大日本帝国の敗戦間際から、マッカーサーの上陸までに参謀本部は軍事機密の証拠湮滅に全力を傾注した!!
昭和天皇の戦争責任が問われないように!!
あの戦争を総括しようとすれば、必ず昭和天皇の戦争責任にぶつかる!!
あの戦争の最高責任者は昭和天皇なのだから。
その天皇が戦後も在位し、天皇制が存続しているので、右翼は史実を曲げて、昭和天皇や皇族方の戦争責任を回避しようと必死だ!!
南京大虐殺、731部隊、従軍慰安婦問題、国境問題の否定に今の自民党政権は、全力を挙げている。
しかし、史実は消し去ることはできない!!
戦没者追悼式典では、侵略戦争に対する反省が全く無く、日本のやった戦争を美化している!!
全くこわいことだ!!
明治大学生田キャンパス内の登戸資料館で
パネル展示『731部隊展2013』開催中(8月14日~17日開館)
期間:8月7日(水)~ 8月24日(土)
9月4日(水)~10月26日(土)
731部隊の1945年8月11日~18日
敗戦とポツダム宣言と領土問題
731部隊の1945年8月11日~18日
1、ファインダーがとらえた地獄より
8月11日。隊員の家族が引き揚げた。写真班からも2、3人が先発していった。
翌8月12日。昼頃からだったろうか。本部建物の各階に仕かけられた爆弾によって、731部隊の本部が爆破された。遠くからその光景を眺めながら、私は「戦争だな」とポツンと思ったものだ。
その日のうちに(あるいは翌日かもしれない)、私たちは引揚列車に乗って平房を撤退した。最後まで残った写真班員2、3名、それにI調査課長も一緒だった。
有蓋貨車に詰め込まれた私たちは、通化(トンホウ)を通って朝鮮に入り、金日成の生まれた町という江界(カンケ)に着いた。8月14日の夜だった。
江界で一泊した私たちは、翌日、そこで日本の敗戦を知ったのだった。町には《民主朝鮮万歳》の文字が躍っていた。
私たちは、引揚列車に、調査課図書室から貴重な医学書を持ってきていた。ドイツ語のものも多かった。敗戦の報とともに、それらを焼却することになった。まず、本に捺されている「石井部隊蔵書」という印を注意深く破り取り、それから焼くのである。それでも日本にないだろうといわれるほど貴重な書物は、I課長が焼かずに携行したようだ。
列車を運転していた満鉄の中国人機関士は、もう列車を走らせないという。彼をなだめたり、おどしたりしながら、南下を続け、18日に京城(ソウル)に着いた。
京城では、米軍機が空から、ウェーデマイヤー中将名のビラを撒いた。日本の敗戦を伝えるものだった。京城にも一泊することになった。私は朝鮮総督府と朝鮮銀行本店に行ってみたが、機関銃を据え付けた歩兵に守られていて、中に入ることはできなかった。満州でためた私の貯金は、この時を境に私とは無縁のものとなってしまったわけだ。
釜山に着いた私たちが目の当たりにしたものは、先発した家族や隊員が残していった荷物の山だった。主のない荷物がホームに散乱している光景は、敗戦の身をいやと言うほど物語ってくれた。
すでに米軍によって飛行禁止命令が出ていたと思われるが、私たちを海軍の輸送船が待っていてくれた。石井部隊長が海軍省に強引にかけ合って準備してくれたものとのことだった。この輸送船も出航すると沖合で、全員が整列する中で、機関銃等の武装を取り外し、海に捨てた。
私たちは、山口県萩の仙崎港についた。
私を731部隊へ連れて行ってくれたO大尉の姿はなかった。O大尉は、この年の初め、急性の肺炎にかかって、ハルピンの病院で、あっけなく亡くなったのだ。大尉の遺言で、遺骨は満州の土に埋められた。
・・・・・
出かける、と言えば、四屯(スートン)の近く、部隊から10数キロほどの王崗(ワンガン)というところに、日本人の開拓団がいた。
