拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅴ

2022年12月05日 | 老舗の中華料理


(実にウマそうである。横浜市内伊勢佐木町近くにあったコトブキ亭のバンメン。
此処も廃業してしまった。2016年12月)
 
 
■バンメン、長野に渡る
 これから長野に伝わったバンメンを、便宜上「長野系」と呼ぶが、長野の松本や上田へ「バンメン」は、どういう経路をたどって伝わったのだろうか? なによりそれは果たしてそれは分かるのだろうか?
 
 多分、こういうルートとではないか、いうのは案外、簡単に分かった。ただそれは、偶然が偶然を呼んだ、という以外にない。ちょっと脇道にそれるが、面白い話なのでお付き合いいただきたい。

 その前に。後で詳述するのだが、長野の松本と上田に伝わった経緯は、おそらく横浜が起点であり、その時期はまったく同じか、ほぼ同じころと考えている。ただ、それは確証があるわけではないし、有力な手掛かりというのがあるわけでもない。状況証拠、とでも書けばいいのだろうか、いくつかの傍証が重なった末のボクの推測、である。がしかし、伝わった時期は違ったとしてもそれほどの時間差はなかったはずだし、推測に大きな誤りはないはずと考えている。

 また、横浜から最初に伝わった時点では、少なくとも2人の料理人がかかわっていたことに間違いないと考えている。この2人、ボクが想像するに、同じ時期に横浜から長野に移った際、二手に分かれることになった。その理由は・・・現時点では分からない。

 その場所は松本市内と長野市権堂。ただし、権堂のほうの店はやがて上田に移るため、此処では便宜上「長野・松本系」と「長野・上田系」と表現し、二つに分けて記述する。

 先ほど、長野に伝わった経緯について案外簡単に分かった、ただそれは偶然が重なったおかげと書いた。まず長野に伝わったルートのうち松本系のほうなのだが、それはこういうことである。


 (上田「福昇亭」。2022年9月)

 偶然が重なった背景について簡単に書く。ボクのブログの他のタイトル項で何度か書いているが、ボクは2019年の正月、60歳を目前にして大腸がんが見つかった。発覚時、すでに相当進行しており、即入院即手術。その時点で遠隔転移はなかったものの、その可能性が今後は高くなるとされるステージⅢbということであった。案の定、その後、両肺転移を起こし両肺部分切除、さらに多発性肝転移、腹膜播種、おまけに原発性であろう胆管がんも見つかるという始末。胆管閉塞を繰り返したためステント挿入するも頻回に閉塞性胆管炎を起こして熱発を繰り返し、もはや外食・外出すらままならないという現状である。主治医からは、がんの進行は思ったほどでもないが、胆管の炎症の予測は難しい、開腹してオペができるという状況にはとうになく、黄疸が出て処置がうまく出来ないとか、胆管炎の症状が急速に悪化するなどすれば余命数か月、という宣告も受けている。初めてのがん診断・手術から4年近くになるが、入院7回オペ5回、病院で最期は嫌だと痛切に感じているため、今は訪問診療・訪問看護をお願いしている状況なので、正直なところもういいいや、という気持ちもないでない。

 で、ボクはこの4年間ずっと“終活”を続けており、その一環として蔵書を片っ端から処分してきた。おそらく千冊ははるかに超える蔵書のうち、小説などは古書店に売り払い、貴重・希少な新書や雑誌のバックナンバーなどはネットオークションにかけて売却などしたわけだが、残ったものの中に、こうしてブログを書く参考としているラーメン関係の書籍や雑誌があるのである。およそ70冊、中には入手困難なものだってあるのだよ。おそらくこの世を去る直前まで手元に残すことになるが、その先は? と考えたときに、同じ趣味を持つ方に貰ってもらうのがよろしいのかな、と考えていた。まあ、これが背景だ。
 
 話を変えて進める。2022年の初秋、ボクが調査(?)のため長野に向かう、ほんの数日前のことであった。ボクは、ボクの地元のファミレスで二人の男性と向かい合って話をしていた。一人は、このブログでのシリーズの一回目、淺草來々軒を書いて以降、随分とお世話になっている研究会の方。それまでメールなどでは連絡を取り合っていたのだが、実際にお会いするのは初めてであった。で、もう一人は研究会の方がお連れになった方で、ボクにお礼を言いたいと仰るのでお連れした、ということだ。

 連れの方のお名前は髙橋さんと仰る。まだお若い方で、勤務していたテレビ局を最近お辞めになり独立、起業されたそうだ。片足どころか両足の膝くらいまでは棺桶に足を突っ込んでいるボクにすれば、ただ若いということだけで羨ましく、そしてその若さで起業されるという才能と勇気に拍手し・・・そんな様々な感情が自分の中に交叉された状態で向き合っていた。

 なんてね。まあね、それは極めてシンプルに言えば、還暦過ぎの爺の愚痴ではなく、ただ単純に若さへの憧憬である、とご理解いただくとして、それはさておき、お礼というのは、淺草來々軒のことをボクがブログで書いたことへの、ということであった。そう、髙橋さんは淺草來々軒初代主(あるじ)、つまり創業者である尾崎寛一氏の玄孫(やしゃご)、孫の孫にあたる方である。

 ボクと研究会さん、髙橋さんの三人が会った場所。それは研究会さんがボクの体調に配慮くださって、ボクの地元にしていただいた。待ち合わせはボクの地元にある、小さな私鉄の駅前の、MKという昔ながらの喫茶店。ではなくて、店は定休日だったから、店の前、であった。
 
 ボクが先に着いていた。間もなく研究会さんがおいでになった。電車に乗っておいでだ。次に髙橋さん。なぜか駅とは反対方向からおいでになった。ボクは尋ねた。「どちらからおいでになりました?」。すると髙橋さんは悪戯っ子のように笑ってこう答えたのだ。

 「此処、ボクの地元なんですよ。今は別のところに住んでいますが、社会人になる前まではこの駅を使っていました。実家は(駅所在地近くの)●丁目。このMKという喫茶店もよく利用していました」。なんと!

 聞けば、ボクよりずっと後輩ではあるが、卒業した小・中学校も同じである。こんな偶然があるんかい、と正直、びっくり! だ。待ち合わせ場所を聞いたとき、彼もまた「嘘!」と思ったそうである。ちなみにボクは存じ上げなかったが(ボクの家と彼の実家は1kmちょっと離れているからか)、彼の実家は随分と長い間「淺草來々軒の人が住んでいる」と呼ばれていたそうな。


 (”終活“対象のボクの書籍の一部)

 会話の途中で、髙橋さんからこんな話が出てきた。

 淺草來々軒創業の地、浅草で“來々軒”をいずれ復活させたい、それもそんなに先ではなく、できれば2023年中。今はその準備を徐々に進めている・・・。ご存じの方も多かろうが、淺草來々軒は現在、新横浜所在のラーメン博物館(ラー博)において”復刻”出店されている。髙橋さんはラー博出店前にいろいろご助言をされたそうだが、実際の運営は、ラーメンの鬼の異名を取った故・佐野 実氏経営の『支那そばや』(注16)が担当されている。詳しいことはラー博・淺草來々軒の公式サイト

 淺草來々軒は、戦前にいったん営業を休止し、戦後に復興した。しかし再開の地は東京駅八重洲口であり、終業の地は西神田であった。だから創業の地・淺草で復活を成し遂げたなら、これほど嬉しい話はない。髙橋さんはご親族が経営されるという前提で、2023年秋以降の開業を目指しておいでだ。朗報を待ちたい、というところだが、ボクがそれまで持つかどうかはさて、相当な幸運を期待するほかないのだが(2022年12月、もはや絶望的である…)、とにかくこんな偶然を逃す手はない。

 何のこと? かと言えば終活途中の、ラーメン関係の書籍の、行く先だ。

 髙橋さんは、2023年の後半には、創業の地・浅草にて復活した來々軒というラーメン店の経営者になっているかもしれない方だ。ま、彼の実家はボクの自宅から歩いて行ける距離だから書籍も手渡しできる。この髙橋さん以外に、ボクの手持ちの資料を渡すに相応しい方はいない。できれば、ということで髙橋さんには伝えてあるが、“辨麺”の提供もお願いしたい、そんなことを頼めるのは髙橋さん以外にはなく、そして新たに辨麺を提供し得る店舗は明治期創業の淺草來々軒以外に存在しない、それならばボクの死後、資料・史料・書籍等は彼に託すのが最善・・・それで段取りを進めているのである。

 そして長野に向かい、東京に戻った2日か3日たった後、終活の続きを始めたボク、である。一応書籍等の中に挟んだものや紛れたものがないか確認をしていた時のこと、一冊の雑誌をパラパラとめくっていたら、こんなタイトルが目に入った。

【松本】うわさの〈驪山〉をたずねて 

 驪山。数日前、まさに長野・松本で訪れた店であった。ボクは驪山の店の基となった松本・竹之家と、横浜とのつながりを探していたのだったが、なかなか見つからないでいた。驪山を訪れた際に聞いておけばと後悔していたのだったのだが、雑誌にはボクが驪山で聞いて、こんな答えがあったらいいな、ということまで載っていた。


(「驪山」。2022年9月)

 松本・竹之家。その店と横浜とのつながりを示す箇所のみ抜粋する。

 『池波好みの「自家の窯で焼いた叉焼き」も、健在だ。「祖父が横浜中華街の〈聘珍楼〉や〈鴻昌〉(鴻昌はすでにないが)のコックさんたちから教わったようです」と佳代子さん』。

 「BRUTUS」、2016年10月15日号(注17)である。本号の特集は『町の中華 それは毎日のレストラン』、であった。


(左:「BRUTUS」、2016年10月15日号、右:「むかしの味」池波正太郎・著、新潮文庫)
 
 この記述は少し解説が必要だ。すなわち、
  • 『池波』、とあるのは作家の池波正太郎氏。
  • 『祖父』は「佳代子さん」の祖父で、竹之家の創業者、石田 華(か) 氏
  • 『佳代子さん』は松本・驪山の主の奥方、石田佳代子 氏。

