【昭和初期までの支那料理事情 東京以外】
この項は來々軒とは直接関係がない。しかし、「日本で初めてラーメンを出したのは來々軒」「全国のラーメンに影響をもたらした來々軒」なのか否かを明らかにするために記述する。
開港場、もしくは条約港という言葉がある。1858(安政5)年『日米修好通商条約を初めとする安政五カ国条約により、貿易を前提とした』もので、『開港場として、箱館・神奈川(横浜)・新潟・兵庫(神戸)・長崎の5港が決められ、「開港五港」と呼ばれた(Wikipedia)。また、外国人居留地が設定された地域でもある。こうした地区では中国や欧米の様々な文化がいち早く伝わる。横浜・神戸(南京町)・長崎新地のそれぞれの「中華街」を見れば中華料理もまた、これらの地域から伝わっていくことになったことが分かる。
日本で最初に中華料理店が創業したのは、ラーメン博物館[23](以下「ラー博」)公式サイトによれば『1870年 横浜の居留地』となっている。
横浜開港資料館が発行した「開港のひろば」第46号では『明治の初年(注・1868年)には会芳楼と關帝廟が存在した』[24]とある。横浜中華街公式サイト[25]によれば会芳楼(かいほうろう)とは、劇場と料理屋を兼ねた総合娯楽施設である[26]。しかし、そこには中華料理云々の記載はない。
同じ中華街公式サイトでは、こうも書いている。『中華料理店の記述が出てくるのは明治3年度版の人名録。49番地「ウォン・チャラー」、81番地「アー・ルン」の2軒が“チャイニーズ・イーティング・ハウス”として登場』とあるから、ラー博の言う『1870年 横浜の居留地』とはこのことであろう。
当時、今の中華街を南京町と呼んだ。ではその南京町では「ラーメン」「支那そば」をいつ頃から出し始めたのか。
「ラーメン物語」にも記述があるが、「横浜市史稿 風俗編[27] 第二節南京町 三、生業の種々相」に次のような記載がある。
『されば彼等の多數は各地各所の日本人町に進出して、理髪店或いは支那そばやを営業して居るのは明治末期からの事ではあるが、可成り根強い職業として潤ひを収めて居る』。
「ラーメン物語」では、ラーメンの誕生時期に関して來々軒以前とし、南京町では『遅くとも、(明治)四十年代の頭には日本のラーメンの原風景は完成していたのである』とも書いている。
さらに「日本めん食文化の一三〇〇年」[28]を見てみよう。「第九章・明治以降に伝来しためん食文化 一、文明開化と支那そば」の項によると、
『明治二十年ごろ、横浜の南京街には中国料理店は二十軒はあった。屋台もあり、そこではめん専門店もあった。その屋台のめんを日本人は南京そばと呼んでいた。この屋台の文化を模倣する者が東京にいて、夜ごとチャルメラを吹きながら街を流して売り歩いた。と、“てんやわんや”の代表作を持つ劇作家の獅子文六氏は記述している。(中略)
大正時代は大衆文化が発展する時代である。と同時に安くておいしい中国庶民料理がブームになる。そのさきがけを作ったのは、明治二十四年に東京の上野で開催された内国勧業博覧会である。その会場にできた台湾料理がやすくておいしいという評判が立ち、ぼつぼつ中国料理が知られるようになった。この博覧会の跡地に台湾料理店が残ったようだが、その店名は分からない。横浜には多くの中国人が住んでおり、明治中頃には、中国料理店は二十軒近くあり、有名な店には「永梁菜館」や「北京楼」、「祖記」があった。(中略)
日露戦争後東京には雨後のタケノコのごとく中国料理店ができる。その中に浅草の「來來軒」があった。中国大衆料理の「來來軒」が支那そばを売り出すのは明治四十三年(1910)のことである』。
このように、横浜では明治初めから中国料理店が存在し、1890年代には屋台ながら“めん”の専門店があった。明治中頃から後期にかけては相当数の中国料理店が営業し、明治末期には支那そばを提供する店が誕生していたのである。横浜では開港時から麺の食文化が進んで来たわけだ。
ちなみに「明治二十四年に東京の上野で開催された内国勧業博覧会」という記述であるが、「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」[29](以下「麺の歴史」)では、その当時のメニューは分からないとしながらも、明治36(1903)年、大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会の会場に台湾菜館が出店、『今日でも通用するメニューで客をもてなして』いる。そのメニューが書籍には掲載されており、麺類は以下の四種類であった。
