拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅲ

2022年12月04日 | 老舗の中華料理
萬来軒
 人形町大勝軒系とは別に、都内と千葉に存在する「萬来軒(ばんらいけん)」という店舗群の一部に“バンメン“を提供している、あるいは提供していたという事実がある。

 結論を書いてしまうと、この萬来軒系の「バンメン」は、横浜系すなわち辨麺の大元となる系統とはまったく異なる成立過程を持っている可能性があることが確かめられた。横浜の老舗店でなどで提供されている「辨麺」とはまったく別物の可能性があるということである。此処ではとりあえず便宜的に「萬来軒系」と呼ぶ。

 しかし、である。まったく別物の可能性はあるのだけれど、辨麺という料理はまったく謎が多く、辨麺≒五目うま煮そば・五目餡かけそば、という関係は、やっぱり萬来軒系のバンメンにも当てはまるのだ。結果として「成り立ちは異なるかも知れないが、内容はほぼ同じ」ということになる。これは単なる偶然か、それとも何か理由があるのだろうか?

 「萬来軒系と横浜系と何が違う」のか? 先ほど書いたように成立した過程が横浜系と関連がないけれど、結果的に出来上がった麺料理は、五目うま煮そば、あるいは五目餡かけそばと謳っても何ら違和感はない。ボクは「成立過程中に起きた、理由の後付け」とすることが自然だろうと考えている。その根拠はもちろんないのだけれど、その理由などを書いておく。

 その前に、まずは萬来軒の系譜をたどってみよう。
 そもそも萬来軒という中華料理店はどこが発祥なのか、ということを書く気はさらさらない。「万来(萬来)」、は「千客万来」という四字熟語があるように「多数の人(客)が来ること」を意味するから、どんな業種の商店が名乗っても違和感はない。

 これは以前調べたことがあって、今回は改めて調べなおして書いているのだが、少なくとも都内あるいは近隣県の“萬来軒”という屋号の中華料理店・ラーメン店には、成立と発展別にまとめると四つの系統あることが分かった。すなわち、
1.1924(大正13)年、幡ヶ谷にて創業した「萬来軒」(創業者・下山    氏)。1945(昭和20年、空襲にて焼失したため、二号店であった下記「2.萬来軒」が総本店となった。1955(昭和30)年に二代目が上落合にて「萬来軒」を復活させる。1970(昭和45)年、府中に移転。2018年5月、筆者実食。辨麺はない。

2. 1933(昭和8)年、代田橋にて「萬来軒」二号店開業(店主・福原氏)。のち、「萬来軒総本店」となる。系列店はいっとき40店舗まで増えた。2018年8月、筆者実食するも翌2019年1月、廃業。実食当時、辨麺はなかった。なお、静岡県沼津市に1946(昭和21)年創業の「萬来軒総本店 沼津店」という店が存在していた。2019年には廃業している。沼津市内に萬来軒の屋号を掲げる店がほかに複数確認できるため、沼津市内の“萬来軒の本店”という位置付けと思われ、代田橋・萬来軒総本店の「沼津支店」的ではなかろう。ただ、萬来軒総本店沼津店にはユニークな品名が品書きにあったことを書いておく。
   この店、品書きの左に「品名」を、右側にその説明、を書いてある。たとえば
“47 什景麺 五目めん”
“48 肉絲麺 豚肉細切りの炒め入りそば”
こんな感じ。で、54番目は・・・
“54 広東麺 サンマーメン”。
「広東麺が生碼麺とイコール」というのは、まあ分からなくはないが、他店で見つけたことは一度もない。

3.  1931(昭和6)年創業、半蔵門「萬来軒」。現在も創業地で営業中。2022年9月、筆者実食。辨麺、なし。なお、最寄りの地下鉄駅地下通路に「間もなく創業百年」という案内板を掲示しているが、創業年次は店舗にて筆者が確認している。

4. “暖簾会”的な「萬来軒」店舗群。この店舗群は下表4のグループを形成し、表中の店舗群の一部にバンメンは存在する。表は、「いたのーじさん」(以下「いたさん」)が下表3のNo.3、萬来軒奥戸店(正式店舗名称ではないが、便宜上そう呼ぶ。以下、萬来軒他店も同様表現を用いる。なお、奥戸、とあるが、実際の所在地は隣接する江戸川区西小岩2丁目である)を2022年9月に訪問時、店内で見かけた寄贈鏡に書かれた店舗(店舗所在地)10店をまとめたものがベースとなっている。詳しくは「いたさん」のRDBのレヴューで。

 ボクはまず、寄贈鏡に記載のあった10店について調べてみることとした。なお、表3には12店の記載があるが「いたさん」が見た寄贈鏡にはあくまで10店の記載、である。下欄2段の2店舗については後述する。

 なお、この段階で分かっていることであるが、萬来軒都合四系統のうち、この系統の店舗群のみ、バンメンがあった(ある)ということ。表3のNo.10までの10店舗中、現在も営業中の店はわずか3店のみだが、うち都内の2店は、表記はともあれバンメンを提供している。また、すでに廃業した新小岩店でも提供していたのは確認できている。

 「いたさん」が奥戸店を訪問しているので、ボクは水元の店に向かって確認することとしたのだが、その前に。いたさんが見かけた寄贈鏡がいつ頃製作されたものか、について記す。

 表3のNo.9に「小岩四丁目」という記載がある。これは江戸川区の北部に位置する小岩地区の、住居表示実施前のものであって、現在「小岩四丁目」という地名はない。ボクは地元在住であるから、子どものころに住居表示なるものが実施され、「住所が変わった」記憶がある。

 当該地域に住居表示が実施されたのは、今から50年以上も遡る1966(昭和41)年の3月と9月である。それからして、鏡寄贈はそれより前と分かる。もう50年以上も前のこと、つまり現在も営業中の店は、辨麺提供店に相応しい長い営業歴があるといえよう。ちなみに表No.7の「上平井」も、同1966年に葛飾区で住居表示が実施されたときに消滅した地名(上平井、とあっても江戸川区ではなく葛飾区の地名)である。

 もう一つ。この“暖簾会”的な店舗群だが、暖簾分けを重ねて店舗を増やしていった、いわゆる暖簾会ではない。所在地を見ると10店中、江戸川区内が4・葛飾区内が5と、東京の東部2区に集中しており、千葉の柏の店だけが少し離れている。

