No more war!
No more 731!
No more Nanking!
No more Fukushima!
明治大学生田キャンパス内の登戸資料館で
パネル展示『731部隊展2013』開催中(8月14日~17日開館)
期間:8月7日(水)~ 8月24日(土)
9月4日(水)~10月26日(土)
731部隊の1945年8月11日~18日
1、ファインダーがとらえた地獄より
8月11日。隊員の家族が引き揚げた。写真班からも2、3人が先発していった。
翌8月12日。昼頃からだったろうか。本部建物の各階に仕かけられた爆弾によって、731部隊の本部が爆破された。遠くからその光景を眺めながら、私は「戦争だな」とポツンと思ったものだ。
その日のうちに(あるいは翌日かもしれない)、私たちは引揚列車に乗って平房を撤退した。最後まで残った写真班員2、3名、それにI調査課長も一緒だった。
有蓋貨車に詰め込まれた私たちは、通化(トンホウ)を通って朝鮮に入り、金日成の生まれた町という江界(カンケ)に着いた。8月14日の夜だった。
江界で一泊した私たちは、翌日、そこで日本の敗戦を知ったのだった。町には《民主朝鮮万歳》の文字が躍っていた。
私たちは、引揚列車に、調査課図書室から貴重な医学書を持ってきていた。ドイツ語のものも多かった。敗戦の報とともに、それらを焼却することになった。まず、本に捺されている「石井部隊蔵書」という印を注意深く破り取り、それから焼くのである。それでも日本にないだろうといわれるほど貴重な書物は、I課長が焼かずに携行したようだ。
列車を運転していた満鉄の中国人機関士は、もう列車を走らせないという。彼をなだめたり、おどしたりしながら、南下を続け、18日に京城(ソウル)に着いた。
京城では、米軍機が空から、ウェーデマイヤー中将名のビラを撒いた。日本の敗戦を伝えるものだった。京城にも一泊することになった。私は朝鮮総督府と朝鮮銀行本店に行ってみたが、機関銃を据え付けた歩兵に守られていて、中に入ることはできなかった。満州でためた私の貯金は、この時を境に私とは無縁のものとなってしまったわけだ。
釜山に着いた私たちが目の当たりにしたものは、先発した家族や隊員が残していった荷物の山だった。主のない荷物がホームに散乱している光景は、敗戦の身をいやと言うほど物語ってくれた。
すでに米軍によって飛行禁止命令が出ていたと思われるが、私たちを海軍の輸送船が待っていてくれた。石井部隊長が海軍省に強引にかけ合って準備してくれたものとのことだった。この輸送船も出航すると沖合で、全員が整列する中で、機関銃等の武装を取り外し、海に捨てた。
私たちは、山口県萩の仙崎港についた。
私を731部隊へ連れて行ってくれたO大尉の姿はなかった。O大尉は、この年の初め、急性の肺炎にかかって、ハルピンの病院で、あっけなく亡くなったのだ。大尉の遺言で、遺骨は満州の土に埋められた。
・・・・・
新京陸軍病院には、ノモンハン事件による多くの負傷者が収容された(直接ノモンハン事件による捕虜かどうかはっきりしないが、ソ連軍の将校も収容されていた)。窒息性や催涙性の毒ガスと違って、イペリット毒ガスは、本人が、いつ、どこで攻撃されたか分からないうちにやられてしまう、恐ろしいものだった。この糜爛性(びらんせい)毒ガスにやられると、防毒面が支給されていても、全く役に立たない。運よく助かっても、水泡を生じ、やがてひどい火傷状態になり、大きなケロイドが残る。
したがって敵の細菌兵器による攻撃から身を守る云々、という説明は、私には、受け入れやすいものだったのだ。
ノモンハン事件には、石井部隊からも出動した。石井部隊長も前線に出た。制空権は、イ16型戦闘機を投入したソ連側にあった。劣勢の日本空軍の中で、篠原中尉機の活躍は目を見張るものがあった。単機よく敵18機を撃墜し、その際、自らも撃墜されて壮烈な戦死を遂げた。石井部隊長は、この篠原中尉機の焼け焦げたエンジンやその他の部品を集めて、部隊本部1棟2階にある特別標本陳列室に展示し、その戦功を称えていた。実験に使われた人体標本のずらりと並んでいる標本室に、篠原機の残骸が、いかにも場違いな感じで置かれていたのが、印象的だった。
こうして、私は、次第に731部隊を「職場」とし、「丸太」を「材料」とみなすことに慣れていったように思う。少なくとも、意識的には、そうだった。
だからこそ、私たちは、平房の731部隊の本部にいても、「生活」を営むことができたのだ。
【真相】石井細菌戦部隊 郡司陽子編より
真実の隠蔽は日常茶飯事行われる!!
