「原発必要ない」 女川原発再稼働に反対し東北電力本店などで抗議活動
陸自 class="content--title">自民 無所属当選4人に会派入り要請し了承 さらに2人にも要請
国連 style="color: red; ">軍事での圧力高めるな!!
島根原発2号機のテロ対策施設 class="content--title">長崎 被爆者が講演 ノーベル平和賞“平和の種が芽を出した”
ロシア世論調査 class="Typography__h5___3Y-Y6 NewVideoInfoTitle__videoTitle___3kiXi" id="media-title" style="background-color: white; box-sizing: inherit; color: #0d0d0d; letter-spacing: 0.15rem; line-height: 24px; margin: 0px; overflow-wrap: anywhere; padding: 0px; width: 1195px;">ガザで何が起きているのか
13、「複式多元的授業」
中学に入ると。授業は語学(中国語、ロシア語、英語)ばかりで、1日に2~3時間受けた。
数百畳の天理教の大講堂で学年ごとに分散して、午前と午後の複式で行われた。
わずか2か月足らずであったが、その時に受けた内容は、今でも役に立っている。
1946年4月
2024.9.29 少年Mの記憶ー「満州」からの帰還 感想
4、この集会を何で知りましたが? 日中友好協会チラシ (日中友好協会港支部)
(感想)早速購入します。
近藤滿さんの紙芝居をDVDに、近藤仁子さんの話 <少年Mの記憶ー「満州」からの帰還> DVD完成上映会(五井信治)
上映途中、肩のけがで入院中の近藤仁子さんが、主治医の許可(1時間以内)を得て、会場にお越しになりました。 近藤仁子さんは、滿さんの「満州」での生い立ちからそこでの生活、「満州」から帰還する際に、生まれたばかりの赤ん坊(姉の子)を家族全員で、無事に日本に帰還できるように気を付けたことや、日本に帰還してからも安住の地を求めての苦労を語ってくれま した。滿さんは高校の美術の先生になり、その画風はヨーロッパの古城や中近東の城跡のような荒涼としたものを好み、日本の湿潤な緑を嫌っていたのは、「満州」での体験が大きく影響しているのではないかということ。2001年のアメリカの 9.11 事件後、アメリカがアフガン侵攻をしたことに、滿さんは、ショックを受け、毎日、新聞に出る写真を、絵に描き、タイトルは、「大義は誰も幸せにしない」(戦いは誰も幸せにしない)としました。それを見た画廊の方から、「これをこのままにしておかないで、個展を」と。個展をきっかけに、大きな絵も描き、その最後の絵には、ハトがいっぱい飛んでいる中に、人物がいる絵でした。仁子さんは滿さんは平和を望んでいるんだな、こういう世の中を望んでいるんだな、と思ったそうです。
1972年9月29日 日中共同声明調印!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます