「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
原爆
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
実験医学雑誌24巻(1940年)
雑報(2号)
宮川所長の青山先生胸像由来の話
香港の大流行当時は日清の間に、風雲が極めて急でありまして、終には千戈を何で相交わるに至ったのでありましたが、吾政府はこの人類の大敵ペストの原因探求の為、その予防撲滅研究の為に臨床家であり、病理学者である青山胤通先生、細菌学者である北里柴三郎先生を香港に派遣せられたのでありました。先生等は助手として宮本叔学士、石上亨大軍医、岡田義行内務省嘱託、当時学生であられた木下正中氏等を伴って、現地に赴かれ画期的の業績を挙げられたのでありました。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第3部 陛下の戦争
第8章 昭和維新と統制
Ⅲ
叛乱が続いているとき、天皇は遠く離れた弘前の任地から戻ってきた秩父宮と会った。これまで、秩父宮と天皇の関係は必ずしも親密なものではなかった。この会見の後、秩父宮は叛乱軍から身を遠ざけ、青年将校や皇道派の将軍たちとの関係を絶ったといわれる。それでも、秩父宮が叛乱軍に同情的だったという噂は後を絶たず、2年後、西園寺は(秘書の原田に)、皇室内の骨肉の争いがいつか流血の惨事を引き起こすのではないかと心配していたと2度語っている。叛乱から2日め、この日もふたりの海軍高級将校、米内光政中将と井上参謀長は、 天皇への忠誠で際立っていた。
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