※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。
3.淺草來々軒のスープは「ブタ臭くて脂っこい?」
さて、ここからが本題である。
創業当時の淺草來々軒のスープとは、一体どんな味だったのだろう? 少なくともボクが新横浜のラー博で食べた「來々軒」のものとはまったく異なる、と思っている。淺草來々軒三代目店主尾崎一郎氏はこう述べている。
『スープは鶏ガラ、豚骨に野菜で毎朝六時、七時ごろから準備にかかります』。タレは醤油であった(「ラーメン物語」)。
ただし、三代目の一郎氏が厨房に立ち始めたのは1935(昭和10)年のことである[27]。であるから、一郎氏の述懐はそれ以降のものであると推測できる。
ではそれ以前、つまり淺草來々軒創業当時はどんなスープであったのか。創業以来昭和10年まで同じスープで支那そばを提供していたのだろうか。答えは分からない。創業当時の記録がないからである。しかし、その手掛かりはある。なお、ラー博公式サイトでは、ラー博の来々軒で提供しているスープについてこんな記述をしている。
「証言に伴い、国産の豚、鶏、野菜に、昭和初期ごろから加えられた煮干も使用」。「煮干しに関しては証言によるとオーナーの尾崎氏より『日本人の口に合うように』と昭和初期頃から煮干しが加えられたとのこと」
とある。さて、煮干しを使ったとは尾崎氏の証言なのだというが、さて? ボクにはそう語ったという根拠(証言)を見つけることができなかった。これは単純にボクが見つけることができなかったの可能性があるので、その証言がどこに記載されているのか、どなたかご教示いただければ幸いである。ちなみに後述するが、淺草來々軒三代目・尾崎一郎氏の八重洲時代身で店で10年の勤務経験のある「進来軒」(千葉)の店主・宮葉進氏によれば、八重洲時代には「豚足と鶏ガラ」しか使っていないと証言している。
それはさておき、手掛かりのまず一つ目。「研究会」よりもたらされた情報、で、その書籍を紹介しておく。書籍のタイトルは『食の地平線』[28]、著者は玉村豊男[29]氏である。引用してみよう。
「浅草には『来々軒』という支那ソバ屋ができて繁昌しはじめた。風俗評論家の植原路郎[30]氏によると、大正七、八年頃の『来々軒』のラーメンは豚の骨を煮出して取った濃厚なスープに醤油味をつけた汁の中に、太目のちりちりした、上質の梘水を使った麺が入っていて、その麺のほかには何も具がのっていないものだったという。なにも具ののっていない麺! ラーメンどんぶりも真っ白で模様がなく、わずかに内側に細い青い線が入っていただけである、と植原氏は回想している」。
これは、研究会のnote(配信サイト)[31]でも記述がある。また同サイトには『食の地平線』の一文からも引用がある。それは明治30年代の横浜南京町(現・横浜中華街)の柳麺(ラオミン)を食べた中国人の古老へのインタビューである。それによれば当時の南京町の柳麺のスープは
『豚の骨から取った澄んだスープで塩味のみ』である。
さらに前述した植原路郎の著作「明治語録」[32]からも引用があり、それによれば
『大釜で豚の骨をグラグラわかせたスープの素は天下一品だった』
という。さらに続ける。東宝映画の副社長も務めた森岩雄の大正10年頃の証言[33]として、
”有名なシナそば屋に「来々軒」があった。ここで生まれて初めて「シナそば」を喰べたが、物凄いあぶら臭いのに驚いたことがある。”
と記している。
このように、明治末期の南京町で提供されていたラーメンのスープは豚骨スープで塩味、大正7年から10年ごろの淺草來々軒のスープも脂っこい豚出汁のスープであったことが窺える。
獣臭い。
脂っこい。
これが大正7年頃からの淺草來々軒のスープだ・・・?