 なぜ、池波正太郎がこの店と関りがあるのか。ご存じの方も多かろうが、池波正太郎は『鬼平犯科帳』などの著作がある歴史・時代小説家である。氏は著作『真田太平記』を書き上げるために足繁く上田市に通ったという。上田市には「池波正太郎真田太平記館」があり、その著作の資料が展示してある(注18)
 池波正太郎はまた大変な美食家であり、食に関するエッセイの著作も多いことで知られる。その中の一冊、『むかしの味』(注19)の中で、松本市大手にあった“竹乃家”に触れている。こんな感じである。

 ・・・「戦前、山歩きをしていた私は或る友人から松本の『竹乃家』を紹介され自家の竈で焼いたチャーシューを口にし忘れられぬ味となった」。「戦後松本を再び訪れた際に立ち寄ると健在だった」。そして「あらためてこの店の料理の旨さに驚いた。以降、松本へ立ち寄れば必ず竹乃家の料理を口にせずにはいられない」と書き、自家製の細打ち焼きそばが捨てがたい味、とした。

 そしてこの「竹乃家」から分かれたのが驪山。竹乃家の創業者のお孫さんに当たる方(石田佳代子さん=女将さん)と、そのご夫君(石田 治さん)によって開業された。

 その女将さんからボクは耳を疑うような話を聞いた。そう。本稿の、まさに冒頭の文章そのものである。「何でバンメンって言うのでしょう?」というボクの問いの答えは。

 「うちのはね、拌麺、なのね。そうよ、混ぜるとかいう意味の、バンメン」。

 食べたのは間違いなく“辨麺”なのに。まあそれは佳境の部分でもあるから、もう少し後に詳しく書こう。ごめん、引っ張りすぎだよね。

 さて、話を戻す。雑誌「BRUTUS」を書棚の奥から引っ張り出してその記事を見つけ出し、竹之家主人が横浜にいたことが分かった。それはまさに重なった偶然が教えてくれたことである。

 ボクが淺草來々軒のことを書かなければ研究会さんと知り合えなかったし、髙橋さんとの出会いがなければ、そして彼がボクの地元出身でなければ、さらにはボクがもう少しで鬼籍に入るようなことがなければ・・・この時期に、この雑誌を手に取ることはなかった。

 さておき、松本竹之家主・石田氏が横浜にいて、中華街所在の店でチャーシューの焼き方を教わった。まさか客として行ったついでに教わったわけではあるまい。おそらくは店で働いていて、その時に見て覚えた、そんなところであろう。ただし、「BRUTUS」の佳代子さんインタヴュー記事には一点、解せないところがある。横浜の店で教わったそうだが、聘珍楼は、分かる。創業は明治年間であるから。しかしもう一方の鴻昌、はというと。

 鴻昌、という店は、かつて横浜中華街の大通り中心にあった店。さほど大きな箱ではないけれど、ある意味、有名な店であった。エディ藩(ばん)、というギタリストをご存じの方は、還暦を3年前に過ぎたボクより年ちょっとだけ上の方なんだろう・・・なんて思う。こんな歌詞に記憶はないだろうか?

♪ひとり飲む酒 悲しくて 映るグラスはブルースの色
たとえばLong gone lonesome bluesなんて聞きたい夜は
横浜ホンキートンク・ブルース
ヘミングウェイなんかにかぶれちゃってさ 
Frozen Daiquiriなんかに酔いしれてた あんた知らないそんな女
横浜ホンキートンク・ブルース・・・
(「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」。作詞:藤竜也、作曲:エディ藩)

 ボクはこの歌、松田優作のカヴァーで聞いた覚えがある。ほかにも宇崎竜童や山崎ハコ、ゴダイゴ、原田芳雄等々がカヴァーしている。俳優の藤竜也氏の歌詞というのも凄いが、作曲がエディ藩氏、である。鴻昌は、『長い髪の少女』のヒットがある、1960年代後半に活躍したGS(グループサウンズ、だよ)「ザ・ゴールデンカップス」のメンバー、エディ藩 氏がオーナーであった。ただし、「あった」というのは、店のほうがもうないから、である。

 2006年2月26日付の、神奈川新聞はこう伝えている。

「~横浜中華街 名店「鴻昌」60年の歴史に幕
GSブーム火付け役 店主・エディ藩さん
自分らしく 音楽活動~
『横浜中華街の名店「鴻昌」が二十五日、六十年の歴史に幕を閉じた。店主は(中略)エディ藩さん。五十九歳となったエディさんは閉店後の第二の人生に、再びプロのミュージシャンとしてステージに立つことを選んだ。
鴻昌は終戦直後の(一九)四十六年に中華街大通りで創業した広東料理店。華僑である両親が築いてきた老舗の看板を守るため、エディさんは九九年に家業を継いでいた』(後略)」

 記事にあるとおりで、エディ氏は鴻昌の二代目。もともとはエディ氏の伯母さんとお父上が神戸で著名な同名の広東料理店を経営していたそうだが、終戦を機に、1946年に横浜に移転したとのことだ。エディ氏は店が移転したその翌年、1947年の生まれである。

 あまり関係のない話を書いた理由はただ一つ、鴻昌の横浜移転というか、開店の時期。1946(昭和21)年、である。雑誌のインタヴュー記事にあるとおり、『祖父が横浜中華街の〈聘珍楼〉や〈鴻昌〉で教わった』のなら、祖父=石田華 氏は、大正年間に創業した竹之家が開業してから20数年経って鴻昌を訪れたか、勤務した、ということになる。まあ、可能性としては神戸の店で教わった、教わった店の勘違いといった可能性もあるけれど、本稿では石田氏が叉焼の作り方を学び直した、というように解釈しておこう。なぜなら、池波は、戦後店を訪れたら叉焼の味は健在だった、と書いているからだ。つまり、石田氏は戦前に叉焼の味を”習得”したに他ならない。では、話を先に進める。

 ともあれ、竹之家と驪山、そして横浜はつながった。

 さて、次は初代福昇亭と、横浜、である。まあ多少は苦労したが、見つけることができた。そのことを書く前に、2022年初秋、上田所在の福昇亭にボクが伺って食べた時のことを書いておこう。同年9月26日に、RDBに投稿したボクのレヴューを基にしているが、店自体のことは「いたさん」から教わったのだ。



■百年中華福昇亭 実食レヴュー
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 ・・・この店、創業してもうすぐ百年(創業は1924=大正13=年、長野市権堂にて)という歴史を・・・まったく感じさせない内装だ。感じを言うなら、今風の和食のレストランで、確かに「ラーメン界のシーラカンス・辨麺(この店では「ばんめん」)が出てきそうもない。それに、この店がある一角、そうさね、昭和モダンというか、昭和30年代の新宿あたりの街並みってこんな感じ? で、とても雰囲気が宜しい。月並みな表現だが、この一角だけ時間は止まったまま、なのである。この店の前のカレー店や斜向かいの喫茶店は、ボクの生まれた頃の昭和30年代の街並みにポン、と置いてもすぐさま馴染んでしまうだろう。

 さて、この日の朝のことだ。乗車した列車の車内が結構、煩い。千葉発松本行の特急「あずさ」は、なんと満席である。船橋から乗車したボク、驚いた。今日は日曜であるから、それほど混雑はしないだろうという予測は大幅にハズレた。大勢の団体客はいないが、数人のグループ客が結構多い。だから、喋る。寝られないわ。もっとも、大半の客は甲府までに下車してしまったけれど。

 今日の目的地は上田、である。なら新幹線で行けばいい、のだが、味気ない新幹線に乗るより、やはり「あずさ」だよ。

 ♪明日私は旅に出ます~ 

 狩人の「あずさ2号」が流行ったのは今から45年前の1977年。ま、ボクが乗車したのは「あずさ3号」だけどね。

 昨日、台風が弱い勢力で静岡沖を通過した。翌日の関東は台風一過、とまではいかないまでもまずまずの青空が広がっていた。松本に着き、高速バスではないのだけれど、長距離路線バスで上田に向かう。フツーの路線バスの車体だ。1500円、60km、1.5時間の道程のバスだからそれなりのシートを使って欲しいわな。お尻が痛くて仕方ない。

 上田駅に着き、さらに10分ほど歩いて店へ。あらま、なんと外待ち4人かつ中待ち多数。エッ? 凄い人気店なんだな。20分ほど待って入店、さらに15分ほどで「お待ちどうさまでした」。で、頂いた一杯はというと。

 きっとスープは「薄い」のだろうと思っていた。当たりである。
 多分「粉っぽい」麺なのだろうと思っていた。これも当たり。
 ともに、他の方の投稿を読んで来た通り。

 スープの出汁、ちょっと変わった素材があるのだろうか。それが何だかは分からないが、ちょっとクセがあるが、全体的に薄味だからアクセントにはなっている。麺は細く、ちょっとボソボソ。ただ、この店のウリは「餡かけ焼きそば」。見ていると、ボク以外のすべての人がソレか、それがセットになったもの。だから、という訳でもないのだろうが、具、というか餡掛け肉野菜はしっかりしている。ちょっと対照的。

 そうそう、この店のばんめん、は。
 吊るしの焼き豚。
 錦糸玉子。
 これも、アイコン。

 混雑していて話を聞ける状況ではないのだが、此処で聞かなきゃ後悔する。

 まず、日昌亭。事前に聞いていたが、やはり親戚筋の経営だそうだ。次に「ばんめん」。女性スタッフでは分からず、ご主人(三代目、だそうだ)をわざわざ呼んでくれた。
 「ばんめん、ですけど、辨は分ける、とか言う意味があるそうですね。提供店が横浜に多い、というのは知っていますよ。そこから長野に伝わったどうかは ? ですけどね」。