◆肉絲白麺(ロウスーパイミエン、豚のそば、五銭)
◆火腿白麺(ホートパイミエン、ハムのそば、八銭)
◆鶏絲白麺(チースパイミエン、鶏のそば、十銭)
◆炒蝦白麺(チャオシャパイミエン、蝦のそば、十二銭)
次に長崎である。長崎と言えばちゃんぽんだが、「ラーメンの誕生」[30]などによる1887年(明治20)年頃に福建省から長崎にやって来た陳平順(チンピュンシュン)が支那料理の四海楼を開店した。陳平順氏は残った食材など手近な具材を混ぜ合わせ、安くて、うまくて、栄養豊富で、ボリュームのある麺料理をやがて創作する。ちゃんぽんの誕生、1899年(明治32)のことであった。残った材料を使って料理を作ったことで、陳平順氏は「ケチ」だったとされる話もあるくらいだ。
四海楼のめん料理はすぐさま大評判になり、「シナうどん」と呼ばれ、大正時代になると「ちゃんぽん」と称されるようになっていった。「ラーメンの誕生」では『この長崎ちゃんぽんの祖型は、湯肉絲麺(トンニイシイミエン)、炒肉絲麺(チャンニイシイミエン)ともいわれる。前者はスープめん、後者は焼きうどんである』とある。また、1907(明治40)年の『長崎県紀要』から引用があり、ちゃんぽん提供店は当時市内十数か所あったとしている。このように長崎もまた、開港以降独自の麺の食文化を形成していたのだ。
神戸はどうだろう。「神戸南京町の形成と変容」[31]では、1886(明治元)年の神戸開港ののち、『在留清国人は外国人居留地の境界西隣で元町南(海岸栄町通1、2丁目辺 )に集中して住居を構えた』。『この辺りは外国人居留地ではなく雑居地』のところに明治10年ごろ、南京町が生まれたという。このあたりでは雑貨商などと並んで飲食店が出来たそうだ。
1890年代に南京町の南側、現在の中央区栄町通1丁目で開店した広東料理『杏香樓』が神戸最初の本格的中華料理店と言われている。なお前掲の「南京町の形成と変容」によれば、明治末期から大正初めにかけて、総店舗数は100余りあり、うち中華料理店は6店と記されている。また1912(大正元)年には尼崎の「大寛 本店」が、『当時の居留地に於いて日本人初の中華そば店を浪花町66番館にオープン』した[32]。來々軒の味に影響を受け、杏香樓から調理人を招いたともある。
なお、杏香樓に関しては、関西学院大学公式サイト[33]によれば1924(大13)年10月、高野山大学との第8回交換学術講演会が関西学院大学で開催された際、歓待の食事会を杏香樓で開いたと記録されている。
さらに函館。よく知られた話と思うが、函館には「來々軒より先にラーメンを提供していた店があった」という話があって、ラー博の公式サイトでも記述がある。
1884(明治17)年4月28日付函館新聞の掲載された、養和軒という当時は洋食の店の広告で、その中に「南京そむ」というのが見えるのだ。「南京そむ 一五銭」とかかれたものが、つまりは「南京そば=ラーメン」ではないかと解された。日本で最初に、ラーメンが宣伝された可能性があるが、この「南京そむ」が、現在のラーメンにつながる汁そばであるかどうかは不詳、などと紹介されている。
しかし当時の記録はこの広告のみで、この南京そばが今でいうラーメンだったかはわからないのだ。第一、ラーメン一人前15銭というのが高すぎる。当時の日雇い労働者の賃金がおおよそ27銭(1日)、15銭というのはその半分である。現在の函館の最低賃金は861円/時間、であるから、今の価値にすれば3,000円~4,000円程度になるため、これは今のラーメンとはベツモノという可能性も十分あるのだ。
函館市史[34]によれば、明治初期の函館に住む中国人はごく少数で、ほとんどが昆布などを買い付ける海産商だったという。その後日清戦争などを経て、明治34年に中国人による料理店が開業、さらに1910(明治43)年には中華会館が竣工した。この建物は現存しており、登録有形文化財にも指定されている。その用途は『寺でも神社でもなく日本で言えばまづ公会堂の様なもの』と記されているが、1953(昭和28)年創業・札幌の製麺所「西山製麺所」の公式サイト[35]によれば『明治43年に開館されたこの建物の中には、「蘭亭」という支那料理店があった』とされる。