総務部で王崗への1日遠足(ピクニック)があった。女子隊員も含めて総勢7、80名である。昼食(ニギリメシ)を持って、中国人集落を通り、王崗(ワンガン)までの歩いていくのである。王崗の開拓団は、鹿児島県出身の人たちが多かったように思う。すでに壮丁は兵隊にとられ、婦女子と老人の姿が多かった。広い農場に大きなガラス張りの温室があった。この温室の中で昼食をとり、そして開拓団員の方から、野菜作りの話や、案内がなされた。
ハルピンの青果市場は、この王崗と、天理村からの野菜の出荷が多かった。
私は、この時の平和な様子も写真に収めた。
ところがその一方、同じカメラで、私は「丸太」の最期をも撮っていた。何の違和感もなしに・・・・。
今、そのことが恐ろしいと思う。平房には「生活」があって、「戦場」はなかったと思っていた。しかし、「戦場」は、疑いもなくあったのだ。私が「生活」と思っていたものは、実は、「戦場」が顕在化しなかったために与えられた一種の執行猶予だったのではないか。
8月9日。私は、そのことをいやと言うほど身にしみて教えられたのだった。731部隊が実は、「戦場」の中でも、もっとも苛烈な戦場だったことを。そして、私の「生活」が、いかにもろいものであったかを。
王崗開拓団は、ソ連の参戦後、どこからも救いの手がのびず、8月下旬に、全員が現地で自決したという。わずか10数キロの距離にいた731部隊は、ともかく生還した。
私は今、つくづく思う。「戦争は、悪魔にならなければできないのだ」と。
【真相】石井細菌戦部隊 郡司陽子編より
1945年8月18日、大変悲惨な逃避行は続いている!!
竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記
カンタータ 凍土からの声 第二章<逃避行> 前半
1945年の引き揚げ時のラジオ放送は、2011年の福島原発事故当時の政府の対応と似ていませんか?
引き揚げの光景
私は日本人であることを誇りに思っていますし、日本という国を愛してもいます。
しかし、国家であれ行政であれ、そういうシステムはほとんど信用していません。
敗戦の夏、私は12歳で平壌(ピョンヤン)の街にいました。その時、唯一の頼りだったラジオ放送は、治安は維持されるから市民は軽挙妄動を慎んで市内にとどまれ、と繰り返し放送していました。
私の一家も他の多くの家族と同じようにぼんやりと指示に従い、そのまま残っていたのですが、その間、高級軍人や高級官僚たちとその家族は、家財道具を山のように積み出して、平壌の駅からどんどん列車で南下していたのです。
一般市民は「動くな」と言われておとなしくしていたところ、やがてソ連軍が入って来て、家は接収され、みな難民収容所のようなところへ押し込められ、交通は途絶して動かなくなりました。
それ以来、私は、地震や津波が来たりして政府が「動くな」と言ったらすぐ逃げるつもりですし、逆に「逃げろ」と言ったら動くまいと思っています。・・・・・・
国家とは常に逆に動くぞ、と反射的に思うようになってしまったのです。
・・・・・・
『人間の覚悟』(五木寛之著:新潮新書より)
昭和天皇の戦争責任が問われないように!!
あの戦争を総括しようとすれば、必ず昭和天皇の戦争責任にぶつかる!!
あの戦争の最高責任者は昭和天皇なのだから。
その天皇が戦後も在位し、天皇制が存続しているので、右翼は史実を曲げて、昭和天皇や皇族方の戦争責任を回避しようと必死だ!!
南京大虐殺、731部隊、従軍慰安婦問題、国境問題の否定に今の自民党政権は、全力を挙げている。
しかし、史実は消し去ることはできない!!
戦没者追悼式典では、侵略戦争に対する反省が全く無く、日本のやった戦争を美化している!!
全くこわいことだ!!