ただし。注意してほしい。これが正しいとして、それでもボクたちは、この表現を“動物系の出汁素材を使った脂っこいスープのラーメンを食べ慣れている” 、かつ“現代の感覚”で、まともに受け取ってはいけないのである。間違っても現在の日本人が大方思っているであろう感覚でこのスープの味を想像してはならないのである。
なぜなら。
この当時、こうしたスープは他所にはなかった。
そう。当時の人々は、豚くさい脂っこいスープなんぞ誰も飲んだことがなかった。普段食べるものにこんな豚くさい脂っこいものはなかったからこそ、人々の記憶に残り、淺草來々軒は店を繁盛させたのだ。しかし現代の人々がこのスープを飲んだのなら、おそらく、結構あっさりしたラーメンのスープと感じるのではないか、とボクは思うのだ。ここが、今回の話の”キモ“の一つでもである。
一方研究会ではこんな記述もしているのだ。
・・・“『にっぽんラーメン物語』(小菅桂子)の文庫版には明治44年生まれ、小学校2,3年の時から来々軒に通っていた板野比呂志さんの以下の証言が載っています。(私が所有しているハードカバー版『にっぽんラーメン物語』には載っていません。)『”坂野さんは大人になってからも足繁く来々軒へ通っている。””「来々軒のラーメンは麺が太くてあっさりした味だったよ」 ” ただし、いつ頃の来々軒の味なのか、子供の頃から味は変わらないのか、についての情報はありません。・・・
ついでながら、ボクも所有しているのはハードカバー版である。さておき、小学校2年なら、それは大正6年から7年にかけてである。もしこの頃の記憶が残っているとしたら・・・。先に書いた植原路郎氏の証言は大正7年から8年だという。ならば、この間に味が変わったという可能性はあるのだろうか。
ボクは、確証はないが、そういうことがあった、と以前から思っていた。そして、今は「きっと、あった」という思いを強くした。
ただ、これらで一つだけはっきりしていることがある。三代目店主尾崎一郎氏という造り手の証言以外は、ほぼ人の記憶によるものだということだ。これほど細部まで調べ上げている研究会の調査力は改めて実に驚異的であると感じる。がしかし、人の「記憶」とは当てにはならない。まして、味覚というかなり抽象的なものを言葉、文字に置き換えているのである。
先のブログで書いた通り、伝承料理研究家の奥村彪生氏[34]は、著書の中でこう書いている[35]。
『(淺草來々軒の)支那そばのスープは鶏や豚の骨からとり、醤油味をつけ、そばだしに似ていた』。
著書ではこう続ける。実に興味深い記述である。
『中国風の麺条[36]をなぜ支那そばと呼んだのでしょうか。そば粉をいっさい使わない小麦粉の麺条を中国風に肉のスープに泳がせて食べるやり方を支那そばというのは、スープは鰹節入りで、そのうえ味付けに醤油を使い、その味はそばだしのような感じだったのでそう命名したのでしょう』。
そして著者は、旭川の 旭川らぅめん青葉 本店[37]で初めて食べた際、スープについては
「こりゃそばだしだと即座に思」ったそうで、『飛騨高山の 豆天狗 本店[38]や まさごそば[39]のスープもそばだしそのもの』で、『このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』
と書いている。ただし、この著作では『そばだし系スープ=東京の支那そばがルーツ』の根拠を示してはいない。
飛騨高山ラーメンの発祥店は「まさごそば」と言われている。2017年12月18日付朝日新聞の記事「高山の『そば』 厳守の75秒」などによれば、『1938(昭和13)年創業で高山ラーメン発祥とされる「まさごそば」の店主(注・初代店主は坂口時宗氏)が、東京で料理修業中に中国人がつくる中華そばを学び、高山で屋台を開いたという説が有力』で、東京の修業先は「ラーメンがなくなる日」などでは、現在、東京・目黒にある「雅叙園」だという。さらにラー博のサイトでは「坂口時宗氏は、東京は芝浦にあった雅叙園で修行をしている時、中国人の作る麺料理を見て、見よう見まねで中華麺の打ち方を覚えたという」。この記述、類似のものを含めればネット上の様々なサイトで見かけるので[40]、さて一体どれが「元ネタ」なのか分からない。