 これには理由があって、そしてそれはこの店舗群の成り立ちをも表している。この萬来軒はみな、「ある場所で営業していた中華料理店(仮にB店とする)において、ある特定の時期に働いていた従業員が、その後独立して開いた店のグループの会」なのだ。そして、さらに遡ってそのB店の元となった店もまた現存している。ただし、屋号は萬来軒ではない。これは後でも出てくる話なので、ちょっと記憶に留めておいて欲しい。

 それでは、萬来軒のバンメンとはどんなものなのか? ボクは尋ねた水元店でかなり驚かされる話を聞くことになった。それは、次項で詳しく書くことにする。
 
表3 都内及び千葉県に存在する(した)萬来軒(寄贈鏡掲載10店+2店)
No.
店 名
所 在 地
現在営業
辨麺
備考(バンメンの品書き表記)
1
    柏
柏市永楽台2
×

2
亀 有
該当店不明
3
奥 戸
江戸川区西小岩2
(バンメン)
4
篠 崎
該当店不明
5
細 田
葛飾区細田1
×
G/M※[1]で見る限り廃業
6
水 元
葛飾区水元3
昭和38年創業。(萬メン)
7
上平井
※[2] 該当店不明
8
新小岩
葛飾区東新小岩5
×
廃業している
9
小岩四丁目
※[3] 該当店不明
10
小 岩
江戸川区南小岩4
2018年に廃業している
以下、寄贈鏡には記されていない店
11
※流 山
流山市美原4
創業40年超。(バンメン)
12
国府台
市川市国府台1
創業50年超。(万来バンメン)














  
[11 ※流山] については 注9参照)




■萬来軒系は六軒島系で、バンメンはやはり謎麺
 表題(中見出し)、おそらく「意味が分からない」とお叱りを受けるだろう。ボクもこういう展開は全く予想していなかった。結論から書けば、萬来軒系の「バンメン」は横浜系の「辨麺」とは別物である可能性が浮上してきたわけだ。ただし内容は五目餡掛けそば以外に呼びようがないし、また汁なしの料理ではないから「拌麺」でもない。文字で書くなら、表3 No.6にあるとおりの「萬メン」で、同No.12の「“万”来バンメン」なのである。つまりシンプルな話で、萬来軒だから屋号の頭文字「萬、万」を取って、付けた、ということに過ぎない。実はこの話、同じような話であるのだが、表3 No.11の流山の萬来軒(注9)にて、ボクは2022年夏にそこのオカミさんから聞いていた。

 ただし、「いたさん」が奥戸店を訪ねた際のオカミさんとの会話では、
 『「会計時には「ばんらいけんだからばんめんって言うのですか?」とおかみさんに質問してみる。
 はにかみながら「そうじゃないんですけど、バンメンって名前はわからないんですよね」』
 と否定して見せている。これはどちらが正しいとか記憶違いとかいうようなことではなく、”伝えた側と、伝えられた側”の”受け取り方の相違”であるとボクは考えている。つまりは、「萬来軒だから、ウリは”萬メン”」という単純な命名ではないということだ。それはこの先、明らかになる。

 それでは「寄贈鏡に記載がない流山の店は、水元の萬来軒と関係があるのか?」と問われるだろう。そう、関係は、ある。ついでに書けば、小岩と江戸川を挟んで対岸、千葉の国府台にも萬来軒(表3 No.12。注10)があって、そちらも同じグループに属する。「いたさん」が奥戸店に飾ってあった鏡に書かれた10店に加え、流山と国府台の萬来軒も同一のグループだった、ということである。ほかにもいろいろな疑問があるから、一つずつ解説していく。

 まず、「いたさん」が見た寄贈鏡に流山店と国府台店が記載されていない点。これは単純な話で、鏡が作られた時期にはこの2店舗はまだ存在していなかったからに過ぎない。ボクは国府台の店には2017年1月に、流山の店には2022年9月に出かけてバンメンをいただいている。店のオカミさんに聞いた話では、流山店が営業歴40年超なので1980(昭和55)年前後の創業、国府台店が営業歴55年程度だから1970(昭和45)年前後の創業。寄贈鏡の製作年次は1966(昭和41)以前であることが分かっているから、鏡製作時には2店とも存在していない。店名(所在地名)を入れようがないということだ。

 次に、さらに遡って「この萬来軒の店舗群のルーツはどこの、なんという店」について。その店のことを、少し前に「仮にB店」とする、と書いたわけだが、この項の中見出しにある「六軒島(ろっけんじま)」というのは地名であって、その六軒島にかつて存在した萬来軒という店がそのルーツ、なのである。その店を以下「六軒島萬来軒(系)」と書く。萬来軒系はほかにもあるが、バンメン提供はこの「六軒島系」だけだからだ。


(左:六軒島交差点。右手奥がJR小岩駅、左手手前を進むと葛飾区奥戸。
右:奥戸街道西小岩2・3丁目付近。左手手前の赤い看板が萬来軒奥戸店)

 「いたさん」が萬来軒奥戸店で見た鏡、そこに記されてあった萬来軒10軒は、現在の江戸川区西小岩の「六軒島」という場所に、かつて存在した萬来軒が元になっている。実は、その六軒島という場所は、「いたさん」が訪問した萬来軒奥戸店のほど近くである。具体的に書くと、千葉街道の江戸川に架かる橋・市川橋を東京方面に向かって渡り直進、蔵前橋通りに入りさらに進み、JR小岩駅の入り口前を過ぎるとすぐ、四つ木方面に向かう奥戸街道と分岐する交差点(三叉路)がある。

 その先あたりを俯瞰してみると、蔵前橋通りと奥戸街道、さらには西小岩と鹿本(しかもと)方面を結ぶ区道“鹿本通り”の三本の道路に挟まれた“島”のような形状になっているのが見て取れる。Google Mapで「六軒島」と入力し見てみるとよく分かる。で、ここらを「六軒島」と呼ぶのだ。「いたさん」が訪問した萬来軒奥戸店は、そのまま蔵前橋通りを右に入り、奥戸街道を直進した、すこし先の左側にあるのだ。また、萬来軒水元店ご主人によれば「六軒島より小岩方面に向かった蔵前橋通り沿いにも萬来軒があった(B店ではない)」そうなので、おそらくは表3のNo.9「小岩四丁目店」ではないかとボクは考えている。
 