明治大学生田キャンパス内の登戸資料館で
パネル展示『731部隊展2013』開催中(8月14日~17日開館)
期間:8月7日(水)~ 8月24日(土)
9月4日(水)~10月26日(土)
731部隊の1945年8月11日~18日
敗戦とポツダム宣言と領土問題
731部隊の1945年8月11日~18日
1、ファインダーがとらえた地獄より
8月11日。隊員の家族が引き揚げた。写真班からも2、3人が先発していった。
翌8月12日。昼頃からだったろうか。本部建物の各階に仕かけられた爆弾によって、731部隊の本部が爆破された。遠くからその光景を眺めながら、私は「戦争だな」とポツンと思ったものだ。
その日のうちに(あるいは翌日かもしれない)、私たちは引揚列車に乗って平房を撤退した。最後まで残った写真班員2、3名、それにI調査課長も一緒だった。
有蓋貨車に詰め込まれた私たちは、通化(トンホウ)を通って朝鮮に入り、金日成の生まれた町という江界(カンケ)に着いた。8月14日の夜だった。
江界で一泊した私たちは、翌日、そこで日本の敗戦を知ったのだった。町には《民主朝鮮万歳》の文字が躍っていた。
私たちは、引揚列車に、調査課図書室から貴重な医学書を持ってきていた。ドイツ語のものも多かった。敗戦の報とともに、それらを焼却することになった。まず、本に捺されている「石井部隊蔵書」という印を注意深く破り取り、それから焼くのである。それでも日本にないだろうといわれるほど貴重な書物は、I課長が焼かずに携行したようだ。
列車を運転していた満鉄の中国人機関士は、もう列車を走らせないという。彼をなだめたり、おどしたりしながら、南下を続け、18日に京城(ソウル)に着いた。
京城では、米軍機が空から、ウェーデマイヤー中将名のビラを撒いた。日本の敗戦を伝えるものだった。京城にも一泊することになった。私は朝鮮総督府と朝鮮銀行本店に行ってみたが、機関銃を据え付けた歩兵に守られていて、中に入ることはできなかった。満州でためた私の貯金は、この時を境に私とは無縁のものとなってしまったわけだ。
釜山に着いた私たちが目の当たりにしたものは、先発した家族や隊員が残していった荷物の山だった。主のない荷物がホームに散乱している光景は、敗戦の身をいやと言うほど物語ってくれた。
すでに米軍によって飛行禁止命令が出ていたと思われるが、私たちを海軍の輸送船が待っていてくれた。石井部隊長が海軍省に強引にかけ合って準備してくれたものとのことだった。この輸送船も出航すると沖合で、全員が整列する中で、機関銃等の武装を取り外し、海に捨てた。
私たちは、山口県萩の仙崎港についた。
私を731部隊へ連れて行ってくれたO大尉の姿はなかった。O大尉は、この年の初め、急性の肺炎にかかって、ハルピンの病院で、あっけなく亡くなったのだ。大尉の遺言で、遺骨は満州の土に埋められた。
・・・・・
出かける、と言えば、四屯(スートン)の近く、部隊から10数キロほどの王崗(ワンガン)というところに、日本人の開拓団がいた。
総務部で王崗への1日遠足(ピクニック)があった。女子隊員も含めて総勢7、80名である。昼食(ニギリメシ)を持って、中国人集落を通り、王崗(ワンガン)までの歩いていくのである。王崗の開拓団は、鹿児島県出身の人たちが多かったように思う。すでに壮丁は兵隊にとられ、婦女子と老人の姿が多かった。広い農場に大きなガラス張りの温室があった。この温室の中で昼食をとり、そして開拓団員の方から、野菜作りの話や、案内がなされた。
ハルピンの青果市場は、この王崗と、天理村からの野菜の出荷が多かった。
私は、この時の平和な様子も写真に収めた。
ところがその一方、同じカメラで、私は「丸太」の最期をも撮っていた。何の違和感もなしに・・・・。
今、そのことが恐ろしいと思う。平房には「生活」があって、「戦場」はなかったと思っていた。しかし、「戦場」は、疑いもなくあったのだ。私が「生活」と思っていたものは、実は、「戦場」が顕在化しなかったために与えられた一種の執行猶予だったのではないか。
8月9日。私は、そのことをいやと言うほど身にしみて教えられたのだった。731部隊が実は、「戦場」の中でも、もっとも苛烈な戦場だったことを。そして、私の「生活」が、いかにもろいものであったかを。
王崗開拓団は、ソ連の参戦後、どこからも救いの手がのびず、8月下旬に、全員が現地で自決したという。わずか10数キロの距離にいた731部隊は、ともかく生還した。
私は今、つくづく思う。「戦争は、悪魔にならなければできないのだ」と。
【真相】石井細菌戦部隊 郡司陽子編より
1945年8月18日、大変悲惨な逃避行は続いている!!
竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記
カンタータ 凍土からの声 第二章<逃避行> 前半
1945年の引き揚げ時のラジオ放送は、2011年の福島原発事故当時の政府の対応と似ていませんか?
引き揚げの光景
私は日本人であることを誇りに思っていますし、日本という国を愛してもいます。
しかし、国家であれ行政であれ、そういうシステムはほとんど信用していません。
敗戦の夏、私は12歳で平壌(ピョンヤン)の街にいました。その時、唯一の頼りだったラジオ放送は、治安は維持されるから市民は軽挙妄動を慎んで市内にとどまれ、と繰り返し放送していました。
私の一家も他の多くの家族と同じようにぼんやりと指示に従い、そのまま残っていたのですが、その間、高級軍人や高級官僚たちとその家族は、家財道具を山のように積み出して、平壌の駅からどんどん列車で南下していたのです。
一般市民は「動くな」と言われておとなしくしていたところ、やがてソ連軍が入って来て、家は接収され、みな難民収容所のようなところへ押し込められ、交通は途絶して動かなくなりました。
それ以来、私は、地震や津波が来たりして政府が「動くな」と言ったらすぐ逃げるつもりですし、逆に「逃げろ」と言ったら動くまいと思っています。・・・・・・
国家とは常に逆に動くぞ、と反射的に思うようになってしまったのです。
・・・・・・
『人間の覚悟』(五木寛之著:新潮新書より)
原爆投下後、敗戦を迎えても多くの人が苦しんでいた!! 天皇制護持のための好カードを作るため現地に動員された医学者たちは、被爆調査に奔走し、苦しんでいる被爆者の治療は殆どしなかった。!! 731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書 聞け!マルタの叫び!! 昭和天皇の戦争責任を問う!! 今年の夏は“明治”が熱い!! 全国の平和に関心のある中学生・高校生は、明治に来たれ!! 日本政府・日本医学界が隠蔽する近現代史の“真実”!! 【ご案内】 『731部隊展2013』明治大学 パネル展示 会場:リバティタワー13F 1135教室 日程:8月29日(木)~8月31日(土) 29日(木) 13:00~20:30 30日(金) 10:00~20:30 31日(土) 10:00~18:30 資料代(「記念シンポジウム」招待券付) 1,000円 *学生半額/高校生以下無料 *案内ガイドによる展示解説もあります 駿河台キャンパス アクセスマップ 会場:生田キャンパス登戸資料館 開催期間: ① 8月7日(水)~ 8月24日(土) ② 9月4日(水)~10月26日(土) 10:00~16:00(日、月、火曜は休館) ★臨時休館あり大学のHPか資料館に御確認のうえご来館下さい。 神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1 TEL: 044-934-7993 生田キャンパス アクセスマップ 生田キャンパス キャンパスマップ 731部隊展開催20周年記念シンポジウム 日時9月1日(日) 13:00~16:30 会場リバティタワー1階1011教室 -シンポジウム・プログラム- ① 張可偉氏(被害者遺族) ② 李宏華氏・易友喜氏(被害者遺族) ③ 吉中丈志氏(「戦争と医の倫理」の検証を進める会) ④ 山田朗氏(明治大学教授) ⑤ 伊勢弘志氏(明治大学講師) 奈須重雄氏(細菌戦資料センター) ・資料代1,000円(駿河台キャンパスのパネル展示にお越しの方は無料です!) * 学生半額・高校生以下無料 「731部隊2013」実行委員会 代表 山田朗(明治大学平和教育登戸研究所館長、歴史教育者協議会代表 近藤昭二(ディレクター・NPO法人731部隊・細菌戦資料センター代表) 南典男(弁護士・731部隊犠牲者遺族を支える会代表) 連絡先:ピープルズ法律事務所 東京都新宿区新宿1-6-5シガラキビル9階(TEL:03-3354-2555) ◆◇◆◇◆賛同金募集!