国民も小利口にそれにあまり反発しない!!
アメリカによる広島・長崎の残留放射能の」隠蔽!!
(アメリカは)広島・長崎の残留放射能による健康被害をいまだ認めない。
1945年8月10日以降の空襲(ウィキペデアより)
8月10日 花巻空襲、熊本空襲
8月11日 久留米空襲。日中、B-24が市街地を空襲し、久留米駅が全焼。死者約210人[16]。焼失家屋4,506戸。
8月11日 加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとんど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。
8月13日 長野空襲 長野市、上田市に艦載機62機による空襲。
8月14日 熊谷空襲 B29・82機。死傷者687人。
8月14日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
8月14-15日 小田原空襲 死者30-50人。伊勢崎と熊谷を空襲したB29が帰路に余った爆弾を投下した[17]。
8月14日- 第8回大阪大空襲
1945年8月14日にB29約150機が大阪への空襲をおこなった。米軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700トンの1トン爆弾を集中的に投下した。国鉄京橋駅で夥しい犠牲が発生したことから、この空襲は、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」とも呼ばれる。
大阪陸軍造兵廠への爆撃はこれまで失敗に終わっていたが、この空襲で造兵廠は壊滅。また大坂城内にも着弾し、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失、その他に石垣の一部が崩落するなどの被害が出た。造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺には同日13時頃、1トン爆弾4発が落下した。
京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところだった。居合わせた多くの乗客が、高架上の城東線の影になる、地平上の片町線ホームに避難していた。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けた。この空襲での犠牲者は、身元の判明している人だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 - 600名以上いる(正確な犠牲者数は不明)とされている。
1955年から毎年8月14日に京橋駅南口で慰霊祭が行われている。
8月14-15日 土崎空襲 B29・132機。死者250人超、製油所全滅。最後の空襲。
天皇制護持に最後まで固執し、降伏をいたずらに遅らせたものだから、原爆・空襲により多くの尊い命が犠牲になってしまった!!
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」
天皇はなぜ広島・長崎に行かないのか?行けないのか?
天皇皇后両陛下のご日程(宮内庁のホームページより)
平成25年8月6日(火)
天皇皇后両陛下 ご会釈(勤労奉仕団)(蓮池参集所)
平成25年8月7日(水)
皇后陛下 ご臨席(第44回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式及び茶話会)(東京プリンスホテル(港区))
天皇皇后両陛下 ご報告(外務省儀典総括官他(外国ご訪問第一次事前調査について))(御所)
平成25年8月8日(木)
天皇陛下 ご執務(御所)
皇后陛下 ご覧(展示会「日本の子どもの文学-国際子ども図書館所蔵資料で見る歩み」 )(国立国会図書館国際子ども図書館(台東区))
生き地獄!!
8月9日、ソ連参戦で、満洲、中国、朝鮮にいた在留邦人は死の逃避行!!
日本国民はもっと怒っていい by オリバーストーン
広島・長崎の原爆―アメリカ製作フィルム 1/2
最後のシーンの解剖は何のため?
原爆被災記録映画(病院・救護所のようす)
竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記
カンタータ 凍土からの声 第二章<逃避行> 前半
1945年の引き揚げ時のラジオ放送は、2011年の福島原発事故当時の政府の対応と似ていませんか?