 さて、ろっけんじま、である。少々変わった地名だ。ボクは小岩が地元、愛着もあるから謂れについて、簡単に書いておこう。
『(今のJR総武線)小岩駅が開業する前年の1898(明治31)年9月、台風の影響により利根川をはじめ幾つかの河川が増水・氾濫し、小岩村辺り一面は水の海となった。この水害の模様を総武本線の車窓から見ると、六軒の家々が浮かぶ島のように見えた事から、この地域に「六軒の島」・「六軒島」と言う俗称が生まれるようになった)』(西小岩六軒島町会HPより。注11)。

 小岩に限ったことではないが、江戸川区はゼロメートル地帯に代表されるように、とにかく水害の多いところであったから、いかにも「らしい」話ではある。ともあれ、昭和30年代、おそらくは昭和20年代からだろうけれど、30年代後半にかけて、「六軒島萬来軒=B店」では多くの若者が働いていた。もちろん、のち独立した萬来軒の各店舗の主(あるじ)となる人全部が同じ時期に勤務していたということではないだろう。数人ずつ、何年かに分かれて勤務し、独立を果たした主たちが一人、また一人と加わってグループを作った、ということである。

 ・・・ボクの悪い癖。話が、飛ぶ。2022年(令和四年)、秋。ちょっとお付き合いを願いたい。葛飾区水元にある町中華・萬来軒。そこでの小さな小さなおはなし。


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注9 流山萬来軒⇒流山市美原4-1195-13。最寄り駅は東武野田線「江戸川台」駅で徒歩7~8分。創業は「40年超」とのこと=オカミサン談。ボクのRDBレヴューは
https://ramendb.supleks.jp/review/1553548.html
注10 国府台萬来軒=市川市国府台1-4-6。最寄り駅は京成線「江戸川駅」で徒歩10分。創業は「50年超」とのこと=オカミサン談。ボクのRDBレヴューはhttps://ramendb.supleks.jp/review/1041182.html
注11 六軒島の地名の由来⇒西小岩六軒島町会の公式サイト、https://www.chokai.info/nishikoiwarokken/029092.php

辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅱ

2022年12月04日 | 老舗の中華料理
■辨麺の発祥は中国で間違いないか
  この辨麺、日本で生まれたのでは、という説もあるのだが、そうではなく、やはり中国で誕生し、横浜に伝わったことは間違いないところであろう。定着する前に、あるいは時間の経過とともに、例えばスープ(汁)の量を多少増やすなど、日本人の好みに変えられたということであれば、そういうことはあったであろうが。

  中国所在の店で“辨麺(「辧・辦・辨・办・弁」を同一文字とみなす)”の存在が確認できたもののみ紹介しておく。

  香港所在の『陸羽茶室』という店。ネット上の大手某グルメサイトのメニュー写真を確認すると、次のような品があることが分かる。
◇鮮菇 生魚辦麵
◇鮮菇 蝦仁辦麵
 (筆注・鮮菇=フレッシュなキノコ、マッシュルーム)
  この品、Webサイト「80C(ハオチー)」(注6)によれば、『料理の写真を見る限り、とろみあんかけそばといった風情』だそうである。また、同サイト(80C)を見ると、上海に本拠地を置く広東料理店「皇朝」でも、braised noodle、すなわち「煮込み麺」として次のような品があることが確認できる。
◇北菇辦麵
◇叉焼辦麵
◇牛肉辦麵

 日本の、横浜を中心とした古い店のごくごく一部の中華料理店にしかない辨麺を、香港や上海の店が“逆輸入”したとは考えにくい。また、「80C」では『香港や広東省では、汁の少ない麺料理に関して、「撈麺(ローメン:極々少量の汁をかけた和えそば)」とバンメンは区別されており、汁の少ない順から多くなるにつれて「撈麵」「辦麵」「湯麵」と分類していると考えられます』としている。

 確認は取れていないので断定する気はないが、日本では、つい先日まで我が国“最古の現役中国料理店”であった明治期創業の「聘珍楼 横浜本店」(1884=明治17=年開業、2022年廃業。横浜中華街)や「旭酒楼」(1910=明治43=年開業、横浜。JR根岸線石川町駅近く)などで、かつて「辨麺」があったという証言もある(従業員用の賄い含む)ことから、「辨麺」は、明治期後半から大正期前半にかけて中華街を中心としたその周辺の横浜エリアに伝わったと考えられる。

 以下はそれを示す資料となるが、情報の元は『焼きそばの歴史 上・下巻』の著者、塩崎省吾氏からいただいたものである。写真を掲載したいところであるが著作権があるため、引用でご容赦いただきたい。

 かつての横浜中華街は南京町と呼ばれていた。その南京町に古くから「成昌楼」という広東料理の店があった。場所は、2022年に廃業してしまったが「聘珍楼横浜本店」の前であったそうだ。創業の詳しい時期は分からないが、1903(明治36)年に書かれた「横浜繁盛記」(注ⅰ)に『又南京料理店は南京町に遠芳樓、聘珍楼、永樂樓、成昌樓などあつて』とあるので1900年ごろからあったことは確かである。また、1929(昭和4)年刊行の「鯖を讀む話」(注ⅱ)にも『横濱山下町に名題(筆注・作品などの”顔”のこと)の支那料理屋である』、と書かれているところからして、著名な店であったであろう。

 その成昌楼の1917(大正6)年の品書き(「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」(注ⅲ)による)、正確には”支那輕便御料理定價表”、であるが、そこに以下の品が記載されている。
◇蟹肉辦麵(ハイヨクバアンメン)
◇蝦仁辦麵(ハイヤンバアンメン)

 余談であるが、この品書きには「伊府麵」のほか「生碼麺」も記載もあって、生碼麺がその時期から存在していたことが分かり、一部で取り沙汰された生碼麺発祥=聘珍楼が昭和初期から出した、という説を打ち消していると、少々話題になった。

【注記 本稿公開後、「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」を取り寄せ改めて確認したところ、当該二品の品名左側に振られている日本語解説的なルビ(注釈。例示⇒「叉焼」 やきぶた)からすると、この二品は「冷やしそば」であった可能性が高い。すなわち現在提供されている辨麺(温かいつゆそば)とは異なるようである。この書の存在をご教示いただいた塩崎氏も同意見であった。詳しくは2022年のうちにはまとめて、公開する予定である。2022年12月8日・記】
 