函館では今もラーメンと言えば、スープのベースは塩である。そこに「日本人の味覚に合わせた醤油ラーメン」の影響は見えない。前述の西山ラーメンのサイトではこうも記している。『函館ラーメンは、今の日本のラーメンの中で、最もそのモデルである中国の麺料理の形を残しているのではないだろうか。古くは江戸時代から長崎を通じて中国との貿易を行い、明治時代から昆布や海産物の買い付けに華僑が多く訪れた函館。この地ならではのラーメンだ』。
なお、蘭亭に関してはWEBサイト「函館ラーメン天国」にも記載があって[36]『明治43年に開館された中華会館と同時にオープンしたのが支那料理「蘭亭」という店。北洋漁業で景気がよかった当時の函館で大繁盛していたという』との記述がある。
ただ、函館市文化・スポーツ振興財団の公式サイト[37]では、『蓬莱町で蘭亭という料理屋』という表現が見える。蓬莱町というのは現在の「宝来町」で、蘭亭があったのは、現在のホテルWBFグランデ函館(注・旧函館グランドホテル、それ以前はチサンホテル)のあたりということを記したブログ[38]を見つけた。この両者、距離的には1.1㎞ほど離れており、別の建物である。本稿では蘭亭の場所を特定することを目的としていないので、此処では明治末期に函館に中華料理店が存在していたという事実にとどめておく。参考まで、蘭亭の初代主人の子は、歌手・瀬川英子氏の父君とのことである。
函館では昭和の初期にはもう、庶民の間に相当ラーメンが広まっていたことが分かる写真が残されている。「函館ラーメン天国」というWEBサイトにこんな記載と共に写真がUPされている[39]。『純喫茶「ミス潤」(現、宝来町22-19)に今も残る昭和7年のメニューには、ケーキやみつ豆と並んで“ラーメン(支那ソバ)/15銭”とある。当時のコーヒーの値段が10銭ほどだから、ほぼそれくらいの値段で、支那そばが味わえていた』。このミス潤、という喫茶店の隣には「支那そば 笑福」という店があったこと、そこの暖簾には『おそらく“専門食堂、支那そば”と表記されている』とも書かれている。なお、「ミス」であるが、引用では現在も営業されているように書かれているものの、2018年11月末を以って閉店されてしまったようだ[40]。
このほか、古くから開かれた港町や、現在ご当地ラーメンとして知られる町などの、その地域「初」の中華料理店・ラーメン店とされる店を記しておく。
◆札幌 竹家 1921(大正10)年創業。北海道大学正門前に大久昌治氏が開業。翌1922年からは、中国人・王文彩を雇い入れ、大久タツ氏命名の「ラーメン」という名でも提供している。複数の本では、王氏が『好丁!(ハオラ。いっちょう上がり)』と多用して言っていたのだが、札幌の人には「ハオラ―」と聞こえ、その「ラー」と「麺=メェン」をつないだ「ラーメン」という言葉がここで生まれた、漢字の「拉麺」を充てたが客は馴染めず、品書きにカタカナでラーメンと書いた、などと記されている。
◆新潟 保盛軒 1927(昭和2)年創業。県内初の中華料理店とされ、1942(昭和17)年当時の写真に写った看板に「支那そば」「わんたん」の文字が見える[41]。
◆米沢 舞鶴 大正末期。同じころには市内に支那そばの屋台引く中国人が3~4人いたという[42]。
◆喜多方 源来軒 1927(昭和2)年ごろの創業。1925年ごろ、浙江省出身の潘欽星氏が来日、屋台として始めた。今もなお、喜多方駅から数分の場所で路面店にて営業している。
◆佐野 エビス食堂 大正年間[43]。1916(大正5)年ともいわれる。エビス食堂に勤務していた小川利三郎氏が1930(昭和5)年に屋台を引きはじめ、その後現存する「宝来軒」を立ち上げたという記述もネット上で複数見える。
◆福岡 南京千両 1937(昭和12)年創業。うどんの屋台を営んでいた宮本時男氏が、東京と横浜で流行していた中華そばと出身地・長崎のちゃんぽんをヒントに、当時、鶏ガラより安価であった豚骨に着目し、豚骨ラーメン生み出したと言われている[44]。
◆熊本 中華園=1933(昭和4)年創業。紅蘭亭=1934(昭和5)年創業。会楽園=1937(昭和8)年創業。熊本・長崎に伝来した福建省の郷土料理がさらに熊本で進化したのが太平燕(タイピーエン)で、その創業の店がこのいずれかではないかとされる[45]。