 もっと時間があればなあ・・・
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  と、こんな感じである。店自体は和風中華レストランの趣ではあるが、店がある一角は書いた通り、なかなか趣がある。こういう立地であること、長野市権堂での創業から数えれば百年近くの歴史があること、そんなことを頭の隅に置いていただいたバンメンは、やっぱり横浜や東京で食べたものとは違う。味そのものが違うのは当然として、水、食材などもワンランクアップ、という感じなのだ。まあ、東京でいただく“ご当地ラーメン”が、その現地、すなわちまさに“ご当地ラーメン”をご当地でいただくのとではまるで違うことはままある話で、こういうのはまさに食べる“背景”が違うから、往々にして『美味しく』感じるものなのだが。

 何にしても、今では“信州のソウルフード”とさえ呼ばれる長野の焼きそば、その源流を辿っていくと、こんなふうになっている。

 『信州焼きそばの文化の源流となるのは、かつて長野市権堂にあった「福昇亭」。横浜で働いていたこの店の創業者・小松福平が長野市を訪れた際に、「信州で店を出したい」と移住し、大正13年に創業したのが始まり』。

 これは2012年11月6日、abn長野朝日放送が「おぉ!信州人!Vol.2」として放映した内容の一部をテキスト化したものだ。初代福昇亭と横浜のつながりを示すものである。

 ネット検索していると、この焼きそばで著名な店として結構出てくるのが、「味の道くさ いむらや」(注20)。そのヴォリュームは凄まじい(らしい)。そして、相当に、甘い(らしい)。これ、なんか引っかかる。後述するが、横浜・山手というか本牧「奇珍楼」のことを思い出す。あの店も、どれを食べても結構、甘い。その理由はいろいろあると言うが、本当のところ、分かっていない。

 ところで、今はないけれど「いむらや」は長野市権堂にも店があったそうだ。そう言えば「驪山」のある場所も「コマツプラザ」だったっけ。偶然に違いない、のだろうけど。

 え? 
何のことかって?
 
 初代福昇亭の創業の地は、長野市権堂だった。
 初代福昇亭創業者は小松(コマツ)福平氏、だった。

 さて、次なる疑問にまいろうか。

 竹之家の石田氏と福昇亭の小松氏、両氏の接点はなかったのか、あったのか? あったとしたらそれはいつのことなのか? 話は佳境に入る。




(横浜の山手本牧エリアにあった三渓楼の
辨麺。2022年10月末、ここも廃業)




(横浜の山手本牧エリアにある華香亭本店店内と辨麺。2016年11月)


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注16 支那そばや⇒横浜市戸塚区戸塚町4081-1所在。最寄り駅はJR東海道本線、横浜市営地下鉄「戸塚駅」。”ラーメンの鬼”と呼ばれた佐野 実 氏(1951年~ 2014年)が1986(昭和61)年に創業した)
注17 「BRUTUS」2016年10月15日号⇒株式会社マガジンハウス発行、第37巻19号、通算833号)。
注18 上田市所在 池波正太郎真田太平記館⇒上田市立。上田市中央3-7-3。北陸新幹線上田駅、しなの鉄道上田駅より徒歩約10分。『真田昌幸が築城した上田城、その城下町上田』にある池波正太郎真田太平記館は、『多くのファンを魅了しつづける作家、池波正太郎氏と戦国歴史浪漫”真田太平記”の魅力について紹介(記念館公式HP)』している)
注19 『むかしの味』⇒初版は新潮社より1984年1月刊。現在は新潮文庫より1988年11月刊)。
注20 味の道くさ いむらや⇒かつては長野市権堂などにも店はあったようであるが、現在は「石堂店」と呼ばれる店のみ。長野市大字南長野南石堂町所在。創業は1955=昭和30年、とされる)。


辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅶ (Last)

2022年12月05日 | 老舗の中華料理
■長く、どうでもいいような、あとがき
 この原稿も随分と長くなってしまった。ボクが編集で使用しているのは当然ながらMicrosoft社のWord。このアプリは、編集中の文書の文字数を欄外下部に表示してくれる。およそ53,000字になっているので400字詰め原稿用紙なら130枚超、である。ただ、原稿用紙換算なら、純粋な文字数ではなく、余白も入れて数えるし、脚注や資料等、本文の文字数にはカウントされていないものも結構あるので、まあ倍近くの200~220枚程度にはなりそうである。一般的な小説なら中編小説にはちょっと足りない、という程度だろうか。

 本文の中で引用した、池波正太郎の『むかしの味』について、もう少し詳しく触れておく。
 この書では、ボクも何度か出かけて一度は辨麺もいただいている店、横浜中華街所在の清風楼についても実際、触れている。清風楼の辨麺は汁こそ少ないものの、れっきとした辨麺を提供する、1945(昭和20)年創業の店である。シウマイがたいそう評判の店で、書の中で池波は、師と仰ぐ長谷川 伸 氏(注26)にこの店のシウマイを土産に持って行ったところ、長谷川は「このシウマイはむかしの味がするね」と言ったと書き、池波自身も此処のシウマイを「大好物」としている。

 池波は中華街では蓬莱閣(注27)と徳記(注28)にも触れ、「(中華街の)変貌の度合いは東京とくらべものにならぬ」とし、中華街に足を向けると「表通りの店よりも、山下町の裏通りを歩くことが多い。ウイークデイの夕暮れなど、表通りの賑わいが嘘のように、落ち着いた店の姿がある。いまは消え果てた、東京の下町の匂いが、そこにはただよっているような想いさえする」と書いた。ボクは横浜で6年ほど勤務し、後半の3年間は中華街まで徒歩圏にある事業所の所長を務めていて、外出すればちょっと中華街まで寄り道、なんてことも当然あった。

 ボクは横浜での勤務を終えてもう4年が過ぎる。それ以降、コロナ禍さなかの中華街にも何度か訪れたが、本当に哀しいほどに人がいなかった。ボクが月に2~3回宿泊していた伊勢佐木町ワシントンホテルがクローズした。中華街脇、横浜スタジアム前のシティホテルで、自らは“オベールジュホテル(比較的小規模な、料理自慢のホテル)”を名乗った「横浜ガーデン」も閉館してしまった。あろうことか我が国最古の“現役”中華料理店『聘珍楼 横浜本店』でさえ店を閉じさせてしまったコロナ禍は、中華街をさながらゴーストタウンのような街に替えてしまった。

 けれど、2022年初秋に出向いたら、コロナ禍の前の、横浜中華街が戻っていた。

 ボクは60年以上、東京の東のはずれ、いわゆる下町で育ってきたのだが、池波が書くような『消え果てた、東京の下町の匂い』を中華街の裏通りで感じることはついぞなかった。というより、都心から少し離れれば、都内のあちこちに下町のにほいはまだまだ相当色濃く残っている。それは確かだ。ボク自身が半世紀以上も東京の東の外れ、200メートルも歩けば江戸川対岸の国府台の森が見えるところに住んでいるということもあるのだろう。

 けれど、大声で談笑しながら、肉まんやらを食べ歩く若い人たちから逃げるように裏通りに入り、まだ訪れたことのない小さな店を探すのは、中華街に行けばごく自然の行動であった。徳記や清風楼は、確かにメインストリートにはなく、事情が分かっている人だけおいでなさい、と呼びかけるように存在していた。

 さて、本篇最後はボクの想像を書いて終えた。分かり辛いという方もおいでだろうから、解説がてら追記しておきたい。

 長野系と、六軒島萬来軒系以外では「汁ありそば=辨麺≒広東麺、(五目)うま煮そば、(五目)餡掛けそば」として知られてきたし、作り手もそう意識して調理場に立っていただろう。しかし、六軒島萬来軒系は、それを全く意識せずに作って、客に提供している(してきた)可能性はある。本文で書いたように、「萬来軒」の“萬”の字を取って、店のウリ的な品にしようとした、ということは複数の店主の証言からして間違いない。すなわち「萬麺(メン)」である。
 
 けれど、一部の店はそれを否定していたし、何より「萬麺(メン)」が「(五目)餡掛けそば」になっているのが単なる偶然としたら、そこにむしろ作為を感じる。まあ、その作為をだれが何のために? ということはある。だからノーマルに考えるのであれば・・・幡ヶ谷の萬来軒の創業年やら長野系バンメンの誕生時期などが大正末期に集まっていること、幡ヶ谷萬来軒の店舗群拡張と新潟の縁戚の話は四つ木萬来軒創業時の話と被ること・・・などなどを考えると、偶然であるとする考え自体は無理があろう。

 もっと面白いのは長野系である。松本の竹之家の初代(石田氏)も、権堂の福昇亭の初代(小松氏)も、横浜の中華街や周辺の店とかかわりを持ったあとに長野に移った。長野の2店よりも創業年次が古い、例えば本牧の奇珍楼や、伊勢佐木町の玉泉亭などの焼きそばと極めて似ていることからして、少なくとも、長野のソウルフードとさえ呼ばれるようになった(餡掛け)焼きそばのルーツは、横浜であったこともまず間違いない。しかし、辨麺、バンメンは、というと・・・

 これはおそらくこういうことなのだろう。横浜系は、あくまで「汁そば」として伝えられ、市域に広がった。一方、長野系はというと、おそらく餡掛けカタヤキソバはあくまで「かき混ぜて食べる」から、焼きそば、というよりは「拌麺の一ヴァリエーション」として一部には伝わり、その商品名=「焼きそば」として認知された。