またラー博の記述の誤りの指摘で恐縮であるが、ラー博のサイト『全国ご当地ラーメン 高山ラーメン』から引用すると
『坂口氏は今も健在。屋台時代からの屋号を引き継ぐ「まさごそば」は二代目に任せているが、麺打ち場には今も顔を出している』とある。朝日新聞2010年3月12日付[41]『往来の名物、熱々の中華そば 鍛冶橋(岐阜県)』によれば『(19)38年に先代の故・坂口時宗さんが屋台を引いて鍛冶橋周辺を流したのが始まりだ』とあるから、初代坂口時宗氏は、今からもう10年以上も前に鬼籍に入られたことになる。ラー博は公式サイトをあまりメンテナンスしていないということなのだろうが、10年以上放置というのは如何なものか。ともあれ坂口時宗氏は1914(大正3)年前後の生まれということのようだ。
また、同じサイト・同じページに、時宗氏は高山に移った際の、こんな記述がある。
『昼は高級料亭の金亀館で腕を振るう一流の板前』。
一流云々はともかく、この記述も疑問符が付く。現在、金亀館という料亭はない。しかし、『飛騨高山の駅弁屋「金亀館」』という店はある。この店のサイトを見ると
『明治6年 割烹旅館「金亀楼」が営業を開始。現在の「金亀館(きんきかん)」の前身』
『昭和9年10月 高山線が開通。社長以下7名の従業員にて営業開始。当時、幕の内弁当30銭、寿司20銭で販売』とある。
また、「飛騨高山カフェ」というブログ[42]、これを拝読させていただくとブログ主はどうやら金亀館の関係者(実家という表現を用いている)で、こう紹介している。
『金亀館(きんきかん)は、明治6年の現在の「金亀館」の前身である割烹旅館「金亀楼」にはじまります。高山城主金森家の下屋敷で料亭を営んでいらっしゃった歴史と格式のあるお店でしたが、現在は、昭和9年の高山本線が開通したときにはじめられた駅弁のお店を続けられています』。
何が言いたいか。時宗氏が高山に移って中華そばの屋台を引き始めたのが昭和13年。料亭「金亀楼」が仕出し弁当屋に衣替えをしたのは昭和9年である。従い、時宗氏は「金亀館という料亭では働いていない」ことになる。ほかに高級料亭金亀館が存在したかも知れないから誤りとは断定しないが、金亀館の所在地(高山市河原町)と、時宗氏がよく屋台を出していた鍜治橋(付近)とは、500mほどしか離れていないことを書いておく。
ついでながら、このサイトには『高山ラーメン 人口:6.5万人/軒数:27軒』と記しておきながら、すぐ下に『古い街並みに100軒も』と見出しを付けている。ちなみに、高山市観光協会サイトなどには軒数の記載もなく、ボクが調べたところ、“食べログ74軒”・“RDB 53軒”(いずれも高山市内のラーメン店で検索)であった。
さて、雅叙園が芝浦にあったのは1928(昭和3)年からである。雅叙園の公式サイトによれば、当時は『本物の味を提供することにとことんこだわった高級料亭』『純日本式料亭「芝浦雅叙園」』であった。基本は日本料理を中心とした、北京料理も出す高級料亭であったのだ。そして『より多くの人々に本格的な料理を気軽に食べていただくため、1931年(昭和6年)庶民や家族連れのお客様が気軽に入れる料亭として目黒の地に誕生しました』。ボクはこの文脈からして、当初は、雅叙園は芝浦の店を閉じて目黒の移ったものと解釈していた。だから坂口時宗氏が麺打ちを覚えたのは、超高級料亭だった“芝浦時代”ではなく、多少なりとも庶民向けとなった“目黒時代”ではないかと思っていたのだ。しかし、そうではなかったことに最近気づいた。というより、調べて分かった。
まずは”目黒雅叙園“である。これによれば目黒での開業当時は”支那料理屋“であったことは間違いない。
一、1934(昭和9)年発行の「團十郎の芝居」[43]中、江戸時代の正徳年間から享保年間にかけて活躍した歌舞伎役者・市川栢莚(はくえん。二代目市川團十郎)が住んでいた場所として『今の支那料理の雅叙園のある處』という記載がある。
二、1937(昭和12)年12月発行の「東京・城南職業別電話名鑑. 昭和12年10月現在」[44]に『支那料理業 雅叙園 細川力蔵」の記載がある。
