拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【2】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。



2. 日本初のラーメン専門店=淺草來々軒とは誰が言い出したのか? 
 
 100%の自信があるわけではないが、もうこれは書かなくてもお分かりではないか。

 新横浜のラーメン博物館(以下「ラー博」)が、淺草來々軒の創業当時の‘味’を再現して提供を開始し、それを食べに行ったことは先のブログ[14]で書いた。ラーメン評論家の大崎裕史氏はこれに関連して、先に記したツイッター及びRDB(WEBサイト『ラーメンデータベース』)[15]でこう記している。

『日本初のラーメン店」説が覆った日。
 これまで1910年にオープンした浅草の「來々軒」が「日本初のラーメン店」とされてきた。しかし、先日の新横浜ラーメン博物館の発表ではそうではなく、「日本初のラーメンブームを作ったお店」という紹介だった。いろいろな資料や文献を調べ直した結果、そうなったと』。
 
 前章のブログでも書いたように、淺草來々軒が「日本で初めてのラーメン(専門)店」という事実は全くない。最初に言い出した(書いた)のは小菅桂子氏の著書『近代日本食文化年表』[16]ではないかとの指摘もあるがそうではない。ボクは随分早い時期にこの書を入手して記述があるのは知っていたが、そうではないことを確信していた、というか、この書の記述は無視していた。その著作100ページにはこう記されている。

 『浅草公園に東京初のラーメン屋「来々軒」が開店。来々軒は横浜税関に勤めていた尾崎貫一が開店したもので、庶民を対象にした東京で初めてのシナ料理店』。

 此処に書かれているのは ‘東京初のラーメン屋’、‘庶民を対象にした東京で初めてのシナ料理店’、であって、‘日本初’とか‘ラーメン専門店’という記述ではない。それに言い方は悪いが、この書はかなりマニアックなものであるし、発売当時3,800円もした本にどれだけの影響力があったというのだろうか。 

 淺草來々軒=日本初のラーメン専門店などと言う言葉は2000年代に入って初めてさまざまな場面で語られることになった、とのことは前章のブログで書いたとおりである。
 概略を記せば、1991年までに書かれた(出版された)書籍で、(ボクが調べた限り)淺草來々軒=日本初のラーメン(専門)店という記述があるものは一冊もない。ところが21世紀にはいると、すなわち2001年以降に書かれた様々な書籍で淺草來々軒=日本初のラーメン(専門)店という記述、あるいはそれに類似する書き方が出てくるのである。このことから、最初に言い出した(書いた)のは1990年代であるということが容易に推測できる。

 ここで少し前に書いた大崎裕史氏のツイッターの内容を思い出していただきたい。氏は、新横浜ラーメン博物館の公式サイトを引用して『(淺草來々軒は)「日本初のラーメンブームを作ったお店」という紹介だった。いろいろな資料や文献を調べ直した結果、そうなったと』と書いておいでだ。ちなみにラー博の開館は1994年3月のことである。このことからしても、最初に言い出したのは何処かお分かりであろう。

 また、今なお、ラー博では公式サイトで以下の表記をしている(2021年6月現在)。我が国でラーメンの歴史を一目でわかりやすく、あるいは網羅的に紹介しているのはやはり此処以外にはないとボクは考えているから、その影響力は大きい。だからこそ誤りは正し、根拠を明示する必要があるのではなかろうか。

中国人コック12人在籍は創業当初、ではなく『大正10年』
 たとえば、以下の記述である。

 『來々軒の創業者・尾崎貫一氏は明治43年、横浜の中華街から中国人コック12人を引き連れて浅草の新畑町3番地に來々軒をオープン。正月などの繁忙期は1日2,500人~3,000人の来客がありました。來々軒がオープンした当時、ラーメン店という業態は存在しませんでした。ラーメン店の誕生背景には、來々軒が「支那そば」、「ワンタン」、「シウマイ」という大衆的なメニューを安価に販売するという新たな業態を繁盛させ、広めたことがスタートとなります』。

 この表現の中には明らかに誤りがまだいくつか含まれている。その一つ目。

 前章のブログでも書いたのだが、小菅桂子氏の『にっぽんラーメン物語』[17](以下「ラーメン物語」)では、‘中国人コックが12人在籍した’という記述がある。しかしそれは開店当時ではなく、

