不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-12-22 15:34:57 | Weblog
「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!

    
 「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任


●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」 
5 証拠書類
 アメリカは日本を占領下に置くと間もなく、残存する日本の陸軍および海軍の公文記録を押収し、分析のために首都ワシントンに送った。書類は膨大な量にのぼり、古いものでは1968年のものまであった。1947年からCIAはこれらの総括的な研究を始め、その後書類はアメリカ国立公文書館に移された。1950年代初頭、公文書専門家グループは書類をマイクロフィルムに収める作業を開始したが、すぐに中止命令が下った。彼らがそれまでにマイクロフィルムに収めた書類は全体のわずか5%だった。1958年にこれらの公文書は日本に返還されたため、現在、マイクロフィルムに収められたわずか5%の書類の目録のみがアメリカ国立公文書館に保管されている。
 陸軍および海軍の公文書はいまだ日本政府の厳しい管理下に置かれている。一般の人が閲覧できるものもあるが、ほとんどは国家の安全保障を口実に封印されている。この中には、戦争行為の決定において昭和天皇が果たした役割、関東軍の司令部にあった参謀幕僚の活動の記録、細菌戦および化学戦部隊のスタッフ兼指揮官であった研究者や医師に関する資料が含まれている。これらの資料は、政府を牛耳っている政治家や官僚たちがその考え方を根本的に変えない限り、研究者に公開されることはないだろう。
※その通りだと思う!!もしも、公文書が一般に公開されたら、いかにすさまじい記録が出てくることだろうか?天皇の戦争に対する関与とか、その作戦、すべてが明らかになるだろう!!
 もちろん明らかになれば、昭和天皇の戦争責任もまた改めて問われることになり、保守党の自民党がいかに事実を隠し、天皇制が戦後どのような経過をたどって維持されたがばれてしまうだろう!!アメリカとの数々の密約などもあるだろう!!
 731の真実の姿や、南京大虐殺の全貌も明らかになるだろう!!
自民党の小泉元首相や民主党の小沢幹事長が盛んに「未来志向」!!と連呼しているのは、もしも間違って、過去を振り返れば、天皇の戦争責任がクローズアップされて、今の日本の体制(国体)は、破綻してしまうと考えているからではないかと思ってしまう!!
●南京大虐殺
     
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
陶春秀(女、63歳)の証言
1937年には家は竺橋42号で、父は陶潤生という名で、竺橋街で小さな雑貨屋をやり、家族8人を養っていました。
1937年の12月に竺橋街のラオパーイシン(=庶民)は次々に難を逃れて行きましたが、私たちはよその土地の者で親しい友も無く、父はまたこの小さな店が惜しくて、ずっと行かないでいたのが、日本軍がやってくる3日前になって、楊さんというお隣の人が我が家の門口を通りかかり、私たち一家がまだいるのを見かけて、父に早く難民区へ逃げなければと勧めてくれました。それで私たち難民区へ引き移って楊さんと一緒に住まいました。家屋が小さく、しかも屋根裏で、住めたものではありませんでした。あくる日父と祖母と叔母との3人が家に戻りました。3日目の午後に父は戸板を打ちつけて難民区へ来ようとしていました。ちょうど打ちつけていた時に、日本軍の騎兵隊が竺橋に入り込んできて、家の門口まで来たのを、父は臆病な恐がり者で、日本兵の凶悪で恐ろしげな様子を見て、あわてて頭を地にすりつけて許しを乞いました。その時日本軍は祖母の襟をつかんで道に放り投げ、祖母がまだ意識が戻ってこない内に、つんざくような一声が聞こえただけで、父がのどをかき切られ、日本軍の銃剣の下に惨死し、日本軍は意気揚々として引き上げ、家中で頭を抱えて大泣きするところでしたが、大声で泣くわけにもいかず、日本軍がまた来るのを恐れて、ただ涙をお腹の中に流し入れるしかありませんでした。今でも私たち全家は日本軍への恨み骨髄に達していて、この事を思い出すと、私は幾晩も眠れなくなるのです。(曹義富と陳小敏が記録)

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
昭和天皇 731  
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって
石井  の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち
は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
●南京大虐殺     
南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント

南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)

またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!

核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。

この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。

防衛研修所戦史室の源流

...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...

※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷したした兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。

※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!

栗原利一資料集  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「南京大虐殺」上映会

2009-12-21 09:46:29 | Weblog
[シネマトゥデイ映画ニュース] 日本ではなかなか上映されない南京大虐殺事件をテーマにした「南京・史実を守る映画祭」が13日、東京・世田谷区民会館ホールで行われた。日本初公開となる、ジョナサン・リス=マイヤーズが英国人ジャーナリストにふんし、命懸けで中国の戦争孤児を救った実話の映画化『チルドレン・オブ・ファンシー 遙かなる希望の道』(08年、豪・中・独合作)など4作品が上映された。

 また記念シンポジウムも行われ、同映画祭実行委員会の荒川美智代さん、ドキュメンタリー映画『南京・引き裂かれた記憶』の武田倫和監督、新右翼団体「一水会」顧問の鈴木邦男氏が登壇し、約200人の観客が詰め掛けた。

 今回の映画祭は荒川さんたちが「待てど暮らせど公開されないのなら、自分たちで上映するしかない」と企画したもの。いまだ史実をめぐって論争の絶えない題材だけに、この日は万が一に備えて所轄警察署などが会場を警備。しかし抗議や妨害などのトラブルはなく、むしろ「参加したいという方から『当日は覚悟して行きます』という電話をいただいた」(荒川さん)という。

 そのエピソードを聞いた鈴木氏は「最初にこの企画を聞いたときに『命は惜しくないのか?』と思ったけど、4本もまとめて上映してしまうと大丈夫なのかもと思っちゃいますね。そもそも右翼の人たちは第一次情報がないんです。どういう形で抗議活動に出るかというと、週刊新潮と産経新聞の記事。特に週刊新潮で『反日だ』と記事が出ると(右翼は)天の声だと思い、おれたちが動かざるを得ないと思ってしまう。でも今日は護衛隊もいるし、客席の前3列は関係者席にしてある。これで(ステージの)左右の階段も取っちゃえば、なかなか(抗議者は)壇上に上がってこれないですよ。僕もかつてやったことがあるからわかるんです」とユーモアを交えて語った。武田監督も「映画公開のとき、抗議よりも先に警察官が来て下さった(苦笑)。そして『(スクリーン前に飛び出せないよう)席の一列目に客を座らせるな。それと壇上に本を並べておくように』とも指導をいただきました」と公開秘話を明かした。

