I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!
Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!
11月16日(火)
(加藤哲郎講演)
・ワクチン村、アベノマスクとの関わり、永寿総合、731部隊脱出の3ルート、獣医の関わりなど、特に興味深く思いました。ありがとうございます。
(50代、市内)
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第6回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第7回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第8回
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
実験医学雑報19巻 第5号(1935年)
発令月日 辞令 官職 氏名
4.1 毒素精製作業物品取扱主任を命ず 技手 進藤宙二
〃 毒素精製作業物品取扱主任を免ず 同 川島四郎
〃 ワクチン製造及び包装部物品取扱主任を
免じワクチン包装部物品取扱主任を命ず 嘱託 土屋信次朗
〃 ワクチン製造部物品取扱主任を命ず 同 高橋市五郎
〃 研究生満期退学 永田敏一
4.8 化学部主任を命ず 所員 宮川米次
4.10 医局長を命ず 技手 岡西順二郎
〃 医局長を免す 技手 三上富太
4.11 栃木県下へ出張を命ず(1日間) 技師 城井直義
4.16 医学博士の学位を授与せらる 嘱託 横井鎌次郎
4.19 昭和10年4月18日付願研究生入学の件許可す(5細菌) 鈴木興四郎
4.23 東京府下へ出張を命ず(1日間) 嘱託 八田貞義
4.24 昭和10年4月24日付願研究生退学の件許可す 小島國康
4.26 神奈川県下へ出張を命ず(1日間) 技手 柳澤謙
〃 〃 同 岡本啓
〃 依願免本官 同 三上富太
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
浜松一中の慰霊碑
大牟田の慰霊碑(裏)
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第6被告による細菌戦の隠蔽及び細菌戦被害賠償立法の不作為
3 連合国の占領下(第2期)における被告の隠蔽工作
(3)日本側隠蔽工作の組織的構造
オ 連絡係新妻清一の隠蔽工作について
もう一人旧軍部で隠蔽工作に働いたのが、陸軍省軍事課で科学技術担当だった新妻清一である。
新妻は、科学技術担当として細菌戦関係者や亀井とも接点を持っていたが、専門はロケット及び核兵器開発であった。新妻は、核兵器開発については当初から米軍に全面的に協力していたが、他方、細菌戦については、米軍からの尋問請求者に対して口裏合わせの為の連絡を取り、前記の日本側対応方針のもとに一致させる役割を果たした(甲43、139)
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
一月十一日
晴 風なし 割合に暖かし 衛兵零下十八度 兄より便りあり大浜の人死 西山の人病気 母健康
午後十二時起床 構内巡察に行く 中隊の不寝番トントンだ
朝七時半起床今日は衛兵だ また電話で悪戯でもしよう 三寒四温は実際らしい 非常にといふ程でもないが暖かい 観察巡察に津田特が来る 大した事はなし 中隊の山本より電話あり 寝ていた為に知らない 何分勤務は楽ではないが気は楽だ
夜は何もない時など 七時頃から朝八時近ぐまで白河夜舟だもの。笑の本を見てひとり嬉しく楽しい暮らしせり 明日は雑役だ 上手な法螺でもふいてやろうかな 今日は面白い占いを知った 恋人と云ふわけではないが知ってる女にやって見たら 大丈夫物に成りそうに出た
悲観せんでも良いらし―い占い方は備忘録にある 時々思い出してはやる為にね。
忘れていた田舎から手紙で僕の母の姉妹である大浜の禰宜田さんが死んだ また同姉妹の西山の人も病気だとか 僕の母も非常に寂しく思っておいでだろうにな でも健康とは何より 母よ健在なれ 僕は後1ケ年はないのだものね
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
一瓶にホルマリン漬けの生首が3個か4個
佐藤治郎(仮名)
防疫研究室
〈略歴〉
1909年生まれ
1926年 大阪で就職
1937年 防疫研究室に軍属として勤務
1939年 南支那派遣軍防疫給水部に転属
■この証言は「人骨焼却公金支出差止請求訴訟」の為に準備した“陳述書”をまとめたもの
広東で同じ水瓶を
その後、昭和14(1939)年の5月頃、私は新宿区の防疫研究室から中国・広東にあった旧陸軍南支那派遣軍防疫給水部(波8604部隊)に転勤になりました。この防疫給水部は、当時広東の東山にあった中山大学医学部(現・中山医科大学)に置かれており、そこで濾水機の使用方法や操作を陸軍将校に教える仕事をしていました。
●毒ガス戦
第8章 戦後史の中の日本軍毒ガス兵器問題