◇◆◇◆ 「731部隊展 2013」開催へ、ご理解・ご協力を アウシュビッツの人体実験・戦争犯罪は、ヨーロッパで「負の遺産」として継承されている一方で、同じように人体実験を繰り返していた「731部隊」はどのくらい顧みられてきたのでしょうか。 戦争の実態を風化させることなく、平和構築の礎を継承できるように史実を伝えるため、とりわけ、戦争の裏側として解明され難かった≪秘密戦≫にスポットを当てて、戦争の裏側から実態を伝えるのが「731部隊展」です。 1993年に行われた731部隊展は、多くの市民の手によって全国61カ所で開催されました。23万人の見学者を集め、「日本ジャーナリスト会議(JCJ)特別賞」を受賞しています。 しかし、20年経った今、その遺産が十分に継承されているといえるでしょうか。その後も続いている731部隊展もほとんど話題に上がることなく、圧倒的多数の人々は、20年前の731部隊展のことも、現在の中国東北部が「満州国」と称して日本の支配下にあったことも、そこに731部隊があったことも知りません。 そこで、私たちは、731部隊展開催20周年の記念とともに、教科書だけでは十分に知り得ない731部隊の歴史を改めて示し、医療・医学や訴訟問題との関わりなど、現在に引き継がれている問題を提起します。 これから日本に生まれてくる未来の子どもたちは、加害国の国民として歴史問題を突き付けられ、その責任を問われかねません。日本とアジア諸国の友好と未来にとって、歴史問題がその障壁になっているのです。事実の隠蔽・否定によって歴史問題の風化を許すことは、未来に対する責任を放棄することではないでしょうか。 今回は、パネルとしてABC企画所有のものをベースに、20年の研究・運動の成果を加えた約40枚のパネルを新たに再構成、4台の模型、石井式濾水器の濾水管などの現物展示などを加えて、「731部隊展2013」実行委員会の全国巡回展を企画しています。新規パネルの作成・イベントの開催などに多額の費用が必要です。みなさんの資金協力なしには、この企画の成功もありません。 賛同金は、以下の通り。以下の郵便振込み口座へお振込みください。 (その際、氏名公表不可の方はその旨振込用紙にご記入ください) 個人 一口 1000円(大口歓迎) 団体 一口 5000円 郵便振替 00140-0-549115 731部隊展2013実行委員会 新たな世代への「記憶の継承」と、「記録への取り組み」の実現のために、皆様のご協力が必要です。ご趣旨をご理解いただき、ぜひとも「731部隊展2013」開催の賛同者になっていただきたく、ご支援よろしくお願い申し上げます。 「731部隊展2013」実行委員会 代表 山田朗(明治大学平和教育登戸研究所館長、歴史教育者協議会代表) 近藤昭二(ディレクター・NPO法人731部隊・細菌戦資料センター代表) 南典男(弁護士・731部隊犠牲者遺族を支える会代表) 連絡先 ピープルズ法律事務所 東京都新宿区新宿1-6-5シガラキビル9階 私たちも、731部隊展の開催を応援します! 呼びかけ人一同 浅井基文、荒井信一、有馬底、池辺晋一郎、石田勇治、井上久士、小山内美江子、笠原十九司、越田稜、ジェームス三木、俵義文、西里扶甬子、羽田澄子、本多勝一、松尾章一、森南海子、森村誠一 ご案内以上 核大惨事から子どもたちを守れるか 共同代表・岐阜環境医学研究所 松井英介! NPO法人 731資料センタ-会報7号より ●「福島」をとりまく産業界と医学界 ジャック・ロジゃール氏がベラルーシでつぶした運動の1つが「保養」です。ドイツの反核の医師たちが懸命に、子ども達を汚染の少ない所に招いて半年、1年生活し学校にも行く運動を展開しましたが「そんなことをしなくてもベラルーシに住み続けて大丈夫です」と、潰してしまいました。 福島県立医科大学に副学長として就任した山下俊一氏について注視すべき点があります。 アメリカが組織した「原爆傷害調査委員会(ABCC)」の後を引き継いだ放射線影響研究所の重松逸造放射線影響研究所3代目所長は、IAEA事故調査委員長としてチェルノブイリ事故の安全宣言を行いました。4代目理事長の長瀧重信は福島原発事故の安全宣言をしました。