 耳で聞く分には「拌麺」も「辨麺」も同じバンメン。一部料理人は「汁そばの辨麺」を単に「バンメン」として聞き覚えていたので、“あたま”が同じ汁そばの辨麺のことを、焼きそばと同じ拌麺と認知したが、汁そばであるから焼きそばとは異なる商品名、すなわちバンメンとして記憶した。その際、商品はバンメンでもいいし、拌メンでもよい。大事なのは、汁そばといえども「かき混ぜて食べるから拌麺の一種」ということだ。
 つまり、横浜で働いていた一部料理人は、
  • 五目餡掛け(“あたま”)が載る麺料理=かき混ぜて食べるから、汁があろうがなかろうが、ともに拌麺の一種。耳で聞くだけならどちらも”バンメン“である。
  • ただ、汁なしのものと、汁ありのものとでは当然違いがあるから、前者を「焼きそば」、後者を「拌メン(バンメン)」として記憶し、長野に持ち込んだ。だから長野でバンメンを注文すると、料理人にとっては「かき混ぜて食べる麺料理」だから汁そばであってもそれは「バンメン(拌麺、バン麺、拌メン)」なのである。
  • とても面白いことに、横浜や都内のごく一部の店等で提供されている「汁そばのバンメン(辨麺)」と長野の「汁そばのバンメン(拌麺)」の”文字違い”に気が付き、それを指摘することが数十年もなかったのは「バンメン」自体がマイナーな食べ物であるが故の、こちらこそ正真正銘の単なる偶然であるに過ぎないのだ。

 竹之家の主人、石田 華 氏は中国からやって来た人だ。やはり日本語の理解は、日本人と同じ、という訳にはいかなかったろう。一方、のちの初代福昇亭主となる小松氏は、拌麺と辨麺の違いを正確に理解していた。「汁そばの餡掛けそば」の商品は「拌麺」ではないから、明確にするため「バンメン」としたが、石田氏はややこしい日本語の意図するところをよく呑み込めず、「汁そばの餡掛そば」も拌麺の一種だから「拌メン」とした・・・、福昇亭と驪山の「バンメン」表記が違うのは、そんな理由があったのかも知れない。


 (上が福昇亭=「ばんめん」。下が驪山=バン麺)
 
 ともあれ、ボクが驪山で拌メンを食べた際、オカミさんが仰った「ウチのは“バンメン”(かき混ぜてたべる)“なのです」というのは、汁ありであろうとなかろうと、かき混ぜて食べるから、ということだったのであろう。

 さて、ここまでお読みいただき、腑に落ちないことがなかろうか? ボクの創作では石田氏と小松氏は横浜で同じ時期に働いて、同じ時期に長野に移った、としているが(実際、そうなのだが)、これもまた偶然として片づけるには果たしてどうだろう? ともに横浜で働いていたかどうかはともかく、二人は間違いなく中華料理の調理人であったはずで、知り合いというか、付き合いがあって、それもそれなりに深い交流があったのではないか? そうでも考えない限り二人が横浜にいて、関東大震災後の大正末期の同じ時期に長野で店を開いて、同じ品、つまり餡掛け焼きそばと、汁ありのバンメンが、品書きに載って百年近くも経って今なお残ることの説明ができないのである。もちろん、偶然の二乗三乗という可能性もないわけではないのだが。

 そんな結論にたどり着いたのは、長野から東京に戻って数週間も経ってからのことだ。正直なところすぐにでも、また長野に行って再度話を聞きたいとは思う。やはり推測は推測に過ぎないし、そこにボクの想像が加わったことで、もしかすると真実は、もっと遠いものになってしまったのかも知れない。

 この原稿を書いている途中、何度かボクが書いたことと違うことがネット上に出ていることを見つけた。それほど多いわけではないが、例えば「餡掛け焼きそば」発祥のくだり、である。

◇『長野市でやきそばといえば、ソースではなくあんかけ。昭和初期、山国のために海鮮が調達しづらく、キノコや野菜をたっぷり使った長野流のあんかけやきそばが誕生しました』
(立山黒部観光宣伝協議会公式サイト)。筆注・この箇所の解説別途あり(下の☆☆の箇所)。
◇『信州で焼きそばといえば、「あんかけ焼きそば」のこと! 長野市権堂にあった「福昇亭」の店主が、昭和初期に考案したのが、信州あんかけ焼きそばのルーツなんだとか』
(Webサイト「旅時間」)

 こうした記述は例によって、引用元が明示されていないし、『~なんだとか』のように明らかに伝聞であることが分かる文面からして、正誤を含めてコメントのしようがない。

 だから、真実に少しでも近づこうとするなら、関係者に話を聞くのが近道である。残念なことにボクにはもう、長野まで出かけていく、その体力も時間もなくなってしまったようである。もしかすると、どこぞのどなたかが、いつか真実を明かしてくれる時期がくるのかも知れない。あるいは、もはや一世紀も前の一地方のローカルな、ただの食べ物に関してのことだ、真実を探したところで、それは深い海の底のようなところに沈んだまま、浮かんで来ることはないのかも知れない。

 ただ、ボクとしては、ボクの想像通りであろうと思い込み、本当のところは分からないまま、この物語を書き終えることが幸せなことだろうと思っている。冒頭にも書いたのだが、これをお読みくださった方々にも、あくまで可能性としての一つの物語としてお読みいただければと思う次第である。

 最後に。もう一度行けないならせめて、と探しまくった結果、2022年11月中旬、一冊の雑誌が手に入った。初代福昇亭について、ちょっと詳しい記述があるので、関係個所を引用してみよう(注29)


komachi2022~2023 信州おいしい〇プチ旅『信州おでかけガイド』)

 初代福昇亭創業者・小松福平氏は、善光寺が気に入って、1924(大正13)年、長野市権堂に店を開いた、というのは記述したとおり。店の場所は、権堂通り、別名「権堂アーケード」の交番近く、であったという。権堂通りは、昭和のはじめから栄えたということなので、大正末期でも賑わいのあったところなのだろう。『権堂商店街は、県都長野市の善光寺のお膝元に位置し、賑やかさと歴史的風格を兼ね備えた商店街』で、『江戸時代には善光寺参詣の精進落としの水茶屋が栄え』『今もそれらの舞台となった名所旧跡が点在し、権堂劇場の骨格を作って』いるそうだ(注30)。権堂のアーケードは1961(昭和36)年に長野県下で初めてアーケードが設置された場所でもあるという、まさに商店を開くのに最高の立地だったのではないか。

 小松氏は、横浜で勤務していた店が廃業したということもあって権堂に移ったというが、善光寺周辺が気に入ったという以外の理由は見つからなかった。横浜の店が廃業というのは、時期からして関東大震災の影響が少なからずあったと推測される。また当時の勤務先は、餡掛け焼きそばやバンメンの出来上がりの様子から、山手・本牧、野毛・桜木町、中華街あたりであったこともまた、想像できる。

 なんにせよ記事によれば、権堂で店を開いた福平氏は、長野という土地柄で海鮮類が入手し辛いことから、地元産の野菜や茸をふんだんに使用した“餡掛け焼きそば”を考案、これが大変な評判を取った(筆注・この箇所の解説別途あり。下の☆☆の箇所。その際、辛子を酢で溶いた“辛子酢”をかけて食べることも流行った、とか。

 その後、子どもたちが後を継いだものの閉店。孫の世代になって現在の福昇亭、日昇亭が上田市で開業した、という趣旨のことが記述されている。

現在では、
◇福昇亭 福平氏の二女⇒孫⇒ひ孫(現在)。福昇亭中之条支店は下記「杉坂製麺所」の縁戚により運営。
◇日昇亭 福平氏の二男⇒孫(現在)。日昇亭支店は“二男時代の弟子”により運営。
◇杉坂製麺所 福平氏の長女⇒孫。福昇亭、日昇亭ほか、上田市所在の焼きそば提供店(一部)の麺の製造卸元。
 という関係(別図3)になっている。残念ながら、校了までに石田 華氏と小松福平氏の関係については不明のままであった。

 そして事実をもう二つ。
 その一。長野県内で、焼きそばがウリ、という店を片っ端から調べてみたが、表記を問わず“バンメン”を提供している店は驪山と、福昇亭系列のみ。生碼麺も2~3店という状況であった。大正末期に創業した2店にしかバンメンなく、生碼麺も僅か。焼きそば、バンメン、生碼麺は同時に横浜からやって来たのだろうが、長野で逞しく生き残り、広がっていったのは焼きそば、だけだったということである。

 その二。バンメンを提供する店は長野にたった2店(2系統)しかないのに、その2店、すなわち驪山(竹之家・石田 華氏)と、初代福昇亭(小松福平氏)の関係性について着目あるいは言及した記事やブログ等は皆無、であった。これは、“バンメン”という料理についてのみ2店(二人)は共通項があったに過ぎないということを示している。バンメンという特異な、希少な麺料理の性格からして、これは仕方のないことだろう。この共通項を見逃され続けてきたことで、両店(両者)の関係性については無視されてきた。ボクがたまたま辨麺に対して興味を持ち、追いかけてきたからこその、今回の指摘につながったということだ。

 ☆☆この箇所の解説別途あり。と記した箇所というのは『小松福平氏があんかけ焼きそばを考案したのだが、それは長野という土地柄、海鮮類が調達し辛かったため、野菜やキノコをふんだんに使った“あん”をかけた焼きそばであった』という趣旨のことを指す。ボクはこの文面を最初に読んだ時から相当違和感を覚えていた。後段の部分の冊子(引用元は注29参照)をママ引用すると・・・
 『あんかけ焼きそばといえば、海鮮が入ったあんを想像するが、福昇亭には入っていなかった。当時、海鮮類は値段も高く、さらに山国ということもあり、手に入り辛かったのだ。そこで地元で採れるキャベツやニンジン、タケノコなどの野菜を使った、東北信エリアで広く親しまれる信州流のあんかけ焼きそばが誕生した』。
 
 前段の観光宣伝協議会公式サイトの文面も同様であるが、この二つの文章の趣旨は『海鮮類が入ったあん、ではなく、野菜やキノコが主体のあん、であって、それが長野流』ということだ。文章に、そして福昇亭の功績にケチをつけるつもりは毛頭ないことはお断りをしておく。しかし、長野流あんかけ焼きそばの元は“海鮮類が入ったあん”だけれど、それが入手し辛いから“野菜やキノコが中心”になった、という風に解釈するのが自然である。つまり、長野流あんかけ焼きそばは、まったくのオリジナルではなく、おそらくは横浜から持ち込まれた“海鮮入りのあんかけ焼きそば”がベースになっていて、これは研究会が指摘されていた『明治後期に横浜で食べられ始めた炒麺(焼きそば)は、昭和初期まであんかけカタヤキ(そば)が主流であった』ものであり、当然海鮮類も入っていた、ということになるだろう。