引き揚げの光景
私は日本人であることを誇りに思っていますし、日本という国を愛してもいます。
しかし、国家であれ行政であれ、そういうシステムはほとんど信用していません。
敗戦の夏、私は12歳で平壌(ピョンヤン)の街にいました。その時、唯一の頼りだったラジオ放送は、治安は維持されるから市民は軽挙妄動を慎んで市内にとどまれ、と繰り返し放送していました。
私の一家も他の多くの家族と同じようにぼんやりと指示に従い、そのまま残っていたのですが、その間、高級軍人や高級官僚たちとその家族は、家財道具を山のように積み出して、平壌の駅からどんどん列車で南下していたのです。
一般市民は「動くな」と言われておとなしくしていたところ、やがてソ連軍が入って来て、家は接収され、みな難民収容所のようなところへ押し込められ、交通は途絶して動かなくなりました。
それ以来、私は、地震や津波が来たりして政府が「動くな」と言ったらすぐ逃げるつもりですし、逆に「逃げろ」と言ったら動くまいと思っています。・・・・・・
国家とは常に逆に動くぞ、と反射的に思うようになってしまったのです。
・・・・・・
『人間の覚悟』(五木寛之著:新潮新書より)
No more 731!
No more Nanking!
No more Fukushima!
明治大学生田キャンパス内の登戸資料館で
パネル展示『731部隊展2013』開催中(8月14日~17日開館)
期間:8月7日(水)~ 8月24日(土)
9月4日(水)~10月26日(土)
731部隊の1945年8月11日~18日
1、ファインダーがとらえた地獄より
8月11日。隊員の家族が引き揚げた。写真班からも2、3人が先発していった。
翌8月12日。昼頃からだったろうか。本部建物の各階に仕かけられた爆弾によって、731部隊の本部が爆破された。遠くからその光景を眺めながら、私は「戦争だな」とポツンと思ったものだ。
その日のうちに(あるいは翌日かもしれない)、私たちは引揚列車に乗って平房を撤退した。最後まで残った写真班員2、3名、それにI調査課長も一緒だった。
有蓋貨車に詰め込まれた私たちは、通化(トンホウ)を通って朝鮮に入り、金日成の生まれた町という江界(カンケ)に着いた。8月14日の夜だった。
江界で一泊した私たちは、翌日、そこで日本の敗戦を知ったのだった。町には《民主朝鮮万歳》の文字が躍っていた。
私たちは、引揚列車に、調査課図書室から貴重な医学書を持ってきていた。ドイツ語のものも多かった。敗戦の報とともに、それらを焼却することになった。まず、本に捺されている「石井部隊蔵書」という印を注意深く破り取り、それから焼くのである。それでも日本にないだろうといわれるほど貴重な書物は、I課長が焼かずに携行したようだ。
列車を運転していた満鉄の中国人機関士は、もう列車を走らせないという。彼をなだめたり、おどしたりしながら、南下を続け、18日に京城(ソウル)に着いた。
京城では、米軍機が空から、ウェーデマイヤー中将名のビラを撒いた。日本の敗戦を伝えるものだった。京城にも一泊することになった。私は朝鮮総督府と朝鮮銀行本店に行ってみたが、機関銃を据え付けた歩兵に守られていて、中に入ることはできなかった。満州でためた私の貯金は、この時を境に私とは無縁のものとなってしまったわけだ。
釜山に着いた私たちが目の当たりにしたものは、先発した家族や隊員が残していった荷物の山だった。主のない荷物がホームに散乱している光景は、敗戦の身をいやと言うほど物語ってくれた。
すでに米軍によって飛行禁止命令が出ていたと思われるが、私たちを海軍の輸送船が待っていてくれた。石井部隊長が海軍省に強引にかけ合って準備してくれたものとのことだった。この輸送船も出航すると沖合で、全員が整列する中で、機関銃等の武装を取り外し、海に捨てた。
私たちは、山口県萩の仙崎港についた。
私を731部隊へ連れて行ってくれたO大尉の姿はなかった。O大尉は、この年の初め、急性の肺炎にかかって、ハルピンの病院で、あっけなく亡くなったのだ。大尉の遺言で、遺骨は満州の土に埋められた。
・・・・・
新京陸軍病院には、ノモンハン事件による多くの負傷者が収容された(直接ノモンハン事件による捕虜かどうかはっきりしないが、ソ連軍の将校も収容されていた)。窒息性や催涙性の毒ガスと違って、イペリット毒ガスは、本人が、いつ、どこで攻撃されたか分からないうちにやられてしまう、恐ろしいものだった。この糜爛性(びらんせい)毒ガスにやられると、防毒面が支給されていても、全く役に立たない。運よく助かっても、水泡を生じ、やがてひどい火傷状態になり、大きなケロイドが残る。
したがって敵の細菌兵器による攻撃から身を守る云々、という説明は、私には、受け入れやすいものだったのだ。
ノモンハン事件には、石井部隊からも出動した。石井部隊長も前線に出た。制空権は、イ16型戦闘機を投入したソ連側にあった。劣勢の日本空軍の中で、篠原中尉機の活躍は目を見張るものがあった。単機よく敵18機を撃墜し、その際、自らも撃墜されて壮烈な戦死を遂げた。石井部隊長は、この篠原中尉機の焼け焦げたエンジンやその他の部品を集めて、部隊本部1棟2階にある特別標本陳列室に展示し、その戦功を称えていた。実験に使われた人体標本のずらりと並んでいる標本室に、篠原機の残骸が、いかにも場違いな感じで置かれていたのが、印象的だった。
こうして、私は、次第に731部隊を「職場」とし、「丸太」を「材料」とみなすことに慣れていったように思う。少なくとも、意識的には、そうだった。
だからこそ、私たちは、平房の731部隊の本部にいても、「生活」を営むことができたのだ。
【真相】石井細菌戦部隊 郡司陽子編より
真実の隠蔽は日常茶飯事行われる!!