 まず南京大虐殺事件を語る際、大きな問題として日中間や右派左派で歴史認識の違いがある。武田監督は中国の被害者と元日本軍兵士という両方を取材した体験の中で、「今回、元日本軍兵士はご高齢なので最期に(真実を)語っておきたいと言う人もいたが、一方で、話に熱が入るとまるで青春の1ページとしてすごく楽しそうに語られる。(インタビュアーの)松岡環さんが中国人に対する現在の心境はどうかと水を向けられると『あのとき、自分の心はすさんでいた』とは言うけど、そこには中国人のことをシナ人と表現したり、どこかで蔑視(べっし)が残っているのではないか」と指摘した。

 その話を受けて鈴木氏は「(武田監督の)映画を観て思ったのは、(元日本軍兵士の)証言者が加害者ではなく、自分も被害者であると思っているんですよね。自分たちはあの戦争で兵にとられ、悪魔的な時代の中で命令されてやったのだと。被害者として安心してしゃべっているから見ていてちょっとムカッとした。息子に母親を強姦(ごうかん)させたり、銃弾がもったいないからと一つの建物に人を集めて蒸し焼きにしたとかひどすぎる。さらには、若い兵隊が集まっているんだから(強姦は)当然だろうみたいなことも言っている。それは今の保守派の人たちの理論と同じですよね。その一方で左翼の人たちが、犠牲者は30万~40万人いたと、一般の人の理解を得るために話を誇大にしますよね。僕はそんなに多くはないと思うけど、例え1万人でも虐殺は虐殺です。でも武田監督の感想を聞いて安心しました。右派も左派もこうしてもっと本音で話し合うべきなんです」と訴えた。 だが、タブー視されている問題ゆえ、実際に何が起こったのか? こうして公の場で語られる機会もないのが実情だ。すると鈴木氏は「確かに『南京・引き裂かれた記憶』のように、戦争の暗黒面や恥部を見せられるのはキツイですよね。学校の授業でも、(このあたりの)近代史は教えないでしょう。でもそれ以前の歴史はテレビで見ればいい。その分、日清・日露・大東亜戦争をきちんと学んだ方がいいと思う。そしてなぜ、こういうくだらない戦争をやったのか? 二度と起きてはいけない事だと思うので、何度も検証すべきではないかと思うんです」と歴史教育における持論を展開した。

 シンポジウムは、昨年の映画『靖国 YASUKUNI』をめぐる上映中止問題などにも触れ、騒動沈静化に尽力した鈴木氏が「映画を観てから抗議すべき」と改めて呼び掛けるなど、約1時間にわたって熱い討論が続いた。最後に司会者が「実はシンポジウムを開催するにあたりいろんな方に声を掛けたが断られました。なのに、鈴木さんの立場でよく参加して下さいました」と感謝の言葉を述べると、鈴木氏は「僕だって(参加するのは)怖いですよ。右翼にとって僕は裏切り者になりますからね。ヤケになって出てきてます」と苦笑い。しかし続けて「勇気ある企画を立ち上げてくれた人、そして覚悟をもって参加してくれた観客に皆さんに感謝します。こうやって安全に開催できるノウハウを蓄積し、もし何かあったら僕を呼んでいただき、盾にして下さい。そして、もっともっと健全で自由な議論ができる、自由な日本にしていきたいと思います」と語ると会場から大きな拍手が沸き起こっていた。(取材・文:中山治美) 

『南京・引き裂かれた記憶』は東京・渋谷アップリンクで公開中
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-12-21 08:54:24 | Weblog
「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!

     
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」 
4 テレビおよびラジオのドキュメンタリー番組
また、1997年、テレビ朝日の番組『ザ・スクープ』が細菌兵器の実戦使用を追及する『闇に消えた虐殺―731細菌戦部隊の真実』を放映した。1998年には、アメリカのディスカバリーチャンネルが番組の1コマを割いて『極悪非道な人間たち』〔bloodsuckers〕と題したドキュメンタリーを放映し、戦時中の細菌戦活動の一環として蚤(ノミ)を使ってペストを蔓延させる731部隊の研究を紹介した。そして、1999年には、アメリカの『ヒストリーチャンネル』が731部隊と今も続くその影響を徹底検証した番組『731部隊 満州の悪夢』〔Unit 731 Nightmare in Manchuria〕を放送した。
 ラジオもテレビに並ぶ重要なメディアで、北アメリカのラジオ局はこの問題に多くの放送時間を当てている。1998年、インタビューやドキュメンタリーなど多くの番組がヴァンクーヴァーからオンエアーされた。そのうちのいくつかは広東語と北京語方言によるもので、中国系カナダ人向けに放送された。また、英語放送も特定の地域に向けて、あるいは中国全土に流された。1998年10月には、カナダ放送は731部隊の意義と占領軍当局によるその後の隠蔽工作についての徹底討論を放送した。アメリカでは、1995年から現在まで、この問題の専門家とのトークショーを中心とした20本以上の番組がアメリカの各都市で放送された。テレビやラジオでこの問題に関する数多くの番組が放送された最大のメリットの1つは、重要な新情報が次々と明らかになったことである。

※日本をはじめ、イギリス・北米・中国などで731のことがたくさん報道されるのはとても意義のあることだと思う。731の新情報が次々と明るみに出て、戦争の残虐さがいかにすさまじいものであるのか認識できればと思う。
 731部隊が極悪非道な人の集まりかといえば、それは行かされた当人たちの何人かはそうではないと思いたい。戦時中の流れの中で、上司から説得されたり、軍の甘い言葉にだまされたりして、赴任した者も多いと思う。当時の世の中は戦争一色で、「お国のため、天皇のため」と言って仕方なく、行った者もいると思う。そこで、自分の行動を合理化しながら日本が戦争に勝つためにと人体実験をしたのではなかったか?
 資源と資金の少ない日本は、新しい強力な兵器を作るために、本気で細菌兵器の開発に取り組んだ!!もちろん、大元帥昭和天皇も本気モードだったのではないか?