(横浜中華街「清風楼」辨麺イラスト。2016年11月。RDBレヴュー投稿の際のモノ。
当該店の辨麺の撮影はご遠慮くださいとのことだったのやむを得ず、適当にPCで作成した)
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 さて、いかがであったであろう? 今まで辨麺に関しては様々な解釈、解説、研究などなどがネットで公表されてきた。しかし、六軒島萬来軒系のバンメンなり、長野の拌メンなり、それを大正期に横浜で伝わり広まったこととを結び付け、ここまで長文で書いたのはボクが初めてだろう。先ほども書いた通り、真実かそうでないかはともかく、ではあるが。

 『真実かそうでないかはともかく、であるが』。そう、本稿もまた、ボクのこの、他のブログシリーズ同様、真実と創作が綯い交ぜ(ないまぜ)になっている。できるだけ真実に迫りたいと考えるものの、本稿のテーマも百年も前のこと、関係者の話を聞くにしても記憶違いもあるだろうし、古い資料したって誤りも当然あるだろう。それらを検証・精査をしても限界があるわけだが、そこに“想像力”という、まあ反則的なワイルドカードを切ることによって、物語は作られる。

 石田 華さん、小松福平さん、あなた方お二人は横浜の何という店で働いて、どうして長野に来て、なぜ二人別々の地で店を開いたの? 幡ヶ谷で萬来軒を開いた下山さん、あなたは横浜のどこかの店で働いていたのではないですか?

 そんな問いに、答えが返ってくるはずもなく。ボクは手元に集めた資料史料や雑誌などを基に、こんなことがあったのだろうな、こう考えないと後世の事実と辻褄が合わない・・・といった事柄を文章にして、物語を作った。これを読んでくださっている方々、本当のこと、事実であったであろうこと、それはあなたがまた考えて、あなたの物語を作ればいい。ボクは作った物語は、一つの可能性を示したに過ぎないのだから。

 そしてもう一つ。

 新幹線で上田で下車すりゃあ、此処に行くといい。昭和30年代の東京のどこかの繁華街、それもバーやクラブが立ち並ぶ少々場末感の漂う飲み屋街の、正午ちょっと過ぎたあたり。そんな立地に小洒落た日式中華店の趣・・・いやいや、なんとなくテレビドラマか映画で見たような戦前の満州のような雰囲気さえ漂う、それが現在の福昇亭。客はひっきりなしに訪れるから、時間はゆるりと流れるものの、店は生き物のように活気に満ちる。頂くものは、大正期から昭和初期にかけてずっと長野に伝わるカタヤキソバか、C#4 の汽笛が響く港町横濱から運ばれたバンメンか。
 新幹線が味気ないというのなら、中央線特急のあずさで松本に向かえばいいさ。松本に着いたなら五重六階の天守を誇る松本城を眺めて戦国の世に思いを馳せ、余韻をそのまま驪山に向かおう。粋な調度品を目で楽しみながら音の消えたような空間で、パリパリと心地よく響くカタヤキソバを喰らうもよし、池波正太郎が愛してやまない叉焼入りのバンメンを喰うもよし。普段旨い食い物は食べ飽きたと仰せの貴方と貴女、大正ロマン漂う日式中華を堪能し給え。

 福昇亭、驪山。もちろん長野には旨い店がもっともっとあるだろうが、こういう店に一度は行って食べてみるべき、とボクは心から薦めるのだよ。

 さて。
 今まで淺草來々軒のこと、まあそれは・・・日本最初のラーメン専門店ではないことは、研究会さんが先に公表されたのだけれど、岐阜の丸デブや高山ラーメンとの関係、旭川ラーメンの発祥の話、“現役最古参”の可能性がある沖縄のきしもと食堂と沖縄そば誕生の物語などなど、ボクの想像が相当混ざってしまったご批判はあろうが、明治期以降のラーメンの歴史についてその一端をネットで公表できたことは、人生の最期に、「よくできました」と花丸印の判を、自分で押印してあげたようなもの、言ってみれば「自分への最後のご褒美」ということでご勘弁願いたい。

 時間があれば、全国のご当地ラーメンの歴史などもきちんとまとめておきたいと考えていたわけだが、残念ながらその時間はもう、ない。おそらくこれが、ボクの『拉麺歴史発掘』の最後のテーマになってしまうのは、本当に無念極まりないが、まあ、それもまた、人生。

 人生、ね。

 ボクの64年近くの人生。今更ながら思う。若い時から、いまわの際(きわ)に後悔していたら死んでも死にきれないよな、と意識して生きてきたから、今のボクは露ほどの後悔もないし、やり残したこともない。その意味で、ボクは幸せな人生を送ってきた。もちろん人知れず泣いたこと、何日も眠れないほど悔しい思いをしたこと、他人を悪魔のように呪ったこと、そんなことは多分人並みに経験してきた。しかしそうした思いも、楽しく嬉しい時間も、全部ひっくるめて、ボクはボクの自分の人生が限りなく愛おしい。できることならもう少し、この世界で生きたい。生きて、まだその人生を第三者的に愛でていたい。“そのとき”が来るまで、生きていることを楽しみ、そんなことを意識していたい。

 今まで多くの方と出会い、同じ数ほどの人々と別れてきた。こうしてこれを読んでくださっている方も含め、ボクに関わったすべての方々に深い感謝の気持ちを申し上げ、本稿、校了としたい。

 ありがとうございました。

 もし、幸運にもまだボクに時間があればこのブログは続けたいし、RDBの投稿も続けたい。髙橋さんが淺草に來々軒をオープンさせる。そしてボクがそこに食べに行って、舌鼓を打てたとしたら、それは間違いなく・・・鬼籍に入る前の、奇跡である。

 そんな駄洒落が実際になることは、あるのか、ないのか。

 ボクはまだ、人生に与えられていたはずの“幸運”というカードを、まだすべて使い切っていないはず。だとしたら、きっと、またお逢いできるはず、なのではあるけれど。

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 Special thanks to (敬称略、順不同)

RDBレヴュワー
いたのーじ (RDBのご本人のページ⇒
ぬこ横浜 (RDBのご本人のページ⇒

近代食文化研究会(「お好み焼きの物語」等の著者)
塩崎 省吾(『焼きそばの歴史』上下巻著者。
髙橋 雄作(淺草來々軒創業者・尾崎寛一氏の玄孫)

nako(辨麺を研究され、ブログ等で情報を発信されている方。
研究論文は↓

 ☆藤ノ木 久史(株式会社萬来軒代表取締役、中華麺屋 まんまる店主。

 ☆そのほか、驪山、福昇亭、水元萬来軒、流山萬来軒等々、商売のさなかの御多忙中にも関わらずお話をお聞かせくださったお店とその関係者の皆様。

 以上、皆々様のご健勝と今後のご活躍・ご発展を心から祈念申し上げます。

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注26 長谷川 伸⇒作家。1884年~1963年。横浜市の日ノ出町で生まれる。股旅(またたび)物の創始者とも呼ばれる。作品に「瞼(まぶた)の母」「一本刀土俵入」など。
注27 蓬莱閣⇒横浜市中区山下町189、横浜中華街所在。1959=昭和34年創業)
注28 徳記⇒横浜市中区山下町166、横浜中華街所在。1945=昭和20年創業。当初は製麺所であった)
注29 初代福昇亭にかかわる詳しい記述がある雑誌⇒komachi2022~2023 信州おいしい〇プチ旅『信州おでかけガイド』。編集・発行・発売 株式会社長野こまち、2022年4月1日付発行。特集「あんかけ焼きそば」から抜粋」)。
注30 権堂商店街、権堂アーケード⇒長野市権堂商店街協同組合のHPから抜粋。https://nagano-gondo.com/)

辨麺 ~謎の愛すべき拉麺遺産 Ⅵ

2022年12月05日 | 老舗の中華料理
■nakoさん、のこと
 佳境に入る前に、傍証になることを書いておく。話を引っ張りすぎているのは承知だが、もう少しお付き合い願いたい。

 nakoさん、のブログのことだ。「いたのーじ」さんからの情報提供があったのがきっかけで、自分で調べたことも含めて書くと、要はこういうことである。

 2018年4月にUPされたこんなブログ(記事)がある。すでに連絡が取れ、転載の許可も頂戴しているから一部抜粋する。
 ブログの管理者はnakoさんと仰る女性である。紹介するブログは横浜・野毛の辨麺提供店である「萬福」でnakoさんが食べたときのことで、同店主人から聞き取った話、である。

 『先代は會星楼(注21)から独立。中華丼・五目焼きそばとあたまは一緒!五目焼きそばには錦糸卵をのせている。
會星楼で修業されていた方が長野に行かれた。長野にバンメンがある理由はこれかも!? 會星楼の方は本牧の出身。(万福店主は)冷やしバンメンを作ったことがある!というお話』。

 この話、辨麺が「横浜から長野」に伝わった傍証にもなる貴重な話である。ただ、一部は残念ながら事実と違う箇所もある。補足が必要であるから、少し解説を加える。

 まず筆者(管理者)のnakoさん。相当に辨麺を食べ歩いて、研究もきちんとされている(注22)ので、辨麺とは何ぞや、ということにはお詳しい。

 この引用文の冒頭、“先代”とあるのは「萬福」の先代の主で、會星楼というのは同じく野毛にあって、すでに廃業しているがかつて辨麺を提供していた店である。ボクが食べに行った2017年4月時点では“うま煮そば”として提供していた店だ。“あたま”というのは上に載る「具」のことを指す。會星楼の創業時期は不明で、これは結構重要なことなのだが、ボクが伺って食べた当時、そして今回と、その時期を再度調べたのだが、分からずじまいであることはご容赦願いたい。