3 証拠隠滅と戦犯免責
毒ガス戦の追及から免責へ
そしてさらに国際検察局は、相模陸軍兵器廠で押収された陸軍習志野学校「支那事変における化学戦例証集」を入手するに至った。イペリットの大規模使用を含む日本軍の毒ガス戦を立証する決定的証拠を検察側が入手したのである。
しかし、毒ガス戦の問題は、法廷での冒頭陳述では触れられなかった。裁判は1946(昭和21)年5月3日に開廷され、48(昭和23)年11月12日に東條英機ら25人の被告に刑が宣告されて終了したが、結局、毒ガス戦についての戦争犯罪は一切問われなかった。アメリカは日本軍の毒ガス戦の問題を免責したのである。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第10章 残酷な人体実験毒ガス実験
松花江にも毒ガス砲弾
李臣、劉振起は10月21日午後2時30分、皮膚科4病室に入り、第3級(症状などによる看護基準)の看護患者となった。入院時のカルテには、「両手が腫れ、背部は暗紅色が著しく、大きな水泡ができ、中に滲出液がたまり、左腕にも同じ症状があり、かゆみと痛みあり」と記載されている。同時に全身の検査を受けた。手から腕が全部腫れあがっていたため衣服を脱ぐことができず、血圧も測れなかった。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
核時代39年(1984年)5月初版発行
『日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第2章 日米共同作戦
2、戦時緊急計画
ブル・ラン作戦計画
①自衛隊の航空勢力および海上勢力は、米軍の(朝鮮・台湾戦線)にたいする補給作戦の支援任務にあたるものとする。
②自衛隊が戦闘状態に入るとき(自衛隊が攻勢に転ずるとき)は、米極東方面軍最高司令部および防衛庁ならびに日米両国政府の協議により、これを決定する。これは可及的すみやかに決定される最高の了解事項と両国は理解し、同時に国連に働きかけ、自衛隊が国連警察軍となる努力を両国大使が行なうものとする。
③戦闘状態突入後は、日米の最高司令部は以後の作戦を合同で協議するが、指揮権については米側に所属するものとし、作戦の統一統制を行なう。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦
4 公害調査に名を借りたBCW作戦
地方自治体も首をかしげる
公害調査を名目として行なわれた瀬戸内海沿岸における訓練は7月22、23日の両日にも行われている。空中に停止したヘリコプターから100mほどの綱でドラム缶状のものを吊るし、“日本気球”と胴体に書かれた黄色い気球が2基あがっている光景を、山陽本線の徳山をすぎ富田駅にさしかかる頃目撃した人は少なくなかったに違いない。
この両日とも午後2時間後に、ヘリコプターに吊り下げたドラム缶状のものから乳白色状の蛍光粒子が30分間ほど噴霧されたはずである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第一章少年と家族と明治の遺産
Ⅱ
制度上は何の変化も起こらなかったが、1912年の父の即位は、このように国政運営の重要な転換点になった。元老とくに山県は、宮廷への関与をさらに強め、新天皇の衝動的で予測不可能な意思を抑制し始めた。法律と同じ力があり、統制しにくい議会や国務大臣に対抗して最近まで寡頭政治家がよく利用してきた勅令は、突然激しい論争の的となり、少なからず権威を失った。新しい憲法解釈、国家を至高の位置に置き、君主も諸機関のひとつとして国家に従属するという、美濃部達吉の「天皇機関説」が登場した。議会政治家の間では、明治天皇の保護で日本を統治してきた「薩長閥」の恣意的支配から憲法を守るため、「護憲運動」が新しく台頭した。〔1900年の衆議院議員選挙法の改正で〕日露戦争後は選挙権保持者が2倍になっていたため、多くの政治家は男子普通選挙法の制定も要求するようになった。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
●核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
年月日 名称(実験名) 核出力 (kt) 実施国 重要性
1945年7月16日 ガジェット(トリニティ実験) 19 アメリカ合衆国 人類史上初の原子爆弾実験
1945年8月6日 リトルボーイ 15 アメリカ合衆国 人類史上最初の実戦使用(広島市への原子爆弾投下)
1945年8月9日 ファットマン 21 アメリカ合衆国 直近の実戦使用(長崎市への原子爆弾投下)
1949年8月29日 RDS-1(ジョー1) 22 ソビエト連邦 ソビエト連邦による初の原子爆弾
1952年10月3日 ハリケーン 25 イギリス イギリスによる初の原子爆弾
1952年11月1日 アイビー マイク 10,400 アメリカ合衆国 人類史上初の多段階熱核反応兵器実験(非実用兵器)
1953年8月12日 RDS-6(ジョー4) 400 ソビエト連邦 ソビエト連邦による初の水爆(非多段階、実用兵器)