核・戦争のない世界!!

2025-02-14 11:11:10 | Weblog

東京電力 柏崎刈羽原発6号機 原子炉に核燃料入れる方針固める

女川原発2号機 class="content--title">志賀原発 “活断層連動”範囲 長さ1.8倍に見直しへ 北陸電力

地球温暖化!!

南米で観測史上最悪の干ばつ被害 class="content--title">プラスチック環境汚染防止へ 初の国際条約案の交渉始まる

“兵庫県知事選期間中にX凍結” href="https://news.yahoo.co.jp/articles/01b8b8aef1bccfe3b9d67fb0f37f419478a6f652" style="quot;ヒラギノ角ゴ Pro W3", target="_blank">兵庫・斎藤知事の“SNS戦略”に公選法違反の指摘…「広報全般を任された」PR会社のコラムが物議 知事は疑惑を否定【news23】

東電 福島第一原発 取り出した初のデブリ 約0.7グラム


 

 



 

第112回八王子アクション

東京 新宿「戸山公園」で鉛や水銀など検出 一部で立ち入り制限

 

 

 

 

 

 

 

 

2025.2.6 核兵器禁止条約に日本は署名・批准を!!

「日本人は戦時中、ひどいことをさんざんしました。民間人をたくさん殺しました。日本人はこのことを忘れてはいけません」

 

平頂山事件92年 歴史を学び合い、不再戦を誓う集会!!

 

2024 11 16平頂山集会

 

2024 11 16平頂山集会 纐纈講演





 
















平頂山事件92年「歴史を学び合い、不再戦を誓う」集会 アンケート集計

 

  (集会をどこで知ったか)(記入者年代)

8、友人知人から、50代

・纐纈講演

気づかされることがたくさんあった。歴史から学べることを生かして平和を作っていかないといけないと思った。そのためには軍事史を知ることが大切であると教えてもらったことが印象に残っている。

 

・パネルディスカッション

 平頂山事件のこと、対中戦争から何を学んで平和を作っていく必要性がよく分かった。

 メディアの隠蔽に騙されてはいけないと思った。

 

・集会全体。

 聞きやすくよくまとまって勉強になった。

 

 

 

作品によせて

 

1945年8月6日のソ連が参戦した時、私は12才だった。旧満州国の奉天市(現瀋陽市)に住んでいた日本人の女性と小学生以下子どもは、戦火から避難するためにリュック1つを背負って南下する列車に乗った。8月15日の敗戦の知らせによって在満のすべての日本人は日僑(他国に住む日本人)として扱われ、この日を境に私の流民の旅が始まった。

疎開地から奉天市に戻ったものの支配関係は全く逆転し、異民族から受ける迫害は想像を超えるものであった。自分の命や財産は勿論のこと、人間そのものの尊厳さえ奪われた極限の状況での体験は、私の人生観を決定づけた大きな要因であることに間違いない。

 居住地を離れてから日本への帰還船 (私には流民船)に乗るまでの約2ヶ月の出来事はまさに難民生活そのものであり“衣"は着のみ着のまま、“食"はこうりゃん、“住"は倉庫などであった。

本籍地の北海道には墓地と何軒かの親類があっても、生活の基盤はなく、その後落ち着く場所を求めて転々と移動し、やっと定住したのは敗戦から15年を経過した1960年であった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7,「浴槽の中」

2度目の疎開地は短期間であったが、普聞店の銭湯だった。

不快な思い出が全くなかったのは、可愛い女の子が近くにいたからだったように思う。

1945年8月

 

 

少年Mの記憶ー「満州」からの帰還ーDVD上映会には70余名の来場者があった。

9・29アミダステーション(八王子)

近藤滿さんの紙芝居をDVDに、近藤仁子さんの話 <少年Mの記憶ー「満州」からの帰還> DVD完成上映会(五井信治)

上映途中、肩のけがで入院中の近藤仁子さんが、主治医の許可(1時間以内)を得て、会場にお越しになりました。 近藤仁子さんは、滿さんの「満州」での生い立ちからそこでの生活、「満州」から帰還する際に、生まれたばかりの赤ん坊(姉の子)を家族全員で、無事に日本に帰還できるように気を付けたことや、日本に帰還してからも安住の地を求めての苦労を語ってくれま した。滿さんは高校の美術の先生になり、その画風はヨーロッパの古城や中近東の城跡のような荒涼としたものを好み、日本の湿潤な緑を嫌っていたのは、「満州」での体験が大きく影響しているのではないかということ。2001年のアメリカの 9.11 事件後、アメリカがアフガン侵攻をしたことに、滿さんは、ショックを受け、毎日、新聞に出る写真を、絵に描き、タイトルは、「大義は誰も幸せにしない」(戦いは誰も幸せにしない)としました。それを見た画廊の方から、「これをこのままにしておかないで、個展を」と。個展をきっかけに、大きな絵も描き、その最後の絵には、ハトがいっぱい飛んでいる中に、人物がいる絵でした。仁子さんは滿さんは平和を望んでいるんだな、こういう世の中を望んでいるんだな、と思ったそうです。

 

 

2024.9.29  少年Mの記憶ー「満州」からの帰還  感想

4、この集会を何で知りましたが?  日中友好協会チラシ (日中友好協会港支部)

(感想)早速購入します。

 

*DVD購入ご希望の方は、nobu.goi@gmail.com(五井)までお問い合わせください。


 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 核・戦争のない世界!! | トップ | 核・戦争のない世界!! »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事