 文中に『會星楼で修業されていた方が長野に行かれた、その人は本牧の人』とある(その人を便宜上A氏とする)ので、こんな推測が成り立つ。まず本牧、とは無論、辨麺提供店が多数点在する“山手・本牧エリア一帯”のことである。A氏の出身まで知っていて、さらに転職先まで知り得たということは、萬福の初代が、A氏とともに同時期に會星楼に在籍していたということではないか。


 (會星楼もすでに廃業。右はうま煮そば。2017年4月)

 ボクも萬福に伺っている。2016年のことだ。その時ですら現在の萬福(二代目)主人はご高齢であった。その親御さん(初代萬福主人)は明治末期から大正末期ごろまでに生まれた方ではないかと推測できる。となれば、A氏と初代萬福主人が會星楼で勤務されたのは昭和の初期から戦争前後の間? 桜木町・野毛の一帯は1945年5月29日の横浜大空襲で壊滅したという記録もあることから、戦争で営業できなくなったために長野に行った、とも考えられる。行った先は松本の竹乃家か、上田の福昇亭だったかも知れない。そんなつながりを想像するのも楽しいが、いずれにせよ、竹乃家も福昇亭も大正期の創業であるから、A氏が辨麺を長野に伝えた、ということにはならない。遅すぎる、のである。


(「散歩の達人」2022年12月号。交通新聞社)


 一方、『(辨麺と)五目焼きそばとあたまは一緒』で、『五目焼きそばには錦糸卵をのせている』のは、辨麺の長野・松本系の店とも上田系の店とも一致する。すなわち、A氏は本牧で育ち、おそらく本牧の辨麺提供店で辨麺を食べ、あるいはその店にて勤務したのち、野毛の會星楼に転籍した。それは松本の竹乃家主人・石田華、上田の初代福昇亭主人・小松福平両氏の歩んだ道と同じだったか、それに近いものだったのかも知れない。昭和の20年代ころまで石田・小松両名は横浜のある店(A氏在籍店)と交流があり、両名のどちらかを頼ってA氏は長野に向かった・・・そんな可能性も感じるのだ。 

 さらにもう一つ、付け加えようか。文中の『(萬福二代目主人が)冷やしバンメンを作ったことがある!』という箇所である。萬福二代目は同店初代から引き継いだと考えるべきで、その初代は會星楼か、あるいは山手・本牧エリアのどこかで店で教わったA氏から教わったのだろう。

 そして思い出して欲しい。松本竹乃家の後継店・驪山の品書きに何があったか?

  そう、『涼拌麺』、である。冷やしバンメン、だ。竹乃家の石田華氏と、Aさんとは、どこかできっと、接点があった。それは昭和の、まだはじめのころの、横浜か長野か、それは分からないけれど。


(「驪山」の”涼拌麺”のメニュー。2022年9月)

※この原稿の校了間近、nakoさんと連絡を取っていたら、雑誌の掲載情報をいただいた。以前、雑誌の取材を受けたと話されておいでだったが、その雑誌が発売された旨。その雑誌は、ボクも愛読させていただいており、このブログシリーズでも何度か取り上げさせていただいている「散歩の達人」。その2022年12月号(交通新聞社/刊。2022年11月21日発売)である。当該雑誌はラーメンの特集も頻回に組まれていて、今号は『大特集』と銘打って、『一杯の器から広がる無限の宇宙! 麺が食べたい』。その中に『首都圏麺カルチャー 03 急がないと絶滅しちゃうかも! 横浜の”バンメン”って何だ?』がある。nakoさんはそこで”孤高のバンメンマニア”、”バンメン研究家”として紹介され、コメントも掲載されている。タイトル通り、辨麺提供店は減少の一途で、こうしてメディアが取り上げることにより、辨麺とその提供店の”寿命”が延びることはもちろん、新規に提供しようという店が現れる可能性だって高まるのだ。


■辨麺の広がりを阻んだ大地震
 まず、福昇亭も竹之家も、もともと焼きそば(餡掛け)が有名だった店であることにも留意する必要がある。その上で共通点を探っていくのだが、その前にボクが考えた結論を書いてしまおう。

 前項の冒頭、ボクはこう記述(要旨)した。「長野の松本(竹之家)と上田(福昇亭)に伝わった経緯は、おそらく同じ。ただ、確証も、有力な手掛かりもない。いくつかの傍証が重なった末のボクの推測だ。しかし、伝わった時期は違ったとしてもそれほどの時間差はなかったはずだし、推測に大きな誤りはないだろう」。

 本牧か、あるいは中華街かは分からないが、明治期の横浜の、当時の南京町(中華街)とその周辺の狭いエリアに、中国から拌麺と、そして辨麺が伝えられた。辨麺については、スープの量や具材に関して幾度かの改良があったと思う。各店独自のアレンジもあったこともまた確かであろう。

 伝えられた店の中に、細い揚げ麺の上に、“あたま“として野菜餡掛けを載せた「焼きそば」を出す店が現れた。多くの店で現在提供される、いわゆる「カタヤキソバ」であり、”炒麺”でもある。一方、一部料理人の間では”あたま”、と麺を混ぜて食べるというのは、つまり「拌麺」の一ヴァリエーションであると主張する者もいた。従い、一部のある店では今でいう”五目餡掛けのカタヤキソバ“のことを「拌麺」とも呼んだのである。

 その、本牧あたりで生まれた“拌麺”=カタヤキソバ”の特徴は、炒麺というよりは”バンメン”の一種と主張する料理人が作る焼きそばのアイコンは、錦糸卵を乗せること、だった。そしてその味付けは「甘い」。山手本牧エリア所在の「奇珍楼」で食べてみるといい。辨麺にしても焼きそばにしても、まあ、甘い。戦前戦中、甘味のある食べ物が少なかったからその店では甘くした、という理由が一部で言われるものの、本当のところは分からない。

 一方、支那そばとか拉麺(ラーメン)とか呼ばれる汁そばの人気はすこぶる高く、例えば東京淺草・來々軒は広東料理の店であるが、支那そばを求める客で連日大繁盛をしていた。大正期半ば、横浜中華街から調理人を何人も引き抜いていったのだが、それも淺草來々軒大繁盛の大きな理由の一つであろう。

 横浜の中華料理店では、汁がやや少なかった辨麺と呼ばれる麺料理のスープを増やし、野菜も豚肉もたくさん摂れる栄養満点の品として大々的に売り出した店もあったし、卵でとじたり、錦糸卵にして上に乗せたり、見た目も華やかにして人気を博した店もあった。ただ、それは調理人の手間がかかったり、材料の仕入れが大変だったりといった問題も生じたのであった。

 錦糸卵を載せた、今でいう餡掛けカタヤキソバ=拌麺も人気。
 錦糸卵を載せた店、あるいは卵とじの店もあった餡掛け汁そば=辨麺も人気。

 ともに人気のメニューとなった拌麺と辨麺。調理人の手間、仕入れ材料のコスト等の問題は、声に出してしまうと区別がつかない“拌麺”と“辨麺”の餡掛けの部分=“あたま”は同じにすることで解決できた。もとよりきちんとしたレシピがあるわけでもない。“あたま”の部分は全く同じ店もあれば、多少アレンジを加えて変えた店もあった。特に汁ありの“辨麺”のほうは、日本人の“汁そば”好きもあったものだから、スープの量を増やし、それに合わせて具材も変える・・・そうして多少姿を変えて、伊勢佐木町や野毛にも広がっていった。

 ほぼ同じころ、それは大正の終わりに近づいたころだったのだが、本牧か野毛のあたりにあった店で、揚げ麺の代わりに通常の中華麺を使い、茹でた後に水で絞めた、”涼麺(冷麺)” なるものを考案した料理人がいた。冷麺であるから“あたま”には熱い餡掛けではだめだ。代わりに火腿(ハム)とか、蕃茄(トマト)や胡瓜とか、そうそう錦糸卵は外せない、そんなものにしたリャンメン、涼麺を誕生させた。冷やした麺と、“あたま”を混ぜて食べることから、涼拌麺、と名付けた店もあった。
 
 ただし、これら“辨麺”やら“涼拌麺”やらが、横浜の本牧や伊勢佐木町、野毛あたりの中華料理の店に広まった期間は大正の半ばから終わりにかけての、ごくごく短い期間の中に留まってしまった。これから広がろうか、とされたその矢先に、それは、起きた。起きてしまった。

 1923(大正12)年9月1日正午少し前。凄まじい大地の震動が関東を襲った。とりわけ横浜が位置する南関東は甚大な被害を受けることになる。

 関東大震災、であった。
 震災の後、2年半を経て刊行された「横濱市震災誌第一冊」(注23)はその巻頭でこう記している。

 『吾々横濱市民として、一生忘れることの出来ない想ひ出は、去る大正一二年九月一日午前一一時五八分、横濱、東京及神奈川、千葉静岡、山梨等の諸縣を襲つた、あの恐ろしい残虐な大地震である。その被害の大きかつたことは、横濱と東京であつたが、横濱は殊にひどく、會てなかつた大惨害を受けた。大地震で、市内の建物は殆んど全部倒潰した上に、つヾいて起つた猛烈な火災の為に、殆んど横濱全市は、一夜の中に焼野原となつてしまつたのである』。

 森鴎外にして、横浜市歌(注24)の中で「されば港の数多かれど 此横濱に優るあらめや 今は百舟百千舟(ももふねももちふね) 泊る處ぞ見よや 果なく榮えて行くらん御代を 飾る寶も入り來る港」と描かれた、『東洋第一の輸出港として矜(ほこ)つてゐた横濱(港)も、再び復活することは出来ないと、絶望されたのである』。

 内閣府の中央防災会議の資料などによれば、この震災での死者は、全体で約105,000人。東京市内で約69,000人、横浜市内では27,000人。この二つの市内で全体の9割を超える死者を出した。横濱震災誌にあるように両市とも猛烈な大火災が起きたことが主要因であった。横浜市内では『特に大岡川と中村川・堀川に挟まれた埋立地では、(建物の)全潰率が80%以上に達するところが多い。この地域は現在のJR関内駅を中心とした横浜の中心地である』(内閣府発行「広報ぼうさい」第39号“過去の災害に学ぶ 1923(大正12)年関東大震災 - 揺れと津波による被害 -”より)。

