●第20回『衛生学校記事』情報公開裁判
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか? ●戦争の加害パネル展(横浜) ●防衛費の異常な増加に抗議!! ●第20回『衛生学校記事』情報公開裁判 ●第11a回『化学学校記事』情報公開裁判 ●731部隊の証言(第26回)(ビデオ学習会) ●731部隊『留守名簿』(不二出版)2018年9月 ●京大 軍医博士論文の検証 ●731部隊『留守名簿』公開 ●ある元自衛官の回想 「化学学校の黒い霧」 ●第10回ビザ発給拒否・集会妨害国賠訴訟【9月21日(金)11:30~東京地裁415号室】 ●731部隊と「要塞」遺跡を訪ねる 日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!! 平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相 ●日本国憲法第9条 1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 ●ニュース 各地の県立高校などで相次ぐ「人骨」問題 6県16校、記録少なく 1/17/19 伊藤惇夫 玉城デニー県知事・金秀グループの呉屋守将会長・屋良朝博さんが鳩山友紀夫と議論 自民、日韓防衛協力の見直し論も レーダー照射問題 東京医大は赤字転落…助成金回復、早くて5年後 【大竹まこと×森永卓郎×倉田真由美】 日立のイギリス原発輸出撤退の裏側! 日本に生まれる新ビジネスチャンス 竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか 海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見 【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任 森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」 「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ 松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示 “旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27) 真相を解明していないからこうなるのだろう!! オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活 731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他 国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題 中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30 ●お知らせ 京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局) 731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に 「特殊部隊731」 秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行) 731の編成と生い立ち そう言って佐川技手は、ドイツの細菌研究所が、無傷のままソ連に占領されたため、ドイツと資料交換をしていた我が部隊の研究進度がわかり、ソ連はますます躍起となって強引な探索の手をのべているいることがわかったからだと説明した。 「ドイツのほか、アメリカもソ連も細菌戦の研究をやっているが、実際に使用しうる細菌爆弾を完成しているのは我が国だけだ。したがって諸君も、最後の勝利の鍵を握っている部隊の一員として、大いに自覚と誇りを持って軍機を守ってもらいたい。・・・・・今日は、ついでだから、我が部隊の沿革秘話というのを話して聞かせる」 私達新人3人と、私達よりわずかに半年ぐらい早い傭人が2人、佐川技手を囲んで腰を下ろした。 話は、こうである。 ―昭和14年のノモンハン事件の頃までは、関東軍防疫給水部といって、現第1部長菊地中将が長であった。 関東軍治安下の満州各地において兵士たちを悩ました伝染性の地方病と飲料水対策が当初の主な任務であった。普通、黒河熱、孫呉(ソンゴ)熱などと呼ばれている原因不明の発熱は、地方によって症状が異なる上に、ヴィールスの正体を究明しえぬうち、いつの間にか自然に治癒してゆくので、便宜上その地名をふしたのである。 ・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容 (731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より) 1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り 京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。 審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。 これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。 ・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った ・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった ・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した ・死亡後の学位授与認可 ・・・・・ 「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」 日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!! ●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より 第3章 毒ガスと毒ガス兵器の大規模生産 曽根の印象 だが、現在この訓練場はほとんど使われていない。いつもは彼1人が当直として勤務しているだけで、訓練のある時は小倉の隊本部から人が来るそうだ。彼は当直室の黒板に書いてある訓練の日程表を指しながら説明したが、実際、訓練は何回もなかった。私たちが意外に思ったのはこの部屋の造りや設備の古臭さ、まるで何十年か前のままのようであったことだ。塗料のはげかかった3つ引き出しのある机が1つあるだけで、机には鍵がついており、机の上にはこれも古くて黒い電話が置いてある。壁に貼ってある地図は墨と絵の具で簡単に描かれている。目の前にあるこれらの様子は、何年か前に訪問した事のある、遅れた農村を思い出させた。当直の人はさらに続ける。ここは確かにいつも使っているわけではないが、やはり自衛隊に所属しているので対外的に開放していないし、特に外国人の参観は許されないと念を押した。 