国民も小利口にそれにあまり反発しない!!
アメリカによる広島・長崎の残留放射能の」隠蔽!!
(アメリカは)広島・長崎の残留放射能による健康被害をいまだ認めない。
1945年8月10日以降の空襲(ウィキペデアより)
8月10日 花巻空襲、熊本空襲
8月11日 久留米空襲。日中、B-24が市街地を空襲し、久留米駅が全焼。死者約210人[16]。焼失家屋4,506戸。
8月11日 加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとんど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。
8月13日 長野空襲 長野市、上田市に艦載機62機による空襲。
8月14日 熊谷空襲 B29・82機。死傷者687人。
8月14日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
8月14-15日 小田原空襲 死者30-50人。伊勢崎と熊谷を空襲したB29が帰路に余った爆弾を投下した[17]。
8月14日- 第8回大阪大空襲
1945年8月14日にB29約150機が大阪への空襲をおこなった。米軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700トンの1トン爆弾を集中的に投下した。国鉄京橋駅で夥しい犠牲が発生したことから、この空襲は、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」とも呼ばれる。
大阪陸軍造兵廠への爆撃はこれまで失敗に終わっていたが、この空襲で造兵廠は壊滅。また大坂城内にも着弾し、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失、その他に石垣の一部が崩落するなどの被害が出た。造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺には同日13時頃、1トン爆弾4発が落下した。
京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところだった。居合わせた多くの乗客が、高架上の城東線の影になる、地平上の片町線ホームに避難していた。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けた。この空襲での犠牲者は、身元の判明している人だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 - 600名以上いる(正確な犠牲者数は不明)とされている。
1955年から毎年8月14日に京橋駅南口で慰霊祭が行われている。
8月14-15日 土崎空襲 B29・132機。死者250人超、製油所全滅。最後の空襲。
天皇制護持に最後まで固執し、降伏をいたずらに遅らせたものだから、原爆・空襲により多くの尊い命が犠牲になってしまった!!
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」
天皇はなぜ広島・長崎に行かないのか?行けないのか?
天皇皇后両陛下のご日程(宮内庁のホームページより)
平成25年8月6日(火)
天皇皇后両陛下 ご会釈(勤労奉仕団)(蓮池参集所)
平成25年8月7日(水)
皇后陛下 ご臨席(第44回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式及び茶話会)(東京プリンスホテル(港区))
天皇皇后両陛下 ご報告(外務省儀典総括官他(外国ご訪問第一次事前調査について))(御所)
平成25年8月8日(木)
天皇陛下 ご執務(御所)
皇后陛下 ご覧(展示会「日本の子どもの文学-国際子ども図書館所蔵資料で見る歩み」 )(国立国会図書館国際子ども図書館(台東区))
生き地獄!!
8月9日、ソ連参戦で、満洲、中国、朝鮮にいた在留邦人は死の逃避行!!
日本国民はもっと怒っていい by オリバーストーン
広島・長崎の原爆―アメリカ製作フィルム 1/2
最後のシーンの解剖は何のため?
原爆被災記録映画(病院・救護所のようす)
竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記
カンタータ 凍土からの声 第二章<逃避行> 前半
1945年の引き揚げ時のラジオ放送は、2011年の福島原発事故当時の政府の対応と似ていませんか?
