核時代39年(1984年)5月初版発行
刺突(しとつ)
農民を初年兵の訓練に
江先 光(えさきひかる)
曹長
〈略歴〉
私は山口県岩国市岩国に生まれた。
小学校8年を卒業すると家業を継いで石工となり、
1939年に第39師団歩兵第233連隊第4中隊に入隊、中国に侵略した。
以後曹長となり庶務係、小隊長を経て、1945年敗戦により、9月2日、東北四平において
捕虜となった。今年40歳です。
「次はこいつだ」西川はそこにうずくまっている40ぐらいの農民の前にかがみこんだ。
「おい・・・お前は年寄りだ、言ったら助けてやる。なあ、いいか、お前には子どもも女房もおるだろう・・・かわいそうと思わんか、エー、どうだ、言えよ、言わんと天井から吊るし上げるぞ」と猫なで声をした。
「お、おらあ百姓だ!何も知らねえだ」スーッと冷たい風が通り過ぎた。「こらッ、言わねえなッ」みるみる形相を変えた西川が、踊るように青竹を振り下ろした。農民は子どもの名を呼び続けた。背中は裂け、紫色に切れた肉からみるみる血が噴き出し、右に左に大地を這うように体をもむ。
「フフフ・・・ざまあみろ」私はせせら笑いながら言った。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究の想定(概要)
第3動 自7月1日 至7月31日 状況
1、世界情勢(略)
2、アジアの情勢(略)
(3)
ハ 平壌、元山を含む北鮮南部地域には、相当大規模の兵力集結が見られ、また北
鮮要地においては新たにSAM(※地対空ミサイル)が相当数配置された。
ニ 米国は以上の事態を極めて重大視し、中共、北鮮に対し南鮮攻撃の即時停止と
中共軍の北鮮撤退を、またソ連に対しては、これらの実現について然るべき協
力と責任を要求し、万一これが実現を見ない場合には、米国として重大な決定
を行わざるを得ない旨通告した。
(4)略
(5)略
(6)略
(7)略
(8)7月19日夕刻、突如中共空軍機を含むと思われる北鮮側の戦爆大編隊が、韓国の主
要空軍基地及び都市を奇襲攻撃し、夜半に入って、北鮮側地上軍は軍事境界線の
全線に渡り攻撃を開始し、東部 国境地区においては韓国反乱軍及び革命分子の策
応もあって、相当の進出をみた模様である。
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。