【中国の麺料理と日本の食文化の融合とは】
ラー博の公式サイト「ラーメンの歴史(年表)」で來々軒のことを『中国の麺料理と日本の食文化の融合してできた』という表現がある。具体的に何を指しているのか、正直、私にはよく分からないのだ。「融合」とは一体、どういう行為を指すのか? それまでのラーメンは塩味であり、來々軒は醤油味、ということなのだろうか? ことはそう単純ではあるまい。「ラーメンの歴史学」では、『近代日本の食と味は明治末期から大正初期にかけて中国料理を取り込むことによって作り出されていった。その頂点にあるのが、今日ラーメンとして知られている食べ物である』、とした。『そこで重要な役割を果たしたのは、こってりとした食品を好む都市部の新たな労働者階級だった。一九二〇年代に起きた中国料理のブームの一因は、都市で暮らす賃金労働者の増加にある』と記している。中国、台湾、韓国など『異なる国籍が入り混じった労働者たちは、「伝統的」な日本料理とは異なり、見た目よりは味を重視する中国料理を自分たちプロレタリア階級にふさわしい料理として受け入れ』た、と続けている。従来あった日本の食文化とは異なる中国料理文化を受け入れたのは、まさに來々軒が誕生した時期と重なるのである。
「ラーメンの語られざる歴史」では『「支那そば」が一九二〇年代と一九三〇年代に成功するためには、汁そばの消費者(ほとんどが農村出身の近代産業賃金労働者)を集め、食べようという意欲をそそる必要があった。』と記し、それは『日本が中国料理を取り入れたことは物語の半分に過ぎない』として、戦後、工業化が急速に進むにつれ、客層が変化したことに触れ、もう半分は『「支那そば」顧客基盤の創出』について書かれている。工業化は、支那そばを、たとえば『機械を使って大量につくられる日本で最初の食べ物のひとつ』とし、『新しい勤務形態や技術、都市の勤労大衆の商品選択、そして中国からの人々を含む労働者と学生の(注・都市部への)流入が直接的に反映され』た食べ物として『新しく生まれた大衆文化の象徴となった』のである。支那そばは『日本蕎麦に比べると食べでがあったし』、『都市労働者の食べ物のニーズと生活様式に適していた』という訳だ。
また「ラーメンの歴史学」では、こんな表現を用いている。『ラーメンは謎めいた変遷を経て日本食になった。中国料理の派生物として始まったものが、一〇〇〇年近い歳月を経て、現代の日本を象徴する料理となったのだ。』。
変遷は謎めき、千年にわたる年月を経てということになれば、私如きが本稿でこれ以上記述すべきことはない。もとより本稿では食文化の歴史を論じるつもりは毛頭ないので、この辺りで止めておくが、閉鎖的な日本人がいとも簡単に中国的な料理「支那そば」を受け入れていくのには、戦争や経済、労働といった背景のもと、日本という国の都市に住む人々の生活ぶりそのものを反映していたのである。こういう事象そのものを“日本の食文化”と呼ぶのなら、まさにラーメンは、中国の麺料理と融合した象徴的な食べ物なのだろう。來々軒は、日本初かどうかはともかく、その“融合の象徴”を広く東京に普及させた店として歴史に名を残した。
日本人が中国料理を積極的に受け入れ、日本に古くからある麺料理と結び付けていくのには具体的にも理由と手法があった。それは栄養学的にも必要とされた肉食が進んだこと、八世紀には作られていたという醤油[85]の活用、であろうか。「ラーメンの誕生」では、明治38~39年頃の支那そば屋台に関し、横浜生まれの獅子文六の著書の一部『(シナ料理を)見るとムッとし、ウマいもまずいもあったものではない』を引用、『肉食や油料理を忌避し続けてきた日本人には、豚肉や豚脂の獣臭は、とても受入れられるものではなかった。そこで醤油好きの日本人向けに、関東風の醤油を取り込み、獣臭さを消そうとする試みが繰り返される。醤油仕立てによる、中華風めん汁の和風化が始まる。(中略)日本のめん食文化のなかに、南京そばも、少しずつ引き込まれていくのである。』と書いた。そしてその結果、小菅桂子氏は、『日本人向けのラーメンが初めて登場したのは八十四年前の明治四十三年、浅草に開店した「来々軒」と結論づけた』[86]のである。