引き揚げの光景
私は日本人であることを誇りに思っていますし、日本という国を愛してもいます。
しかし、国家であれ行政であれ、そういうシステムはほとんど信用していません。
敗戦の夏、私は12歳で平壌(ピョンヤン)の街にいました。その時、唯一の頼りだったラジオ放送は、治安は維持されるから市民は軽挙妄動を慎んで市内にとどまれ、と繰り返し放送していました。
私の一家も他の多くの家族と同じようにぼんやりと指示に従い、そのまま残っていたのですが、その間、高級軍人や高級官僚たちとその家族は、家財道具を山のように積み出して、平壌の駅からどんどん列車で南下していたのです。
一般市民は「動くな」と言われておとなしくしていたところ、やがてソ連軍が入って来て、家は接収され、みな難民収容所のようなところへ押し込められ、交通は途絶して動かなくなりました。
それ以来、私は、地震や津波が来たりして政府が「動くな」と言ったらすぐ逃げるつもりですし、逆に「逃げろ」と言ったら動くまいと思っています。・・・・・・
国家とは常に逆に動くぞ、と反射的に思うようになってしまったのです。
・・・・・・
『人間の覚悟』(五木寛之著:新潮新書より)
米、原爆投下!! 天皇制護持のための好カードを作るため現地に動員された医学者たちは、被爆調査に奔走し、苦しんでいる被爆者の治療は殆どしなかった。!! 731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書 聞け!マルタの叫び!! 昭和天皇の戦争責任を問う!! 今年の夏は“明治”が熱い!! 全国の平和に関心のある中学生・高校生は、明治に来たれ!! 日本政府・日本医学界が隠蔽する近現代史の“真実”!! 【ご案内】 『731部隊展2013』明治大学 パネル展示 会場:リバティタワー13F 1135教室 日程:8月29日(木)~8月31日(土) 29日(木) 13:00~20:30 30日(金) 10:00~20:30 31日(土) 10:00~18:30 資料代(「記念シンポジウム」招待券付) 1,000円 *学生半額/高校生以下無料 *案内ガイドによる展示解説もあります 駿河台キャンパス アクセスマップ 会場:生田キャンパス登戸資料館 開催期間: ① 8月7日(水)~ 8月24日(土) ② 9月4日(水)~10月26日(土) 10:00~16:00(日、月、火曜は休館) ★臨時休館あり大学のHPか資料館に御確認のうえご来館下さい。 神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1 TEL: 044-934-7993 生田キャンパス アクセスマップ 生田キャンパス キャンパスマップ 731部隊展開催20周年記念シンポジウム 日時9月1日(日) 13:00~16:30 会場リバティタワー1階1011教室 -シンポジウム・プログラム- ① 張可偉氏(被害者遺族) ② 李宏華氏・易友喜氏(被害者遺族) ③ 吉中丈志氏(「戦争と医の倫理」の検証を進める会) ④ 山田朗氏(明治大学教授) ⑤ 伊勢弘志氏(明治大学講師) 奈須重雄氏(細菌戦資料センター) ・資料代1,000円(駿河台キャンパスのパネル展示にお越しの方は無料です!) * 学生半額・高校生以下無料 「731部隊2013」実行委員会 代表 山田朗(明治大学平和教育登戸研究所館長、歴史教育者協議会代表 近藤昭二(ディレクター・NPO法人731部隊・細菌戦資料センター代表) 南典男(弁護士・731部隊犠牲者遺族を支える会代表) 連絡先:ピープルズ法律事務所 東京都新宿区新宿1-6-5シガラキビル9階(TEL:03-3354-2555) ◆◇◆◇◆賛同金募集!◇◆◇◆ 「731部隊展 2013」開催へ、ご理解・ご協力を アウシュビッツの人体実験・戦争犯罪は、ヨーロッパで「負の遺産」として継承されている一方で、同じように人体実験を繰り返していた「731部隊」はどのくらい顧みられてきたのでしょうか。 戦争の実態を風化させることなく、平和構築の礎を継承できるように史実を伝えるため、とりわけ、戦争の裏側として解明され難かった≪秘密戦≫にスポットを当てて、戦争の裏側から実態を伝えるのが「731部隊展」です。 