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
涂宝誠(男、76歳)の証言
1937年の冬月に、日本軍が入ってくる前に私たち一家は東瓜市の難民区に引き移り斉さんという人の家に住まいましたが、父の涂昆栄は珠江路299号に戻って家と物とを番していました。日本兵が入ってきてから、我が家に闖入してきて、父は日本軍に刀で突っつき殺されました。4日後に、母が様子を見に戻って行ったのが泣きながら帰って来て初めて、父の被害を知ったのでした。一番上の兄の涂宝衡と伯母の家の息子の涂宝洪に周長坤の兄弟3人が父の死体を片付けにこっそり家に行きましたが、日本の中島部隊の兵に見つかり、3人とも捕まって中島梅花長部(今の炮司)まで連れて行かれ軍夫にされました。
 1ヶ月して、私と母とが父を葬ろうと一緒に家に戻りましたが、私は父が身体中血だらけで、右手で左の肋骨の上を押さえているのを見ました。その時にまた日本軍が我が家に闖入してきて、私と母とを捕まえて行ってむごく働かせ、働かないと銃の柄で頭をなぐり、口を打ったのでした。こうした事どもを思い起こすと、ほんとに怒りが胸にこみ上げてきます。(陳新と呉紅興が記録)
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。
裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)

特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
昭和天皇 731
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって
石井 の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち
は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。

●南京大虐殺     
南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント

南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)


またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!

核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
栗原利一資料集
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-12-20 07:12:52 | Weblog
「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!

     
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き

現状と「記憶のずれ」 

4 テレビおよびラジオのドキュメンタリー番組
テレビでこの話題が放映されるようになったのは、1976年11月に日本で、センセーショナルなドキュメンタリー『ある傷痕―魔の731部隊』が放映されてからのことである。この放映から数年後、アメリカの人気番組『60ミニッツ』では、英語圏の人々に731部隊の人体実験を知らしめたアメリカの一流研究者、ジョン・W・パウエル・ジュニアのインタビュー(1982年4月4日)が放映された。また、1985年8月には、イギリスのテレビで『731部隊―天皇は知っていたか??』と題するドキュメンタリーが放映され、高い視聴率をあげた。このドキュメンタリーにはある種の偏見と不明瞭な部分があったものの、多くの人々の関心を呼んだ。それから数年後の1992年4月には、NHKが、731部隊とその指導者、石井四郎の全貌を正確に描いた2部構成のドキュメンタリー『現代史スクープ・ドキュメント-731細菌戦部隊』を放映した。
 NHKの番組が放映されたのをきっかけに、日本、中国、韓国、アメリカでは、細菌戦および化学戦に関するドキュメンタリーが堰(せき)を切ったように放映されるようになった。1994年9月、アメリカの人気テレビ番組『デイトラインNBC』は、この問題を暴露する『慰安婦』〔Comfort Women〕を放映した。『デイトラインNBC』は翌年の1995年8月15日には、731部隊の恐ろしい活動を徹底取材した『死の工場-731部隊』も放映した。1995年、日本テレビはさらに中身の充実した『細菌戦部隊731は生きている』を放映。

※このような番組が次々と放映されても、昭和天皇の戦争責任は追及されないのか?
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
呉秀珍(女、77歳)の証言
1937年の暮れに私たちは南京に戻ったのですが、その頃母が私たちを連れて難民区に住まい、父が1人で後宰門で留守番していました。ある日、日本兵が我が家に闖入し、父に酒を要求しました。その時父は1つには聞いても分からなかったのと、2つには家にはどこにも酒が無かったのとで、日本兵は父を引きずってきて、首を続けざまに7、8太刀突っつき、直ちに死亡しました。お隣さんに助けていただいて、父の屍を防空壕に埋めました。私たち家に戻ったら、何もかも壊れつくし、かすめられ尽くしていて、何1つありませんでした。
 難民区では、日本軍が1日に2回捜査に来るのですが、来たら男は男、女は女で並ばせ、従順でないと見たら1太刀くれ、大勢突っつき殺すのです。大影壁の一家で母子2人で豆腐屋をやっていたのが、お嫁さんをもらってたった3日で日本軍に強姦され、夫もお母さんも同意しないでその場で突っつき殺され、お嫁さんは強姦された後また殺されたのです。
(毛文慧と鄭倩萍が記録)

●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。

裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)


特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)

ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・
 日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。



昭和天皇 731

・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。

・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。

・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって
石井 の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。

・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。

・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち
は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
●南京大虐殺     
南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント

南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)

またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!

核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。

この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。

防衛研修所戦史室の源流

...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...

栗原利一資料集
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮内庁!!

2009-12-19 16:46:49 | Weblog
宮内庁とはどんなことをやっている役所なんだろう?

まさか、宮中祭祀を職員一同でやってはいないだろうね。



生涯賃金8億円!宮内庁長官ピンボケ金満人生

2009年12月19日(土)10時0分配信 日刊ゲンダイ


-PR-
 天皇の特例会見問題がドロ沼化の一途だ。もう会見は終わったのに、自民党は「天皇の政治利用だ!」と相変わらず大騒ぎしている。しかし、その火ダネを作った宮内庁の羽毛田信吾長官(67)は、エラソーに言える立場なのか。


●処分歴もある“スネ傷”官僚なのに…

「天皇陛下のお務めのあり方を守るというのが私の立場。辞めるつもりはない」――。官房長官の要請をバラし、内閣の方針を公然批判しながら、ポストにしがみついている羽毛田長官。

 民主党の小沢幹事長は15日も、「辞めてから言うべき。政権交代して政治主導になったのに、頭が切り替わっていない」とカンカンだった。

 羽毛田長官が居座りを決め込む理由はハッキリしている。こんな声がささやかれているのだ。

「羽毛田長官は1965年に京大法卒業後、厚生省に入省。老人保健福祉局長、保険局長などを経て、99年に事務次官に上り詰めた。01年に宮内庁次長に横滑りし05年から現職を務めています。次官時代は年収2500万円でしたが、宮内庁長官はその上を行く。国家公務員特別職で、副大臣や官房副長官と同等です。俸給月額145万円に諸手当を含め、年収3000万円に迫るでしょう。厚労省を辞めるまでの給与・退職金が約5億円なので、宮内庁での上積み分を考えると、生涯賃金8億円は下らないでしょう」(霞が関事情通)

 絵に描いたようなキャリア官僚だが、96年には岡光序治元次官らとともに、飲食接待問題で処分された“スネ傷”官僚でもある。何より、年金や医療など日本の厚労行政をぶっ壊した“戦犯”だ。国民からすれば「フザケルナ!」だが、羽毛田長官の今回の“暴走”には、クビをかしげる向きもある。