私もその結論は、全くその通りだと思う。しかし、中国の麺料理と日本の食文化の融合ということを、ごくごく単純に捉えるならば、來々軒より以前に実現した麺料理がある。長崎のチャンポンだ。チャンポンは豚脂で豚肉や野菜、海鮮類を炒め、圧倒的な豚骨と、鶏ガラでスープを取り、唐灰汁を加えた麺を煮込み、薄味の長崎醤油で味を調える。そしてそれは、明治の末には日本人にも大評判となった。『めん・スープ・具(トッピング)の三つが、渾然一体となっためん料理は、満足感や満腹感があり、ラーメンの祖型の一つともいえる。』(「ラーメンの誕生」)のである。
また、函館では今もラーメンといえば塩味である。「北海道観光情報 たびらい」[87]では、明治の頃、『函館の人々は華僑を広東さんと呼び交流も深かったようで、華僑が函館に広東の湯麺を伝え塩ラーメンのルーツになったのではないかと言われている。』と書いている。「日本めん食文化の一三〇〇年」では、『広東風ゆえスープは鶏の清湯で塩味であった。現在函館駅近くにある「鳳蘭」の鶏糸麺はその系統であることは間違いない。』などと書いている。函館もまた、開港以来、中国の人々と交流を深め、中華料理を、自分たちの食文化の中に取り込んでいった。それは“養和軒”や明治34年に中国料理店が開業したことから見ても、來々軒創業以前からのことであった。
アメリカ人歴史学者が書いた「ラーメンの語られざる歴史」では『日本でラーメン誕生の主な起源説三つ』あると前述した。一つ目は「ラーメンの誕生」という『ラーメン史の先駆的研究』であるが、『二つ目の起源物語が軸にしているのは、アメリカ帝国主義によって生じた日本の食習慣の結果としての、十九世紀のラーメンの到来』であると記している。詳細は省略するが、その中で著者は中国人が持ち込んだ技術のひとつに「拉麺(ラーミエン)」という汁麺があったとし、それは『藻塩に鶏スープに手延べ麺を加えてネギを添える』だけの簡素なもので、塩ラーメンのようなものだったとしている。そして函館の洋食店だった養和軒を引き合いに出し、『西洋式食堂で働いていた中国人料理人がつくった鶏汁そばは、論理的にはのちにラーメンと呼ばれるものの先駆けだと考えられるかも知れない』と書いた。明治末期、來々軒が南京町から中国人を雇い入れ開業したことからすれば、來々軒はラーメンを中国から“輸入”したものに対し、養和軒は自ら中国の“ラーメン的”なものをそのまま提供した店であったのかも知れない。「ラーメンの語られざる歴史」の三つ目の起源物語の中心は、その來々軒の誕生であったとしているのだ。
【1911(明治44)年が來々軒誕生の年か】
さて、來々軒の創業年についてである。本稿を書き始めて2か月、來々軒に関する様々な書物を読んできたが、その時期を示したのは「銀座秘録」の一冊のみしか見つけられなかった。この書籍を引用して1911年説を唱えるのは私が初めてかもしれない。
ただ、來々軒の創業年次は1910年もしくは1911年であろうということは以下のことから推測できる。
【來々軒の誕生から終焉まで】で「淺草繁盛記」に來々軒の記載がないと書いた。かなり詳細に当時の浅草を記してあるので、開店後すぐに繁盛し、人々の話題にも上ったであろう來々軒を書き漏らすとはちょっと考えにくい。だとすれば「銀座秘録」に書かれた“明治44年創業説”が正しいのではないかと考えるのだ。
ただし、「淺草繁盛記」の発行は明治43年12月。取材、執筆、脱稿、校正、印刷、製本の過程を考えれば、数か月は要しただろう。当時の印刷製本技術が分からず、どのくらいの期間が必要だったかは推測にしか過ぎないが、1~2か月ということはあるまい。とすれば、脱稿は同年の夏ごろだろうか。來々軒が同年夏以降の開店なら掲載できなかったということは考えられる。もう一つは、尼崎の「大貫 本店」の開業時期である。「FOOD DICTIONARY ラーメン」[88]や「大寛 本店」の公式サイトなどによればこの店の創業は大正元年に神戸居留地で、とある。仙台出身の初代店主は來々軒の味に感銘を受けて創業、ともあるから、來々軒の創業は1910年、つまり明治43年の夏以降から1912年、大正元年にかけて、ということになる。