【昭和初期までの支那料理店事情 東京(浅草以外)】
それでは東京での昭和初期までの事情はどうか。
「ラーメン物語」によれば、東京に中華料理店が開業したのは1872(明治12)年のことで、築地入船町の永和斎玉複安、という店だったという。その値段は、一人前一円二〇銭から七円だそうで、当時、そばの「もり」「かけ」が八厘だというから、この店は今なら庶民に手が届かない超高級中華料理店ということになろう。「起源のナゾ おもしろい話題」[46]では『(明治)一二年一月、築地入船町に王愓斎という人が中国料理店永和斎を開店し、「朝野新聞」にその広告を出した』と書かれている。
その後、いくつかの料理店が開業している。1907(明治40)年に発行された「最新東京案内」[47]では、『●支那料理店一覧』として以下の店が記されている。
◆偕樂園(日本橋龜島町[48]一)
◆もみじ(赤坂田町三)
◆鳳樂園(牛込築土前町)
「ラーメン物語」では、偕樂園の創業は1876(明治16)年とされている。ほかには聚豊園満館酒館が築地に開業したとある。なお、「食行脚 東京の巻」では“偕樂園”は明治17年創業で、店の所在地は小石川区表町[49]の傳通院、とあるため、別の店か、あるいは移転したものと思われる。“聚豊園満館酒館”は、「起源のナゾ」によれば明治18年7月に開業したと記されている。
「麺の歴史」によれば、日清戦争(1894~1895)以降に會芳樓、廣東館(いずれも神田)、台湾樓(京橋)、紅葉(赤坂。注・上記の“もみじ”か)が開業、日露戦争(1904から1905)後には中国菜館、神田の現存する維新號(別項で詳細記述)、第一樓が創業。これに続いて來々軒、盛京亭、菜華などができたとある。
大正14年発行の「食行脚 東京の巻」では当時の有楽町一丁目三番地[50]にあった、”陶々亭”を紹介する際にこう書かれている。『偕樂園が、只一軒の支那料理として、明治年代を押通し、夫れから大正に移ると、此處にも彼處(かしこ)にも、所謂中華御料理がウヨゝと急に增えて來た』。さらに「食行脚 東京の巻」では、小石川の明治17年創業・支那料理店”偕樂園”の紹介の中でこう記している。『(偕樂園が)明治年代を通じる日本唯一の、支那料理として、巖然頭角を現はすに至つたのは、眞に偉なりとせねばならぬ、此間(このかん)、明治二拾年の、第一回水産博覧會、同三拾年の第二回博覧會には、數拾種を出陳して、有効賞を受領したことは、當時、異數なりとせられたが、畢竟(ひっきょう)は倶樂部組織の精神を汲んで、支那料理の宣傳に、資せんが為にほかならなかつた』。そして明治の末期になり赤坂に”紅葉(もみじ)”が開業し、大正時代になると『雨後の筍のやうに、同業が增へて來た』。続けて支那弁当はそもそも偕樂園が元祖で、第一回帝国議会召集の際には、議員のために食堂に納めた、ともある。
私が調べた限り、他にもいくつか明治期から昭和初期に創業しているのが見ることができる。私のブログを参照されたい[51]。そこでは現存する中華料理店他、現在ラーメンを提供している都内の店を一覧にしているが、店自体の創業は古くてもラーメンの提供時期がずっと後だったり不明だったりする店を除けば、明治期から大正初期の創業、つまり來々軒より以前か同時期に創業した現存店は次の通りである。
◆1899 明治32 維新號(神保町)[52]
◆1906 明治39 揚子江菜館(神保町)
◆1911 明治44 漢陽楼(神保町)
◆1912 大正元 五十番=天府(神田)?[53]
◆1912 大正元 福来軒(立川) *ラーメンの提供は少し後。
◆1914 大正3 新川大勝軒飯店(茅場町)
◆1916 大正5 のんきや(奥多摩)
來々軒創業時より前に開業、その当時から中華料理を提供し、現在もなお営業を続ける店が二店、來々軒創業の翌年もしくは同年の、1911(明治44)年に創業した店が一店ある。いずれも神田神保町の所在(維新號は今は神保町にない)である。
神田(神保町)に歴史ある中国料理店が多いのには訳がある。明治以降、神田界隈は駿河台上の明治大学のほか、たくさんの教育機関が開校、中国からの留学生も多数学んだ。明治以降、神田界隈には次のような学校が開校していった。
1869(明治2)年、開成学校、神田錦町、現・東京大学。
