これじゃ死者(=殺された者)は浮かばれない!!
オウムのやったことと旧日本軍のやったことはよく似ている!!
サリンを撒いた!細菌を撒いた!
日中国交正常化40周年
問われる日本政府の隠蔽体質!!
問われる日本人の歴史認識!!
日本は世界で唯一、第2次大戦中、細菌兵器を実戦に使った加害国だった!!
きけ!!「マルタ・アジアの被害者」の悲痛な叫び!!
「怨」
黒い太陽731部隊
「731部隊のすべて~人体実験・細菌戦~」
(2012年4月15日東京ウィメンズプラザ・ホール)
「悪魔の飽食」
人体実験被害者遺族の証言
細菌戦被害者の証言
細菌戦の研究
新資料発見者 奈須重雄さんのお話
松村高夫(慶大)さんのお話
(日本軍の毒ガス被害)日本の被害者は救済するが、中国の被害者は救済しない?
遺棄毒ガス敦化被害事件、不当判決!!
遺棄毒ガス問題について
周桐さん・731記念館館長のお話
最後の挨拶
「吾、吾が罪を知る」という遺書を残して自死した東大助教授に石井らは果たして何を要求したのか?(詳しくは「細菌戦部隊と自決した2人の医学者」【新潮社】をお読みください!)
●731部隊
【共同代表のご挨拶】
当センター(731資料センター)が果たすべき歴史的役割
松井英介(医師)
2011年9月1日付朝日新聞は、今年の朝日がん大賞を山下俊一氏に贈ることを「ひと」欄で伝えた。山下氏といえば、福島市での講演で、「放射能の影響はにこにこ笑っている人には来ない。くよくよしている人にくる」「年間100ミリシーベルト被爆しても大丈夫」と述べ、国際的にも厳しい批判を浴びているあの人物だ。今年春、長崎大学を休職し、福島医科大学副学長に就任した。
反原発を貫いてきた作家広瀬隆氏とルポライター明石昌一郎氏は、「100ミリシーベルトまでは安全であると繰り返し、福島の人に被爆を強要してきた」として、山下氏を東京電力の会長・社長と併せ「業務上過失致死罪」で刑事告発した。
山下俊一とは誰か?
東京帝国大学医学部を卒業、帝国海軍軍医大尉として敗戦を迎え、日米が共同運営する財団法人放射線影響研究所(放影研)の理事長を務めた重松逸造氏。その後任を務めた、同じく東京大学医学部卒長瀧重信氏。山下氏は、いわばその直系の弟子にあたる。
では、放影研とは何か?
放影研の前身は、1947年アメリカ合衆国が広島・長崎に設置したABCC(原爆傷害調査委員会)だ。ウラン型、プルトニウム型、2種類の原爆を投下した世紀の大実験にあって、人体への急性傷害と晩発傷害の調査は極めて重要な位置を占めていた。
(NPO法人 731資料センター 会報 第1号)より
731部隊と山下俊一
731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち 福見秀雄・青木義勇と長瀧重信・山下俊一
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永
山下俊一トンデモ発言
「御用学者」批判ができない大学社会
山下俊一のお師匠さん、重松逸造とは?
広瀬隆氏が山下教授や高木大臣、東電幹部らを刑事告発
●原発
原子力村をぶっつぶせ!!原発の再稼動を許すな!!まさか、日本が劣化ウラン弾を作ってはいないでしょうね?
2011年12月22日 「国の放射能の『除染に効果はない』」神戸大教授 山内知也
「瓦礫処理うけいれが東北復興にならない」
大義なき戦争「イラク戦争」に日本は間接的に加担した!!憲法9条はどこへ行ってしまったのか?
覚悟が必要です。劣化ウラン弾放射能影響「ファルージャの子供たち」
三井化学岩国大竹工場が爆発、2012年4月22日 深夜に爆音・炎上
劣化ウラン保管、地元は初耳
山口・化学工場爆発と劣化ウランについて。- 2012.04.22
■三井化学大竹工場は劣化ウラン弾の秘密工場だった
イラク攻撃で使用されている劣化ウラン弾に日本の電力会社の劣化ウランが使われている強い疑惑
やはり日本の原発は核開発目的だった!
日本はプルトニウム製造列島 福島原発事故と石原知事発言の関連は?
最重要 【350】 野田佳彦に見る政治家失格の条件 ... / 武田 邦彦
20120525 報道ステーション・徹底検証:福島第一原発4号機
原発事故 影響や対策解説 横浜 京大・小出助教が講演会
大飯原発再稼動決定と官邸前11000人抗議について。- 2012.06.16
終わりの始まり・・彼は引き金を引いた・・(`・ω・´)
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
マギー
マッキムへの書簡
(1938年4月2日)
上海霞飛路99号
1938年4月2日
マッキム牧師様
ニューヨーク市、第4大道281号J.W.Wood博士気付
そのときさらわれて行ったグループには、少なくも2人男の子が含まれていまして、その一人が中国人牧師の息子で、16歳(中国式数え方による数え年で、実際には14~15歳)でしかない少年です。このグループの人たちが、長江の岸辺の堤防で機関銃掃射によってなぎ倒されたときに、そのうちの一人が奇跡的に逃げ出してきました。その人は他の人たちと一緒に倒れたのですが、傷していないのに死んだ振りをし、周りの人たちの死体で自分を覆い隠していたのです。暗闇にまぎれて逃げ出すことができ、戻って来て私どもに、発生した事柄を話してくれたのでした。しばらくして何百という死体が、長江の土手にうずたかくなっているのが見えました。その集まりのもう一人のメンバーが、自ら進んで燃料を少し拾いに行こうとし、あまり離れていない路上で銃で撃たれました。
続きは「ノブの日記」で!!