。「最大のウソ」などではないのです。私は実際に南京で、下関の波止場で夥しい数の死体を実際に見ているのです。その「文明の恥」と言う言葉から、中国の人たちに謝罪しなければならないと思い、時には胸の中で綽々と謝罪してきたのです。それが基本になって裁判をたたかってきました。私の人生の前編は60年前の南京戦、後編はこの南京裁判です。ところが最高裁判所は、不当な決定を下した。私はこの決定を見て、政治が判決したのか、司法が判決したのか、司法の独立を放棄したのか、まさに政治が判決したのだと思います。
東史郎さんを支援し、引き続き歴史の真実を訴えよう
最終更新:2000年4月27日
・最高裁が「上告棄却、上告不受理」の決定
1月21日、最高裁判所(第2小法廷・河合伸一裁判長)は次の決定を行った。
「主文 本件上告を棄却する。 本件を上告審として受理しない。上告及び申し立て費用は上告人兼申立人の負担とする」。
この、わずか3行で、日本の司法は国際的にも注目されている歴史認識を問う裁判に最終的な結論を下してしまった。
この決定の直前、昨99年12月には東史郎さんと弁護団は、最高裁に対し、原告・橋本光治氏の98年12月東京高裁判決後に行った香港TVへの「犯行自認」のビデオや、再度中国で行った手榴弾爆発実験などの新証拠を提出し、併せて、中国をはじめとする海外から届いた東史郎さんを激励する横断幕に直接書かれたものなどを含む、署名7万人分をも提出していた。今年になってからは、国内での署名も提出する予定になっていた。この決定は、そうした証拠の吟味や国内外からの東史郎さんへの支援の声を無視し、司法の最高責任を自ら放棄した「決定」といえよう。
・ 内外からの高裁決定に対する抗議
はやくも翌22日には、南京虐殺記念館と南京大虐殺史研究会は日本の最高裁に抗議文を寄せ、併せて東史郎さん及び「裁判を支える会」と弁護団には声援書が送られてきた。東史郎さんたちは23日の「ピースおおさか」で行われた「南京大虐殺否定集会」への抗議の記者会見の席上で、最高裁に対する抗議声明を発表した。東史郎さんは、雨の中の抗議行動にもめげず、この裁判は「司法の独立を放棄し、政治が判決した」ものであり、東日記と南京大虐殺の真実をこれからも広く世界に訴えていく決意を述べられた。その後も東史郎さんは、2月19・20日にはフィリピンへ、休む間もなく2月25日から3月4日までは中国の上海・南京・北京・瀋陽を訪れ、最高裁の決定への抗議と今後の支持を訴え、3月26日には「エル大阪」で「東史郎さんの南京裁判 最高裁判所不当決定抗議集会」を開いた。当会からも田中代表他が駆けつけ、東さんを激励すると共に、東さんの行動を支持し「南京大虐殺」を否定しようとする動きを許さないことを表明した。
・歴史の歪曲を許さない運動の継続を
私たちは、98年12月東京高裁判決の際に、判決が不当判決であると同時に、この裁判がきわめて政治的なものであることを訴えた。今回の最高裁の決定は、新証拠を無視し、事実に基づいて判断するのではなく、歴史の証言を封じようとするものである。東史郎さんの「南京・戦争裁判」を通して、「南京大虐殺」そのものが無かったことにしたい勢力は、日記の記述の一部をもって名誉棄損で裁判を起こし、その判決で証言者の口を封じ、大虐殺の歴史の事実そのものまで無かったものと言い換えようと企んでいる。私たちはこうした動きに徹底的に反撃し、歴史の真実を明らかにし、歪曲を許さない運動を今後も引き続き行わなければならない。今後もご支援よろしくお願い致します。(文責・芹沢明男)
※「731部隊被害者遺族を支える会」から以下のようなお知らせが届きました。紹介します。
父は帰ってこなかった
~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。
合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円
日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)
主催:731部隊被害者遺族を支える会
〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
電話03-5379-2607
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
汪明孔(男、64歳)の証言
1937年の冬月11日の午前中に、家の門の所で、日本人が刀で家に泊っていたよその土地の人2人をつつき殺し、午後も龍○で一遍に5人撃ち殺したのですが、その中の4人は知らない人で、1人は岳正寛の岳父でした。
冬月12日の午後、私は大圩で日本人が又道を歩いている人を3人撃ち殺すのを見かけました。その時私は17歳で、恐くて食べる物を探しに外へも出られませんでしたが、やがて、私は避難しに山の中まで逃げていったのでした。※○は日本の漢字に変換できない字
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!
マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。
戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*
731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】