 さらに1935(昭和10)年ごろの聘珍樓のメニュー(横浜開港資料館所蔵)には
◇辦麵(ばんみん) 金五十五銭
 と記されている。
 
 続けよう。日中戦争のさなかの1941(昭和16)年に刊行された、南支那地方の生活を描いた書「生活習慣南支那篇」(注ⅳ)には、『廣東料理に就ては・・・廣東市政府の書記長を勤めてゐる劉マヌチアン氏(原本は漢字)が調べたもの』として次のように紹介されている。要は当時の広東における店の品書き、である。

 ( )内であるが「かけそばに野菜を添えた物)とある。

 おもしろいのは、この書にある品書きの表記は「」麵であることだ。それ以前は真ん中が「力」(になっている。塩崎氏は「誤植もしくは著者の転記ミスではないか」としている。おそらくこうして「バンメン」の表記は変遷し、いつの間にか真ん中が「リ」の「」麺という表記が定着したのであろう。

 塩崎氏からはまた
『ニューヨークのチャイナタウンにある「Delight 28」や、ロンドンの「Imperial China」という中華料理店でもメニューに掲載されているようです。』
 ともお教えいただいた。
 確かに「Delight 28」では
辨麺類 LO MEIN ◇蠔油北菰辦麺
などとして、「Imperial China」では
辦麵 Braised Egg Noodles ◇ 叉燒辦麵 Cantonese Honey Roast Pork 
 などとして、メニューに記載があるのが確認できる。日本で”絶滅”などといわれるバンメン、辨麺がアメリカやイギリスで食べられるとは驚きである。ボクにあと5年の寿命があるとしなら、是非とも行ってたべたいところである。
(品書きのタイトルと品名が違うのは原文ママ)
 
 話を変えよう。

 ラーメンレヴューに特化したWebサイト「ラーメンデータベース」(以下「RDB」という)で、3800回近くのレヴューを上げ、食べた店舗数は2800店近くという数字を残している『ぬこ@横浜』さん(以下「ぬこさん」)という方は、ハンドルネーム(以下「HN」という)のとおり主に横浜中心に活動されているのだが、「ぬこさん」は

  『生碼麺(サンマーメン)の伝播と合わせて辨麺が伝播していく中で、生碼麺が「もやしそば」に、辨麺が「広東麺」に何らかの理由で呼称が変化した、というのが仮説の一つ』

  と書いておいでだ。ボクもおそらくそういうことだろうと考えている。ただ、理由は多分、名称というか、品名が分かりにくいというごく単純なことなのではないか、と思う。生碼麺、ではそもそもどう読んでいいか分からないし、分かったところでどんな麺料理かも分からない。傍証になると思うので記述しておく。

  表1を見ていただきたい。後で触れるが、表1にある長野のいくつかの店に存在する生碼麺と辨麺、拌麺は、大正期後半の同時期に伝わったと考えられる。うち、生碼麺に関しては品書きに「サンマ麺」や「さんまめん」といった表記が見られる。これは教わった料理人が生碼麺の内容をよく理解しないまま長野で料理を出したからであろう。だから次のような意味があることも理解せず、いや、理解していたかも知れないが、『醤油味の、具の中心はもやしという餡かけそばを、生碼麺=さんまめん、サンマ麺などという』的なシンプルな考え方を持って作ってきたのではないか。

◇生碼麺◇『生馬麺の意味は、生(サン)は「新鮮でしゃきしゃきした」と言う意味。 馬(マー)は「上に載せる」と言う意味があります。つまり新鮮な野菜や肉をサッと 炒めてしゃきしゃき感の有る具を麺の上に載せることから名付けられたと伝われているのです』(「かながわサンマ―麺の会」公式サイト。注7

 生碼麺ではなく辨麺であるが、“分かりにくいから品名を変えた”、その傍証というにはあまりに面白い話があって、ボクにはそれが忘れられない。それは2016年11月のことだった。


 
 表2-2(次項)の中(No.43)、人形町大勝軒の暖簾分け店である日本橋の、通称“三越前大勝軒”で注文時のことである。ボクはこの店に「辨麺」がないことを知っていたので、品書きにあった「うま煮そば」を注文したのだ。もちろん、「うま煮そばをお願いします」と言って。するとその注文を聞いた店員は、なんとまあ、厨房に向かって「バンメンひとつ」と言ったのである。
 その店員に理由を聞くと「うちでは昔からうま煮そばは“バンメン”って呼んでいるんです。理由? さあ?」。

 おそらくは、以前はバンメン(辨麺)として品書きにあったのだが、多くの客から「それは何?」と聞かれ続け、面倒臭くなってうま煮そばに変えたのではないか、とボクは考えている。ただ、主人や古くから働いているスタッフは、バンメンという言葉に慣れているので、うま煮そばの注文が入ったら、聞いた店員が勝手になのか、ルール化してあるのか分からないが、”変換”してバンメンと厨房に伝達していたのであろう。

 なお、この店は他の人形町大勝軒系列店と同様、もう、ない(2019年9月26日廃業)。ただし、建物の老朽化と周辺の再開発のためという理由であり、いずれ再開するという話を複数から聞いているので、復活しまた辨麺の提供を期待したい。まお、店員が“変換”したエピソードはこちらに詳しい(RDB)。

 ちなみに、全く“真逆”の展開であったのが横浜の三渓楼。此処ではボクが「バンメンお願いします」と言ったにも関わらず、注文を聞いたスタッフの女性(娘さん?)は、奥まった厨房に向かって「ウマニそば」と、言ったのである。
 それは、2016年12月のことだった。昭和七年か昭和十八年か、創業年次は定かではないが、山手・本牧エリアで小さいながらも確実な存在感を示していた三渓楼も、この秋、つまり2022年の10月末、姿を消した。店主高齢のため、が理由であった。

三渓楼の、そのときの、ボクのレヴュー。


■横浜から生まれて辨麺の系統は
 汁ありの麺料理、バンメン、辨麺。中国からまず横浜に伝わった。さて、最初はどこの店だったろうか。表2をご覧いただきたい。この中では華香亭本店が最も古い歴史がある
 
 この店、横浜中華街の南端・朱雀門から直線距離でなら1.5kmほどしかない。もっとも、付近をご存じの方ならお分かりだろうが、10kmほどなら歩くことは苦にならないボクでも、中華街からこの店まで歩いて行こうなどとは思わない。なだらかだけではない、時に急な勾配を含んだ坂道をずっと登る・・・。まあ、坂道の多い横浜だから当たり前なのだが。