東京第二陸軍造兵廠曽根製造所 平成十二年八月六日、「平和のための戦争展 in 北九州2000」の企画で、旧軍施設の見学会が催されました。見学先は、「東京第二陸軍造兵廠曽根製造所」跡地です。それに参加したときの写真です。 ここは、表向きは普通の爆弾製造工場とされていましたが、実際は、「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所(広島県竹原市大久野島)」製の毒ガスを、「小倉陸軍造兵廠(福岡県北九州市小倉北区)」製の砲弾・爆弾に充填する化学兵器製造所でした。日本の製造した毒ガス弾の2割がここで充填されたと言われています。 うっかり通用口を撮影し忘れました。入ってすぐに自衛官によるチェックがあったので、その周辺の撮影を躊躇ってしまいました。中に入ってすぐに、枯れ池がありましたが、当時のものでしょうか?また、建物があった跡のような場所もあちこちにあります。 ●特集 軍拡に走る安倍政権と学術① 15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために 1、戦争における医学者・医師たちの犯罪 西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表 3、戦後、日本の戦争医学犯罪は裁かれなかったのか ■発足当時の学術会議における戦争医学犯罪の検証 ―世界でも類例のない公選制で選ばれた日本の科学者の議会ともいわれる日本学術会議は1949年の「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)」で「これまでのわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、 科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓う」と述べています。そこでは、戦争医学犯罪についてはどのような反省がなされたのでしょうか。 日本学術会議は日本の科学者の内外に対する代表機関として、新たに7分野に分類された全国の科学者の分野ごとの無記名投票により選出される210 人の会員で構成されることなどが日本学術会議法(1949年7月10日制定)で規定されていました。 昨年着手した創立の頃の日本学術会議に関わる調査では、敗戦後の平和と民主主義を希求する情勢のなかで、日本学術会議でも学術体制の平和的・民主的改革を求める努力がなされたのですが、それに対して731部隊関係者らが異議を強硬に主張していたことが見えてきました。 昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版) ●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか? 井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身 1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。 井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。 東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。 ※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。 1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。 復刊衛生学校記事1(2)(井上義弘) 1961年7月 昭和20年の頃 1、養衆の条件 食糧が戦争の遂行と戦力の維持に大きく影響することは、昔からわかりきっている事であったが、この種栄養失聴患者の発生には、国民の栄養形式も大きな関係あったのであろう。生産も消費も無理な統制を受けた食糧は逐次日本人の生活と遊離していった。 一方南九州の海岸から山の中まで隙間なく配備された兵士の間から発生した赤痢は、瞬く間に九州全土に広がり、四国、東海、関東の部隊でもこれに応ずるようにショウケツをきわめた。暑さに向かい、ハエが飛び回っても殺虫剤の補給は無く、治療薬品も不足して、今までの赤痢よりも死亡が多かった。日本内地の軍隊でこんなに赤痢の流行したのは初めて、連隊長で赤痢によって死亡した者もあった。 ●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 ●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く 水俣病問題 ●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去 ●小泉親彦と宮川米次の絆 ●ヒロシマからフクシマへ ●宮川正 ●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ— ●ビキニ「死の灰」世界各地へ ●自衛隊とサリン ●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場 ●日本の国家機密 ●兒嶋俊郎さんを偲ぶ ●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!! ●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 第3部 陛下の戦争 1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年 第7章 満州事変 Ⅳ とりわけ牧野はそのような懸念に陥りやすく、アジアに対するモンロー主義の唱道に直面すると、英米協調路線に対する支持をたちまち、放棄してしまった。軍部と衝突するよりは、むしろ、ベルサイユ=ワシントン条約体制に長いこと寄せてきたみずからの信頼を捨てたのである。牧野はみずからが設立に助力した連盟を脱退するという昭和天皇の決定を支持したのだった。ある意味で、天皇と牧野は政治の頂点にあって変節の10年における最初の転向者となったのであった。 天皇や側近が、陸軍の大陸政策に代案を示すことで連盟脱退を回避しようとしたことを示す文書は存在しない。陸軍の勇敢な行為に陶酔した民衆の反応に影響され、あるいは天皇は賭けに出ることを決意したのかもしれない。外交的孤立を招くことはほとんど、あるいはまったく問題とされることなく、彼は内閣の決定を承認した。手に負えなくなった陸軍と良い関係を維持することは、当時の天皇にとって国際親善よりも重要だった。彼には、国際的な孤立が内閣と軍部との間の内部的、構造的な亀裂を修復する手段にはならないことがわかっていなかった。天皇が大元帥の大権を行使すればするほど、その亀裂は広がるかりだったのである。 ●小泉親彦と昭和天皇 ●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~ ●近代天皇制の真髄は ●福沢諭吉 ●神武と戦争 憲法9条を生かそう!! |