三、1938(昭和13)年発行の「財界闘將傳」[45]によれば、雅叙園の創業者細川力蔵について『細川力藏氏とは、新聞界に於ける正力松太郎[46]、賣藥界(注・製薬業界)長尾欽彌[47]に比すべき、割烹界に於ける、脅威的存在』であり、『數千坪の豪華を極めたる料理店を建築し、雅叙園を人呼んで目黒御殿と稱(しょう)する程の家をブツ建てゝ居る』と紹介している。芝浦の旧雅叙園については『廣茫十六萬坪』という面積の『埋立地」であって、1919(大正8)に払い下げを受けた。また、当時石油王と呼ばれた中野寛一[48]から『相當の大金を貰ひ、併せてこの十六萬坪のマネヂャーを委された』。9年後の1928(昭和3)年に『空けておくのも勿體無い』として『支那料理屋を始めることになつた』と記されている。
1939(昭和14)12月30日発行「第七回東京商工名鑑」(東京市役所・編集発行)
掲載の雅叙園広告
実は雅叙園は、目黒で開業した後も “北京料理店”として芝浦に残っていたことが分かった。写真を残しておく(上の写真)。芝浦の店を閉じた時期は不明なるも、『少なくとも1940(昭和15)年までは営業していた』[49]ようである。
話を戻そう。飛騨高山ラーメンのルーツは確かに奥村彪生氏の言うように東京にあった。がしかし、それが氏の指摘する『東京の支那そばのスープ』であるというのは本当だろうか?
坂口時宗氏のことを調べると、氏は富山の出身で、東京以外でも京都などで料理人をしていたが、その後富山に戻った。1937(昭和12)年に高山に移住、金亀館という料亭に昼間は勤務しながら、いや、その料亭は当時すでになかったから、弁当屋金亀館か、もしくは別の料亭で働きながら、翌1938(昭和13)年に支那そばの屋台を引き始めた。戦争中は軍人であったというから、「東京の支那そば」との接点は雅叙園にしかないのである。
ただ芝浦にしても目黒にしても、雅叙園は「北京料理」「支那料理」「日本料理」の店である。創業初期よりは大衆的になったとはいえ、そこで庶民が気軽に淺草來々軒が出していたような「支那そば」を提供していたというのはちょっと考えにくい。いずれ戦前の雅叙園についてはもっと調べる機会があるだろう。
ところで、「まさごそば」のスープは出汁素材が豚骨、野菜、鰹。それにチャーシューの煮汁を加えたタレを一緒に混ぜて煮込んでいるという。また「豆天狗」スープは豚骨、鶏ガラ、野菜、削り節、煮干を長時間釜で炊き出す(豆天狗公式サイトより)という。
多分、こういうことだろう。
淺草來々軒開業当初は、蕎麦出汁のような感じのスープであった。そして、大正6年から7年頃にかけて、スープの味を変えた。そう、豚を使い始めたのだ。当時の人々にはおそろしく獣臭く脂っこいスープに感じた。しかしそれは、現代の人々が同じスープを飲んだら、おそらく結構あっさりしたラーメンのスープと感じるだろうほどのもの・・・。
これはボクの想像ではある。しかし、そう書く理由は十分にある。それをこれから書いていくが、淺草來々軒ゆかりの全国の店を周って、食べて、確信までは至らないが、「きっとこうだろう」という気持ちには十分なっているのである。
4.南京町の支那蕎麦の味
さて、少し脇道にそれよう。横浜の南京町やその周辺ではいつごろから大衆が気軽に支那料理を楽しむようになったのか、そしてそれはどんな味だったのか、軽く触れることにする。
明治初期、横浜にやって来た中国の人々が就いた職業は、いわゆる“三把刀”だと言われる。しかしやがて、中国出身の方々は自らの出身国の料理を提供することを生業とするようになっていく。南京町を中心として発展していく中華料理店であるが、ここで二冊の書籍を紹介しよう。
まず一冊目。発行は1903(明治36)年タイトルは『横濱繁盛記』[50]。この頃の南京町を以下のように表している。
まず「遠芳樓」が「有名な料理店」として紹介され、『小料理屋では各色炒麵(やきそば)海鮮炒賈(焼肴)銀絲細麵(南京そば)牛肉大麵(牛そうめん)などヽ(など)云ふ色々のビラが出て居る』。
