細菌戦の系譜!!

2019-01-14 10:14:05 | Weblog
細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
戦争の加害パネル展(横浜)
防衛費の異常な増加に抗議!!
第20回『衛生学校記事』情報公開裁判
第11回『化学学校記事』情報公開裁判
731部隊の証言(第26回)(ビデオ学習会)
731部隊『留守名簿』(不二出版)2018年9月
京大 軍医博士論文の検証
731部隊『留守名簿』公開
ある元自衛官の回想 「化学学校の黒い霧」
第10回ビザ発給拒否・集会妨害国賠訴訟【9月21日(金)11:30~東京地裁415号室】
731部隊と「要塞」遺跡を訪ねる

日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

●ニュース
辺野古移設、示せぬ民意3割 4市が拒否 沖縄県民投票、告示まで1カ月

加計問題で安倍首相を守った柳瀬氏 東芝関連会社に天下り

イラク日報が体育会系ノリで書かれたワケ

五輪招致疑惑 ゴーン事件3カ月前から竹田氏聴取調整

JOC竹田会長「訴追」が招く東京五輪の危機

こんなものは不必要!!
政府、「電子攻撃機」開発へ…レーダーを無力化

毎月勤労統計 不適切調査、12日も電話相談相次ぐ


世襲制反対!!
京都市民が「長男の京大進学」を喜ばない事情


「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ

松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示

“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)


真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活


731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他


国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題


中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30

●お知らせ




京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)

731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に



「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

郷愁に泣く

深夜作業が続くようになると、隊員たちの顔がだんだんとげとげしくなり、勤務のつらさに、やり場のない悲しみがつのるのだった。私も寝不足のため、目が力なくちらちらし、後頭部がいつも重くてならなかった。
しかし、培養作業中は一瞬たりとも、気を許してはいられないのである。うっかりして試験管を取り落としたり、移植するときにもし手もとが狂ったりしては大変な事になる。知らぬ間に菌を指先や肌につけ、指をなめるとか、その部分を無意識に引っ掻きでもしようものなら、たちまち感染して、命取りになるのは必定なのだ。そして細菌は附着しても肉眼では見えないから、後からでは気のつきようがない。したがって、いつも神経を張り詰めて、いなければならないわけだ。少しでも不安が残るような時は、入浴や消毒を念入りにし、万全を期すのであるが、しまいには、すっかり神経が疲れてしまって、いつも菌が附着しているような心もとない気分になるのだった。そうなると、自分の身体がいつも石灰酸のにおいがしていないと安心できない。 


・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り




京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・


「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」



日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第3章 毒ガスと毒ガス兵器の大規模生産

秘密にされた毒ガス製造

アメリカ軍隊の資料の中に、日本の軍隊が毒ガス兵器を関東軍に配備した部分の記載があり、この記載から、関東軍に配備した毒ガス兵器の数量はとても多いことが分かる(表12参照)。関東軍は中国の東北地区で毒ガス兵器の試験は行ったが、戦争中にはあまり使用しなかったから、大量の毒ガス兵器が東北に遺棄された。





●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①

15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪

西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表

2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか

1938年の日本の全医師数は6万3000人弱でしたが、軍医の損耗度が高いとして、1942年度までの軍医需要を3万人とし、さらに1943年度以降の大需要を5万人との見積もりで、1939年度から大学医学部・医科大学における3年の修業年限の臨時付属医学専門部の強行設立が始まりました。敗戦時までに新設医専は帝大、官立、公立、私立あわせて51校に達しました。そのうち「外地」は7校でした。


昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)



●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳


略年表
1938年9月30日
すべてのユダヤ人の医師はそのライセンスを失う。
1938年11月9日
「水晶の夜」パリでナチスの外交官が襲われたことを口実に、この日ナチスは一斉にドイツのユダヤ人に対するポグロムをおこなった。7500の商店が破壊され、171のユダヤ教教会が放火され、91人のユダヤ人が殺され、2600人が強制収容所へ送られた。残るユダヤ人には10億ライヒスマルクの懲罰金が科せられた。またユダヤ人に対するありとあらゆる差別と迫害がおこなわれるようになった。
1939年8月18日
内務省令により、すべての医師と産婆は障害者、障害新生児を届け出ることを義務づけられた。身体障害児「安楽死」計画の始まり。
1939年9月1日
ドイツ軍ポーランドへ侵入(第2次世界大戦の始まり)。「安楽死」のためのヒトラーへの権能付与。「安楽死」はこの日に始まっている。
1939年10月
全国の精神病院へアンケートのカードが配布される。このカードによってどの患者に「安楽死」が与えられるが決められた。
1940年1月
いくつかの病院で精神病患者が毒ガスで殺害された。かなりの数の患者が占領下のポーランドへ移送された。41年8月には約7万人の人々が殺戮されている。






イタイイタイ病を究明した男 萩野昇

●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く

水俣病問題

小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去

小泉親彦と宮川米次の絆

ヒロシマからフクシマへ

宮川正

「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—

ビキニ「死の灰」世界各地へ

自衛隊とサリン

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場

日本の国家機密

兒嶋俊郎さんを偲ぶ



●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!


●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年

第7章 満州事変



このころ、関東軍は熱河省攻撃の結果、北京―天津間の地域への軍事行動を展開する兆候を示していたが、これほど、昭和天皇にとって心配なことはなかった。攻勢に先だって、東京の陸軍上層部は多くの関東軍幹部将校を更迭し、満州の官僚機構を統合することで統制を回復しようと努めた。武藤信義(のぶよし)大将が関東軍司令官、駐満州国特命全権大使、関東長官の三官に任命された。これらの職分は公的には3つの機関に分かれていたものだった。同時に関東軍が増強された。
1932年11月、天皇は関東軍が熱河省(阿片という重要な財源があった)を満州国の一部と見なし、春には侵攻を開始する計画であることを知った。しかし、12月23日には関東軍の先遣隊はすでに、万里の長城の東端にある山海関に達していたが、そこは熱河省への入り口だった。そこで張学良の軍隊との間に小規模な衝突があった。1週間後の1933年1月1日、より大規模な衝突が起き、日本は町全体を占領した。天皇は、この侵攻が国際連盟との関係を複雑にしかねないと懸念し、(奈良を通じて)事変の拡大を認めないよう陸軍に警告しようとした。1週間後、天皇はこの問題に対処させようと牧野に御前会議の召集を提案した。しかし、側近の意見は分かれ、結局、御前会議は召集されなかったのである。 


小泉親彦と昭和天皇

近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~

近代天皇制の真髄は

福沢諭吉

神武と戦争




憲法9条を生かそう!!
 
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