 ここからは、今まで書いてきた事実をもとに、想像を膨らましたボクの創作である。


(世界でここだけ? 咖哩辨麺。横浜・榮濱樓)

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 その二人の調理人たちは、横浜港を見下ろす高台にいた。眼下には焦土と化した街が広がり、焼け焦げた臭気が周囲を覆っていた。まだ若い二人は、そんな変わり果てた街並みに、ただただ絶望するばかりであった。けれど、それでも生きていかねばならないのは誰しも同じことである。前を向かねばならんな、と最初に石田が口を開いた。

 「そのために、なあ、何度か行って二人とも気に入っている長野に行こうと思うのだ。俺もお前も、多少なりとも蓄えがある。料理だって、何年もこうして中華料理の本場・横浜で腕を磨いたのだ。東京の淺草では來々軒という店が大繁盛しているって聞いているだろう。俺らの中華街から何人も調理人を引き抜いたことはお前だって知ってのことだ。中華街の人間の腕は確かだっていうことの証だよ。俺らも店を出そうぜ。なあに、きっと大丈夫だ。俺は松本市内で店を出そうと思う。お前も長野に来ないか? 一緒にやってもいいし、別々に独立して店を出してもいいし」。
 
 小松が応じる。「そうだな。長野にはお前と一緒に何度も出かけたな。店はそうさな、別々に出そうぜ。先にお前が横浜で腕を磨いていて、俺が後から店に入ってな、今まで一緒に働いてきたんだ。独立してこそ勝負というものだろう。それでさ、俺はやっぱり善光寺近くがいいなと思っている。特に気に入っているんだよ、善光寺と、その周りがさ。あの辺りは全国から大勢の人が来るからな。なんといっても景色とか、街を包む厳かな雰囲気とか、住んで、店を開くには最高の場所だ。そういやあ、善光寺と長野駅の間にある権堂にさ、鉄道の駅ができるんだそうだ(注25)。長野と須坂を結ぶ路線で、今から2年ちょっと先に開通する、という話だ。善光寺近くの、新しい駅。俺の新しい人生にもってこいの場所じゃないかな。それにな、お前も知っての通り、俺が勤めていた店、この大震災でもう再開は難しいんだよ。潰れったってことさ」。

 よし、決まりだ、と石田が小さく、しかしきっぱりとした口調で言うと、小松もまた小さく頷いた。

 ・・・時に1923(大正12)年秋。横濱を、東京を、たった一日のうちに焼野原にしたあの大震災からひと月近くが経とうとしていた。

 年が明けた1924(大正13)年、横濱を発った二人の中華料理人。向かった先はもちろん長野である。石田は松本で、小松は長野市内の権堂で、それぞれ店を開くために。

 石田は自信があったのだが、長野に移った当初は、まず屋台の引き売りから始めた。最初から路面店を構えるリスクを避けることもあったが、長野の人たちはどんな中華料理を好むのか、リサーチの意味もあった。1日でも早く好みを掴んで路面店を出す、そんな思いがあった。

 石田はもともと中国・広東省の出身で、上海航路のコックだった。日本が気に入り、陸(おか)に上がって横浜は本牧のKという中華料理の店で働くようになった。中国人が旨いと思った料理がすべて日本人の舌に合うとは限らなかったので、石田はどんな工夫をすれば美味しいと日本人に言って貰えるか、随分と研究したものだ。例えばそのKという店では、茹でた麺を水で絞め、胡瓜や蕃茄、錦糸卵、そして竈で焼いた叉焼などを乗せ、酢が効いた少量のスープで食べる「涼拌麺」という料理も学んだ。

 石田はやがて日本に帰化する。そして職場は野毛にあるSという店に移っていた。そこにやって来たのが小松であった。小松もまた腕のいい中華料理人であって、年齢も近く、二人はウマがよく合ったのである。

 石田と小松は、長野の善光寺に何度か出かけたことがあった。全国の人々から厚い信仰を集める善光寺は、日本人の小松はもとより中国出身の石田にとっても、その本尊の阿弥陀如来が百済から海を渡ったという日本最古の御仏ということもあり、非常に興味深いものがあった。そしてまた、信州の大自然は時に厳しくあったものの、奥深く、豊かで、二人の青年の心を優しく包んでくれた。いつの日かこの信州で暮らしてみたい、店を出してみたい・・・、二人の心の中にはそんな気持ちが芽生え、育ち、膨らみ続け、口には出さずともお互いにそれは分かるようになっていた。

 二人は中華街にもよく食べに行った。もとより職場からも家からも歩いて行ける距離である。遊びというよりは、勉強のためでもある。どうしたら叉焼が上手く焼けるのか、日本人が好きなスープの出汁にはどんな魚介類が必要なのか・・・毎日行っても学ぶべきことは尽きることがなかった。二人にはまたAという、もっと若い弟子のような存在もでき、ときに三人で聘珍楼やら萬珍樓やら、明治も中期までに創業した老舗の店に出向き、研鑽を積んでいた。

 そして、石田も小松もそろそろ独立しようと考え始めていた矢先のことであった。1923(大正12)年9月、関東地方を突如襲った大地震は、結果として二人の背中を押すことになった。

 石田の屋台はたいそう好評であった。いつ行っても、彼の屋台には誰かしら客がいた。なんといっても日本では中華料理といえば横浜、である。その横浜のいくつかの店で何年も研鑽を積んだ腕前は、だれが言うともなく松本市内で評判になっていた。

 石田の店の客の中に、竹原という実業家の男がいた。竹原は石田の腕に惚れ込み、可愛がって援助を申し出た。石田はその話を有難く受け入れ、路面店を開く。そして自分の店に、感謝の意を込めて“竹”の字を取った屋号を付けたのであった。一方、権堂に移った小松。石田と同じく当初は屋台からスタートしたが、その歩みもまた、石田同様順風満帆そのものであった。

 二人の店の成功の背景には看板メニューがあったことを忘れてはならない。炒麺、それもカタ焼きそば、である。極細の麵を打ち、揚げる。悩ませたのは具の材料。横浜ではさして苦労もせずに入手できた海鮮類・・・貝類・エビや烏賊などは鮮度が落ちるうえ、仕入れ値がベラボーに高い。けれど、長野には豊富なキノコ類がある。それにキャベツやもやし、人参、玉葱などの野菜と豚肉を加え、香味油を絡め、素早く火を入れる。独自レシピのタレを加え、片栗粉の餡でまとめる。それを“あたま”というのだが、そのあたま、を揚げ麺の上に乗せ、仕上げに錦糸卵で飾るのだ。見た目も美しく食欲をそそる、と評判の一品だ。この料理は無論、横浜は本牧のKであるとか、野毛のSといった店で働いて会得したものである。

 もう一品(ひとしな)、裏メニュー的な麺料理を二人は用意していた。淺草の來々軒や五十番、人形町の大勝軒などの大繁盛ぶりを見れば分かるのだが、なにより日本人はラーメン=汁ありのそば、が大好きである。それは別に東京だろうと長野であろうと変わるはずもない。ただ二人は、具がシナチク・叉焼、ネギだけというシンプルな、単に“支那そば”なるものを作った訳ではない。横浜の、ごく一部の地域で密かに持て囃されていた麺料理、彼らはそれを“バンメン”と呼んでいたのだが、石田と小松はそれをもう一つの看板メニューに育てたいと思っていた。

 大正時代のほんの一時期、横浜の山手地区や中華街、近接する野毛や伊勢佐木町などの中華料理店に“辨麺=バンメン”と称する麺料理が伝わっていた。これも中国から持ち込まれたものだ。広東省出身の石田はもちろんそれを知っていたが、日本に永住しようと決めた当初は、日本人にはとってはスープの量が少なく、あまり人気は出ないと感じていたから、それを作ったことも、作ろうとしたこともなく、いや、その存在は記憶の中から消えていた。しかし伊勢佐木町のG、本牧のK、石川町のA、野毛のSといった一部の店の主人たちは “和えそば・混ぜそば”である『拌麺』と、日本語で発音が同じの『辨麺』を、日本人好みのものにアレンジして品書きに乗せていた。数は少ないけれど、中華街の店も加わっていた。

 アレンジとは細かく言えばいろいろあるのだが、一番の特徴はスープの量を本来のものより増やしたことだろう。GやK、Sなどの店は焼きそばと同じ“あたま”を乗せ、錦糸卵でさらに飾った。そう、石田や小松が作ったものとほぼ同じ、である。当然といえば当然で、石田と小松はそれらの店に勤めていたのだから。

 ただ、店によって“あたま”の材料は異なるし、スープの量にも決まりがあるわけでもなかった。きちんとしたレシピは伝えられることはなかったし、横浜市内全域の中華店に広まろうという機運が高まる少し前に関東大震災が発生し、中華街や、野毛・桜木町、関内・伊勢佐木町、石川町・中村町に存在していた店のほとんどは、そして山手・本牧エリアの一部の地帯は瓦礫の街と化してしまったのである。

 平成、そして令和の世になった日本。あまり世間一般には知られていないというものの、“辨麺”と“拌麺”の違いは今でこそ明確であるが、大正末期の横浜という狭いエリアで広まろうとしていた、極めてローカルでかつマイナーな麺料理を、一体だれがきちんと定義づけをしようとしただろうか。もちろん、誰一人としていなかった。だから“辨麺”は、その当時すでに辨麺を提供していた長い営業歴を持ち、数少ない店にのみ、伝わり残ったに過ぎない。

 それでも、昭和の15年ごろまではそこそこ提供店はあったのだ。しかし、太平洋戦争は関東大震災とは比べ物にならないほどの被害を、横浜にもたらした。その結果、辨麺を提供する店はほんの一握りの店になってしまった。