『尾崎貫一氏が書き残した日記風ノートには、大正10年には中国人調理人は12人に上った』

 とある。実は『開店当初から12人』という記述は岩岡洋志氏の著作「ラーメンがなくなる日」[18]にもある。こんな一文だ。

『浅草の来々軒は1910(明治43)年に尾崎貫一氏が浅草で創業しましたが、このときも横浜中華街の中国人12名を招いて開業しています』。

 ちなみに著者の岩岡洋志氏は、ラー博の創業者で、株式会社新横浜ラーメン博物館の代表取締役だ。

 少し考えれば開業と同時に横浜の南京町(中華街)から中国人コック12人を引き連れて来た、というのは無茶な話である。確かに当時の浅草は、東京の、いや、日本有数の繁華街であった。けれどまだ東京には支那料理店はそれほど多くなく、あってもそれは今でいう高級中国料理店が大半であった。千束にあった中華樓など、一部ラーメン専門店と思われる業態、あるいは大衆的な支那料理店は存在していたが(これは後述する)、まだその歴史は浅く、繁盛するかどうかはまったく分からなかったはずである。それをいきなり、南京町からコック12人を引き抜いて開店するなぞ、まさに無謀極まる話である。1933(昭和8)年に書かれた「淺草經濟學」[19]でもこう記しているのだ。

『淺草の支那料理の變遷(へんせん)は、頗(すこぶ)る多種多様に渉っていて』、特に明治末期から大正初期にかけては『新たに開業したかと思ふと、間もなく廃業され、而(し)かも、廃業されたかと思ふと、又次のものが出來ると言ふ有様だった』。
 それほどリスクは高かったのである。

1日2,500人~3,000人の来客は可能か?
 
 次に誤りと確信しているわけではないが、根拠が明確でないものが次の一文。『正月などの繁忙期は1日2,500人~3,000人の来客がありました』。

 この2,500人~3,000人という記述、ボクの探し方が悪いのか、あるいはその事実がないのか、過去の書籍などには記述が見当たらない(見つけられない)。後で触れることになるが、郡山の「トクちゃんらーめん」という店の公式サイトには『正月ともなると、地元江戸っ子と観光で浅草に訪れる全国の人々が、一日で2500人もご来店したそう』という記述がある。「トクちゃん」の店主と淺草來々軒とは直接の接点もなく(あるのは千葉の進来軒という店。後述)、「したそう」と記述にあるようにこれはあくまで伝聞である。まさかこの一文を根拠にはしていないとは思うが・・・。

 さて、一つの店に1日に客が2,500人から3,000人が来るということは可能なのだろうか。検証してみよう。ただ、可能かどうかはもちろん店の規模によるわけで、淺草來々軒の客席数が分からないから、実は検証のしようがない。それは一旦脇に置くとする。さらに、この当時、淺草來々軒は麺も手打ちだったので、それだけの麺を確保できたのか? 無論スープなども仕込めたのかなどという疑問も残るが、ここでは「時間的に」可能かどうか見てみることにする。

 まず横浜駅西口にある超人気店「吉村家」の例を見てみよう。この店の集客数は過去に何度か話題になったと記憶しているからだ。

 同店は、いわゆる「家系」と呼ばれる豚骨醤油のスープが特徴のラーメン店で、全国の「家系ラーメン店」の総本山とも呼ばれる店だ。集客力には定評があり、いつ行っても行列が絶えない。しかし、客の回転は早く、それほど待つことはない。ボクは6年ほど横浜勤務であった時期があったので、同店には何度も食べに行った。昼どきであれば50人程度の待ち客は常であるが、1時間待つということはあまりない。同店には客の回転率を上げる様々な工夫があるのだが、ここでは省略する。
 同店の公式サイトによれば、客数は1日平均で1,500人だそうである。ヨコハマ経済新聞の記事[20]では

「一般にラーメン屋は1日に300杯売れば繁盛店とされるが、『吉村家』の基準では600杯でまあまあ、800~1000杯は当たり前、1200~1500杯で超繁盛店と位置づけている。横浜の総本家は実際に、超繁盛店のレベルをクリアーしている」
 とあるので、MAXでは1日1,800杯程度であろうか。