これは私の推測であるが、「ラーメン物語」の著者は、來々軒三代目店主・尾崎一郎氏から1910年ということを直接聞き取ったのではないか。前述したように一郎氏にインタビューをしているので、その時であろう。であれば、どの書籍を見たところでその根拠(1910年創業説)は示されるはずがないのだ。
『銀座秘録』の記述が誤りなのか、「ラーメン物語」が間違っているのか、これも今となっては誰にももう分からない。しかし、「ラーメン物語」でその根拠を示していないし、昭和の初めに書かれた記録と言う意味では、1911年、明治44年創業説を支持するのが妥当だろうと思う。
【來々軒創業以前のラーメン専門店
浅草・中華樓と、神田・「支那そば」屋】
さて、來々軒以前より支那そばを中心とする、つまり現代で「ラーメン(専門店)」と呼ばれるような店はなかったのか。実は、ある。
先に触れた「淺草経済学」。“第二、淺草に於ける支那料理の變遷 (一)淺草に於ける支那料理の由來”の中でこう書いている。
『支那料理の淺草への由來は、(中略)其の嚆矢ともみるべきものは、日露戦役前に、米久の筋向ひに當る現在下駄屋のある處へ、支那人の経営にかゝる支那料理屋が出來たのがそれである。』とある。ただ、この店は一年内外で廃業、その理由は当時の浅草の大衆が支那料理の価値を認めることができなかったからだ、と記している。その後、明治40年に平野洋食部が支那料理を始めたのだが、これも一年経つか経たないかで廃業した。ところが明治41年、平野が支那料理を廃業したあと、入れ替わりに『千束町の通りに、中華樓と言ふのが出來た。こゝは支那ソバ屋としての組織であったから、つまり此の意味に於ては淺草に於ける元祖である。』と記しているのだ。
さらに続けて『即ちこれまでの支那料理と異なり、支那そば、シューマイ、ワンタンを看板とするそば屋であつたのだ』。『中華樓は現在も、開業當時と同じ営業をやつているので、淺草の支那料理では、こゝが元祖であり、老舗でもある。(中略)(経営者の)江尻君は氣さで、頗(すこぶ)る痛快な男でもあるから、千束町では誰れ一人知らぬ者もない。中華樓は開業當時から千束町二丁目[89]二百五十一番地で、開業當時から、支那人のコックを雇ひ、シューマイ一銭、ワンタン六銭、支那ソバ六銭で賣り始めたのだ』。
浅草では來々軒以前に支那料理店はあったし、來々軒創業以前に「支那そば」専門店らしきは存在していたのだ。というより、この品書きは、來々軒の残された大正時代の写真に写る品書きと同じである。
中華楼は明治41年から、少なくともこの本が書かれた昭和8年までは営業していた。ちなみに「中華樓」という屋号であるが、浅草の近く、蔵前、というか、浅草橋三丁目に、同じ屋号の店がある。ただ、場所が違うし、その店の公式サイトには「創業 大正12年」とある。また浅草の店の経営者は江尻某であり、浅草橋の店の創業者とは姓も異なるから、関連性はないだろうと思う。
(創業・大正12年の蔵前 中華樓の天井)
もう一軒。こちらが正真正銘、日本で最初の「支那そば屋=ラーメン専門店」である可能性があるのだが・・・。
先に書いた明治39年創業、神田にある現存店・揚子江菜館。冷やし中華発祥の店[90]ともいわれるこの店こそ、わが国初のラーメン専門店の可能性があるのである。
NPO法人神田学会が運営するWEBサイト 「KANDAアーカイブ」の「百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」[91]によれば、『揚子江菜館は明治39年(1906年)西神田で創業されました。神田に現存する中華料理店では最も古い店です。実は、「支那そば」という店名でそれ以前から営業をしていましたが、店名を改めた年号を創業年にしています』とある。すなわち、來々軒より数年前から支那そばを中心に提供していたということにならないか。
残念ながら当時の記述はこれ以外になく、この「支那そば」店が“日本初のラーメン専門店”であることの証明はできない。NPO法人神田学会に問い合わせているのだが、2020年2月末現在、「当時取材した記者が退職してしまい、調べるのに時間がかかる」という回答をいただいた。私に出版社などのスポンサーが付いていたら、あるいはフードライターだったら、すぐにでも揚子江菜館に話を聞きに行くのだが。しかし、「支那そば」店が仮にラーメン専門店であっても、あるいは支那そばがウリの中華料理店であったにしても、その記録は残されていない。つまり、來々軒ほどの評判を取るには至らなかった、ということだろう。
