「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」
2、物的証拠
1989年7月、東京の死の工場[陸軍軍医学校]跡地で人骨が発見された。それから10年経った今でも、日本政府は工場跡地の徹底調査に断固反対する姿勢を崩していない。また、第100部隊の本部の置かれていた長春でも、人骨の断片がいくつも発見されている。本書は、第100部隊が行った細菌戦の人体実験について詳しく述べる。内蒙古の海拉爾(ハイラル)では、終戦間際に殺された1万人のための大きな墓がある。このうち少なくとも1000人以上は海拉爾の死の工場で人体実験によって殺された犠牲者である。また、1998年8月には、南京の建設労働者が南京の死の工場で細菌戦の実験のために殺された30体の人骨を掘り出した。29体は頭部が切断され、1体は手足が切断されていた。これらの骸骨の検屍解剖には3カ月以上を要した。検屍解剖の結果わかったことは、彼らが細菌戦の実験に使われたということだ。中国および日本における将来の建設工事で、死の工場で行われていた人体実験の証拠がさらに発掘されることは間違いない。
※これから中国と仲良くやって行こうという時に、日本が過去に行っていた死の工場の事実をしっかり反省し、謝罪することが、日本にとっても大きな国益になると思う。いつまでも過去を隠し、証拠がたくさんあるのに、徹底調査を拒絶し、うそをつくというのは、私には理解できない!!
いったい731部隊関係でどれほど多くの人が犠牲になったのだろう?
ハイラルで1000人以上、南京で30体の人骨、東京でも、多くの人骨が見つかった。
まだ、掘り起こせばたくさん出てくるだろう!!
もちろん、このほかにも、未だに日本軍が地中に埋めてきた毒ガス弾によって、今も中国では多くの被害者が出ているし、その症状は深刻で、家庭崩壊やいじめ、経済的な問題なども発生している。補償もなく、日本では裁判が起こっている。
日本政府の毒ガスの処理活動は遅れているし、そちら関係の会社では、いろいろ汚職の問題も出ているようだが?
民主党はこのような問題にきちんと対処するだろうか?自民党は全くだめだったが!!
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
王秀英(女、58歳)の証言
南京が陥落する前に、家は10人で、寧海路の難民区に避難していました。1937年の陰暦11月14日に、日本兵が突然難民区に闖入(ちんにゅう)してきて、中国兵を検査するという名目で、頭に帽子をかぶり続けたあとのある者や、手にたこのできている者を、みんな中国兵だと見なして、一群また一群といっぱい引っ張って行き、父と一番上の兄も引っ張り出されて行きました。後で耳にしたのでは下関の江辺まで引っ張って行って集団的に銃殺したということなので、母の王昌氏と2番目の兄の王菊華とが下関の江辺の死人が累積している所へ行ってあちこち探し回ったのですが、父の屍も大きい兄のも見つからず、残された私たち母子8人で武学園37号に帰ってからも、今まで杳(よう)として音沙汰がありません。
私には王菊長という小さい弟がいて、足の膝の辺の骨が悪く、床で眠っていても身動きできないのでした。日本兵が中国兵を捜査しに来て、母に強いて弟を秣陵路の医者に連れて行かせようとしましたが、その実は弟を活きたまま焼き殺そうというのでした。母は夜の間に弟を塀の上から担ぎ出し、しばらく柳葉街の叔母の陳王氏の家に住まい日本兵の捜査を避けて隠れました。やがて日本兵が捜査に来て、武学園一帯を鉄条網で囲みこんで捜査し、弟の病気は大いに危険で、他の人に伝染するなどと言いました。1週間しても見つからず、封鎖が解かれたので、母はやっと弟を家に連れて帰りました。その後も弟は病んだりおびえたりして、間もなく死にました。(劉創偉が記録)
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。
裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●独り言
・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私が住んでいる所は自動的に町内会費が天引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
・ 今、政治の世界では沖縄の普天間基地の移設問題が大きな問題となっているが、そもそも沖縄を軍事基地化させたのは昭和天皇ではなかったか?
1947年11月14日に昭和天皇とマッカーサー元帥の第5回目の会談が行われている。その内容は明らかになっていないが、豊下楢彦著(岩波現代文庫)『昭和天皇・マッカーサー会見』によると【もっとも、9月19日付の寺崎の日記は1つの手がかりを与えてくれるようである。そこには、「シーボルトに会う 沖縄の話 元帥[マッカーサー]に今日話すべしと云う 余の意見を聞けり 平和条約に入れず 日米間の条約にすべし」と記されている。
この日、マッカーサーの政治顧問であったシーボルトに対し寺崎から、「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍による沖縄占領の継続を求める、という天皇のメッセージが伝えられたのである。さらに、会見予定が決められる1週間前の10月3日にも両者は沖縄における米国の統治方法をめぐって議論を交わしていることから見て、沖縄問題が議論された可能性が考えられる。】
※シャープの電子辞書パピルス(日本史辞典)で昭和天皇を調べると次のように出てくる。
昭和天皇・・・「・・・・大日本帝国憲法下で統治権を総攬(そうらん)した。‘24久邇宮良子(くにのみやながこ)と結婚。‘26年(昭和1)12月25日践祚(せんそ)して昭和と改元、‘28、11月京都で即位。このころから日本は治安維持法体制による社会運動を弾圧、山東出兵・張作霖(ちょうさくりん)爆殺に始まる中国への武力干渉など、ファシズムと戦争への道を歩んだ。昭和天皇は‘29,6月首相田中義一への不信任を表明して内閣退陣に追い込むなど政局を左右し、満州事変以後は軍の統帥に積極的に関与、‘41の対米英開戦も成算を認めて裁可した。戦局の悪化後も軍部の主張に期待して早期和平論を退け、結果的に惨害を大きくしたすえ、天皇制護持を至上課題として降伏決定過程をリード。しかし対日占領を円滑に進めたいとするアメリカの方針もあって戦争責任は追及されず、新憲法上の象徴天皇の地位を得たが、戦後も政治関与を続けた。・・・・」
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
(ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・
日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。
●南京大虐殺
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷したした兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
731はもっと無視されているのかも知れない。
昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
栗原利一資料集