『又南京料理店は南京町に遠芳樓、聘珍楼、永樂樓、成昌樓などあつて、伊勢佐木町邊(注・あたり)には博雅亭を始め二三軒(注・23ではなく2~3と思われる[51])もある。是等は一寸飲食する丈(だけ)には頗(すこぶ)る御手輕に出來て居るから面白く錺(かざ)り立てた椅子によつて支那人の御給仕を受けて來るのも奇(めづ)らしからう[52]』。
つまり、明治36年頃には、南京町と、そこからほど近い伊勢佐木町では、支那料理はちょっと飲食するだけならお手軽な存在になっていたのだ。なお、当時の伊勢佐木町あたりは、この著作によれば
『伊勢佐木町の賑ひは蓋(けだ)し日本第一で流石に東京の淺草でも、大阪の千日前でも、京都の京極でも遥かに此處(ここ)には及ばない』
という大繁華街であったそうだ。
次に『聞き書き 横濱中華街物語』[53]から紹介する。
語り手の「林 兼正[54]」氏は、中華街で現存する店では二番目の老舗「萬珍楼」の現社長である。彼はこの本の中でこう語っている。
『中国に出張に行った人が、「本場の中華料理はもっとおいしいだろうと期待して食べたら、まずかった」というのがよくわかるでしょ。僕に言わせれば、当たり前だっていう話です。ある友だちがやって来て「うちの料理は、お前のところと違って、中国の本場の四川料理だぞ。コックも向こうから呼んだ。とても本場にこだわった」って威張っていたから、言ってあげました。「売れない」って。結局一年半で、先日店をたたみました。横浜中華街の料理は、日本人向けだって言いましたけど、うちの親父も日本人向けの中華料理を開発したひとりです』。
さらに『「中国本場のおいしい料理」なんていうのも、ウソ。いや、ウソというか、本場の料理が日本人においしいわけがない』とも。
萬珍楼の現社長の親父、というのは書によると「龐 柱琛」氏[55]。広東省出身で、関東大震災ののち、横浜にやって来たという。実は「龐 柱琛」氏は、中華街で現存する最古の料理店(中華街最古というより、日本最古の現存する中国料理店)・聘珍楼の経営を、戦後に引き継いだ人でもある。ちなみに現在の聘珍樓代表「林 康弘」氏は、萬珍樓の「林 兼正」氏とは兄弟だそうで、明治期創業の二大店舗は兄弟の経営ということになる。
とにかく「林 兼正」氏は、父親である「龐 柱琛」氏が成功を収めたのは『日本人が食べる中華料理を出したこと』『香港や台湾から、一流の料理人をわざわざ呼んで、日本人のための中華料理を研究させて、メニューを揃えさせた』ことなどによる、と語っている。
このことから、中国料理は南京町、伊勢佐木町あたりでは、明治末には日本人でも気軽に食せるものになっていたし、昭和の初めごろから横浜南京町(中華街)の、少なくとも一部の中国料理店では日本人の好みにあった味になっていたということになる。
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[27] 一郎氏が厨房に立ち始めた年 「ラーメン物語」から、おそらく一郎氏のインタビューより。
[28] 『食の地平線』 玉村豊男・著、文春文庫。1988年1月刊。
[29] 玉村豊男 1945(昭和20)年東京都杉並区生まれ。エッセイスト、画家。東京大学文学部仏文学科卒業。著書『日本ふーど記 』(1988年9月刊、中公文庫) 、『グルメの食法 』(1995年10月刊、中公文庫)、 『食客旅行』 (1996年9月刊、中公文庫) など多数。(以上、Wikipediaなどより)
[30] 植原路郎 1894(明治27)年12月生まれ。1918年早稲田大学政経学部卒業。東京新聞科学部長などを経て、出版研究春夏秋冬倶楽部主宰、麺業界並びに食品界、映画界に関係し、風俗評論を発表。1983年没。(以上、「蕎麦辞典」=著者・植原路郎 などより)
[32] 『明治語録』 植原路郎・著、明治書院。 1978年10月刊。
[33] 大正10年頃の森岩雄の証言 『大正・雑司ヶ谷〈シリーズ大正っ子〉』 森 岩雄・著、青蛙房。1978年4月刊。
[35] 奥村彪生氏の著書 「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」。安藤百福・監修、フーディアム・コミニュケーション。1998年6月刊。のち加筆の上改題。「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」。角川ソフィア文庫、2017年11月刊。
