核・戦争のない世界!!

2025-02-23 08:10:24 | Weblog

東電 福島第一原発 取り出した初のデブリ 約0.7グラム

 

 



 

 

 


第115回八王子アクション

東京 新宿「戸山公園」で鉛や水銀など検出 一部で立ち入り制限

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025.2.6 核兵器禁止条約に日本は署名・批准を!!(西八王子駅前)

「日本人は戦時中、ひどいことをさんざんしました。民間人をたくさん殺しました。日本人はこのことを忘れてはいけません」

 

平頂山事件92年 歴史を学び合い、不再戦を誓う集会!!

 

2024 11 16平頂山集会

 

2024 11 16平頂山集会 纐纈講演





 
















平頂山事件92年「歴史を学び合い、不再戦を誓う」集会 アンケート集計

 

  (集会をどこで知ったか)(記入者年代)

5、インターネット、40代

・纐纈講演

纐纈さんのお話はいつも軽快で楽しく面白いです。

もちろんすごく勉強になります。

台湾出兵について、知れて良かったです。

 

・今後

ぜひ、また!集会を行ってほしいです。

とても良かったです。

 

 

作品によせて


 


1945年8月6日のソ連が参戦した時、私は12才だった。旧満州国の奉天市(現瀋陽市)に住んでいた日本人の女性と小学生以下子どもは、戦火から避難するためにリュック1つを背負って南下する列車に乗った。8月15日の敗戦の知らせによって在満のすべての日本人は日僑(他国に住む日本人)として扱われ、この日を境に私の流民の旅が始まった。


疎開地から奉天市に戻ったものの支配関係は全く逆転し、異民族から受ける迫害は想像を超えるものであった。自分の命や財産は勿論のこと、人間そのものの尊厳さえ奪われた極限の状況での体験は、私の人生観を決定づけた大きな要因であることに間違いない。


 居住地を離れてから日本への帰還船 (私には流民船)に乗るまでの約2ヶ月の出来事はまさに難民生活そのものであり“衣"は着のみ着のまま、“食"はこうりゃん、“住"は倉庫などであった。


本籍地の北海道には墓地と何軒かの親類があっても、生活の基盤はなく、その後落ち着く場所を求めて転々と移動し、やっと定住したのは敗戦から15年を経過した1960年であった。






 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


14、「夜襲」


深夜、向かいの家から女性の悲鳴が聞こえた。懐中電灯の丸い光が不気味だった。


1945年9月


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