1872(明治5)年 師範学校、神田宮本町、現・筑波大学。
1874(明治7)年 東京女子師範 神田宮本町、現・お茶の水女子大学。
1877(明治10)年 学習院、神田錦町。
1880(明治13)年 東京法学舎、神田駿河台、現・法政大学。
1885(明治18)年 英吉利法律学校、神田錦町、現・中央大学。
1886(明治19)年 明治法律学校、神田駿河台、現・明治大学。
1896(明治29)年、日本法律学校、神田三崎町(麹町から移転)、現・日本大学。
ほかにも英語や漢学、数学などを教える研精義塾、裁縫を教える裁縫正鵠女学校などがある。また嘉納治五郎は、1882年に講道館を開く一方、英語中心の学校「弘文館」を神田に設けている。
日清戦争後、「日本に学べ」と中国から留学生が多数来日する。とりわけ神田神保町あたりは「チャイナタウン」と呼べるほど中国人留学生やその生活を支える人々が暮らす街となった。留学生の数は1899年に18名だったのが1903年には一千名を超え、1905(明治38)年には8,000名を超えていたという。留学生の中には、孫文、魯迅、周恩来などがいた。しかし、食べ物の違い等で帰国する人も多かったそうだ。
その食の問題を解決するために、この店のような中国料理店があった。漢陽楼の創業は1911(明治44)年のことで、周恩来らが良く訪れていたそうだ。店の公式サイトなどでも“周恩来ゆかりの店”などの記述も見える。
明治大学リバティアカデミーが2013年に開講した「神田神保町中華街 ―もう1つのチャイナタウン―」[54]の講座趣旨にはこうある。『日本におけるチャイナタウンといえば、横浜、神戸、長崎の3都市を多くの人は思い浮かべるでしょう。これらの町とは全く別の背景と発展過程を持つチャイナタウンが日本にはありました。日清戦争後、神田神保町は「チャイナタウン」と呼べるほど中国人留学生やその生活を支える人々がいました』。神田は一時中華街的な様相を呈していたのだ。もしも、であるが、浅草の中華樓・來々軒より前に「日本初のラーメン(専門)店」があったのだとしたら、この神田界隈、という可能性があるかも知れない。
都内で現存する最も古い中華(中国)料理店が維新號、である。同店の公式サイト「維新號の歴史」[55]によれば、 『明治32年に外国人の居住地以外の内地雑居が可能になったのを機に、東京・神田地区の神田今川小路に清国(中国)の留学生を相手に簡単な “郷土料理店”を始めたのが維新號の始まりです。当時の日本で、中国料理を食べる機会のなかった彼等は、祖国の味を求め維新號に集まり、店は大変賑わっていたそうです。その中には後の中国で活躍する周恩来や蒋介石・魯迅の姿もあったようです。大正中期に至るまでは留学生相手の“故郷飯店”を運営していましたが、 時代の流れと共に留学生の数が激減したのを機に、日本人相手の“中国料理店”に大変身を遂げました』。
これによると、大正半ばまではラーメン専門店どころか、中華・中国料理店とも呼べないかも知れないような記述である。
「ラーメン物語」では、1930年発行の『支那料理通』なる本[56]を紹介している。その本の附録には全国規模に及ぶ店のガイドが掲載され、それを引用している。その中、東京の部に16店が掲載、來々軒・維新號の名が見えるので、その頃には一般の客にも中華料理を提供していたと思われる。一方、1906(明治39)年創業の「揚子江菜館」はどうか。これについては最後の項で記すとする。
【昭和初期までの支那料理店事情 東京(浅草以外)】
次に浅草界隈の状況はどうであろうか。後述する部分もあるので重複を避けながら記述する。
ここでも頼りになるのは、冒頭の「淺草経済学」である。“第二、淺草に於ける支那料理の變遷 (一)明治末期淺草に於ける淺草の支那料理” 内容を、長くなるのでかいつまんで記述する。
『淺草の支那料理の變遷は、頗る多種多様に渉っている』そうで、特に明治末期から大正初期にかけて激しく『新たに開業したかと思ふと、間もなく廃業され、而(し)かも、廃業されたかと思ふと、又次のものが出來ると言ふ有様だった』。そのため、全部書くのは困難だとした。
浅草公園界隈で古いのは金龍館[57]横町の「榮亭」という店で、創業は明治42年、三島という人の経営であったが、大正時代に入って廃業してしまった。明治末期になると、松竹座[58]の横町に「シンポール」という支那料理店が開業。中国の方の経営で、今は二代目となった。