 辨麺は、明治後期から大正期にかけて、中華街の店に始まり、それが周辺の、現在の地名で言えば山手・本牧、桜木町・野毛、石川町・中村町、伊勢佐木町といったエリア所在の店に広がったことは確かだが、どこが最初の店なぞ、今となっては分かるはずもない。横浜市内以外の神奈川県内、例えば平塚・厚木・小田原などだが、おそらく横浜市内のいずれかの店から伝えられたのだろう。なお、今回は店毎に詳述することはやめておく。
 
それでは、提供エリア毎に提供店を見てみよう。
  1. 横浜市内
 中華街あたりから本牧・山手、桜木町・野毛、伊勢佐木町、石川町・中村町などの周辺地域に広まった辨麺。便宜上横浜系とするが、以下の、「2.」と「3.(萬来軒系は?だが)」はこの横浜系の流れを汲んでいると考えている。ただし、市内の提供店(だった)の一部については、汁なし系の「拌麺」に近いものを提供している店もあった。明治初期から歴史を刻んできた中華街に提供店は非常に少なく、ボクが食べた店では清風楼と聚英程度。聘珍楼(横浜本店)にもあったというが、その聘珍楼も、そして聚英も廃業してしまった。また、石川町駅近くの旭酒楼でもかつて提供していたという話を聞いて伺ったのだが、スタッフから「そんな話は聞いたこともない」と一蹴されてしまった。このときのエピソードはRDBのボクの2017年11月のレヴューにて記してある。

 中華街は、その150年という長い歴史がある割には、100年を超す営業歴がある店が極めて少ないのは二度の大災害があったという理由が大きい。すなわち、関東大震災と太平洋戦争である。さらにこれに令和のコロナも加わって、例えば聘珍楼横浜本店もこの禍に飲み込まれてしまったのは、残念極まりない。


(広東料理店聚英のメニュー。一番に「かに肉あえそば 蟹肉辨麺」とある。右はその
蟹肉辨麺。あえそばとあるが、ご覧の通りスープもちゃんとある。2017年12月)


2. 横浜市以外の神奈川県内
 平塚、厚木、小田原といったエリアに数店舗存在している(していた)が、食べてみれば横浜市内の店と内容的に大きな差異はない。距離的に横浜市内からそれほど離れているわけではなく、横浜市内から伝わって来たと考えて差し支えないだろう。

3. 神奈川県以外の関東地域
 東京都内、千葉、茨城(水戸)などで確認できる。都内と千葉県については、以下2系統にて伝わったと考えられる。
Ⅰ 「人形町大勝軒」系の店舗
Ⅱ 「萬来軒」系の店舗
 この二つのうち、Ⅱ、に関しては、他のすべての系統と成立過程が全く違う可能性もある。それは後述する。

4. 長野県 
 松本市内、上田市内に提供店が今なお残る。便宜上、以下のように呼ぶ。
Ⅰ 長野松本系
Ⅱ 長野上田系
 長野系統は、今まで書いてきたように大元は横浜系であるにしても、萬来軒系とは違った意味で、他のエリアの店舗とは相当異なる成り立ちを持っている可能性が高い。横浜の関連する店や人間関係など、事実を基にして想像を膨らますと、それはとてもとても面白い、興味深い物語になる。






■神奈川以外の関東の辨麺は二系統が存在
 汁あり系の麺料理・辨麺の提供店。神奈川県以外で関東地方所在の店については、水戸所在の大興飯店を除けば、すべて「人形町大勝軒系」か「萬来軒系」の二つに分類できる。なお、水戸・茨城大学近くの『大興飯店』は、店主が横浜中華街での勤務経験があるので、おそらく横浜系として分類して差し支えないだろう。

 それではまず、人形町大勝軒系から考察する。

 □人形町大勝軒系
 考察の前に簡単に「大勝軒」について触れておく。ラーメン界の事情に多少詳しい方であれば、「大勝軒」というブランドは四つの系統に分かれていることをご存じであろう。すなわち、
  1. 人形町大勝軒系
  2. 永福町大勝軒系
  3. 東池袋大勝軒系(丸長系とも)
  4. 麺屋大勝軒系
 このうち、「4.」については歴史も浅く、本稿では触れることがないので割愛する。

  1. 人形町大勝軒系
 1905(明治38)年ごろ、中国出身の林 仁軒 氏と、渡辺半之助 氏の二人で屋台の引き売りを始めたのが最初。1913(大正2)年ごろに人形町に路面店を構えたとのこと。1933(昭和8)年には当時都内、というよりは全国屈指の大繁華街・浅草にも支店を出したほか、暖簾分けにも積極的で、系列店は最盛期には17を数えた。しかし、その大半が個人経営で、後継者不在のため廃業してしまい、2022年11月の時点で営業している店はJR総武線、都営浅草線の浅草橋駅近くにある「大勝軒(台東区浅草橋2丁目。創業1946=昭和21=年)」のみ。茅場町所在の「新川大勝軒(飯店)」(中央区新川1丁目。創業1914=大正3=年)は、人形町系だったそうだが、随分と前に経営者が変わり、今となっては関連がないという。
  
 確認をとれた範囲でのみ、辨麺の有無と、有りの場合の表記について記載しておく(店名は正式な屋号ではなく、便宜的に地名等から表記した)。
 ◇(廃業)人形町大勝軒本店 提供あり。辨麺。
 ◇浅草橋大勝軒 提供なし。
 ◇(廃業)三越前大勝軒 中央区日本橋本町1丁目。1933(昭和8)年~2019年。提供あり。ただし、本稿でも触れているようにうま煮そばと品書きにあり、店員が辨麺に“変換”。筆者実食。
 ◇(廃業)日本橋大勝軒 中央区日本橋本町3丁目。「日本橋よし町」→「日本橋大勝軒」→「HALE WILLOWS」と変遷。最終的に2019年に廃業。提供あり。辨麺、バンメン。筆者実食。
 ◇(廃業)横山町大勝軒 馬喰町大勝軒とも。中央区日本橋横山町。1924(大正13)年~2018年。提供あり。バン麺。筆者実食。


(日本橋横山町・大勝軒のバンメン。大正13年創業で、
とての雰囲気のある店だったが既に廃業。2017年8月)