 関係者が言う。

「彼は典型的な官僚気質のイエスマンですよ。おとなしくて政治的野心も強くない。一連の発言には驚きました。小泉政権時代の05年4月に宮内庁次長から長官に昇進したが、誰かに言わされているのではないか」


●犯罪者ゾロゾロ、宮内庁のデタラメ実態

 この一件で、宮内庁という特殊な役所にも注目が集まっている。職員は総勢約1000人。長官や侍従長ら特別職52人のほか、987人の一般職員がいる。「数が多すぎる」という批判もあるが、宮内庁は予算を含めて“アンタッチャブル”。そのトップが「自分が偉い」とカン違いしたって不思議ではない。

「宮内庁では事務をあずかる長官官房や管理部は通称『オモテ』、皇室を世話する侍従職や東宮職などは『オク』と呼ばれ、互いに『あっちがやっていることは知らない』と保身に走りがちです。また、長官官房には他省庁からのキャリア出向組が多く、彼らはみんな腰掛け感覚。一般職員との間に溝もある。そもそも長官からして、厚労省や警察庁など旧内務省系官庁の天下り指定席です。組織がグチャグチャだから、事なかれ主義が横行しています」(皇室ジャーナリスト)

 閉鎖的で浮世離れしているせいか、不祥事もゾロゾロだ。今年8月にも都内で警官を殴った職員が逮捕されたばかりだが、昨年は本を万引した職員が捕まっている。01年には、ひき逃げした相手を死なせた職員、04年もひき逃げで老人にケガを負わせた職員が捕まった。06年には職員が無免許運転で事故を起こし、処分も公表されなかったと週刊誌に報じられた。

 職員数1000人にして、この犯罪率の高さは異常だ。トップの羽毛田長官は皇室のことを考えるなら、まず組織改革に心血を注いだらどうか。

(日刊ゲンダイ2009年12月16日掲載)
  
タグ :宮内庁

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-12-19 05:16:22 | Weblog
「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!

     「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


●731部隊

『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」 
4 テレビおよびラジオのドキュメンタリー番組
 テレビのドキュメンタリー番組のテーマで、普遍的な人気を誇るものの1つは、兵士たちの武勇伝や第2次世界大戦で形成を有利に導いた戦いに参加した陸軍や海軍の栄光の物語である。この国にも戦争ヒーローたちが存在し、その輝かしい活躍ぶりは多くの番組で紹介されてきた。戦後、テレビが普及すると、不明瞭なモノクロフィルムで構成したドキュメント番組が頻繁に放映されるようになった。金を使わずしかも番組の中に効果的なシーンを取り込むため、番組プロデューサーたちは古いフィルムを血まなこになって捜した。しかし、自国の暗部は出さないというのが番組制作上の暗黙のルールであった。これから考えれば、日本の細菌戦および化学戦の人体実験に関する番組が放映されたのは、本当にまれなケースといえる。

※私は残念ながらこれらの番組を見ていないが、本当に731部隊や化学戦部隊の実像を探ろうと多くの方が、苦労して取材しているのだなと強く思う!!

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

呉秀珍(女、77歳)の証言
1937年には家は後宰門の後街で、日本軍が南京に攻め込む前、農暦の7月23日に家中で南門外の谷里村に引っ越して住まいました。農暦の冬月6日に、日本軍もそこにやってきたので、私たちはあわててまた逃げ、谷里村から5里ほど離れたところまで逃げて、崔さんという人の家の牛小屋に住まいましたが、六郎橋で日本兵が捕まえてきた中国の男の人にはパンツ1枚はかせただけ、女には一重のズボンをはかせただけで、針金で後ろ手に一緒に縛りつけ、ずらっとそこに立たせているのを見かけたが、夜になって日本兵が江寧に戻って夜を過ごすのに、その人たちは外で飢えこごえたまま一夜を過ごし、かたわらの人も近づいて救うことができませんでした。明くる朝、日本兵は銃剣で子供の遊びみたいに、1人1人全部突っつき殺し、二林村を火で焼き払って一面の焦土とし、すっからかんにしました。花塘村では地にあまねく死人が見られましたが、日本兵は男の人を何人か捕まえてきて、女の死体に強姦させてから、男の生殖器を切り取りました。谷里村では、15歳の女の子が強姦された後、日本兵に刀の先端で少しずつ少しずつ下半身をそられました。(明日に続く)(毛文慧と鄭倩萍が記録)

●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。

日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。
裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)


特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

昭和天皇 731

・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。

・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。

・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって
石井 の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。

・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。

・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち
は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。


●南京大虐殺     

南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント

南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)

またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!

核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。

この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。

防衛研修所戦史室の源流

...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった... 

栗原利一資料集
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-12-18 14:49:39 | Weblog

「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!

    
 「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」 
3、写真展
戦時中、何万枚もの写真がプロやアマチュアのカメラマンによって撮られた。その多くは軍隊による残虐行為をとらえたものである。そのうちの何千枚かは現在でも残存し、上官に黙認された兵隊たちによる残虐で非人道的なシーンが恐ろしくもはっきりと映し出されている。1993年、活動家たちは特に印象的なシーンをとらえた写真数百枚を集め、北から南まで日本全土を回る巡回展を開いた。巡回展は1994年、1995年、1996年の3年間にわたり、現在も事務局は引き継がれている。このような展示は軍隊の過去の活動を冒瀆するものだという国家主義者たちの抗議にもあったが、百以上の都市で行われた731部隊展には総計25万人以上の市民が訪れた。写真の一部は、1996年と1998年に、ワシントンDC、サンフランシスコなどアメリカの5都市でも公開され、アメリカ市民も大きな関心を示して、サンフランシスコの写真展には2万5000人以上の市民が訪れた。立命館大学国際平和ミュージアムでは、写真は常設展示室に陳列されており、残虐行為をとらえた印象的な写真を含め、第2次世界大戦をさまざまな角度からとらえた展示物を見ることができる。