そのシンポールと前後して開業したのが來々軒と、その真向いにあった支那料理屋(注・店名不詳)であった。ただ、『こゝは支那料理と言ふよりも、支那ソバ屋と言つた格の店であつた』そうだ。ここも大正期に入ると廃業してしまった。また、「東勝軒」という店もあり、大正七年頃まで営業していた・・・などとある。
浅草での支那料理の全盛期は『言ふまでもなく、大正初期から其の末期にかけた約十二 三年間であつた』そうである。特に小さな西洋料理店が支那料理を『兼業』しているそうで、これが当時の流行だとか。ことに関東大震災直後は『猫も杓子も西洋、支那料理を看板としてゐたものだった』そうである。しかし、その『西洋料理兼業のあいまいが、群小カフェーなどで、インチキ料理を食はされてことによつて、大衆の熟度は、徐(おもむ)ろに降低して行つ』ってしまった。結果的に浅草では兼業支那料理店は一軒も成功しなかった、とある。
來々軒が創業して十年ちょっとで、浅草では西洋料理店やカフェが支那料理を兼業したおかげで質が低下、支那料理店は、はや衰退、ということなのだが、それでもこの本の著者はこうした状況を『支那料理の本質から言ふと、誠に喜ぶべきこと』で、それは『とりも直さず料理本位の返つたことを物語る』と書いている。結局、まともな料理を出さない店は続かない。それは今も昔も変わらない、ということだ。
(現在の浅草すし屋通り と かつて來々軒があったあたり)
[23] ラーメン博物館 横浜市港北区新横浜2-14-21。『世界初のフードアミューズメントパーク』として1994年に開館。
[24] 会芳楼と關帝廟が存在した 「開港のひろば」第46号。横浜開港資料館、平成6年11月刊。
[25] 横浜中華街公式サイト https://www.chinatown.or.jp/
[26] 会芳楼 横浜中華街公式サイト『横浜中華街はじまり語り、なるほど話。横浜開港150年企画 その2 135番地には何かがある!? 中華街の歴史を語る場所』から。https://www.chinatown.or.jp/feature/history/vol02/
[27] 「横浜市史稿・風俗編」 横浜市・編、横浜市。1931年8月刊。
[28] 「日本めん食文化の一三〇〇年」奥村彪生・著、一般社団法人農村漁村文化協会。2009年9月刊。
[29] 「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」 安藤百福・監修、奥村彪生・著、角川文庫。2018年11月刊。ただし、元は「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」 フーディアム・コミニュケーション。1998年6月刊 で、改題・加筆し文庫化したもの。
[30] 「ラーメンの誕生」 岡田哲・著、ちくま新書。2002年1月刊。
[31] 「神戸南京町の形成と変容」高橋 正明, 于 亜・著、大手前女子大学論集。1996年2月刊。
[32] 尼崎の『大寛 本店』公式サイト 「中華そばの歴史」から。https://www.daikan-honten.com/中華そばの歴史.html
[33] 関西学院大学公式サイト 「関学タイムトンネル」https://www.kwansei.ac.jp/yoshioka/yoshioka_003936_3.html
[34] 『函館市史』函館市史編纂室・編、1974~2006年刊。函館市史デジタル版 通説第三巻第五篇「函館の中国人の世界」より。
[35] 西山製麺所の公式サイト 「北海道のご当地ラーメン」https://www.ramen.jp/oyakudachi/gotouchi/hokkaido/?id=hakodate
[36] 函館ラーメン天国に記載のある蘭亭 「函館ラーメンのルーツ」https://www.hakodate.ne.jp/ramen/roots2.html
[37] 函館市文化・スポーツ振興財団の公式サイト 「函館ゆかりの人物伝 瀬川伸」
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/03_sa/03-segawa.html