これら2人の医学者の愛弟子的存在であるのが「山下俊一」です。彼は長崎大学から放射線の専門家として要請され福島にやってきたのです。彼が福祉まで展開している「年間100ミリシーベルト大丈夫」論を科学的に批判しなければなりません。 本来は子どもの健康・いのちを守るはずの国連機関WHOが、1959年の協定で完全にIAEAに手足を縛られてしまっている。WHOは原発推進のIAEA(国際原子力機関)から独立して本来のいのちと健康を守る活動に戻れるように運動している医師たちがいます。私たちは彼らと協力・協働する必要があります。 「脱ひばく移住法」制定の提言(1) 松井英介 |
731部隊からフクシマまで、日本医学界は何の反省も無く医療が続けられている!!
日中戦争の最中、国家総動員法が施行され、医学界から多くの優秀な人材が731部隊にも行った。そこで人体実験を繰り返しながら、細菌兵器の開発を進め、中国各地で細菌戦を行い、多くの中国人や日本人にも被害を出した!!敗戦直前に、天皇の責任が問われないよう証拠湮滅のため部隊は破壊され、部隊員はいち早く日本へ帰国した。上級幹部は、アメリカに研究データを引き渡し、戦犯免責を受け、アメリカの細菌兵器開発に協力し、東京裁判にはかけられなかった。 1945年8月6日や9日の原爆投下後の被爆調査には、医学者が動員され、天皇制護持するためのカードとして、アメリカの喜ぶような原爆の威力を示す被害調査が行われ、患者の治療はほとんどされなかった。8月のうだるような暑さの中での原爆投下の惨状は、本当に生き地獄であった!! 医学者たちは、被害調査に没頭し、ほとんど被爆者の医療がなされていないとは驚きだ!! その中で、治療とは関係ない人体実験が行われ、もしかしたら生体解剖もされていたのではないかと疑ってしまう!! また、731部隊上級研究員たちは、医学界で出世し、重要なポストに坐ったため、731部隊の非人道的な行為は反省も謝罪もされなかった。 戦後も、人体実験が行われ、それが世間に知られるようになると、社会問題になることもあった。 1954年の水爆実験では、元731部隊員の宮川正が被曝した漁船800隻のうちの1隻「第5福竜丸」だけを問題視し、放射能の影響を過小評価した。 また、水俣病では、田宮委員会が、水俣病をもみ消し走った。 「薬害エイズ事件」では、元731部隊員内藤良一の設立したミドリ十字が問題となった。 今回の福島第一原発の事故も、健康被害の調査は表面上は行われているが、治療は行われていないのではないか? 長崎大学の山下俊一を福島県立医大の副学長として派遣し、とんでも発言を繰り返し、問題を起こしている。 山下俊一トンデモ発言 731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書 封印された原爆報告書 資料を早く公開してほしい!! 日本の医学界は戦後731部隊での残虐な行為を反省することもなく、謝罪もしていていない!! これでいいのだろうか? 731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち 福見秀雄・青木義勇と長瀧重信・山下俊一 パネル集「731部隊展」 1993年7月~1994年12月(731部隊展より) 日本人中国抑留の記録7(アヘン・731・無人地区) 発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会 発売三恵社より 731部隊の人体実験・細菌戦の実態がわかる動画3本 知ってるつもり 731部隊 闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月 黒い太陽731部隊 これまで、「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府の根拠が、崩れた!! 発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会 発売三恵社より アメリカ(占領軍)は帝銀事件の捜査に圧力をかけた! やはり、犯人は特務機関(731部隊員か陸軍中野学校等)の人間か? 