※「部隊展」が終わって10年以上が過ぎたが、何か新しい動きがあるのだろうか?
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
肖潮思(女、67歳)の証言
(昨日の続き)その時の兄の話では、あの日お昼に日本兵が男の建物にやって来て、みんなにちゃんと立っていろと命じ、日本兵の1人が1人1人の面前にやって来ては、銃剣を揺らめかしたり、威嚇したりしました。父の前まで来た時も、銃剣を父の顔のすぐ前でゆらゆらさせたのです。父はこわがり、手を振って、「いけません。私は善人なんです。」と言いました。
ところが、日本兵は父を構わないばかりか、かえって銃剣で父の腰を刺してきたのです。父はこうして活きながらに殺害されたのに、日本兵たちは得意げに布で血のあとをぬぐい去り、大手を振って去って行きました。父が死んでから、私たち炊き出しの粟のおかゆをもらいに毎日出かけましたが、街はどこも屍でいっぱいで、銃殺されたのあり、刀で刺し殺されたのありで、南京は一遍に「死の都市」に変わったのでした。それは単に我が家の血涙の恨みであるばかりでなく、私たちの代々にわたって忘却し得ない血涙史でもあるのです。(趙建寧が記録)
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。
裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)

特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
昭和天皇731
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井 の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち
は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
●南京大虐殺     
南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
栗原利一資料集

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-12-17 10:47:02 | Weblog
「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!
     「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」 
2、物的証拠
そして、日本が降伏した時、貯蔵していた多量の化学兵器が吉林省全体にばらまかれたのである。この地域に危険で爆発の恐れのある化学兵器が70万個以上も埋められているという事実を、日本政府は1999年になってようやく認めた。しかし、中国側は、吉林省には少なくとも200万個の化学兵器が埋められていると主張する。どちらの数字が正しいかはわからないが、敦化市に住む数百万人の人々が生命の危険にさらされ、市が莫大な損害を被っていることだけは確かである。当局者の1人は詩的な言葉で次のように嘆いているー「我々の民族は悪魔と手を結んだのだ。彼らには寝ても覚めても平和は来ない」。1997年4月29日に発効した化学兵器禁止条約に調印した159カ国の中には、日本の中国も含まれている。しかし現在、これら2国は、この協定に規定された10年という期間内に、どのようにして化学兵器を根絶するかに関しては合意していない。また、汚染された地域を清浄化するための費用をどれくらい日本が持つかに関しても、合意を得ていない。
※日本が中国に遺棄してきた化学兵器の量が、日本と中国ではその見解が大きく異なるのはなぜだろうか?それにしても70万にしても200万にしても大変大きな数だと思う。
 10年という期間がもう既に過ぎたのであろうか?詳しいことがわからないが、依然として大量の遺棄化学兵器がまだ中国に存在しているだろう?撤去状況が遅れているという話は耳にした。また、ニュースで遺棄化学兵器が中国から完全に無くなったという報道は耳にしていない!!ただ、残念なことにそれに関わっている企業の中で、いろいろな汚職があったということも耳にした。
※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
 ●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
肖潮思(女、67歳)の証言
1937年に日本軍が南京を攻めていた時、私たち一家は私と父と母と兄と妹の5人で、避難しに左所巷20号から金陵神学院の難民区に行って隠れました。
 12月13日に、日本軍が南京を占領して大虐殺をやり、至る所で中国人を銃殺したので、罪もない中国人がたくさん殺されました。その時私たちは金陵神学院に住まっていましたが、そこはアメリカ人の宋さんが管理していて、男の建物と、女の建物に分かれていました。ある日、私たちちょうど昼ご飯を食べ終わり、それぞれ自分の建物に戻ったところでした。突然日本兵が来たと伝わって来て、みんな身の毛がよだち、面倒にならないように、ある者は自分の顔に灰を塗ったり、泥を塗ったり、髪をばらばらに乱したりして、誰しも戦々恐々としてただ座っていました。ところがしばらくしたら、突然ある男が、男の方で肖おじいさんが日本兵に殺害された、早く行くように、と知らせに来てくれて、私と母と妹とが飛ぶようにして男の建物に駆けつけたら、やっぱり父で、両目がかすかに動いているだけで、身の回り一面真っ赤な血がべったり、内臓がもう流れ出ていました。家中みんなこの上なく悲しく、恨みと怒りとにも満ちて、日本帝国主義ととことん闘おうとほんとに思いました。でも、婦人の1人でしかない私がどうやって彼らと取っ組みあっていけるでしょうか?私たちただ怒りを忍び涙をのんで父をむしろでくるみ、そそくさと深夜に竹やぶに埋めるしかなかったのです。(明日に続く)(趙建寧が記録)
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。

裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)

特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
●独り言
・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
 まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私が住んでいる所は自動的に町内会費が天引きされ町内会費を天引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
・ 今、政治の世界では沖縄の普天間基地の移設問題が大きな問題となっているが、そもそも沖縄を軍事基地化させたのは昭和天皇ではなかったか?
 
1947年11月14日に昭和天皇とマッカーサー元帥の第5回目の会談が行われている。その内容は明らかになっていないが、豊下楢彦著(岩波現代文庫)『昭和天皇・マッカーサー会見』によると【もっとも、9月19日付の寺崎の日記は1つの手がかりを与えてくれるようである。そこには、「シーボルトに会う 沖縄の話 元帥[マッカーサー]に今日話すべしと云う 余の意見を聞けり 平和条約に入れず 日米間の条約にすべし」と記されている。
この日、マッカーサーの政治顧問であったシーボルトに対し寺崎から、「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍による沖縄占領の継続を求める、という天皇のメッセージが伝えられたのである。さらに、会見予定が決められる1週間前の10月3日にも両者は沖縄における米国の統治方法をめぐって議論を交わしていることから見て、沖縄問題が議論された可能性が考えられる。】
※シャープの電子辞書パピルス(日本史辞典)で昭和天皇を調べると次のように出てくる。
昭和天皇・・・「・・・・大日本帝国憲法下で統治権を総攬(そうらん)した。‘24久邇宮良子(くにのみやながこ)と結婚。‘26年(昭和1)12月25日践祚(せんそ)して昭和と改元、‘28、11月京都で即位。このころから日本は治安維持法体制による社会運動を弾圧、山東出兵・張作霖(ちょうさくりん)爆殺に始まる中国への武力干渉など、ファシズムと戦争への道を歩んだ。昭和天皇は‘29,6月首相田中義一への不信任を表明して内閣退陣に追い込むなど政局を左右し、満州事変以後は軍の統帥に積極的に関与、‘41の対米英開戦も成算を認めて裁可した。戦局の悪化後も軍部の主張に期待して早期和平論を退け、結果的に惨害を大きくしたすえ、天皇制護持を至上課題として降伏決定過程をリード。しかし対日占領を円滑に進めたいとするアメリカの方針もあって戦争責任は追及されず、新憲法上の象徴天皇の地位を得たが、戦後も政治関与を続けた。・・・・」
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)

ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・
 日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●南京大虐殺   
南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント

南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)

またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!

核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。

この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
栗原利一資料集
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-12-16 05:35:26 | Weblog

「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!

    
 「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任


●731部隊

『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き

現状と「記憶のずれ」 
2、物的証拠
 一方では、化学兵器製造を立証する証拠と、化学兵器製造が引き起こし、今なお続く公害問題が、次々と明らかになっている。1919年、軍部は化学戦計画をスタートさせた。異なるタイプの毒ガスの研究・開発は、最初、東京の陸軍科学研究所で始まった。その後、さまざまな毒ガスの大量生産が広島県竹原市の大久野島で始まった。この1つの工場だけでも、最盛期には5000人以上の労働者が働いていた。ここで生産された毒ガスは、その後、北九州市の工場に送られ、そこで爆弾、砲弾などの軍用兵器に充てんされる。生産された毒ガスは、発泡剤(サルファーマスタード、ルイサイト)、血液製剤(青酸)、ヒ素剤(ジフェニールシアンアルシン)、窒息剤(ホスゲン、ジホスゲン)である。兵器のテストと化学兵器の使用訓練は、陸軍習志野学校で行われた。1935年までには、大久野島の化学兵器工場はフル回転で生産活動を始めていたが、ここでの毒ガス生産活動は、長い間秘密にされてきた。日本の化学戦計画のことが明るみに出たのは、1984年になってからのことである。
 日本軍が中国の広範囲を占領下におさめるようになると、化学兵器の製造は中国本土にまでおよんだ。日本の化学兵器工場は、北は内蒙古のフフホト、南は杭州、そして、西は中国奥地の幾つかの主要都市にまで広がっていったことが現在わかっている。化学兵器工場の多くは、満州の吉林省、特に敦化市内外に設立された。この地では、莫大な量の化学兵器が製造された。1931年から1945年8月までの間に、化学兵器に使われる毒薬が7トンから10トンも製造されたと考えられている。人体実験は開発した兵器の有効性をテストするために行われたのである。実験では何百人もの人々が死亡した。化学兵器工場の労働者もまた、生命を脅かす危険な毒薬に触れたため、数百人が死亡、もしくは、病気にかかった。

※ハリスの記述と「大久野島から平和と・・・」の記述には大きな違いがある。
ハリスによると中国でも毒ガスが日本軍によって作られたことになっている。また、量もだいぶ違う。詳しいことはわかりません。
だが日本は、1925年のジュネーブ協定を無視し、毒ガスや細菌兵器の開発、製造に力を注いだことは確かだ!!
その結果、中国で、その兵器の使用によって、多くの中国兵・中国市民に被害を与えた。また、作った工場労働者にも被害が及んだ。戦争の傷跡は今でも癒えることはない!!
 大久野島は戦時中地図から消されていた。秘密を隠すため。
 そして、今でも、遺棄した毒ガス弾によって、中国市民の生活が脅かされている。
人道上許されないことをやっていたのだ!!すべては大東亜共栄圏確立という大義のため?

(参考ホームページ)
大久野島から平和と環境を考える会

1 大久野島と軍とのつながり。

・大久野島は周囲約4kmの島です。もともとは、瀬戸内海を拠点に南北朝頃から台頭してきた村上水軍の末裔が住みついていた過疎の島でした。            

日清戦争後、日露戦争の前、軍都広島と軍港呉を守るために要塞地帯法がつくられ瀬戸内海の島々や岬に砲台が設置され芸予要塞が構築されました。大久野島にも1902年、北部・中部・南部と3つの砲台が置かれ、あわせて16門が設置されました。それ以降大久野島と忠海町は軍隊と深いつながりをもつ島と町としてその歴史を刻んできました。
・大久野島に毒ガス工場が設置されたのは1929年でそれから1945年の敗戦まで16年間、陸軍兵器工場が置かれていました。ここでつくられた毒ガスは、北九州の曽根というところに運ばれ、そこで、迫撃砲弾や航空機からの投下爆弾に装填され、戦場へと送られていきました。
長崎に投下された原爆がはじめは小倉を標的にしていたのは、米軍がこの毒ガス工場の存在を重視したからだという説もあります。

・毒ガス兵器という国際的に禁止された兵器をつくっていたので、戦争中はこの島は地図からも消されていました。

・このように大久野島は、明治以降軍事的な要地として利用されてきた島です。今でも日露戦争前に造られた北部・中部・南部砲台の建造物が残されています。

2 日中戦争の頃の毒ガス製造。

1929年陸軍造兵廠火工廠忠海製造所完成、毒ガスの製造始まる。最初は毒ガスの生産は需要の少ないこともあってサイローム(特殊赤土に青酸を吸収させる。)生産。ミカンの木に着く貝殻虫を駆除する農薬なども生産していました。

1937年日中戦争が始まると毒ガスの生産量が急増、中国各地で実戦に使われるようになりました。しかし、日本軍は国際法上禁止された毒ガス製造と毒ガス使用をひた隠しにしながら、日中戦争で使用し、多くの中国人を殺傷しました。

日本軍が毒ガスを製造したのは、陸軍の毒ガス製造工場である大久野島と海軍の毒ガス製造工場の神奈川県の相模海軍工廠の2カ所だけです。

相模海軍工廠は製造が始まったのも1943年で日中戦争末期であり、生産した毒ガスの総量は760トンで本土決戦に備えて国内各地の海軍の貯蔵庫に配備されたが使用されませんでした。

大久野島の毒ガス生産総量は6616トン、その約半分が国外に持ち出され戦争に使用され、日中戦争では約1万の死者が出たといわれています。日本軍が戦争で使用した毒ガスは大久野島で製造されたものでした。
 
3 敗戦時、日本軍は大量の毒ガスを中国に捨てて帰りました。

敗戦時、日本軍は国際条約に違反した毒ガス使用の事実を隠すために、中国の畑の中や川の中などあちこちに毒ガスを棄てて帰りました。そのために戦後、2000人以上の中国の人達が農作業や下水道工事などの時、埋もれていた遺棄毒ガスによって被害に遭い、現在でもその後遺症に苦しんでいます。掘り出された毒ガス缶が何か解らないので調べているとき被害を受けたり、工事中壊れた毒ガス弾の毒液が水の中に漏れ出ていて知らずにその中に足を入れたり毒液をかぶったりして被害を受けました。戦争が終わっても平和に暮れしている人を傷つけ生活を破壊しているのです。