[38]蘭亭のあった場所に関するブログ 「癌春(がんばる)日記bysakag・大正ロマンの街並み 銀座通り界隈) https://blog.goo.ne.jp/sakag8/e/46dad5d0f499655bc85ff8acc8be8e83
[39] 函館ラーメン天国WEBサイト 「函館ラーメンのルーツ」 https://www.hakodate.ne.jp/ramen/roots2.html#
[40] 純喫茶ミス潤の閉店 2018年11月8日付函館新聞 函館地域ニュースから。
[41] 新潟の「保盛軒」 WEBサイト「新潟文化物語 file108 新潟のラーメン文化(前篇)」
https://n-story.jp/topic/108/page1.php
[42] 米沢ラーメン 米沢麺業組合公式サイト「米沢そば・らーめんの歴史」から。http://0141men.com/histry/
[43] エビス食堂 ラー博「全国ご当地ラーメン 佐野ラーメン」から。https://www.raumen.co.jp/rapedia/study_japan/study_raumen_sano.html
[44] 南京千両 ウォーカープラスhttps://www.walkerplus.com/trend/matome/article/132797/ 【福岡】久留米豚骨ラーメンの生みの親「南京千両 本家」などから。
[45] 熊本県公式観光サイトhttps://kumamoto.guide 「もっと、もーっと!くまもっと。」などから。太平燕発祥の店としては、熊本市中央区桜町にあった「中華園」との記事がある(2015年2月11日付朝日新聞及び2018年10月8日付毎日新聞)。一方、熊本市観光政策課熊本市観光ガイドhttps://kumamoto-guide.jp/spots/detail/311 では「会楽園」、としている。
[46] 「起源のナゾ:おもしろい話題」樋口清之監修、光文書院。1974年5月刊。料理、政治、宗教、芸術、スポーツ等、日本のさまざまな「こと」「もの」の始まりを、その項目ごとに解説した書籍。
[47] 「最新東京案内」 東京倶楽部・編、綱島書店。1907年2月刊。国立国会図書館デジタルコレクション
[48] 日本橋龜島町 現在の日本橋茅場町二・三丁目
[49] 小石川区表町 傳通院は現在の文京区小石川三丁目。
[50] 大正時代の有楽町一丁目三番地 現在の数寄屋橋交差点斜向かい、銀座五丁目。
[51] 私のブログ 「ノスタルジックラーメンⅠ 東京都23区内 戦前の創業店」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/ea80328da5637419ffc3a09667009348
[52] 維新號 一旦閉店し。1947(昭和22)に銀座八丁目で営業再開(現在の「銀座維新號」。当時は中華饅頭専門店)。現在の本店は赤坂。
[53] 天府(神田) 「ラーメン物語」で『大正元年から暖簾を守って来た神田五十番が1987年に“天府”に屋号を変える』という記載がある。私が店に出向き、スタッフに「ラーメン物語」記載のオーナー名をあげたところ「そうだ。店の名は変わったがオーナーは変わっていない」とのことであった。
[54] 明治大学リバティアカデミーの講座 2013年4月~7月に駿河台キャンパスで「神田神保町中華街 ―もう1つのチャイナタウン―」を開いた。https://academy.meiji.jp/course/detail/1009/
[55] 維新號の公式サイト 維新號の歴史 http://www.ishingo.co.jp/ayumi.html
[56] 「支那料理通」 後藤朝太郎・著、四六書院。1930(昭和5)年刊。ただし、「ラーメン物語」では昭和4年、とある。
[57] 金龍館 所在は台東区浅草1丁目26番。1911年10月1日開業、1991年閉鎖。かつて浅草にあった劇場、映画館。大正期後半に「根岸大歌劇団」の根拠地となった。その後は松竹洋画系のフラッグシップ館として知られた。
[58] 松竹座 浅草公園六区に所在した劇場。1928年開業、1963年廃座。ボウリング場などとなったのち、1983年解体。現在は浅草ROXが建つ。
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