日本政府は、何時まで731部隊の資料を隠蔽するのだ!! 帝銀事件とは? 731細菌部隊と帝銀事件との真相1 "戦後最大のミステリー"「帝銀事件」(1) (参考)高杉晋吾が語る「戦争・原発!!」 20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発 若松孝二監督を偲ぶ!! 若松監督、次作構想に「731部隊」あった…三女が明かす 「あさま山荘事件」実行犯を捜して(1) 若松孝二監督「17歳の光と影」(1) (番外) よど号ハイジャック事件(49年目のスクープ) |
IMAGINE 9
04 想像してごらん、 武器を使わせない世界を。 Imagine, A world that doesn't let weapons be used. 文 星川淳、河崎哲 合同出版より ●ドイツと日本の違い ドイツの医学会の謝罪や脱原発はドイツ国民が「生命への畏敬の念」に目覚めたからか? 『人間の価値』 ―1918年から1945年までのドイツ医学 Ch.ブロス/G.アリ編 林 功三訳 1938年11月9日*を思う *「水晶の夜」 *「水晶の夜」 ベルリン医師会の声明 ベルリン医師会はいま、ナチズムの中で医師層がはたした役割と、忘れることができない犠牲者の苦しみを思い起こす。医師組織を結成する我々は、我々地震の過去とナチズムに関与した医師の責任を問題にしないわけにはいかない。 ナチス政権掌握の何年も前から、医師たちも人間の社会的差別と少数者の迫害を奨励する思考をはっきりもっていた。遺伝優生学や人種的遺伝体質、遺伝的に劣る人間、人生の余計者、生きる価値のない人生、といった思考であり、ナチス保健政策の基礎を築いた思考である。これが社会的に自明のものとされ、差別を正当化したのである。それが人間の絶滅を可能にしたのである。 ユダヤ人の医者は「アーリア人」の治療をすることが許されなくなり、1938年、法律によって、彼らの新規採用と開業が禁止され、また彼らの既得の営業許可が消滅されられた。ユダヤ人および異なる思想を持つ人々が排除されたことに対して、同僚の医師サークルやその団体からはほとんど抗議の声が挙がらなかった。 医師たちは「遺伝病の子どもの出生を予防する」法律を準備するのに関与し、無数の病気の人々、身体障害者に対する不妊。断種手術をおこなった。 医師たちは選別と殺戮の官僚機構に協力した。専門家として彼らは選別の鑑定を行い、国家医療行政機構に協力して、強制収容所へ患者を移送させた。 医師たちは「安楽死病院」で働いた。彼らによる「認定」がヨーロッパのユダヤ人の工場的規模の殺戮の基礎になった。 医師たちは強制収容所、研究所、大学病院で残酷な人体実験を行った。 ごくわずかの医師たちが彼らのキリスト教的、社会主義的、共産主義的世界観にしたがって抵抗したにすぎない。 ベルリン医師会はその過去の重荷を負う。我々は悲しみと恥を感じている。(以上) ■有能な社会的メンバー ドイツの医学統計局は1963年になって初めてマインツにつくられたものではなく、1941年2月にベルリンにつくられたものである。当時、全国保健指導者のレオナルド・コンティが「大学付属病理統計研究所」をつくった。これは彼に直属して仕事をする研究所で、その所長は、私講師のジークフリート。コラーであった。コラーは、以前ギーセン大学遺伝・人種研究所の統計部長として働き、ヘッセンのナチス党の人種政策局にも協力していた人物であり、1930年以降、遺伝病理学統計の仕事で名を成していた。 1943年、彼は履歴書にこう書いている。「これまでの主な業績分野は、統計方法論、個別的病気統計、遺伝病理統計、反社会的患者統計、医学統計の組織化であり、社会医学、民族衛生学、衛生学ならびに民族保健衛生を密接に関連づけたことである。」ベルリン大学人種衛生学の教授であるフリッツ・レンツはコラーを「病理統計学の分野における第1人者」と呼んでいる。 1941年、コラーは彼の先生であるハインリッヒ・ヴィルヘルム・クランツとの共著で、『共同生活不能者』という著書を発表した。 