(現在の揚子江菜館)
【終わりに ラーメンの誕生と進化は
「同時多発的」と「思いがけない偶然」】
アメリカ人歴史学者が書いた「ラーメンの歴史学」では『ラーメンの発祥地がどこかも、ラーメンという名前の由来もはっきりしていない』としている。ただ、札幌の“竹家”を例にとり『ラーメン発祥の地を標榜する、店はこの竹家以外にもいくつもある』とし、來々軒、喜多方の源来軒を挙げている。そして『ラーメンの誕生に関するこれらの説はどれももっともらしく筋が通っており、ある意味すべてが本当なのかもしれない。あるいは全部合わせると真のルーツが明らかになるのかも知れない』、さらに『全国各地にほぼ同時期に同じ料理が出現したこととその名前の由来を、一つの説で説明するのは無理な話だ』と続けている。確かに、明治の始まりとともに日本に入って来た中国料理は、開港場を中心として徐々に広がりを見せ、明治末期に同時多発的にラーメンという食べ物に変化し、大衆の間に広がっていったのは今まで書いて来たとおりである。それは、当時の日本に起こった様々な事象の結果として、ある意味必然的な出来事だったように思う。
「ラーメンの歴史学」ではこうも書いている。『ラーメンの進化は、驚くほど複雑な文化の伝播プロセスと農業の発達、日本人の食事形態の変化、そして思いがけない偶然が、それぞれほぼ同量で混ぜ合わさった結果だと言える』『日本でラーメンが作り出され、受け入れられるためには、日本人自身の食習慣と調理習慣に革命を起こす必要があった。それには何百年、いや一〇〇〇年近くもの年月がかかった』。
來々軒は、今なお進行するその過程の中で誕生したものだ。來々軒は『日本で最初にラーメンを提供した店』でも、『日本初のラーメン専門店』でもない。中華樓なる店は來々軒に先んじて支那そば・ワンタン・シュウマイを品書きに掲げていたし、三代目店主一郎氏が話されているように、來々軒は一品料理を提供する中華料理店であったことは疑いようもない。確かに支那そばが看板メニューであったことは間違いないが、現在の“モノサシ”では、こうした店を“ラーメン専門店”とは呼ばないだろう。少なくとも私はそう呼ばない。中華料理店もしくは、店の造りやその価格帯からして、いまなら“町中華”と呼ぶのが妥当だろう。しかし、そうした記述をする本などには出会うことはなかった。
のだが。書き始めて4か月、調べだすとキリがなく、もう2~3日で脱稿、というその日。私は新型コロナウイルスの影響で閑散とする上野の北京料理店で食事をしたあと、書店に寄った。そこで「散歩の達人 ベストオブ町中華」[93]なるMOOK本を見つけた。この種の本や雑誌は目に付くと買うのが、最早習性となっているので迷わず求め、家に持ち帰った。
このMOOK本は、過去に「散歩の達人」で特集を組んだ際、取り上げた店などを再構成した内容になっていたので、目新しい記事はあまりなかったのだが。
本の終わり近く、「はじまりの街、浅草」の項。浅草界隈の町中華を紹介する記事の冒頭にこう書かれていた。ようやくこんな本が出たと安堵したのである。
『浅草は町中華の元祖「来々軒」が生まれた街』。
そう、そうなのである。來々軒は、偉大なる町中華なのだ。ただし、元祖、と言えるかどうかは別である。神田神保町あたりでは來々軒創業以前から、中国人留学生を主要な客として、つまりは安い値段で中国料理を出していた店が複数存在していたからだ。
そして記事はこう続ける。『東京ラーメンが生まれ、ワンタン、シューマイにビールを安く楽しむスタイルがここで形成されたのだ』。今、昭和生まれ世代が懐かしく、足繁く通う町中華は110年前、ここで生まれたのだ。東京ラーメンと言われるラーメンと、大衆的な一品料理を、他の店より安く、そして美味しく提供できた店ということなら、おそらくは來々軒が初めてだろう。少なくとも、來々軒創業以前にあった中華樓、維新號、揚子江菜館などは、広く大衆の間に知られることはなかった。