[36] 麺条 もしくは麺條。中国語で日本語における麺類を指す。
[37] 旭川らぅめん青葉 昭和22年、初代村山吉弥氏が屋台で創業。スープは豚骨、鶏ガラの他に利尻昆布、鰹節、煮干し、各種野菜、だそうである。
[38] 豆天狗(本店) 岐阜県高山市下一之町3-3。昭和23年創業。
[39] まさごそば 岐阜県高山市有楽町31-3。昭和13年屋台で創業。
[40] いろいろなサイトで見かける 例えば1998(平成10)年5月4日付「日本食糧新聞 ご当地ラーメン徹底研究 飛騨高山の中華そば、醤油オンリーの和風」の記事中にある「坂口氏は、東京は芝浦にあった雅叙園で修業をしている時・・・」の一文はラー博の文章のまんまコピーである。
[42] 「飛騨高山カフェ」というブログ 2010年12月31日に更新されたブログで、http://hidatakayamacafe.blog103.fc2.com/blog-entry-2.html
[43] 「團十郎の芝居」 伊原敏郎・著、早稲田大学出版部。1934(昭和9)年12月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[44] 「東京・城南職業別電話名鑑 昭和12年10月現在」大東京通信社、1939(昭和12)年12月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[45] 「財界闘將傳」 人物評論社編集部・著、人物評論社。1938(昭和13)年2月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[46] 正力松太郎 1885(明治18)生まれ、1969(昭和44)年没。讀賣新聞社社長、大日本東京野球倶楽部(東京読売ジャインアンツ)創設者。”大正力”とも呼ばれた。
[47] 長尾欽彌 1892(明治25)生まれ、1980(昭和55)年没。製薬会社「わかもと」創業者。
[48] 中野寛一 1846(弘化3)年生まれ、1928(昭和3)年没。1903年、新潟にて商業規模の油田を掘り当てる。1910年の最盛期には新津油田は年産高約17万klに達したという。
[49] 芝浦雅叙園の閉業時期 『少なくとも1940(昭和15)年までは営業していたようである』とは、三井住友トラスト不動産公式サイト「写真でひもとく街のなりたち 東京都 芝(田
[50] 『横濱繁盛記』 横濱新報社著作部・著、発行。明治36年4月刊。ちなみに横濱新報は、1890(明治23)年2月に創刊した「横濱貿易新聞」を前身とし、のち、現在の「神奈川新聞」となる。
[51] 2~3と思われる 同書籍「伊勢佐木町」の項に、「明治三十六年二月廿五日現在のもの」として「南京料理店 三」の記述がある。
[52] 奇らしい 此処での意味は「価値がある。珍重に価する」といったところ。
[53] 『聞き書き 横濱中華街物語』 聞き書き・小田豊二、語り・林兼正、集英社、2009年3月刊。
[54] 林兼正 横浜中華街「街づくり」団体連合協議会会長で、「萬珍樓」社長。1941年生まれ。インターナショナル・スクール卒業後、跡継ぎとして萬珍樓入社。1975年から同社社長を務める傍ら、横浜中華街発展会協同組合理事長を19年間務め、2012年退任した。同年の横浜文化賞を受賞。
[55] 龐柱琛(パンチュウシン) 1972年に帰化し日本人名・林達雄。1976年11月没、出身:中国廣東省高明県(現佛山市高明区)生まれ。1969年2月に勲五等瑞宝章。聘珍楼は第二次大戦で荒れ果て、当時の経営者・鮑金鉅は再建する意欲を失う。その時友人であった龐柱琛氏が「聘珍樓の過去の栄華を考えると忍びない」として1960年頃に鮑金鉅から聘珍樓ののれんと土地建物を買い受けた。
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