 1993年に発効した化学兵器禁止条約によって日本政府は中国に棄ててきた毒ガス弾を処理する国際的義務を負っています。2003年までに約70万発(中国側の資料では約200万発)を掘り出し処理しなければなりません。これをなすには莫大な費用と時間がかかると予想されます。2000年9月13日黒竜江省の北安市でその処理作業が始まりました。

4 敗戦時、大久野島にも大量の毒ガスが残されたていました。

敗戦直後、大久野島周辺に残されていた毒ガスの量。

敗戦時、大久野島とその周辺には約3000トンの毒ガスと16000発の毒ガス弾が残されていた。これは世界中の人間を殺戮できる量です。国際条約で禁止されていた毒ガスはどのように処理されたのでしょうか。その方法を探っていけば、現在の大久野島の砒素汚染の原因も明らかになってきます。
大久野島の毒ガス処理を請け負って実施した帝国人絹三原工場の社史によると敗戦時の毒ガス貯蔵量は約3000トンでした。
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

方栄昇(男、68歳)の証言

1937年には家は水西門倉巷55号でした。日本兵が南京に侵入してから、私たち一家5人は鼓楼の陰陽営の難民区に逃げて行き避難しました。ある日、日本軍が家に闖入してきて、16歳の弟を捕まえて行ったきり、いまだに音信がありません。その頃父は家のことが心配で、様子を見に帰ろうと思い、結局道の途中で日本軍に銃殺されたのです。(方栄生と李幗義が記録)
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)

●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。

日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷

結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。

裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)


特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
●独り言

・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
 まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私が住んでいる所は自動的に町内会費が天引きされ引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
・ 今、政治の世界では沖縄の普天間基地の移設問題が大きな問題となっているが、そもそも沖縄を軍事基地化させたのは昭和天皇ではなかったか?
 
1947年11月14日に昭和天皇とマッカーサー元帥の第5回目の会談が行われている。その内容は明らかになっていないが、豊下楢彦著(岩波現代文庫)『昭和天皇・マッカーサー会見』によると【もっとも、9月19日付の寺崎の日記は1つの手がかりを与えてくれるようである。そこには、「シーボルトに会う 沖縄の話 元帥[マッカーサー]に今日話すべしと云う 余の意見を聞けり 平和条約に入れず 日米間の条約にすべし」と記されている。
この日、マッカーサーの政治顧問であったシーボルトに対し寺崎から、「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍による沖縄占領の継続を求める、という天皇のメッセージが伝えられたのである。さらに、会見予定が決められる1週間前の10月3日にも両者は沖縄における米国の統治方法をめぐって議論を交わしていることから見て、沖縄問題が議論された可能性が考えられる。】
※シャープの電子辞書パピルス(日本史辞典)で昭和天皇を調べると次のように出てくる。
昭和天皇・・・「・・・・大日本帝国憲法下で統治権を総攬(そうらん)した。‘24久邇宮良子(くにのみやながこ)と結婚。‘26年(昭和1)12月25日践祚(せんそ)して昭和と改元、‘28、11月京都で即位。このころから日本は治安維持法体制による社会運動を弾圧、山東出兵・張作霖(ちょうさくりん)爆殺に始まる中国への武力干渉など、ファシズムと戦争への道を歩んだ。昭和天皇は‘29,6月首相田中義一への不信任を表明して内閣退陣に追い込むなど政局を左右し、満州事変以後は軍の統帥に積極的に関与、‘41の対米英開戦も成算を認めて裁可した。戦局の悪化後も軍部の主張に期待して早期和平論を退け、結果的に惨害を大きくしたすえ、天皇制護持を至上課題として降伏決定過程をリード。しかし対日占領を円滑に進めたいとするアメリカの方針もあって戦争責任は追及されず、新憲法上の象徴天皇の地位を得たが、戦後も政治関与を続けた。・・・・」

●南京大虐殺     

南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント

南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)


またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!

核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。

この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。

防衛研修所戦史室の源流

...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...

※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷したした兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。

※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
 731はもっと無視されているのかも知れない。
 昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!

栗原利一資料集

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼玉県議会:従軍慰安婦問題!

2009-12-15 18:17:57 | Weblog
埼玉県議会の「慰安婦」問題の報告が石垣氏よりありました。参考にしてください!!

桜井よしこという人が、1997年4月号の文藝春秋で石原信雄さんにインタビューした中で、「私どもは資料があれば何処へでも飛んで行って調査しました。けれども、韓国側が気にしていた本人を強制的の強要したという文書はなかったわけです。」と述べているようですが、これも、シェルダン・H・ハリス氏によれば、『陸軍および海軍の公文書はいまだ日本政府の厳しい管理下に置かれている。一般の人が閲覧できるものもあるが、ほとんどは国家の安全保障を口実に封印されている。この中には、戦争行為の決定において昭和天皇が果たした役割、関東軍の司令部にあった参謀幕僚の活動の記録、細菌戦および化学戦部隊のスタッフ兼指揮官であった研究者や医師に関する資料が含まれている。これらの資料は、政府を牛耳っている政治家や官僚たちがその考え方を根本的に変えない限り、研究者に公開されることはないだろう。』になるのではないか?
 日本政府が、簡単に従軍慰安婦などの資料を公開するはずがないと思う!!すでに焼却処分になっているのかも知れない!!

県議会報告、みなさんコメントをお願いします。(平和資料館を考える会:石垣)

                               2009.12.14

上田清司知事「慰安婦」問題、日本軍の関与を認める
<「『従軍慰安婦』という言葉は当時なかった」>


12月10日(木)の埼玉県議会で佐藤征冶郎議員(社民党)の質問に対し、上田知事は「慰安婦」「慰安所」について日本軍の関与があったことは認める、と回答をした。 尚埼玉県平和資料館での「従軍」文字削除については「当時は『従軍慰安婦』という言葉はなかった」として「従軍」文字削除についての見解については答えなかった。 

佐藤議員の質問
 初めに県俳句連盟の大会で県議会議長賞をとった小学6年生の俳句を紹介します。「原爆忌 語りつぐべき 歴史あり」このように、11,12歳の子どもが原爆について、語りつくということを俳句で述べていることに私は感銘致しました。