2.永福町大勝軒系
 1955(昭和30)年に草村賢治氏が26歳のときに杉並区永福町にて創業。“永福系”の特徴は“煮干し”“鰹節”の出汁が強いスープ、全体的な量が多い、というところにあって、固定ファンは極めて多い。「大勝軒」と屋号になくとも系列(出身)店は数多く、例えば松戸「中華そば まるき」、現在は新宿御苑にある(創業時は幡ヶ谷)「金色不如帰」、三軒茶屋所在「めん和正」等々、人気店も数知れないが、ボクはこの系列店で辨麺に出会ったことはない。

3.東池袋大勝軒系
 「東池(ひがしいけ)大勝軒」、「丸長系大勝軒」とも呼ばれるこの系統は、つけ麺で知られる故・山岸一雄氏によって1961(昭和36)年に創業。系列(出身)店は永福系よりさらに多く、行列店も多数ある。元を辿ると、1947(昭和22)年創業の荻窪の「丸長」、さらに山岸氏も在籍した「中野大勝軒」、「代々木上原大勝軒」へとつながる。ただ、永福町系同様、辨麺を提供している店は聞いたことがない。

 こうして、人形町大勝軒系にのみ辨麺は伝わった。「4.」を除く三つの大勝軒はいずれも創業店の営業歴が60年超という歴史のある店舗群であるが、人形町系のみが戦前から存在している。辨麺は現在提供している店や過去提供していた店も含め考えると、横浜に伝わって以降、市内やその他エリアに広がりを見せたのは大正初期から昭和初期にかけての、ごく短い期間であると推測できるため、人形町系のみにしか存在しないというのも頷ける。

 なお、「大勝軒」の屋号の由来については、日露戦争(1904~1905、明治37~38)において日本が“大勝”したからと一般的に伝えられており、それも有力な説では違いないものの、
一、年号が「大正」に変わったときだったから
一、乃木「大将」が活躍したころだから
 といった説もある(この項、注8記載のWebサイトを参照した)。



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注6  WEBサイト「80C(ハオチー)」⇒日本橋箱崎町にて1953年に創業した株式会社中華・高橋が運営するWEBサイト。キャッチフレーズは「中華料理がわかるWEBメディア」。バンメンに関するページはhttps://80c.jp/restaurant/20210428-1.html
注ⅰ 横浜繁盛記⇒横濱新報社著作部・著、発行。1903(明治36)年4月刊。ちなみに横濱新報は、1890(明治23)年2月に創刊した「横濱貿易新聞」を前身とし、のち、現在の「神奈川新聞」となる。
注ⅱ 鯖を讀む話⇒下村海南・著、日本評論社、1929(昭和4)年8月刊)
注ⅲ 「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」⇒増田太次郎・著、 ビジネス社、1986(昭和61)年10月刊)
注ⅳ「生活習慣南支那篇」⇒タイトルとおり、日中戦争のさなかの南支那=広東省・海南省・広西チワン族自治区の3省区=における生活様式を書いた書で約300頁。米田裕太朗・著、教材社、日本出版配給株式会社・配給、1941(昭和16)年11月刊)
注7 かながわサンマ―麺の会公式サイト⇒『サンマー麺の会は 神奈川県中華組合に所属し、歴史のある美味しいサンマーメンを より多くのお客様に知って頂くため、全国にその名を轟かせようと 日々努力を続けており、料理人として腕に自信を持った有志の集まり』。http://sannma-men.com/index.html)
注8 人形町大勝軒関連のWebサイト⇒『1913年創業・元祖大勝軒は「珈琲大勝軒」に。後のGHQ専用料理人が生んだ大勝軒のすごい歴史』。東急メディア・コミュニケーションズ発行、デイリーポータル2020年3月11日付特集。




辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅰ

2022年12月04日 | 老舗の中華料理
*本稿は、事実を踏まえて筆者の想像を膨らまして執筆したものです。可能性の一つとしてこんなことがあったのかも、という程度にお考えいただき、お読みいただければ幸いです、特に
 -----★----- (↓)(↑)
に囲まれた文章は、事実を基にしてはおりますが、筆者が推測・想像して創作した箇所であることをお断りしておきます。また、本稿をお読みいただく前に私のラーメンデータベース(RDB)のレヴューを先にお読みいただきますと、少しだけ面白みが増すかと存じます。

松本「驪山」⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1576565.html
上田「福昇亭」⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1555670.html
四つ木「まんまる」⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1570390.html
三越前「大勝軒」(廃業)⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1028388.html
山手(横浜)「三渓楼 」(廃業)⇒https://ramendb.supleks.jp/review/1031520.html

*本稿中、RDBとはWebサイト「ラーメンデータベース」(株式会社スープレックス運営)、WikiとあるのはWeb百科事典「Wikipedia」のことを指します。
*本稿中、「現在」とあるのは2022年11月下旬現在です。
*本稿中の写真は筆者が原則撮影したものです。
*本稿中、「バンメン」の表記については、該当する店の表記などにできるだけ合わせてありますが、一般的な表記は「汁あり=辨麺」「汁なし=拌麺」にしてあります。
*本稿中、引用した古い資料・史料や文芸作品等については、原則原文ママですので、仮名遣いなどは現在と違う箇所もありますし、不快用語などが含まれていることがあります。
*本稿中の引用資料や補足説明は(注)として別に記載しています。また、引用文中に(筆注)は筆者が該当箇所について補足等をしたもので、(注)と同様、別に記載してあります。なお、(注ⅰ)のように注釈の番号が一部連続していない箇所がありますが、これはある程度原稿が完成してから注釈を挿入したことによるものです。
*本稿執筆にあたり、多くの方々にご協力いただきました。本稿文末にお名前等を紹介させていただきました。この場を借りて深く御礼申し上げます。なお、当然のことながら、本稿の文責は当方(筆者)にあります。
*「いたのーじ」さんには辨麺提供店リスト作成等で大変お力添えをいただきました。なお、「いたのーじ」さんとは、RDBにおけるハンドルネームであり、本稿では「いたさん」と表記しています。
また本稿中「研究会(さん)」とあるのは、淺草來々軒が「日本最初のラーメン専門店ではない」とする説を最初に公表した書『お好み焼きの物語』注1などの著作がある「近代食文化研究会」のことです。さらに、”塩崎省吾氏”とは、『焼きそばの歴史 上・下巻』(注1‐2)の著者、塩崎省吾氏です。
 
(「驪山」の”バン麺”)

■「汁そば」なのに「拌麺(まぜそば)」とはさて?
 ・・・この店での表記は、「バン麺」である。

 横浜は山手・本牧エリアの、古い中華料理店を中心とした本当に、ごく一部の店でしか通用しないのだが、スープ(汁)がたっぷり丼の中にある、五目餡掛けそば風の調理麺、麺料理を「辨麺(バンメン)」と呼ぶ。類似の、というよりはほとんどイコールの麺料理を挙げれば、それは“広東麺”であろう。で、同じ“バンメン”と発音する麺料理が別にあって、そちらは汁がない、混ぜそばとか和えそばとかいった類のモノだが、それは「拌麺(バンメン)」という。

  ところが。この店では勝手が違う。ボクはたった今、スープがたっぷり入った汁そばを、食べた。けれど、この店のオカミさんはボクに向かってはっきりとこう言った。

   「うちのはね、拌麺、なのね。そうよ、混ぜるとかいう意味の、バン麺」。
  さて、これは一体どういうことか? 