1993年に行われた731部隊展は、多くの市民の手によって全国61カ所で開催されました。23万人の見学者を集め、「日本ジャーナリスト会議(JCJ)特別賞」を受賞しています。 しかし、20年経った今、その遺産が十分に継承されているといえるでしょうか。その後も続いている731部隊展もほとんど話題に上がることなく、圧倒的多数の人々は、20年前の731部隊展のことも、現在の中国東北部が「満州国」と称して日本の支配下にあったことも、そこに731部隊があったことも知りません。 そこで、私たちは、731部隊展開催20周年の記念とともに、教科書だけでは十分に知り得ない731部隊の歴史を改めて示し、医療・医学や訴訟問題との関わりなど、現在に引き継がれている問題を提起します。 これから日本に生まれてくる未来の子どもたちは、加害国の国民として歴史問題を突き付けられ、その責任を問われかねません。日本とアジア諸国の友好と未来にとって、歴史問題がその障壁になっているのです。事実の隠蔽・否定によって歴史問題の風化を許すことは、未来に対する責任を放棄することではないでしょうか。 今回は、パネルとしてABC企画所有のものをベースに、20年の研究・運動の成果を加えた約40枚のパネルを新たに再構成、4台の模型、石井式濾水器の濾水管などの現物展示などを加えて、「731部隊展2013」実行委員会の全国巡回展を企画しています。新規パネルの作成・イベントの開催などに多額の費用が必要です。みなさんの資金協力なしには、この企画の成功もありません。 賛同金は、以下の通り。以下の郵便振込み口座へお振込みください。 (その際、氏名公表不可の方はその旨振込用紙にご記入ください) 個人 一口 1000円(大口歓迎) 団体 一口 5000円 郵便振替 00140-0-549115 731部隊展2013実行委員会 新たな世代への「記憶の継承」と、「記録への取り組み」の実現のために、皆様のご協力が必要です。ご趣旨をご理解いただき、ぜひとも「731部隊展2013」開催の賛同者になっていただきたく、ご支援よろしくお願い申し上げます。 「731部隊展2013」実行委員会 代表 山田朗(明治大学平和教育登戸研究所館長、歴史教育者協議会代表) 近藤昭二(ディレクター・NPO法人731部隊・細菌戦資料センター代表) 南典男(弁護士・731部隊犠牲者遺族を支える会代表) 連絡先 ピープルズ法律事務所 東京都新宿区新宿1-6-5シガラキビル9階 私たちも、731部隊展の開催を応援します! 呼びかけ人一同 浅井基文、荒井信一、有馬底、池辺晋一郎、石田勇治、井上久士、小山内美江子、笠原十九司、越田稜、ジェームス三木、俵義文、西里扶甬子、羽田澄子、本多勝一、松尾章一、森南海子、森村誠一 ご案内以上 核大惨事から子どもたちを守れるか 共同代表・岐阜環境医学研究所 松井英介! NPO法人 731資料センタ-会報7号より ●食べ物の汚染 最大の問題は4号機です。使用済み核燃料集合体が1500本以上も約30mの高さの建物のプールに保管されていて、そのプールが傾いている。もし マグニチュード7~8クラスの地震がくればこのプールがひっくり返る。そうなると日本列島だけでなく地球の北半球全体がひどく汚染されるとして、ヨーロッパでも大変注目されているのです。事故現場からは今も海へ垂れ流されて汚染は続いています。大気中も土壌も汚染されています。 汚染された海水がどのように流れるかを水産学者の水口さんが調べたことがあります。六ヶ所村から流した葉書は房総半島で拾われています。青森から岩手、宮城、福島から東京湾にも着いています。 今は日本海側にも、朝鮮、韓国、中国など近隣諸国にも大きく影響を与えています。海水のpm2.5は幾つか?なとど、日本政府は問わないのです。 国は住宅周囲、舗装道路の除染はするが山の除染はしないという。家の回り20kmまでしか除染しないので放射性物質は例えば裏山から回りまわってくる。土・土壌の汚染は当初浅い所にしかなかった、しかし、1年前には30cm地下に入っている。水と土と循環して食べ物に入って来ます。 「脱ひばく移住法」制定の提言(1) 松井英介 |
731部隊からフクシマまで、日本医学界は何の反省も無く医療が続けられている!!
