●「731部隊と100部隊」の現在の課題(八王子)
●第10回『化学学校記事』情報公開裁判 ●帝銀事件と登戸研究所 ●第19回「衛生学校記事」情報公開裁判 ●シンガポールで、731部隊は何をやっていたのか? ●731部隊『留守名簿』(不二出版)2018年9月 ●京大 軍医博士論文の検証 ●731部隊『留守名簿』公開 ●ある元自衛官の回想 「化学学校の黒い霧」 ●第10回ビザ発給拒否・集会妨害国賠訴訟【9月21日(金)11:30~東京地裁415号室】 ●731部隊と「要塞」遺跡を訪ねる 元731部隊軍医と強制不妊手術 「明治150年」史観批判ー近現代日本の戦争・植民地支配と国民統制ー山田朗、他 中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30 ●お知らせ 京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局) 731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に 「特殊部隊731」 秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行) 職種不明の軍属 「もっとも、お金があったって、何も買えぁしない時代なんだけど」 近所の人たちと、こんな会話をしている母は、大金のゆえに気味悪そうな様子なのであった。もしかしたら、そのお金がそのまま弔慰金になるのではないか、と思い巡らしたのかもしれない。事実、支度と言っても、あらためて金を使うようなことは何もなかった。衣料品や皮革類はもとより、甘味品なども手に入らないのである。 ハガキで、出発の日取りが知らされたのは、4日後であった。 すると、ふだんはあまり子供たちにかまわない父が、 「俺が送ってゆこう」 と言い出した。 私は蚊帳(かや)のような綾目の荒い草色の学生服に、竹のボタンのついた外套を着、兄貴からおさがりの編上靴をはいて、家の前に立ったまま、いつまでも見送っている母をあとに、父に付き添われて、指定された町の旅館に着いた。 そこに集まったのは、私を加えて4人。同県の来住野(くすの)と2人の隣県人だった。 家族に付き添われてきたのは、私のほか、見るからにおとなしそうな来住野だけだった。同じように子供を手放す親の共通な気持ちから、父はすぐに、来住野の母と近づきになった。 「この子は、うちを離れたことが無いので、それが心配でございましてねえ。・・・・ほんとに皆さん、お願いいたします」 と、来住野の母は、素朴な人柄をそのままに、私達にまで頭を下げた。 「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」 日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!! ●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より 第2章 地図から消えた神秘の大久野島 付記・「毒ガス島」を訪れる この部分を書こうと思った時、私は今の大久野島はどうなっているのか知りたいと思った。つまり、世界で1つしかない「毒ガス資料館」を是非参観したい、そして村上館長にも、岡田女史にも、そして昔ここで仕事をしていた作業員の人々にもお会いしたいと思ったのだ。1994年12月、ちょうどここで日本軍が第2次世界大戦中に使用した化学兵器の討論会が開かれたので、この機会に私の願いは実現した。以下はその時の訪問記録である。 ●特集 軍拡に走る安倍政権と学術① 15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために 1、戦争における医学者・医師たちの犯罪 西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表 4、ドイツではどのように向き合ったのか ■ドイツのとりくみと困難 ―それにしてもドイツの方が日本より進んでいると思われるのですが、日本との関係で見ておかなければならないことはあるのでしょうか― 2012年5月にはニュルンべルク医師裁判が行われた地において開催されたドイツ医師会年次大会が、全会一致でナチ時代の医学犯罪について重大な共同責任を認め、ドイツ医師会の中に歴史研究を行う委員会を設けるという声明が出されました。 自らの過ちに関するDGPPNのドイツ内外での移動展示は、紆余曲折がありましたが、2015年に日本でも開催され、その間に2010年当時のDGPPN会長の講演も行われました。 ●『人間の価値』 ―1918年から1945年までのドイツ医学 Ch.ブロス/G.アリ編 林 功三訳 ■ある大学講師のおこなった人体実験 「秘密」というスタンプの押された『ソビエトの捕虜に行われた臨床調査についての暫定報告書』と、これに先行する、同じように秘密の『暫定的報告』に、ベルニングの実験の指示内容が示されている。彼の結果報告によれば、飢餓水腫が発生するようにするため、かなり長期にわたって、与えられるタンパク質は日に30グラムを下回るようにされなければならない、とされていた。ベルニングは本物の飢餓水腫が始まるのを観察し、飢えた人間が長い段階を経て体重が減少していき、すぐに疲れやすくなり、性欲がなくなり、頭痛を覚え、めまいがするようになるさまをメモしている。彼は、捕虜の下腹部が膨張するのを観察している。寒さが、また労働が水腫を強めた。彼にとってとりわけ貴重な研究は、実験の結果死亡した患者であった。 「検死に見られる胃・腸=管の変化は特に興味深いものである。」 ●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 ●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く 水俣病問題 ●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去 ●小泉親彦と宮川米次の絆 ●ヒロシマからフクシマへ ●宮川正 ●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ— ●ビキニ「死の灰」世界各地へ ●自衛隊とサリン ●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場 ●日本の国家機密 ●兒嶋俊郎さんを偲ぶ ●ニュース メイ英首相、EU離脱協定案の採決延期を発表 順天堂大学医学部 不適切入試「10年前から」(18/12/11) ファーウェイ逮捕と「天才科学者」自殺 中国ネット、陰謀論で大揺れ 「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ 松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示 “旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27) 真相を解明していないからこうなるのだろう!! オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活 ●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!! ●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 第3部 陛下の戦争 1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年 第7章 満州事変 奈良の激励の言葉に鼓舞されて、二宮は直ちに錦州爆撃の必要性について概略を述べた資料の作成を命じた。参謀本部作戦課も、その直後、天皇が爆撃を「当時の情況上当然のことならん」としたことに明らかに注目していた。10月9日の奈良の日記を額面どおりに受け止めれば、天皇は一晩で考えを変えたことになる。なぜなら当初、天皇は奈良に対して、本庄司令官が張学良の支配を公然と非難することには反対であると述べていた。そして10月8日には、奈良に「出先軍部と外務官吏との間の意見の相違は、陸軍は満蒙を独せしめ其政権と交渉せんとするに反し、外務側は其独立政権を好まざる点にありと読む、此点陸軍の意見適当ならざる様思はる、其積りにて陸軍中央部に注意する様に」と話していた。 国民政府の訴えを受けてジュネーブに国際連盟理事会の特別委員会が招集された。会議での意見は、たちまち日本に厳しいものとなった。10月27日、奈良日記は天皇が心中穏やかでないことを記している。 ●小泉親彦と昭和天皇 ●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~ ●近代天皇制の真髄は ●福沢諭吉 ●神武と戦争 ●日本国憲法第9条 1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 憲法9条を生かそう!! |