  秋分を過ぎたのに真夏のような陽射しが厳しい、信州・松本。ボクはオカミさんの言葉を何度も繰り返し、その意味を確かめようとしていた。

  実際の時間は10秒にも満たない時間だったろう。ボクはその僅かな時間で浮かんだその考えを、口には出さずに呟くのだ。オカミさん、それ、勘違いだよ。今さっき、ボクが食べた「バン麺」は間違いなく汁そばで、漢字で書くなら「辨麺」であって、汁なしの、混ぜるとかいう意味の「バン麺」、「拌麺」とは別物さ。

  いや。
  呟く傍から、ボクの中で違った考えが横槍を入れてくる。

  待てよ・・・・オカミさんは間違いなく「混ぜるかとの意味の、バン麺」と言ったのだ。ということはだ、オカミさんは「拌麺」と「辨麺」を区別してそう言った。つまり、この店では、汁そばの、五目餡掛けそば風の麺料理を、「かき混ぜて食べる」から“拌麺”であるというのだ。そして、そのバン麺の“あたま”(餡掛けの具の部分)を載せた汁なしの、揚げそばの、かき混ぜて食べる麺料理を、“焼きそば”というのである。一般の中華料理店なら「五目餡掛けカタヤキソバ」と呼ぶのが常であろう。

  もう一度、自分に問う。
  さて、これは一体どういうことか? 

  ボクはまた混乱する。そして入店する前に、店外で見た品書きの一部を思い出す。

  そうだよ、店頭の品書きにもいくつか「拌麺」、と書かれたモノがあった。それはもちろん焼きそばのことではなくて、数種類の「涼拌麺(リャンバンメン)」、冷やしバンメンであった。

  ボクはこのときまだ、ブロガーnakoさんのことは知らないし、だから当然nakoさんがブログで書いていた冷やしバンメンのことも、知らない。知るのは、もう少し先のこと。


(”コマツ・プラザ”と驪山外観)
 
 ・・2022年9月末、此処、信州長野・松本の気温は30度を超えていた。真夏のような日差しが容赦なく照り付けていて、汗が滴る。冷房で冷えているであろう店の中に早く入りたいのだが、ボクにとっては運悪く、店内満員の盛況振りだ。数分のち、一組二人の客が店から出てきたが、「ごめんなさいね」と女性スタッフがボクに告げ、あろうことかボクの後ろに並んだ男性客二人を先に案内していった。おいおい、ボクが先に・・・と思ったが、空いたのは4人掛けのテーブル席のようで、単身客のボクを案内するのは効率が悪いということだろう。まあ、良い。それにすぐスタッフが「暑いでしょうから中でお待ちください」と店内に招き入れてくれたから、此処は大人の対応がスマートだ。

 長野県松本市、桐。コマツ・プラザという小さな飲食店数店が集まるミニ・レストラン街、とでも言おうか。松本駅から、松本城の脇を通る循環路線バスで20分ほど、信州大学医学部付属病院や松本深志高校が近くにある。

  店の名は、驪山、という。れいざん、である。中国・陝西(せんせい)省中部には実在する同名の山(ただし、れいざん、ではなく、りざん)があり、始皇帝陵のことも驪山と呼ぶそうだが、関連があるのだろうか?

  この驪山、松本市内にかつて存在した「竹乃家」という中華料理店、広東料理店の系譜に連なる、ちょっと高級な中華料理店である。此処の店主は竹乃家の孫娘さんの御夫君で、その奥方(孫娘)、ご子息とで営んでおいでだ。創業は1977(昭和52)年というから、45年の営業歴である。竹乃家は、時代・歴史小説家であり、稀代の美食家でもある池波正太郎が愛した店と知られていたそうだが、ボクの目的は、そう、「バンメン」を食べることの、ただそれ一点。事情が許せば、この店のバン麺のことも聞こうではないかとの腹積もりで、わざわざ東京から、本稿のもう一方の課題店・上田市所在の福昇亭(2を前日に訪問し、此処までやって来た訳である。

 ・・・店内に案内されたあと、ボクは所在なくカウンターのレジ脇で他の客の動向を見つめていたが、間もなくカウンター席に案内される。事前の予習通り、店内はまさに喫茶店、それも昭和のころの純喫茶、たとえばガロが歌った「学生街の喫茶店」(1973年リリース)に出てくるような、という風情である。照明が落ちれば、カンターバーにでも早変わりでもしそうではあるが。

 バン麺が届けられるまで、他の客が頼んだ品を観察する。ああ、やっぱりな、此処も昨日食べた上田の福昇亭もそうだったが、圧倒的人気なのは「焼きそば」なのである。ほとんどの客はソレが目当て。

  焼きそば、と聞けば、ソース焼きそばを思い浮かべる方も多いだろうが、それは的外れ、まったくのベツモノ。近いのは「餡かけカタヤキソバ」で、特徴的なのは錦糸卵が載っていること。そうそう、横浜は伊勢佐木町の玉泉亭(注3)の「カタヤキソバ」に似ているかな。ネットのレヴュー記事では、例えば横浜中華街の萬珍楼(注4)との相似性を指摘するものもある。あとで詳述するが、この焼きそばこそが“信州のソウルフード”とも呼ばれる食べ物である。しかし不思議なことに、ネットで調べると、長野で著名な焼きそばの店というとボクが前日伺った上田市所在の福昇亭で、その店は創業店として頻回に出てくるのだが、この驪山はほとんど目にしない。理由は・・・、分からない。

 ボクが注文したのはバン麺であるから、食べていない焼きそばの味についてはコメントできない。2人以上で来ることができればシェアするということも考えるのだが、バンメンだけを食べに都内から長野に出向く相当なモノ好きは、まあ、いない。