日中戦争の最中、国家総動員法が施行され、医学界から多くの優秀な人材が731部隊にも行った。そこで人体実験を繰り返しながら、細菌兵器の開発を進め、中国各地で細菌戦を行い、多くの中国人や日本人にも被害を出した!!敗戦直前に、天皇の責任が問われないよう証拠湮滅のため部隊は破壊され、部隊員はいち早く日本へ帰国した。上級幹部は、アメリカに研究データを引き渡し、戦犯免責を受け、アメリカの細菌兵器開発に協力し、東京裁判にはかけられなかった。 1945年8月6日や9日の原爆投下後の被爆調査には、医学者が動員され、天皇制護持するためのカードとして、アメリカの喜ぶような原爆の威力を示す被害調査が行われ、患者の治療はほとんどされなかった。8月のうだるような暑さの中での原爆投下の惨状は、本当に生き地獄であった!! 医学者たちは、被害調査に没頭し、ほとんど被爆者の医療がなされていないとは驚きだ!! その中で、治療とは関係ない人体実験が行われ、もしかしたら生体解剖もされていたのではないかと疑ってしまう!! また、731部隊上級研究員たちは、医学界で出世し、重要なポストに坐ったため、731部隊の非人道的な行為は反省も謝罪もされなかった。 戦後も、人体実験が行われ、それが世間に知られるようになると、社会問題になることもあった。 1954年の水爆実験では、元731部隊員の宮川正が被曝した漁船800隻のうちの1隻「第5福竜丸」だけを問題視し、放射能の影響を過小評価した。 また、水俣病では、田宮委員会が、水俣病をもみ消し走った。 「薬害エイズ事件」では、元731部隊員内藤良一の設立したミドリ十字が問題となった。 今回の福島第一原発の事故も、健康被害の調査は表面上は行われているが、治療は行われていないのではないか? 長崎大学の山下俊一を福島県立医大の副学長として派遣し、とんでも発言を繰り返し、問題を起こしている。 山下俊一トンデモ発言 731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書 封印された原爆報告書 資料を早く公開してほしい!! 日本の医学界は戦後731部隊での残虐な行為を反省することもなく、謝罪もしていていない!! これでいいのだろうか? 731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち 福見秀雄・青木義勇と長瀧重信・山下俊一 パネル集「731部隊展」 1993年7月~1994年12月(731部隊展より) 日本人中国抑留の記録7(アヘン・731・無人地区) 発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会 発売三恵社より 731部隊の人体実験・細菌戦の実態がわかる動画3本 知ってるつもり 731部隊 闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月 黒い太陽731部隊 これまで、「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府の根拠が、崩れた!! 発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会 発売三恵社より アメリカ(占領軍)は帝銀事件の捜査に圧力をかけた! やはり、犯人は特務機関(731部隊員か陸軍中野学校等)の人間か? 日本政府は、何時まで731部隊の資料を隠蔽するのだ!! 帝銀事件とは? 731細菌部隊と帝銀事件との真相1 "戦後最大のミステリー"「帝銀事件」(1) (参考)高杉晋吾が語る「戦争・原発!!」 20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発 若松孝二監督を偲ぶ!! 若松監督、次作構想に「731部隊」あった…三女が明かす 「あさま山荘事件」実行犯を捜して(1) 若松孝二監督「17歳の光と影」(1) |
IMAGINE 9