この本では、アーリア人種の中で「絶滅されるべき」「共同生活不能者」の数は100万人とされており、その「特別処置」が勧められている。 ドイツ精神医学会の謝罪 ドイツ精神医学会は公式に謝罪しました。では、日本の精神医学会は ●南京大虐殺 「この事実を・・・・」 (「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開?/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税) ※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。 南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。 今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!! ヴォートリン 日記の抄訳(1937年12月12日~1938年5月13日) 1937年12月13日、月曜日 今夜南京には電気がなく、水がなく、電話がなく、電報がなく、新聞がなく、ラジオがない。たしかにわたしたちあらゆる人々から、何ものも冒しえないものによって、隔離されている。あした合衆国の“パナイ”号から、呉博士とニューヨークとに無線電報を打ってみる。これまで金陵女子文理学院は、人も建築物も何事も無く来た―けれど、これからは分からない。わたしたちみんな恐ろしく疲れている。どんな場合にもわたしたち、倦怠感―全身に染み渡った疲労感―からの深いため息が出てしまう。(武器を捨てた兵士たちがたくさん、今夜は安全区の中にいる。市内で誰かがわなにかかったかどうかは、聞いていない。) ジョン・ラーベを記念するラーベ平和賞授賞式、オーストリアで開催 日本南京大\x{6ce0}血又殘忍殺死無辜的中國人的遭遇 档案:\x{8fd8}原1937南京浩劫---南京大屠\x{6740}(上) 中国各紙、好意的に報道 鳩山氏の南京大虐殺記念館訪問 「河村市長を訴える」再度の南京大虐殺否定発言で生存者が怒り=中国 毎日中国経済 2013年04月04日19時52分 名古屋市の河村たかし市長が再度、南京大虐殺を否定する発言をしたとの報道を受け、中国の墓参りの日である清明節の4日、南京大虐殺の生存者で84歳になる夏淑琴さんは「大虐殺を否定するというのであれば、河村を訴える」と怒りをあらわにした。中国新聞網が伝えた。 夏さんはこの日、南京大虐殺記念館を訪れ、犠牲者追悼の碑に花をたむけた。夏さんは毎年清明節にここを訪れているという。 日本の政治家がまた南京大虐殺を否定していることを知った夏さんは同記念館の朱成山館長に対して、「河村を訴える」と激しく怒りながら語った。 共同通信によれば、河村市長は1日、名古屋市長選の公開討論会の席で昨年の南京大虐殺否定発言について質問を受け、改めて「撤回する考えはない」と発言した。夏さんは「私は認めない。河村を訴える。あれだけ多くの人が死んだ事実がありながら、なぜ否定するのか」と、激しい反感を隠さなかった。 夏さんは南京大虐殺をめぐって何度も日本で証言し、2008年の裁判では日本の歴史研究者の著書をめぐって勝訴した。 日本銘心会南京友好訪中団の松岡環団長は4日、現地で行われた「清明祭」に出席。松岡氏は「河村市長は歴史的研究から南京大虐殺を否定する結果を導き出したわけではない。右派の政治家としてこうした観点が必要で、それを維持している。政治的利益のためで、これも政治の右傾化の危険な点だ」と指摘した。 (編集翻訳 恩田有紀) 脱原発 ◆【小出裕章ジャーナル~第31回】日米原子力協定の真相 孫崎享講演会 『戦後史の正体を暴く』~日米同盟と原発 荻上チキSession22 「崎山敏也記者の原発ニューススペシャル 130809 報道するラジオ「平和を考える~沖縄」 ビデオニュース 2013 08 10【 TPPについて今、真剣に考えておかなければならないこと 核兵器と原発と従属国 タイマーズ サマータイムブルース 直ちに健康に影響は 続きは「ノブのノート」で |