 しかしその短い期間であっても、そうした店に足を運び食べてみて、真似てみようとか、あるいはうちでも出してみようとか、ある意味モノ好きな、数としてはとても多いとは言えない中華料理店の店主たちの手によって、自らの店に持ち帰られ、客に出されたこともあった。そうした店主の中には、人形町大勝軒、代田橋萬来軒などの店主たちがいたことは言うまでもない。関東大震災ののち、眼を瞠る勢いで復興を遂げた横浜中華街は、軍靴の響きの勢いが増してきた昭和15年ごろまでは、やはり日本の中華料理の中心であったから、近場の東京所在の中華店々主は、足繫く中華街に通ったものであった。

 ただ、辨麺、という漢字がよろしくなかった。書けない人が圧倒的に多い。もちろん、読める人だって少数だ。だから振り仮名を付けたりカタカナ表記をしたりすることになる。しかし、それより何よりも辨麺ってどんな料理? と聞かれることの何と多いこと! 商売にはスピードも必要なのだから、説明する時間だってもったいないし、100回200回と同じ話を繰り返すのは飽き飽きする。しまいに辨麺、バンメンと書くのをやめて“広東麺”とする店が増え始める。本場中国風の呼び方で何となく旨そうに聞こえたからこれはそこそこ広がった。けれど今度は「広東麺って何だ? どんなラーメンなの?」と聞かれる始末。短気な店主は「面倒臭い!」と“五目うま煮そば”や“五目餡掛けそば”に名前を変える。一方、商売の上手な店主や、バンメンという名に愛着を持っていた店主は、“あたま”の内容を変えて、例えば辨麺には当時でも高級食材だった鮑を入れ、それが入っていないものを“広東麺”やら“五目うま煮そば”として辨麺とともに“併存”させた。

 だから現在、辨麺が品書きにあるのに広東麺もある店、先々代の主が辨麺という漢字を書けなかったから“バン麺”としてずっと品書きに乗せている店、“五目うま煮そば”としてメニューには載せてはいるが、昔からそれを辨麺と呼んでいた癖から、五目うま煮そばと注文が入ると店員が勝手に“変換”して「辨麺一丁入りましたあ~」などと叫ぶ店・・・などが残っているのだ。

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■もはや戦後ではなくなった、横浜の、街角から
 さて、話を長野に戻そうか。

 辨麺を作る際、“あたま”が焼きそばと同じ、というのは石田・小松両名にとっても都合の良い話であった。何せ狭い屋台のことだ。材料の種類もあまり仕入れることは出来ないし、売れ残ればすべて廃棄処理せざるを得ない。商売を始めたばかりの二人にとっては負担が少ないほうが良いに決まっている。だから、大看板メニューの焼きそばと同じ材料で済むというのは何より有難かったのだ。

 ただ二人の中では“バンメン”の定義は、現在一般的に言われるようなものではなかった。彼らが横浜で過ごした大正時代の半ば、中国から入ってきた“バンメン”は二種類。汁なしが“拌麺”で、汁ありが“辨麺”という大雑把な括りはあったものの、裏を返せばそれしかなかったのである。だからスープがごく少量でもあれば辨麺と呼ぶ店もあれば、同じ量くらいのスープでも拌麺という店もある。そしてややこしいのは、同じ“バンメン”という日本語の発音だ。辨麺、拌麺。漢字で書くと違いは明白だが、書くのも読むのも少々難解だ。ほとんどの場合、彼らが様々な店で“バンメン”という言葉は耳でのみ聞いていて、漢字で書いた辨麺・拌麺と実物とを照らし合わせて見て判断していたわけではない。もとより辨麺のほうが漢字も少々難しい。彼ら二人のなかではいつのまに「混ぜて食べる麺料理=拌麺=バンメン」という共通の認識ができたのはごく自然の成り行きであった。だから汁そばであっても、“あたま”をスープや麺と混ぜ合わせて食べるのだから、それは“拌麺=拌メン=バンメン”になるのは当然のことだ。

 ともあれ、松本の石田の店、権堂の小松の店から発信されたユニークな焼きそば。本場中国直伝、中華街のある町・ヨコハマからやって来たハイカラな食べ物・炒麺、焼きそばは大正末期の長野県一帯に瞬く間に広がっていった。同じ材料を用いる”バンメン”は毎回炒麺ばかりでは飽きるという客から密かに支持された。もちろん、その人気の背景には二人の料理人の確かな腕前、調理技術があったことは言うまでもなかろう。

 日本の食文化、いや、わが国のあらゆる文化と呼べるものは、太平洋戦争において甚大な被害を受けて途絶え、あるいは途絶えそうになった。ただ、太平洋戦争での長野の物的人的被害は最も深刻な場合でも1945(昭和20)年8月13日の“長野空襲”で、死者が長野市内で46人、上田市内で1人というものであったし、どちらかというと東京などの大都市部からの疎開先になっていた。また、確かに山岳地帯は多かれど、蕎麦の生産量と質は全国屈指であり、白菜などの葉物野菜、林檎・ブドウなど果物の栽培も盛んな土地である。食の文化は絶えることなく、むしろ都会から運ばれた文化から新しいものが生まれ、そして育っていった。その一つが大正期、中国から横浜へ、横浜から長野へと、二人の料理人によって運ばれた焼きそば、そしてバンメンだったのである。

 時代は移る。戦争は数えきれない悲劇を産み出した末にようやく終結。人々が心から待ち望んだ平和な時代へと流れを変えた。もはや戦後ではない、と経済白書が語ったのは終戦から僅か11年後の1956(昭和31)年。

 そしてさらに3年の、のち。
 
 1959(昭和34)年、春。横浜、中華街。

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 「そういやあ親爺、この間、長谷川 伸先生(注26)に、此処のシウマイを土産に持って行ったんだ。そしたら先生、『ああ、これはいい。むかしの味がするんだよなあ、清風楼のシウマイはさ』って仰っていたよ」。
 「池波先生、そうですか、それは誉め言葉なんですかね? それともむかしの味、ってことは、全然進歩していないってことですかね 笑」
 「いやいや、もう15年も前の話だけど、横浜も空襲で焼け野原になってもさ、あのときの味をね、こうしてまた楽しめるってことはシアワセなんだと思うよ。話は変わるけどさ、この近くに蓬莱閣って店が開業したよね。いやあ、あそこはさ、マスターが王さんっていうそうだけど、餃子がね、旨いんだ。ニンニクが入ってないんだけどね、その代わりにニラでさ、独特の味なんだよ。酸辣湯も醤牛肉(ジャンニウロウ)もイケたよ」。
 「そうでしたか。それは何より、よろしかったです。ところで先生、今日は酒の肴ばかりで召し上がってますなあ。腹持ちするもの、何か召し上がりますか?」
 「そうさなあ、久しぶりに辨麺、食べようかな。それ、頼むよ」。

 1959(昭和34)年、弥生三月も、もう終わるころ。例年に比して幾分か長かった冬は、さすがに列島に居座ることには飽きたようである。上空の強烈な寒気団は、また来年の訪れを約束するかのように雨混じりの雪を横浜に少しだけもたらしたのち、潔く去っていった。世間はどことなく、いや、間違いなく、浮かれていた。それは本格的な春到来を予感させる気候のせいだけではあるまい。皇太子さまと、正田美智子さまのご成婚が近いということも大きかろう。横浜中華街の清風楼にふらりと立ち寄った歴史小説家・池波正太郎もまた、そんな雰囲気を楽しんでいた。

 その、池波が立ち寄った中華街・清風楼から、山手方面にかけてだらだらとした坂道をゆっくりゆっくりと登っていく。20分、30分、40分・・・眼下に港ヨコハマの夜景が広がる。その先にある、山手の一角の、ちょっと大きな中華料理店を覘いてみると。おお、いた、いた。

 「いやあ、横浜のこの店、何十年ぶりだろうかな。こうして来るのは・・・さて、30年か40年か、なあ、小松」。
 「そうだよねえ・・・俺とお前が横浜を離れたのが関東大震災の翌年だったろう。だから大正13(1924)年以来ではないかな。だから35年振りってとこか。随分と昔のことになるなあ。つまり、石田、お前も俺も老けたってことだ。お互い古希を過ぎちまった。いつお迎えが来たっておかしくないお年頃だわ。ははは」。

 この店の品はどれを食っても甘みが先にくるんだよねえ、と辨麺の“あたま”をつまみながら石田がボソッと呟くと、小松もまた小さく頷く。

 春の宵は、ゆっくりと静かに更けていった。
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注21 會星楼⇒横浜市中区野毛町2丁目所在で、2019年秋に廃業。ボクのRDBレヴューは2017年4月に。https://ramendb.supleks.jp/review/1058436.html
注22 nakoさんの研究⇒『横浜にひっそりと提供されているバンメンを探る 〜県内実地調査とヒアリングからの考察〜』。2018年9月、芸術教養学科WEB卒業研究展 より。http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/1455/
注23 「横濱市震災誌第一冊」⇒横濱市史編纂係/編、1926(大正15年)2月刊。)
注24 横浜市歌⇒1909(明治42)年7月1日、横浜港開港50周年記念祝祭にて初披露。作詞・森林太郎(森鴎外)、作曲・南能衛(よしえ、当時東京音楽学校=現、東京藝術大学 助教授)。抜粋箇所の意は『(日本は島国であるから)港の数は多いが、この横浜に勝る港はない。さあ見よ、多くの船が停泊する活気ある港を。この果てしなく栄えてゆく天皇陛下の治世を彩る文物が、今日も横浜港から入ってくる』)。
注25 権堂に鉄道の駅ができる⇒権堂駅は長野市権堂に本社がある長野電鉄の駅。会社設立は1920=大正9年。権堂駅はJR長野駅から二つ目、善光寺下駅の一つ手前。開業は1926=大正15年6月、当時は長野電気鉄道の地上駅であった。現在は地下化されている)。
注26 長谷川 伸⇒作家。1884年~1963年。横浜市の日ノ出町で生まれる。股旅(またたび)物の創始者とも呼ばれる。作品に「瞼(まぶた)の母」「一本刀土俵入」など。