01 想像してごらん、 軍隊のお金をみんなの 暮らしのために使う世界を。 Imagine, A world that spends money not on armies, but on people's lives. 文 星川淳、河崎哲 合同出版より ●ドイツと日本の違い ドイツの医学会の謝罪や脱原発はドイツ国民が「生命への畏敬の念」に目覚めたからか? 『人間の価値』 ―1918年から1945年までのドイツ医学 Ch.ブロス/G.アリ編 林 功三訳 1938年11月9日*を思う *「水晶の夜」 *「水晶の夜」 ベルリン医師会の声明 ベルリン医師会はいま、ナチズムの中で医師層がはたした役割と、忘れることができない犠牲者の苦しみを思い起こす。医師組織を結成する我々は、我々地震の過去とナチズムに関与した医師の責任を問題にしないわけにはいかない。 ナチス政権掌握の何年も前から、医師たちも人間の社会的差別と少数者の迫害を奨励する思考をはっきりもっていた。遺伝優生学や人種的遺伝体質、遺伝的に劣る人間、人生の余計者、生きる価値のない人生、といった思考であり、ナチス保健政策の基礎を築いた思考である。これが社会的に自明のものとされ、差別を正当化したのである。それが人間の絶滅を可能にしたのである。 ユダヤ人の医者は「アーリア人」の治療をすることが許されなくなり、1938年、法律によって、彼らの新規採用と開業が禁止され、また彼らの既得の営業許可が消滅されられた。ユダヤ人および異なる思想を持つ人々が排除されたことに対して、同僚の医師サークルやその団体からはほとんど抗議の声が挙がらなかった。 医師たちは「遺伝病の子どもの出生を予防する」法律を準備するのに関与し、無数の病気の人々、身体障害者に対する不妊。断種手術をおこなった。 医師たちは選別と殺戮の官僚機構に協力した。専門家として彼らは選別の鑑定を行い、国家医療行政機構に協力して、強制収容所へ患者を移送させた。 医師たちは「安楽死病院」で働いた。彼らによる「認定」がヨーロッパのユダヤ人の工場的規模の殺戮の基礎になった。 医師たちは強制収容所、研究所、大学病院で残酷な人体実験を行った。 ごくわずかの医師たちが彼らのキリスト教的、社会主義的、共産主義的世界観にしたがって抵抗したにすぎない。 ベルリン医師会はその過去の重荷を負う。我々は悲しみと恥を感じている。(以上) 【ある身体障害児の母の証言】 彼女は1940年ウィーンからやって来て、内務省の患者殺戮に責任ある部局で、ヘルバート・リンデン医師を訪ねた。 「リンデン先生は小柄で目立たない人でした。私が訪れたので、彼は明らかに驚いていました。彼は私に、ひどく愛想よく、ウィーンへ行ったときの楽しかったこと、ウィーンの女たちのこと、また文化生活のことを話しました。しばらくして私はリンデン博士に、本題に入りたいのですが、と言いました。政府官房から情報を得ていたらしく、彼は手短にこう答えました。『お気の毒です。でも精神薄弱児の皆さんには死んでもらうのがいいでしょう。家族の皆さんは2週間もすればすべてを忘れます。それに患者たちは生きていると言えない状態にあるのですから』 『リンデン先生、ベルリンの人々ならそんな考え方ができるかもしれませんが、ウィーンの人間はそんなことを考えただけでも生きていられません。先生ご自身が病気で、今死ぬために連れて行かれるのだいうことをはっきり知っていらっしゃる、と想像してみて下さい。』 リンデン博士は笑って答えた。 『私だったら喜ぶでしょう。』 私はこの男に事態がいかに深刻なものであるかを懸命に説明し、繰り返し、ありとあらゆる―政府官房へ陳情に行った人々が既に述べたであろう―懇願の言葉を述べたが、無駄だった。そこで私はリンデン博士に、もしどうしてもと言うのなら、患者がウィーンにいる中に注射してくれるように頼んだ。 ドイツ精神医学会の謝罪 ドイツ精神医学会は公式に謝罪しました。では、日本の精神医学会は ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開?/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税) ヴォートリン 日記の抄訳(1937年12月12日~1938年5月13日) 1937年12月12日、日曜日 今夜9時から10時の間、陳さんとわたしとでキャンパスを一回りした。洗濯屋の胡と、その隣人で農夫の徐も、上がってきていた。2人とも家族に若い女の子がいて、今夜は撤退している兵士らを怖がっているのだ。今夜は市内で眠れる人はほとんどいないだろう。南山宿舎から城南がまだ燃えているのが見え、下関も燃えていた。 今夜は着替えずに寝て、必要とされたときに、すぐ起きられるようにしなければ、夜が早く明けるといい。 1年前の丁度今日、蒋将軍が西安でとりこにされたのだ。 中国各紙、好意的に報道 鳩山氏の南京大虐殺記念館訪問 「河村市長を訴える」再度の南京大虐殺否定発言で生存者が怒り=中国 脱原発 ◆【小出裕章ジャーナル~第31回】日米原子力協定の真相 孫崎享講演会 『戦後史の正体を暴く』~日米同盟と原発 荻上チキSession22 「崎山敏也記者の原発ニューススペシャル 130809 報道するラジオ「平和を考える~沖縄」 核兵器と原発と従属国 タイマーズ サマータイムブルース 直ちに健康に影響は 続きは「ノブのノート」で |