來々軒が誕生してまだ100年余り。來々軒がラーメン店であろうと中華料理店であろうと、残した功績は偉大である。ただし、日本人がラーメンを、我が国を代表するような食べ物として愛すようになるまでのその長い歴史を考えれば、來々軒の存在は、ラーメンの歴史の後半の、たったひとつの過程に過ぎない、ということになろう。
そしてラーメンは、いまなお、その進化の過程を歩み続け、歴史を刻み続けている。
(2020年3月 脱稿)
【執筆にあたって】
この原稿を書き始めたのは2019年の暮れのこと。6冊ほどの本を取り寄せ、国立国会図書館のデジタルコレクションで数冊の本を読んで、大方書き終えの多のが2020年2月の半ばでした。私はラーメン特化した投稿WEBサイト「ラーメンデータベース」(RDB)[94]に投稿を続け、2020年3月現在、約2500杯、2120軒以上の店のレビューを上げてきました。この原稿をWEB上げる際にはRDB投稿と何らかの形でリンクさせようと思っていたので、本稿UPのタイミングを計っていたのです。そしてさあ、UPと思い推敲を重ねていたとき、「銀座秘録」という本を見つけたのです。そこには、來々軒の創業が明治44年であることが書かれていました。明治43年創業で書いてきた原稿をかなり手直しせざるを得ませんでした。
その後も「散歩の達人」の新しいMOOK本や国立国会図書館デジタルコレクションで、新たな書籍を見つけては小さな修正を繰り返す羽目に陥りました。結果、取り寄せた書籍は30冊を超え、WEB上や図書館で読んだ本はもう数が分からなくなったほどです。それでも3月半ばにはWEB上の下書きまで終えたのですが・・・
「銀座秘録」もそうですが、まさかそういう本に來々軒のことが載っているはずもないという先入観が邪魔をしたのでしょう。
3月の末、ある書店で2019年発行の「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」[95]という本を私は手に取っていました。戦前史だから何か参考になることはないか、くらいの軽い気持ちでページを繰っていたのですが、目次の終わりの方に來々軒の文字を見つけました。慌てて購入して家で読んだのですが、そこには正直びっくりするようなことが書かれていました。もちろん、同じような考えで、來々軒を調べた方がおいでになったことを素直に嬉しくは感じましたが。
そこには、本稿で書いてきたことなどをさらに補強して書かれています。もちろん、この本のほうが先に書かれていますし、新しい発見も多々ありました。もちろん、この本はタイトル通り、つまりは「お好み焼きに関する歴史的な考察をした物語」です。
來々軒はどういう店だったのか。
支那そばを発明したのは來々軒なのか? 否。
來々軒は日本初のラーメン店なのか? 否。
など、本稿でも触れた「淺草経済学」の中華樓のことのほか、まさに執念を感じさせるような調査をされ、本稿では触れていない書籍も引用してこれらの結論を導き出しています。なかでも私が膝を打ったのはこのくだりです。
『横浜南京町にもおそらくは、中国から多くの麺料理が移入されたことだろう。支那そば=ラーメンは、横浜南京町の多くの麺料理の中から、日本人好み麺料理として次第に生まれていったと考えるのが妥当であろう。』
本稿でも触れていますが、大正昭和の初めに書かれた本を何冊も読んでいると、どうしても來々軒が、広東の料理人を雇いながら、いきなり、唐突に、醤油味のラーメンを作り出したとは考えにくいと映るのです。ですから、南京町のどこかで、それは屋台だったかもしれませんが、來々軒創業より前に、あるいは中華樓が開業する前に、きっと日本人好みのラーメンは少しづつ改良を重ねて提供されていたのだと思っています。そして、この著者はこう書きました。仰る通りであろうと思っています。
『来々軒は日本初の支那ソバ屋でもなければ日本初の大衆的中華料理店でもなかった。來々軒は明治30年代に横浜と東京で高まっていた中華料理への関心がいきついた帰結の一つであり、浅草においては中華楼をはじめとする、明治末期の開店した複数の中華料理店の一つに過ぎないのだ』。
