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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-10-31 08:12:15 | Weblog


日記@BlogRanking

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
細菌戦(731部隊の蛮行)
アメリカ・カナダに証言しに行こうとして、入国拒否をされたあの篠塚さんの731部隊の手記です。篠塚さんは、731部隊の少年兵であった。
田村良雄(帰国後 篠塚良雄に改名)
防疫診療助手 兵長
(略歴)
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地  千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢34歳(当時)

 その手には指が無く、先の方に黒い骨がついていました。吉村班の凍傷試験の結果を見た私は、これは引っかかれる心配はないわいと、今度は力任せに婦人を横倒しにしました。婦人は体を支える力も無く、どかりとその場にあお向けに投げ出され、指の無い手が虚空をつかみ、痛さにもだえるように顔をしかめ、どんよりした眼はかっと見開かれ、憎しみに燃えた眼を投げかけました。
「フ、フ」-私は飢えた狼そのままに、ころがされた婦人をなめるように眺めまわしました。
 灰色になった“病衣”から露出されている足の片方はかかとのところから無く、片方は指が全部無く、黒い肉となり骨が出ております。《だるまならちょうどあつらえ向きだ》私はあお向けにされ失神したように一切の気力を失い、何の抵抗する力もなくなっている婦人の前にひざをつくと、婦人のすそを力任せにまくり上げました。婦人はあらん限りの力を出して体の向きを変えようともがき、羞恥と憎しみに燃えた眼は怒りを増し、火を吐くばかりでありました。
 婦人は凍傷試験で手足をもぎ取られ、今又二木班の第4性病の研究でモルモットにされ、残酷に殺害されようとしているのでした。婦人の下腹部に目をやった私は、下腹部から鼠蹊部(そけいぶ)にかけて赤紫にはれ上がり、ウミが床一面に流れているのを見ました。「チェッ、畜生」獣欲を満足することができないと知ると、婦人の腰を力任せに蹴りとばして出て来ました。

 ※この婦人はいろいろな生体実験に使われていたことがよく分かる。このように、731部隊ではその被験者が死ぬまで実験が続けられた。
 それにしても、軍隊に入ると、性欲もずいぶん高まったようだ!!中国という外国の地、戦場での恐怖感、男性ばかりの軍隊という環境も多分に影響したのだろう?異常な環境。それは篠塚さんに限らず、多くの日本兵がそうだった。

            父は帰ってこなかった
          ~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
 731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
 李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
 今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。


合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円


日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)

    主催:731部隊被害者遺族を支える会
    〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
    中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
    電話03-5379-2607

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
3、日本軍の狂暴な婦女強姦

李秀英さんはご存知通り、731・南京・無差別爆撃賠償請求裁判の原告の1人であり、「李秀英さん名誉毀損裁判」の原告です。

※南京大虐殺事件の被害者である李秀英さんは、1995年8月、日本国を被告として損害賠償の訴えを起こしました。1999年9月22日、請求は棄却 されたものの、李秀英さんの被害事実と南京虐殺の事実は認める判決が言い渡されました。ところが、『「南京虐殺」への大疑問』(展転社刊・松村俊夫著)と いう本で、現在日本国に対し損害賠償請求の訴えをしている李秀英さんは、実際に被害を受けた者ではない、別人であるとの記述をしています。
李秀英さんは、南京で受けた被害に続き、今回の不当な記述によって二重の被害を受け、怒り悲しみ、自己の名誉を守るため、1999年9月、松村俊夫、展転社等に対する、名誉毀損に基づく損害賠償請求の訴えを東京地方裁判所に起こしました。
・裁判結果
南京事件に関する本の中で、事件で生残った被害者とは別人と書かれ、名誉を傷つけられたとして、中国・南京市在住の李秀英さん(83)が、著者の松村俊夫さんと出版社などに1200万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は10日に、著者らに計百五十万円の支払いを命じた。
 問題とされた本は「『南京大虐殺』への大疑問」で展転社(東京)から平成10年に出版された。
 判決理由で岡久幸治裁判長は、「被告側は複数の資料を比較する際、資料の性質に応じた批判・検討作業を十分に行わなかった」とし、李さんと被害者が別人を推定する合理的理由はないとした。(産経新聞 平成14年5月11日)
李秀英(女、66歳)の証言
 1937年の12月13日の午後、日本軍が入って来るなり、殺し焼き犯しかすめ始めました。夫は既に避難しに江北の田舎に逃れていましたが、私は7ヶ月の身重で、動きにくかったので、父と一緒に城内に留まり、五台山の小学校の地下室に隠れていました。
 12月19日の午前9時に、日本兵が6人来て、地下室まで走り込み、私とその他若い婦女を10人余り引っ張って行きました。私は死んでも辱めは受けられないと思いましたが、急いてもどうしようもなく、壁に頭をぶっつけて、頭が割れて血が流れ、地に昏倒しました。気が付いた時は、日本軍はもう行ってしまっていました。後で私はそんな風にしても駄目だと感じ、幼い頃から父に付いて武術を少し習っていたのだし、彼らと一戦交えられるんだと思いました。その日のお昼に、又日本兵が3人来て、男の人を追い立て、婦女を2人別の一間に連れて行き、強姦しようとしました。その時の日本人お1人が私のボタンを外しにやって来て、その腰に剣が一振り懸かっているのが見えたので、私はとっさに思い付いて、こいつの剣を奪ってやることにしました。機に乗じて剣の柄を握り締め、日本軍と組み打ちしました。日本軍は吃驚して、私と剣の柄を奪い合いました。私は剣が駄目になったら、歯でかんでやろうと、日本軍にかみついて放しませんでした。日本軍はかみつかれて痛くて、ワーワー叫び通しでした。隣の部屋の日本軍2人が叫び声を聞きつけて、こっちの日本軍を助けに駆けつけて来ました。私1人でその3人に当たることになり、どうしようもありませんでしたが、それでも私は剣の柄をしっかり握り締めて放さずに、その日本兵と地面でくんずほぐれず格闘していて、他の日本軍2人が銃剣で私の身体を滅多やたらと突っつき、顔や腿やに何太刀か突っつかれました。とうとう、日本軍の1人が私の腹を刺して来て、私は直ちに知覚を失ってしまい、何も分からなくなってしまいました。
 日本軍が行ってしまってから、父が私のもう死んでいるのを見て、うんと悲しみました。父は隣の何人かに頼んで五台山のそばに穴を1つ掘り、戸板を外して来て担架にし、埋葬しようと担ぎ出しました。みんなが担ぎ出た時に、冷たい風の刺激で、私が意識を取り戻し、ウーンと言ったのです。父が聞きつけて、まだ生きていると分かり、急いで家に担ぎ戻り、又何とか方法を講じて私を鼓楼医院に運び込んで救急措置をしました。明くる日、私は流産してしまいました。医者が検査したら、身体を30太刀余り刺されていて、唇や鼻や目の皮がみんな刺し破られていました。7ヶ月治療して、私はやっと健康を取り戻したのでした。(段月萍と陳立志が記録)

●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

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