  ともあれ、頂いたバン麺。見た目は横浜あたりで提供されるソレよりずっとシンプル。しかしやっぱり特徴がある。“あたま”の上にさらに載る、錦糸卵、である。前日に伺った上田・福昇亭にしてもそうだが、長野名物焼きそばはもちろん、長野でいただく“バンメン”ならば、これは必須アイテムだ。麺も福昇亭同様、極細。焼きそばは揚げ麺だが、バン麺の麺は無論揚げていない。

  竹之家の時代は製麺機もあったそうだが、あまりにデカく、現在は製麺機ごと某製麺所に預け、驪山専用の麺を作ってもらっているという、まさに特注麺。ただボクとしては、好みの問題だろうけれど、これはあまりに細すぎる、か。スープには特筆すべきものはないけれど、言ってみれば多くの方がスッと受け入れてしまうようなテイストだ。そうそう、池波正太郎絶賛の叉焼は、やっぱりそこらの町中華とはベツモノと書いておく。

 ボクはそのバン麺を食べ終えて、ダメ元と思いつつ女性スタッフにこう尋ねた。
  「バンメン、って置いてある店は珍しいですよね? 何でバンメンって言うのでしょう?」。
  スタッフは「えっ? それは・・・分からないので・・・」と怪訝な表情を見せたかと思うと、おもむろに「オカミさん、お客さんがバン麺のことをお聞きになりたいそうですけど」と奥の厨房に向かって話しかけたのだ。

 そしてオカミさんの登場。「うちのは混ぜるとかいう意味の拌麺なの」という冒頭の発言につながったわけだ。此処のバン麺は、汁そばでありながら「拌麺」だと仰る。勘違いではなく、「拌麺」と「辨麺」の違いを知りながら、あえて「うちのバンメンは、まぜそば、のバン麺(拌麺)」と言うのであった。

 もう一度、自分に問うのである。ボクが食べたのは紛うことなき汁そばの、すなわち辨麺であって、オカミが言うところの「混ぜそば=拌麺」ではない。それでもオカミはその違いを知ったうえで拌麺だと言う。
さて、これは一体どういうことか? ・・・・・

 さあ、面白くなってきたじゃないか。長野まで来た甲斐は十分あったということだ。

■「辨麺」と「拌麺」の違いは?
 何を言っているのか分からない、という方もおいでだろうから、簡単に解説しておく。ネット上では7~8年ほど前から『ラーメン界のシーラカンス 辨麺』などと題したブログなどが随分と登場している。

  改めて、「辨麺」、である。ベンメン、ではなくバンメンと読む。一般的に言うところの広東麺若しくは五目うま煮そば、あるいは五目餡掛けそばに似ている調理麺のことで、なぜ「辨麺」と呼ぶのか、今一つはっきりしない、というのが多くの方の説明だ。

  ラーメン界のシーラカンスなどと呼ばれる理由は、
  • この品を提供している店が非常に少ないこと。
  • 提供している店は、ほぼ例外なく開業して五十年やら百年やらという長い営業歴を誇る店ばかり。また、“町中華”と呼ばれるような個人店が多く、後継者不在で廃業するなどして年々減少していること。現に、2019年から2022年の僅か4年の間に、10店舗が廃業してしまっている。減少率でいうなら25%超である。もはや現役で提供している店は、知りうる限りでは全国で25店舗程度になってしまった。
  • 提供店の多くは横浜市内、とりわけ中華街の奥に位置する山手・本牧のごく狭いエリアに集中している(いた)こと、ほかに横浜市以外の神奈川県に数店、県外では東京、千葉、茨城、長野の4都県に数店あるのみということ などが挙げられる。
 ボクがこの調理麺のことを知り、最初に食べたのが2016年6月のこと。横浜は野毛地区にある「中華料理 萬福」(注5)という店であった。2016年当時、まだ「辨麺(バンメン)」は同じ発音の「拌麺(バンメン)」と混同されることが多かった。違いははっきりしていて「辨麺」は汁そば、「拌麺」は和えそば・まぜそばなのである。「拌麺」のほうは都内でも時折見かけるもので、どこの中華店にもある、というほどではもちろんないが、さほど珍しい品ではない。

 漢字の「拌」は「混ぜる」の意があり、和えそば・まぜそばの名称としてはまずは相応しい。一方、「辨」は「分ける、区別する」などの意があり、これがなぜ広東麺あるいは五目餡かけそば、五目うま煮そばの別称になるのかはよく分かっていない。ちなみに「辦」や「弁」などの漢字の関係は別図-1のとおりである。「バンメン」を漢字表記した際の“バン”の字=「辧・辦・辨・办・弁」の字は本稿中において、同一と考えて差し支えない。



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注1 『お好み焼きの物語』⇒「執念の調査が解き明かす新戦前史 お好み焼きの物語」、近代食文化研究会/著、新紀元社、2019年1月刊。第二版『お好み焼きの戦前史 Kindle版」もあり。他に『牛丼の戦前史』『焼鳥の戦前史』『串かつの戦前史』等を出版。膨大な収集資料を的確に取りまとめ、近代の食文化史を解き明かしている。研究会とあるが、実際の活動は個人である)
注1-2 『焼きそばの歴史 上・下巻』⇒塩崎省吾 /著。上巻は『ソース焼きそば編』2019年12月刊 、下巻は『炒麺編』2021年6月刊。いずれもKindle版。
注2 上田の福昇亭⇒長野県上田市中央2-9-4。前日の昼、ボクはこの店でバンメンを食べている。WEBサイト『ラーメンデータベース(RDB)』でのボクのレヴューを参照されたい。https://ramendb.supleks.jp/review/1555670.html
注3 玉泉亭⇒横浜市中区伊勢佐木町5丁目所在。創業1918(大正7)年の創業。「生碼麺(サンマーメン)発祥店」とも一部で言われる、横浜を代表する老舗中華料理店。横浜駅東口地下街に支店はあるが、「辨麺」はない。
注4 萬珍楼⇒横浜中華街所在の広東料理店。創業は1892=明治25年で、同じ中華街にあった1884年創業の聘珍楼横浜本店が廃業(移転という話もあるが)したため、創業時から同じ場所で営業する現存中華料理店では最も歴史が長い店となった。
注5 中華料理萬福⇒横浜市中区宮川町2丁目所在。2022年4月に一度閉業したようだが、現在は復活営業されている)