なのですが、確かに一つに過ぎないのですが、この本でも、あるいは昭和の初めに書かれた本でも触れているように、來々軒が相当な宣伝費を投入したことは確かなようです。当時は今とは比べられないほど宣伝の効果は大きかったということですが、それでも、こうも來々軒だけが多くの書物の記録に残されているということは、來々軒がそれだけインパクトのある存在だったのでしょう。多くの客で賑わったことも確かでしょう。安くて美味しいと評判を取った、最初の大衆的中華料理店だった、と私は考えています。
気が付けば、本稿は単純な文字数だけで400字詰め原稿用紙120枚を超える分量となってしまいました。体裁を整えれば130枚とか140枚とかになっているでしょう。この本を、本稿に取り入れて書き直すのはもはや不可能です。もっと早くこの本の存在を知っていれば、膨大な時間を費やし、あれこれ調べずに済んで楽に書けたでしょう。あるいは、私は書くこと自体止めていたかもしれません。
それでもこうして、來々軒の本当の姿を知ってもらう機会が増えればいいかなと思い、本日、WEBにUPいたします。
冒頭書いたように、私は還暦間近にがんを患いました。ステージはⅢbでしたが、発見・オペから一年以上経った今でも、幸い転移は確認されておりません。しかし、がん細胞はとても小さく、CF(大腸内視鏡検査)、MRI、CTなどの検査で見つかったときには、相当大きくなってしまったときです。大腸がんは、主に肝臓・肺に転移します。肺はともかく、肝臓にがん細胞が飛んで大きくなったら、もう長くはありません。その覚悟はできています(多分)。どのみち、あと25年30年と生きていられるはずもありません。私がこの世に存在したこと、ラーメンが好きだったこと、そして來々軒のことを検証した人間がいたことの証とするため、本日、WEBにUPすることを記します。
ここまでお読み頂きましたこと、深く感謝申し上げます。
2020年4月
※誤りのご指摘や、新たな情報などはこのブログに書かず、WEBサイト「ラーメンデータベース(RDB)」の私のマイページからハンドルネームを読み取り「なんとかデータベース」からメッセージ機能(ページ上部にメールアイコンがあります)を利用してお寄せください。なお、根拠なき誹謗中傷の類はおことわりしますし、無視します。
[85] 八世紀には造られていた醤油 しょうゆ情報センター「しょうゆを知る 歴史」から。https://www.soysauce.or.jp/knowledge/history
[86] 『来々軒』と結論づけた 特許庁・2002年12月11日付[審決1998-17819号] より。審決の根拠は「1994年3月6日付読売新聞東京朝刊」などからである。
[87] 「北海道観光情報 たびらい」 2013年7月30日付『函館塩ラーメン/函館市』より。https://www.tabirai.net/sightseeing/column/0000774.aspx
[88] 「FOOD DICTIONARY ラーメン」 枻出版。2017年5月刊。
[89] 戦前の千束町二丁目 現在の浅草二丁目から五丁目にあたる。
[90] 冷やし中華発祥の店 サライ.jp「冷やし中華発祥の店!神田神保町『揚子江菜館』の五色涼拌麺」【下町の美味探訪7】から https://serai.jp/gourmet/200096
[91] 「KANDAアーカイブ 百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」http://www.kandagakkai.org/noren/page.php?no=26
[92] 「散歩の達人 ベストオブ町中華」 交通新聞社、2020年4月刊。
[93] ラーメンデータベース(RDB) 運営・株式会社ラーメンデータバンク及び株式会社スープレックス。https://ramendb.supleks.jp
[94] 「お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史」 近代食文化研究会・著、新紀元社。2019年1月刊。
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