質問に入ります。
 知事は平成18年(2006年)6月、答弁で「従軍慰安婦問題など日本の戦争責任の論議が多発」と表記がありますが、東西古今慰安婦はいても従軍慰安婦はいません。<野次多数:「そうだ『従軍慰安婦』はいなかった」>兵のいるところに集まってきたり、兵を追っかけて民間の業者が連れていったりするんであって、軍そのものが連れていったりするわけは絶対にないんです。そんなことすれば負けるんです。従って、こういった間違った記述がありますので、こういうのは修正しなければならん、こんなふうに思います」と答弁しています。
 それが発端となって、平和資料館の年表の「従軍慰安婦」の「従軍」を削除されました。これは第3者機関である、平和資料館運営協議会で決めたことになっておりますが、実質的には知事の意向を受けた館側が決めたということが真相であります。 
 
 日本軍の強制の事実の問題ですが。実はここに、昭和13年陸軍省の文書「軍慰安所従業婦募集に関する件」資料で、民間の業者が変な動きがあるが、慰安婦の募集は軍が責任を持ってすることであるから、余計なことをさせるな、という秘密文書が出されています。あるいは軍の慰安所で兵士が順番を待っているという写真も示されています。また「慰安婦」は軍の船、軍用車で運ばれていた、という事実もあります。(むのたけじ従軍記者も証言)このような事実があるのですが、知事はこれまでの発言を撤回しないのでしょうか、お聞かせください。

 また知事の言うように個人の意志で行ったとすれば自由にやめて帰ってくることができた思いますか、その点についてもお聞かせください。
 
 また知事はこうした表記や言動は自虐的だと申しますが、事実を事実とすることがなぜ自虐的なのでしょうか。逆に原爆投下のように被害は被害として語り伝えなければなりません。被害は被害、加害は加害として事実を伝え反省する、このようなことをしなければ再び過ちをおかすことになるのではないでしょうか。自虐的といって事実を否定すべきではない、と思い知事の考え方をお聞きしたいと思います。


 知事答弁 
発言は撤回しないのかの質問について、私は「慰安婦が存在し」「慰安所もあった」軍が何らか形で関わったことは認めています。
 女性の尊厳を踏みにじるようなこのようなことが2度とあってはならないと私自身も思っています。しかし、「いわゆる従軍慰安婦、軍に強制的に徴用されていたという女性は政府の精細な調査によっても見つかっておらない。
 このことは宮沢内閣の官房副長官であった石原信雄氏の証言でも明らかであります。
 これは1997年4月号の文藝春秋で桜井よしこさんが石原信雄さんにインタビューした中で述べています。「私どもは資料があれば何処へでも飛んで行って調査しました。けれども、韓国側が気にしていた本人を強制的の強要したという文書はなかったわけです。なぜ河野談話になったかというと、当時彼女たちの名誉が回復されるということで強制性を認めたのです。
 もし、日本政府による個人補償を求められるという話となったら強制性は認めなかったということです。国家賠償の前提でしたら通常の裁判同様厳密な事実関係による調査による証拠を求めます。両国関係に配慮して善意で強制を認めたのです。従って日本外交の失敗でありますが、長く官房副長官をした石原信雄氏の証言を持って私は政府の正式なものだと私は思っております。        
 
 そもそも「いわゆる従軍慰安婦」という言葉はなく戦後20年後に出てきたのですから、われわれはとらわれる必要はない、従って事実は客観的に伝える必要があるので、私は発言を撤回するつもりはありません。
 次に「慰安婦は自由に帰れるか」と言うことですが、慰安婦は集まったりした、とは言っていますが、個人の意志で行った、という言葉は使っていません。それを拡大解釈して個人の意志で行ったと言われていますが、軍の統制下でもあるしそうでない、いろんなケースがあるので包括的にこれだと言えるわけはないじゃないですか、とお答えします。
 次に反省ですが、孫子がいうように為政者は戦争を避けることに最大の努力をしなければならない。従って戦争で解決しようとした当時の政府のおかした誤りは事実だと思っています。その教訓にたって私たちはただ平和を祈るだけではなくて2度と戦争をしなくてもすむような外交防衛政策を構築して平和を確立していくことが重要だと思っております。 
 過ちを犯した日本に対し同情している高名なアメリカ人もおられます。
 その方の文書「潜在的に日本の要する労働力は量的にも質的にも私がこれまでに接したいずれにも劣らず、優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は人間は怠けているときよりも働き生産しているときの方が、より幸福なのだということ、つまり、労働の尊厳とも呼んで良いようなものを発見していたのです。これほど巨大な労働能力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし、彼らは手に入れるべく原料を得ることができませんでした。日本は絹産業以外には固有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料を欠如している、そしてそれらのものはアジアの界域に存在していたのです。もし、これらの原料の供給を絶ちきられたら、1千万から1千2百万の失業者が発生するであろうであることを彼らは恐れていました。従って彼らは戦争に飛び込んで行った動機は大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。
 これは何を隠そう米国軍事外交合同委員会におけるマッカーサー元帥の証言であります。

 再質問 佐藤議員 
 知事は強制はなかったというが確かに召集令状があったわけではありません。ただ令状はないが騙されて連れて行かれたのが大半でございます。
 私は越谷に在住して、召集令状によって従軍看護婦となった方から「私は習い事で歌と踊りをやっていて『軍の慰問に行ってみないか』と16歳の時言われ行ったが、慰安どころか『慰安婦』にさせられてしまった」と聞きました、これは強制ではないが騙して連れて行ったのだからもっと悪質だと思います。そういう事例があることをぜひ知って欲しい。

 それから「従軍」と言う言葉は当時なかったと言いますが、これについては、中央大学の吉見義明教授が言っていることですが、当時言葉としてなかったとすれば縄文文化とか弥生文化という言葉はなかった、日中戦争も当時は支那事変、北支事変と呼ばれていた。「従軍記者」も当時はなかった、むのたけじ記者も「『従軍記者を命ず』ということで行ったわけではない」と言われています。
 ですから当時言葉としてなかったからということは言い訳にならないと思っております。
 最期に知事は日本軍の慰安婦はいた慰安所はあった、と認めていることですね。このことを確認して終わりにします。

再質問に対する知事の答弁
イレギラーな感想を述べることは構いませんが、それに答えることはできません。それから強制性があったかなかったかについて、石原信雄さんの証言について私はご紹介をしました。私は基本的に日本軍が何らかの形で関与していたということを言っておりますし、そしてそうした慰安所があったことも認めてもおります。但し、今すぐ日本軍の慰安所があったかなかったか突然聞かれたもこれは再質問にないお話しでありますのでお答えしません。

まとめ 石垣

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする