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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-15 12:11:18 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」


      「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅲ
人体実験は、3種類の別々の経過をたどった。そのうち最も重要なものは、実験室の中での実験で、それは平房、安達、それに満州や中国の占領地域にあったその他の石井部隊の支部で行われた。2つ目は安達での、人体に対する効果を調べる野外実験で、これは上記で論じてきたような撒布システムの原型の有効性をみるために行われたものである。そして最後の3つ目は、民間人や軍の部隊が病原体に身をさらされる実地試験であった。
 何千というのが大げさなら何百もの実験が、人体に対して行われた。石井のマスタープランに基づいて建設されたすべての細菌兵器研究施設に特徴的な秘密の実験室でである。マルタたちは7棟及び8棟の監房から、もしくは支部隊のもう少し小さな収容施設から引っ張ってこられ、秘密の実験施設に入れられる。ここで科学者たちは犠牲者たちに様々に違った量の病原体を注入することで、個々人や一般の人々に特定の病原菌を与える際の適切な量を特定したのである。また、ある食べ物、布、道具もしくは用具が細菌の運搬者として使用できるかどうかを知るために、試験は様々に違う方式で「丸太」に試みられた。人間の被験者たちは、特定の細菌をまぶした様々な食べ物を無理やり食べさせられた。それらの食べ物の中には炭疽菌をまぶしたチョコレート、ペスト菌の入ったクッキーも含まれる。また他の被験者たちには様々な液体(茶、コーヒー、ミルク、水、ビール、スピリッツなど)が与えられ、飲まされたが、それらの液体には病原体が一定量含まれていた。
※実験された人々はたまったものではない!!苦しみ、もだえ、そして最後は生体解剖され、死んでいった。

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
馬秀英(女、77歳)の証言
 1937年に日本の帝国主義が南京を侵略した時、私の家は下浮橋門西金家苑でしたが、家中9人で第3難民区(場所は今の陰陽営一帯)へ行って避難しました。陰暦の11月14日に、2番目の兄が日本兵に殺害されたと言うので、夫の金徳泉が上の息子の金を連れて兄の死体を探しに出て来たら、日本兵に捕まって行きました。その日の午後4時頃に、日本兵が捕まえてきた中国の平民を大量虐殺しに連行していました。日本の軍隊の機関銃手が前を行き、中間に中国平民、後ろが日本の騎兵で、第3難民区の前まで来て、機関銃で掃射をしたのですが、夫もその中にいました。15日から私は夫の死体を探し始めて、20日余り探しても見つからなかったのです。
夫が銃殺されてからは、家中が主な労働力を失ってしまい、夫の母親と私の母とは生活の源がないのと、息子への想いが募るのとで、年寄り2人が10日の内に前後して亡くなりました。それからの生活は更に困難を加え、2番目の息子も5番目の息子も死んでしまったのです。これが日本の鬼が私に家を無くさせ肉親を失わせた惨状なのです。(馬艶が記録)

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
敦化の毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月18日(月) 10:30~11:00
場所:東京地方裁判所 705号法廷

今回も被害者は来日しませんが、この裁判への多くの方の関心を裁判官たちに示すためにも、ぜひ傍聴にいらして下さい。裁判の後、弁護士会館10階、1002号室で裁判の報告集会があります。
*--------------------------------------------*
 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
         care-news☆care-mirai.net
         (☆を@に直してください。)
日本政府は考えてください!!
日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!

●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)

●国の公式見解 
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●マッカーサー
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。

●昭和天皇と731
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)  
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-14 09:43:34 | Weblog

「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」


      「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
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新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
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●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅱ
 細菌爆弾の投下実験は高度4000メートル、2000メートル、1000メートル、200メートルでそれぞれ行われた。当たり前のことだが、低い高度からの投下が最良の成果を上げることが確認された。細菌の噴霧スプレー方式は、有望な進展が見込まれたが、この方式を実用的な細菌兵器と考えられるようにまでするには、さらに多くの研究が必要とされた。731部隊の研究者たちは、ついに戦争終結までに野外での実用に耐えうるスプレー装置を完成させることができなかった。石井が示唆して進めていた細菌兵器開発の多くは、戦後アメリカとソ連の研究者の興味をひいたが、このスプレー装置もそのうちのひとつであった。
(4)特別に訓練された志願者たちが、破壊工作員として、敵の中国軍・国境地帯に駐留しているソ連軍部隊のような潜在的な敵・民間の人々の間に広めるために、細菌兵器の病原体を使った。これらの志願者たちは、1940年から1942年にかけての中国中部における野外実験においてだけでなく、1939年のいわゆるノモンハン事件においても広範囲に使用した。彼らはその破壊工作の訓練活動の過程において、結果的に満州の地元民の命を数多く奪ったのである。

※いろいろな細菌兵器を開発していたことがわかる。また、破壊工作員によって、病原体がまかれ、多くの人々が亡くなったこともあった。

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

夫ないしは妻の被害

鄭永英(女、71歳)の証言
 私は今年71歳です。24歳だった年に、日本兵が南京に来て間もなく、夫が殺されてしまいました。
夫は鄭永福と言い、日本兵が南京に攻め込んでくる前夜に、私と一緒に難を逃れて江北へ行きました。やがて、手紙をもらったのでは、私の父も何日の何時とかに長江を渡って来るというのです。永福が時間通りに長江あたりの埠頭へ出迎えに行きました。彼は待って、待って、ずっと待っても、人影が見えないもので、何か問題が起きたのではないかと想い、焦った余りに、船に乗って家に帰ったのです。
全くうまくないことに、永福の乗った船と私の父が乗った船とが、長江の途中ですぐそばをすれ違いながら、互いの間が離れてしまったのです。永福は長江の南に着いたら、自分のお婆さんが気になって、年寄りが家でも誰も世話する人がいないということのないように、迎えに行って一緒に長江を渡った方がいいと思いました。
その日の夜、永福は年老いた祖母を連れ、それに牛を一頭ひいて、また石埠橋の方へ走ってきましたが、小道は老人が歩きにくく、大きな道を歩いたのでしょう!何と衡陽寺で、日本兵2人にぶつかり、大災難が起きてしまったのです。夫は背が高く、若くて力がありました。日本軍が襟を引き裂き、手を調べて、有無を言わせず、「中央軍」だと決め付けました。永福は良民だと言いましたが、日本兵はワーワーとなって、銃を構え、パンパンと2発、夫は倒れたのです。可愛そうに、ピンピン生きていた人が、いっぺんに居なくなってしまって!
 永福が死んだ後、家には始末する者がいなかったのですが、村の人たちがよくやってくれ、甘家巷で掛け売りのお棺を買い、対門山の上まで担いで置いといてくれました。
何ヶ月かして、私達やっと江北から家に帰れましたが、「大黒柱」を失い、娘2人を抱え、それに老いた父がいて、どうやって日を過ごしたのでしょう?野菜売りをして、10年かかって、やっとお棺のお金をかえし終わったのです。そうした年月に、私の受けた苦しみは、3日3晩かかっても話し切れません!夫は、どんなに苦しんで死んだのでしょう!
(銭敬宏と李家坤が記録)


●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
敦化の毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月18日(月) 10:30~11:00
場所:東京地方裁判所 705号法廷

今回も被害者は来日しませんが、この裁判への多くの方の関心を裁判官たちに示すためにも、ぜひ傍聴にいらして下さい。裁判の後、弁護士会館10階、1002号室で裁判の報告集会があります。
*--------------------------------------------*
 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
         care-news☆care-mirai.net
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日本政府は考えてください!!
日中合同集団検診に国のお金を!!

毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!

●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

●マッカーサー
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-13 18:13:23 | Weblog

「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!

全世界の究極の祈り・願い!!

「No more war!!」

「武器よ!さらば!!」


      「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!

(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」

(昭和天皇の戦争責任を問う。)

(時効なき戦争責任)

●731部隊

『死の工場』(隠蔽された731部隊)

(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅱ
(3)細菌の雲を作ることで広い範囲に細菌を撒布する、そういう目的で行われた野外実験もあった。染料のローダミン〔花紅〕と濃度2~5パーセントのデキストランの煮汁を装てんした静止爆弾、及び通常の爆弾が目的地点に投下され、測定が行われた。細菌を多量に含む霧や砂塵の直接撒布についても研究が行われた。これらの噴霧テストでは、石井によると彼が自ら設計したという独特の装備が使用された。飛行機には、特別に設計されたスプレーのノズルが細菌の詰まった円筒弾とともに外付けされた。目標点の上にくると、細菌が薄い霧状にされて広範囲に撒布された。要するに、731部隊の技術者たちは農薬の空中撒布のような作業に従事していたのだが、ただし撒布していたのは植物・動物、そして人間をころす病原体なのであった。
※ここまでくると、戦争がいかに人間をおかしくするかがわかる。医学者たち?が必死で人をどのようにたくさん殺せるかを必死で毎日考えていた!!それも、食糧難の時にあっても、おいしいものを食べながら!!


●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

夫ないしは妻の被害

徐周氏(女、78歳)の証言

私の家はもともと栖霞山の崗下村でした。夫は王立順と言い、南京で靴の職人をしていました。日本軍が南京を攻撃して来た時に、家に帰ってきました。
民国26年の冬月の14日に、日本軍が崗下村を討伐しようと包囲しました。私と夫はもう村から走り出していたのですが、夫の幼い従弟の王立中お兄ちゃんたち2人(1人が10歳で、1人が8歳、小さい時にお父ちゃんお母ちゃんが死んで、私と夫で看ていた)を連れていたので、どうにも早く走れず、下○橋まで来たら、日本軍に阻まれてしまいました。私たち村の外れまで戻ったら、脱穀場に機関銃が据えられ、田んぼに7、80人ひざまずいていました。私たちもその連行されて来た人の群れに入れられました。日本軍は銃を持ち刀をふるい、ワーワー叫んで、人の襟を引き裂き、人の帽子をひったくり、「中央軍」を探そうとしていました。刀の背で私の首を擦る(する)ので、恐くてぶるぶる震えました。また立順を人の群れから引っ張り出して検査しました。立順は靴を作る職人で、一日中靴の底と面とを縫い合わせていましたから、手にたこができもし「色白な書生」なのは当然なのですが、肩幅があり太っていて背も高かったので、日本軍は彼を疑いました。私がどんなに泣き付いても、日本軍は構わずに、夫と若い人20人余りとを連れて行って、陳家窪村の前で機銃掃射して死なせたのです。
立順はその時やっと32歳、何と若かったことでしょう。夜、私は竹のベッドで死体を抱えて戻りました。痛ましいことに、彼は身体中血だらけで、脇の下を撃ち抜かれ、腕が2太刀斬られ、指が3本斬り落とされていました。私は立順を抱えて身も世もなく泣いたのでした!(李家坤が記録)※○は漢字に変換できない字

●お知らせ

●女たちの戦争と平和資料館

常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)

特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
敦化の毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月18日(月) 10:30~11:00
場所:東京地方裁判所 705号法廷

今回も被害者は来日しませんが、この裁判への多くの方の関心を裁判官たちに示すためにも、ぜひ傍聴にいらして下さい。裁判の後、弁護士会館10階、1002号室で裁判の報告集会があります。
*--------------------------------------------*
 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
         care-news☆care-mirai.net
         (☆を@に直してください。)
日本政府は考えてください!!
日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!

 

●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)

 

●マッカーサー
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731

 ・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。 
 

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-12 08:39:12 | Weblog

「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」


      「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)

●731部隊

『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅱ
研究者たちは、1941年と1942年の2年間、さらに違う形態の爆弾のテストを続けた。各種の宇治型爆弾や「母と娘達」爆弾は、第1義的に、広範囲の土地を汚染することを目的に設計された。アナリストたちは、「〔病原菌に〕感染する傷を負わせることは、2義的なことだった」と記している。炭疽菌爆弾のプロトタイプであるいわゆるハ弾は、特に炭疽病に感染した傷を与えることを目的に設計されたものであった。さらに記しておかねばならないことは、炭疽菌の細菌胞子がひとたび地面に達すれば、その致死性の効果はその地域を無差別に汚染し、半永久的に感染源となるということである。
 アメリカの情報機関の人間によって、戦争直後の時期(1945年9月から1947年8月にかけて)731部隊の将校に対して行われた尋問からは、試験期間を通して動物のみが細菌兵器の効果にさらされた、と読み取れる。しかし、他の証拠から、人間も試験に使用されたと結論づけられる。試験期間中に、100頭以上の馬及び500匹以上の羊が炭疽病に感染する傷を負わされて、かなりの広さの土地が刺激性の霊菌で汚染されたことが知られている。控えめに見積もっても、平房と安達における炭疽病及び霊菌の実験だけで、少なくとも数百の人間の死者が出ているといわれる。野外におけるテストは、間違いなくその犠牲者を数千人単位で増加させたことだろう。
※科学者たち?は本気で細菌兵器の開発を急いだ!!

●南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

夫ないしは妻の被害

張朱氏(女、79歳)の証言
私たち一家は鉄心橋呉尚村に住んでいて、夫は張文華と言いました。1937年の陰暦11月に、日本軍が南京を占領した時、夫は私と娘たち2人を引き連れて避難し賈家窪に住まいました。
 ある日の朝、日本兵7人が村に巡邏しに来て、夫を無理に捕まえて行き、毛公渡のある橋の上連行しました。そこは日本軍の人を殺すと場(とさつば)で、その時橋の下は一面の死体でした。ある日日本兵が夫に狙いを着けて発砲し、夫はすぐさま橋の下の屍の堆の上に倒れて死んでしまったのですが、やっと32歳になったばかりでした。
賈家窪は安全でないので、私は娘たち2人を連れて引き続き難を逃れるしかありませんでした。その時私は身ごもっていて、日本軍に出あってまた災禍に見舞われたくはなく、昼間は歩けず、夜だけこっそり道を急ぐしかなく、丸々2晩かけてやっと牛首山の下の趙家窪まで行って、そこでちょうどよく2番目の弟の朱萬炳と3番目の弟の石全子とに遭遇したのです。着いたばかりでいくらもしない内に、日本兵が又来て、有無を言わせず、3番目の弟の石全子を捕まえ趙家窪から畢家窪のある坂の上まで引っ張って行き、ほほ髭の日本兵が弟を樹の上に吊るし、腿(もも)から肉を一尺ほど切り取りました。石全子は痛くて2度絶叫し、分からなくなってしまい、鮮血が腿から真下にだらだら流れ落ちました。冷酷な日本軍は更に日本刀を振り上げて猛然と頭に斬りかかり、頭が2つに割れて、脳味噌がほとばしり出て、活きながらに斬り殺されたのです。年わずかに22歳でした。2番目の弟の朱萬炳も、間もなく日本兵に銃殺されましたが、たったの26歳でした。(馬金文と毛偉等が記録)


●お知らせ
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
敦化の毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月18日(月) 10:30~11:00
場所:東京地方裁判所 705号法廷

今回も被害者は来日しませんが、この裁判への多くの方の関心を裁判官たちに示すためにも、ぜひ傍聴にいらして下さい。裁判の後、弁護士会館10階、1002号室で裁判の報告集会があります。
*--------------------------------------------*
 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
         care-news☆care-mirai.net
         (☆を@に直してください。)

●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)

●マッカーサー
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
●昭和天皇と731
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-11 14:44:27 | Weblog

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「武器よ!さらば!!」

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きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
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新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅱ
テストの結果は、鋼製の外膜の爆弾が実用的でないことを示していた。というのも、熱を発生する爆発の衝撃で、病原菌はほとんど生き延びることができなかったからである。そこで石井は鋼の代用品として陶磁を使うことにした。彼は、長さ69.9センチ、直径17.8センチで、約9.8リットルの液体を積載可能な磁器性の円筒を備えた多目的宇治爆弾を開発した。最初のテストは、全体的に不満足なものであった。結局彼は、その爆弾を円筒にセルロイド製のヒレを装着することでその投下をうまい具合に導くようにと改良したが、ヒレが適切に機能しなかったため弾道の想定はうまくいかないままであった。
 石井とその同僚はまた、RO爆弾も開発した。これは、高度投下用の爆弾で、約1.9リットル分の多量の細菌を含む液体が積載できたが、設計者たちが期待した通りの働きをしたためしがなかったので、実りのないテストを数回やった後、断念された。最後に科学者たちは、「母と娘達〔“Mother and daughters”〕」という名のひとつのプロトタイプの爆弾を設計した。「母」爆弾には、無線の伝達装置が備え付けられており、その作用で細菌弾頭を持った「娘」爆弾の束が爆発するよう、想定されていた。この爆弾の開発製造に参加した1人が、以下のように報告している―「まず最初に、『母』爆弾が落とされて、続いて『娘』爆弾が落とされる。『娘』爆弾は、『母』爆弾が地面に衝突して無線信号が途切れることを契機に爆発するよう、設計されていた」。しかし、「母と娘達」爆弾は製造に金がかかりすぎ、多大な努力が払われたにもかかわらず、実用兵器になるに至らなかった。
※いろいろな爆弾を考え、実用化しようとしていたことがよくわかる。


●南京大虐殺     

「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

夫ないしは妻の被害

劉慶英(女、92歳)の証言

 1937年の12月13日に、日本の軍隊が南京に攻め込んできて、この上なく凶悪残忍に、殺し、焼き、かすめ、犯しと全てが揃い、無数の住民を撃ち殺し、大量の財物を略奪し、少なからず家屋を焼き払い、数多くの婦女を強姦しと、南京人民は塗炭の苦しみに陥りました。私たちの一家は中国侵略日本軍の大虐殺の被害者です。家はもともと4人で、夫の韓老六、息子の韓小斌、息子の嫁と私でした。1日の内に日本軍は夫と息子とそれに家主の張さんの息子さん2人とをみんな殺してしまったのです。息子はその時20歳で、張さんの息子さん2人と屋内に隠れていて、日本軍の家宅捜索の時に、見つかったのです。大家さんの上の子の張老大は、足のできものがただれて、包帯で縛っていて、下の子の張老二は兵隊だったことがあり、手にたこが出来ていたのですが、息子が2人と一緒に隠れていたので、日本兵は3人が兵隊だったと言い張り、その場で殺害されました。張さん兄弟は頭を斬り落とされ、家の門の前で死にましたが、息子が刀でつつき殺されたのは、全部で9太刀つつかれ、お腹の両側に4太刀ずつと、腕に1太刀で、最後に日本軍がしゅろの縄で腕に傷口を縛り、門まで引きずって行ったら、死んでしまったのです。夫はその時捕まっていたのですが、この惨状を見て、たまらなくなり息子のそばに駆け寄って身もだえしたので、日本軍が激怒し、夫を抱え上げ、井戸の中へ投げ込み、続けて又大きな石を下へ放り投げ、そうやって活きたままぶつけられるのと溺れるのとで、井戸の中で死んだのですが、わずか45歳でした。1日に肉親を2人亡くしたわけですが、それは私を一生傷つけ、一生涯忘れられないことでもあります。(書面での証言)

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
敦化の毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月18日(月) 10:30~11:00
場所:東京地方裁判所 705号法廷

今回も被害者は来日しませんが、この裁判への多くの方の関心を裁判官たちに示すためにも、ぜひ傍聴にいらして下さい。裁判の後、弁護士会館10階、1002号室で裁判の報告集会があります。
*--------------------------------------------*
 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
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●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

●マッカーサー
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)

●昭和天皇と731
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-10 10:45:58 | Weblog

「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」


      「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)

●731部隊

『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅱ
石井の後は北野の指導に従って、平房のエキスパートたちは4つの異なる種類の散布システムについて実験した。
(1)彼らは、2種類の違うタイプの砲弾を研究した。2種類の砲弾とは、通常のガス弾と、「爆発する装薬の部分に細菌懸濁液の詰まった」75ミリの高性能爆発性砲弾である。どちらの砲弾も、実用的でないことがわかり、細菌兵器としての使用は断念された。
(2)平房と安達の研究者たちは、2つの種類の爆弾について研究した。単一目的の高度投下用爆弾が、炭疽病細菌胞子のためだけに設計された。ハ弾と呼ばれたその爆弾は、外壁が薄い鋼製の爆発型の爆弾で、「500ccの炭疽菌乳状液に浸された、1500の円筒状の小片」を内臓していた。もう一方の鋼の外膜に覆われた爆弾は、多目的用宇治型、もしくは宇治型50として設計され、平房および安達の飛行場において広範なテストに使用された。5~6年の一定期間で、2000以上の宇治型50爆弾が、被弾する対象に人間も含む野外テストにおいて爆発させられた。また、別に4000の宇治型50が、異なる高度で飛ぶ飛行機から行う落下実験や、あるいは静止状態での爆発を調べる実験で使われた。
※いろいろな細菌爆弾を作っては、安達(アンダー)の野外試験場で、飛行機を使って爆弾を木に縛った人間の近くに投下し、その結果を詳細に記録していたわけだ!!

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

夫ないしは妻の被害

郭桂氏(女、82歳)の証言
1937年には、夫は家で食堂をしていました。日本の軍隊が南京を占領してから、夫を捕まえて行きクーリーにさせました。夫は商売をしていた人で、労働する力は強くなく、日本軍が担がせようとした物を担いだら動けず、日本兵が尻を1太刀刺して、その時は死ななかったのですが、続いてまた下半身の急所に1太刀くれて、刺し殺されたのです。私が夫の死体を捜しに行って、今の積余村の近くに3層に積まれていた屍の1番下に見つけ、それから埋葬したのです。(高鴻翔と陳和家と○玉琴が記録)○:変換できない漢字

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
敦化の毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月18日(月) 10:30~11:00
場所:東京地方裁判所 705号法廷

今回も被害者は来日しませんが、この裁判への多くの方の関心を裁判官たちに示すためにも、ぜひ傍聴にいらして下さい。裁判の後、弁護士会館10階、1002号室で裁判の報告集会があります。
*--------------------------------------------*
 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
         care-news☆care-mirai.net
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●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

●マッカーサー
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。

●昭和天皇と731
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-10 10:45:58 | Weblog

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全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」


      「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)

●731部隊

『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅱ
石井の後は北野の指導に従って、平房のエキスパートたちは4つの異なる種類の散布システムについて実験した。
(1)彼らは、2種類の違うタイプの砲弾を研究した。2種類の砲弾とは、通常のガス弾と、「爆発する装薬の部分に細菌懸濁液の詰まった」75ミリの高性能爆発性砲弾である。どちらの砲弾も、実用的でないことがわかり、細菌兵器としての使用は断念された。
(2)平房と安達の研究者たちは、2つの種類の爆弾について研究した。単一目的の高度投下用爆弾が、炭疽病細菌胞子のためだけに設計された。ハ弾と呼ばれたその爆弾は、外壁が薄い鋼製の爆発型の爆弾で、「500ccの炭疽菌乳状液に浸された、1500の円筒状の小片」を内臓していた。もう一方の鋼の外膜に覆われた爆弾は、多目的用宇治型、もしくは宇治型50として設計され、平房および安達の飛行場において広範なテストに使用された。5~6年の一定期間で、2000以上の宇治型50爆弾が、被弾する対象に人間も含む野外テストにおいて爆発させられた。また、別に4000の宇治型50が、異なる高度で飛ぶ飛行機から行う落下実験や、あるいは静止状態での爆発を調べる実験で使われた。
※いろいろな細菌爆弾を作っては、安達(アンダー)の野外試験場で、飛行機を使って爆弾を木に縛った人間の近くに投下し、その結果を詳細に記録していたわけだ!!

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

夫ないしは妻の被害

郭桂氏(女、82歳)の証言
1937年には、夫は家で食堂をしていました。日本の軍隊が南京を占領してから、夫を捕まえて行きクーリーにさせました。夫は商売をしていた人で、労働する力は強くなく、日本軍が担がせようとした物を担いだら動けず、日本兵が尻を1太刀刺して、その時は死ななかったのですが、続いてまた下半身の急所に1太刀くれて、刺し殺されたのです。私が夫の死体を捜しに行って、今の積余村の近くに3層に積まれていた屍の1番下に見つけ、それから埋葬したのです。(高鴻翔と陳和家と○玉琴が記録)○:変換できない漢字

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
敦化の毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月18日(月) 10:30~11:00
場所:東京地方裁判所 705号法廷

今回も被害者は来日しませんが、この裁判への多くの方の関心を裁判官たちに示すためにも、ぜひ傍聴にいらして下さい。裁判の後、弁護士会館10階、1002号室で裁判の報告集会があります。
*--------------------------------------------*
 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
         care-news☆care-mirai.net
         (☆を@に直してください。)


●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

●マッカーサー
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。

●昭和天皇と731
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

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・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

・しかし、第2次世界大戦の多くの参戦国のなかで、細菌戦および化学戦(毒ガス)の双方を戦場で行なった国は日本だけであるという事実はあまり知られていない。これらの兵器は、本国だけでなく占領地のあちこちに設立した研究施設で開発されたのである。首都東京でも例外ではなかった。東京には細菌戦研究施設の本拠地の1つがあった。研究所は実質的には死の工場であった。国の内外を問わず、いくつかの研究所では強制的に人体実験が行なわれたのである。そうした行為は、日本軍を有利に導く兵器を是が非でも開発するという強い使命感によるものだった。これらの実験のために、何千人というさまざまな国籍の人々が拷問にも等しい苦痛を強いられたのである。そして、細菌戦・化学戦の研究に役立たなくなった被験者は「いけにえ」(「殺す」の婉曲表現)となり、検屍解剖が行われた後、穴の中に捨てられるか、各実験施設に併設された特殊焼却炉で焼かれた。人体実験の被験者には戦争捕虜も含まれていた。彼らは本国及び占領地で、医師や研究者によってさまざまな病原体実験を施されたのである。
※イタリアは1935年のエチオピア侵略で毒ガスを使用。ナチスドイツもスペイン内戦(1936年-1939年)で毒ガスを使用した。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

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また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
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6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅱ
石井は、彼自身が731部隊の培養設備を設計したと、鼻高々に言っていた。彼は、大きさ約35.5×23×53.3センチで、重さ約11キログラムのジュラルミン製のオーブン式培養缶を使用した。個々の缶に15の細菌培養トレイが入り、それぞれの缶に、必要な細菌を作るための寒天培養基約6.44リットル分が収容可能だった。作業者は、定められた時間間隔をおき、病原体を削り取って手に入れた。腸の微生物は、24時間の間隔をおくことで作られた。ペスト、炭疽病、馬鼻疽の病原体は、48時間おくことで培養された。嫌気菌には、さらに長い熟成期間が必要で、1週間おかなければ採取することができなかった。細菌を込めた砲弾ひとつ作るのに、十分な量の細菌を作り出すためには、900の培養缶を使う必要があった。結果として培養缶は、石井と北野による飽くことを知らぬ病原体需要に応えるために、1939年から戦争終結に至るまで毎年1年365日、1日24時間稼動し続けた。
※これが、日本が本気になって取り組んだ細菌兵器をつくる実態だ!!

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
許金鳳(女、75歳)の証言
1938年の初めは、家は沙洲圩で、あの年私は27歳でした。1月のある日、日本兵が圩に来たので、夫は急いで大きな箪笥(たんす)の中に隠れました。ところが、日本兵は家を焼くのに火を放ちました。夫がもしも家の中にずっとうずくまっていたら、焼き殺されていたでしょう。どうしようもなく、駆け出てきました。日本軍が見つけて、沼のそばまで引きずって行って、銃剣で心臓を突っつき、頭も狙って一発撃ったので、弾が左から入って、右に出て、脳味噌がみんな出てしまいました。夫は死んでからも、日本軍に沼の中へほうり込まれました。
 日本軍が行ってしまってから、私は人に頼んで夫の死体を引き上げてもらいました。埋葬しようとしていたら、また日本軍と出くわしてしまい、日本軍は又もや火を放ち死体を焼き捨てたのです。(郭興仁と劉芳等が記録)

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)

特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
敦化の毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月18日(月) 10:30~11:00
場所:東京地方裁判所 705号法廷

今回も被害者は来日しませんが、この裁判への多くの方の関心を裁判官たちに示すためにも、ぜひ傍聴にいらして下さい。裁判の後、弁護士会館10階、1002号室で裁判の報告集会があります。
*--------------------------------------------*
 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
         care-news☆care-mirai.net
         (☆を@に直してください。)

 

●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)

●マッカーサー
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(遠山茂樹ほか著:『昭和史』より)
・日本占領にあたり、アメリカは日本文化について研究していた。
ルース・ベネディクト著:『菊と刀』・・・第二次大戦中、米軍の攻勢が確実になった頃、政府、戦時情報局は彼女に日本研究の仕事を委嘱した。現地調査が不可能であるため、彼女は、日本に関する書物、日本人の作った映画、在米日本人との面談等を材料として研究をすすめ、対象社会から文化類型を抽出しようとする方法に基づいて、日本文化の基調を探究し、執筆した。日本人は礼儀正しいといわれる一方、不遜で尊大であるともいわれ、固陋であると同時に新しい事物への順応性が高いともいわれる。
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・九大事件・・・1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●昭和天皇と731
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-09 00:53:09 | Weblog

「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
        
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅱ
石井は、彼自身が731部隊の培養設備を設計したと、鼻高々に言っていた。彼は、大きさ約35.5×23×53.3センチで、重さ約11キログラムのジュラルミン製のオーブン式培養缶を使用した。個々の缶に15の細菌培養トレイが入り、それぞれの缶に、必要な細菌を作るための寒天培養基約6.44リットル分が収容可能だった。作業者は、定められた時間間隔をおき、病原体を削り取って手に入れた。腸の微生物は、24時間の間隔をおくことで作られた。ペスト、炭疽病、馬鼻疽の病原体は、48時間おくことで培養された。嫌気菌には、さらに長い熟成期間が必要で、1週間おかなければ採取することができなかった。細菌を込めた砲弾ひとつ作るのに、十分な量の細菌を作り出すためには、900の培養缶を使う必要があった。結果として培養缶は、石井と北野による飽くことを知らぬ病原体需要に応えるために、1939年から戦争終結に至るまで毎年1年365日、1日24時間稼動し続けた。
※これが、日本が本気になって取り組んだ細菌兵器をつくる実態だ!!

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
許金鳳(女、75歳)の証言
1938年の初めは、家は沙洲圩で、あの年私は27歳でした。1月のある日、日本兵が圩に来たので、夫は急いで大きな箪笥(たんす)の中に隠れました。ところが、日本兵は家を焼くのに火を放ちました。夫がもしも家の中にずっとうずくまっていたら、焼き殺されていたでしょう。どうしようもなく、駆け出てきました。日本軍が見つけて、沼のそばまで引きずって行って、銃剣で心臓を突っつき、頭も狙って一発撃ったので、弾が左から入って、右に出て、脳味噌がみんな出てしまいました。夫は死んでからも、日本軍に沼の中へほうり込まれました。
 日本軍が行ってしまってから、私は人に頼んで夫の死体を引き上げてもらいました。埋葬しようとしていたら、また日本軍と出くわしてしまい、日本軍は又もや火を放ち死体を焼き捨てたのです。(郭興仁と劉芳等が記録)

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)

特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階

jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 

●【裁判のお知らせ】(転載)
敦化の毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2010年1月18日(月) 10:30~11:00
場所:東京地方裁判所 705号法廷

今回も被害者は来日しませんが、この裁判への多くの方の関心を裁判官たちに示すためにも、ぜひ傍聴にいらして下さい。裁判の後、弁護士会館10階、1002号室で裁判の報告集会があります。
*--------------------------------------------*
 化学兵器CAREみらい基金メールニュース
 発行:化学兵器CAREみらい基金 事務局
 配信・内容に関するお問い合わせ:
         care-news☆care-mirai.net
         (☆を@に直してください。)

 

●731部隊と天皇

 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)

●国の公式見解 

731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)

・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 ●マッカーサー
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(遠山茂樹ほか著:『昭和史』より)
・日本占領にあたり、アメリカは日本文化について研究していた。
ルース・ベネディクト著:『菊と刀』・・・第二次大戦中、米軍の攻勢が確実になった頃、政府、戦時情報局は彼女に日本研究の仕事を委嘱した。現地調査が不可能であるため、彼女は、日本に関する書物、日本人の作った映画、在米日本人との面談等を材料として研究をすすめ、対象社会から文化類型を抽出しようとする方法に基づいて、日本文化の基調を探究し、執筆した。日本人は礼儀正しいといわれる一方、不遜で尊大であるともいわれ、固陋であると同時に新しい事物への順応性が高いともいわれる。
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・九大事件・・・1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
・アメリカの生物戦計画
アメリカ軍が生物兵器を本格的に研究し始めたのは42年。ソ連やドイツが20年代、日本とイギリスが30年代にそれぞれプロジェクトをスタートさせたことからすると、出遅れた感は否めない。40、41年には731部隊を中心とした日本軍の中国への細菌攻撃があり、敵国日本のそうした動きも兵器開発の動機の1つになったとみていいだろう。・・・・・
1、朝鮮戦争開戦以降、生物兵器を「報復」目的のみに使う従来の政策が抜本的に見直され、軍内で「報復のみ政策」の放棄が提言された。
2、戦局悪化を受けて50年以降、生物兵器生産工場の建設と野外実験が始まった。
●昭和天皇と731
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

コメント
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-01-08 11:33:25 | Weblog

「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」

      「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を
問う。)
(時効なき戦争責任)

●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
 Ⅱ
石井の細菌戦計画において病原体の人体に対する試験を行うことは、主要な部分ながらそれでも一部に過ぎなかった。石井とその同僚たちによって行われたその他の秘密の研究は「2つの要素からなっていた。つまり、①細菌兵器に使用する用剤・細菌の培養方法の決定、および②散布方法の決定である」。「防衛的研究」の名の下、部隊の技術者たちは18の病気に対するワクチンを作り出した。「攻撃的研究」のために、科学者たちはペスト、馬鼻疽(ばびそ)、炭疽病、発疹チフスを引き起こす微生物を含めて、少なくとも12種類の微生物を使って作業した。
 1946年と1947年に、731部隊の元構成員たちを尋問したアメリカ人たちは、石井の冒険的事業の「規模」を知って畏怖の念に打たれた。平房の施設が機能していた間、毎年少なくとも2000万服のワクチンが用意された。大連、ハイラル、林口、孫呉にある731部隊の支部では、さらに莫大な数のワクチンが製造された。たった1つのタイプの発疹チフスのワクチンである、R・P・ワクチンを用意するのに必要な受精卵を手に入れるため、平房だけでも、毎年5万羽のめんどりとおんどりが使われた。少なくとも同様のラットが、R・M・ワクチンを用意するために必要とされた。どちらのワクチンも、液状のものと乾燥させたものの2種類が作られた。

※731部隊に送り込まれた医学者たちも、本気で細菌兵器の開発に取り組んだようだ!!莫大な費用がかかったことだろう!!

●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
楊余氏(女、1905年生まれ)の証言
(昨日の続き)後で分かったのですが、夫が私たちを探しに来ようとした時に、1人のお年寄りに出会って、その方が夫に危ないから探しに行かないようにと勧めてくださり、探しても無駄だし、みんながみんな殺されているとも限らないのだからと言って下さったのですが、・・・・・。なんと夫は妻と子供たちのために、そのお年寄りの止めるのも聴かないで、結局道の途中で日本軍に殺されてしまったのです。あの時、私は弟の家で、夫がどうなっているかが心配でたまらず、ほんとにじっとしていられずに、又も夫を探しに戻って行きました。道に出ても、翼があったら飛んで行けるのにと恨めしがったり、河まで来て河に入っても、水が深いのと冷たいのを恐がったりで、道を歩いてもよろめいたり滑ったり、転んだり這い回ったりして、凍えきって全身がしびれ棒のように硬直してしまった感じになり、防空壕まで懸命に走って来て周りを見回したのですが、活きている人の影すら見つかりませんでした。この時から私は家もなく肉親も失う身となったのです。夫と子供とを失い、防空壕で一挙に6人死なせ、男の子が3人に、女が3人で、1人だけ弟の家に預けていた女の子が残りましたが、それも間もなく病気で死んでしまいました。(王梅影と郭嘉友が記録)

●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) 
 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
●マッカーサー
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・
有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・
さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。
(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・秘蔵の新妻ファイルから読み取れる「免責の系譜」。1945年秋に始まるアメリカ軍の尋問当初から、731部隊には戦犯免責が付与され、部隊幹部、関係者は戦後社会へ復帰の足がかりを確保した。そして47年に人体実験が発覚した際にも、最初の免責が効を奏し、実験データと引き替えにアメリカ本国からも公式に免責が確認された。これで彼らに、戦後の表社会を公然と歩む担保が名実ともに与えられた。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
 一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
●昭和天皇 と731
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。

・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。

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