 吉村家の客席数は30、営業時間は11時から22時。22時はラストオーダーなので、最大11時間30分の営業時間と仮定すると、1800人の客を捌くのには1席あたり1時間に5.2人の客を回転させないとならない。つまり客一人が12分弱席に座って食べているという計算になるが、これはちょっと不可能な数字でなかろうか。さておき、これを可能とするなら客席数50あれば1日MAX3,000人の来客が可能だったということになる。ただし、これは昼前から深夜帯まで常に客席が満席で、一人の客が12分弱で食べ終え、食器なども片付ける間さえなく、間髪を入れずすぐさま次の客が着席するという、およそ神業のような客捌き、回転率を達成しないとならない。いずれ淺草來々軒の客席数が分かる時期が来るかも知れない。覚えておかなければならないが、「客席数50、営業時間11時間30分(休憩なし)でその間常に満席」が最低条件で、かつ一人の客が12分弱で食べ終え、食器などを数秒で片付け、すぐさま次の客を迎え、注文を受けてからこれまた12分弱で食べ終えさせてはじめて1日3,000人の客を捌くことが可能ということである。まあ、常識的に考えれば客席数50では100%不可能であろう。では倍の100席だったらどうだろう? この場合でも「すべての客が24分以内に食べ終え、すぐさま次の客から注文を受けて、24分以内に食べ終えさせ、それを1日12時間近くずっと維持させる」。それも不可能ではないだろうが、現実的には甚だ疑問符が付く。

『昭和3年讀賣記事』は、実は“広告”
 
 もうひとつ、これが根拠か? というものがある。それはラー博のサイトにも新聞の切り抜きや、『來々軒にまつわる文献は数多く存在』している一例として掲載されているのが[21]、先に書いた昭和3年発行の讀賣新聞の記事である。そこには確かに『一日何千人かの客を迎えて居る、實に淺草名物』とある。しかし、何千人というぼかし方をしているし、何よりこの一文、実は『記事』ではなく、まして正確な過去の記述・記録を意味する『文献』とは全く異質の、『広告』なのである。
 
 ラー博に行くとこの記事なるものの拡大版も掲示されているのだが、昭和3年の記事という紹介の仕方しかしていない。つまり発行月日が不明なのである。ボクは2,500人~3,000人という数字の根拠を調べる一環として、料金を支払って読売新聞のデータベースにアクセスしてみた。すると、検索の結果が以下であった。

『広告 味覚をそそる 浅草名物来々軒 1928.05.28 夕刊 9ページ』

 なんのことはない、『何千人かの客を迎えている』というのは、來々軒自らが宣伝しているにほかならず、根拠というにははなはだ怪しいものなのである。

ラー博の展示。上部に読売の記事があるが、これは記事ではなく「広告」である 

淺草來々軒の二代目・尾崎新一氏は淺草經濟學で『殊に長男の尾崎新一君が、太つ腹で宣傳と言ふことには、金銭を度外視して、徹底的に断行したものである。だから(注・関東大)震災直後と雖(いえど)も、昔賣り込んだ看板を益々光輝あらしめ、人氣の焦點となつてゐたものだつた』と書かれるほど、積極的に広告を打っていた人物である。

 この宣伝の効果について、『お好み焼きの物語』ではこう書いている。

 「明治末期から昭和初期の東京において宣伝の重要性は非常に高く、尾崎親子(注・貫一氏と新一氏)がそのような(注・淺草來々軒を繁盛させるという)サクセスストーリーを描き、実現することも可能だった」。その背景には、「東京の人口爆発と、市電の整備と、新聞の普及があった」とし、新聞については「日本の新聞は戦争を糧にしてその部数を伸ばしていった」。つまり、当時の新聞部数は日清日露の戦争のおかげで飛躍的に伸びていったと書いている。さらに新聞広告に金をかければ、客は市電に乗ってやって来るという「広告業界にとっては夢のような状況」に、たとえば三越百貨店などと同様、尾崎親子は気が付いたのだという。

 ところで淺草來々軒が繁昌した、という記録が最初に見えるのは、おそらく1918(大正7)年に書かれた「三府及近郊名所名物案内」[22]ではなかろうか。前章のブログでも書いたのだが、來々軒の繁盛ぶりを見事に描いているので再度紹介したい。

『來來軒の支那料理は天下一品
 浅草公園程見世物でも飲食店でも多い處(ところ)は三府に言ふに及ばず、東洋随一澤(たく)山であろう その浅草公園での名物は支那料理で名高い來々軒である、電車仲町停留場から公園瓢箪池への近道で新畑町の角店だが、同じ支那料理でもよくあヽ繁昌したものだ、二階でも下でもいつも客が一杯で中々寄り付けない様で、此の繁昌するのを研究して見ると尤(もっと)もと思われる、客が入るとすぐとお茶としうまい、を出す そこで料理が、わんたんでも、そばでも頗(すこぶ)るおいしい その上に値が極めて安い 何しろ支那料理として開業されたのは此の店が東京で元祖であつて勉強する事は驚く様である 慥(たしか)に東京名物である事を保證する。』

 ただ『支那料理として開業されたのは此の店が東京で元祖』というくだりは過ちであることは言うまでもない。

明治41年創業の千束・中華楼は『支那そば屋・式』
 
 話を元に戻す。ラー博の記述である。三つ目。『來々軒がオープンした当時、ラーメン店という業態は存在しませんでした』とそれに続く文章である。これも前章のブログで書いているが、來々軒創業以前にそれらしき店は存在していたのである。これも前章のブログで書いたものだが、また淺草經濟學から引用する。なお、「支那そば屋式」は「支那そば屋・式」であって「支那そば・屋式(屋敷)」ではない。

 明治41年、平野なる店が支那料理店を廃業すると『殆ど入れ替りに、千束町の通りに、中華樓と言ふのが出來た。こゝは支那そば屋としての組織であったから、つまり此の意味に於ては淺草に於ける元祖である』。『即ちこれまでの支那料理と異なり、支那そば、シューマイ、ワンタンを看板とするそば屋であつたのだ』。『中華樓は現在も、開業當時と同じ営業をやつているので、淺草の支那料理では、こゝが元祖であり、老舗でもある。(中略)(経営者の)江尻君は氣さで、頗(すこぶ)る痛快な男でもあるから、千束町では誰れ一人知らぬ者もない。中華樓は開業當時から千束町二丁目二百五十一番地で、開業當時から、支那人のコックを雇ひ・・・』

 また、こんな記述もある。
 『廣小路の有田ドラツクの横町を這入つた處の右側にある「榮樂」』という店について、『「榮樂」は大衆的な支那料理屋で、どちらかと言ふと、支那そば屋式な家である。夜明かしの店ではないが、大衆的な支那そば屋式の家としては、公園劇場前に、東亭と言ふのがあり、ちんや横町を更らに横に曲ると、八州亭があり、昭和座横には三昭がある。が、しかし、此の種の家は、他にも無數にある』。


「淺草經濟學」(国立国会図書館デジタルコレクション)

 このように、「淺草經濟學」では明確に支那料理店と、支那そば屋式あるいは支那そば屋とを区別している。特に中華樓なる店は、來々軒創業より前に、支那そば・シューマイ・ワンタンを提供する『そば屋』であったとしているのだ。この著者は、どうやら自らには明確な基準があって、支那そば屋と支那料理屋とを区別しているようである。また、後述するが、明治37(1904)年の新聞の事件記事には神田に「南京蕎麦屋」があったことが記されている。また、これも前章のブログで書いたのだが、NPO法人神田学会が運営するWEBサイト 「KANDAアーカイブ」の「百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」[23]によれば、神田に現存する中華料理店・揚子江菜館は『明治39年(1906年)西神田で創業されました。神田に現存する中華料理店では最も古い店です。実は、「支那そば」という店名でそれ以前から営業をしていましたが、店名を改めた年号を創業年にしています』とある。
 
明治37年に存在した神田・青柳氏の店は『南京蕎麦家』
 さらに続けよう。下記の情報は研究会から寄せられたものである。
 
『強盗傷を負ふて逃ぐ
 昨晩三時頃神田仲町二丁目[24]三番地南京蕎麦屋青柳賢藏方へ一人の窃盗忍(しのび)入り店頭にありし銭箱の金三十銭と單衣(ひとへもの)一枚を窃取して二階に上り・・・』(1904年=明治37年9月18日、毎日新聞[25]より)

 かつて神田界隈は、とりわけ今の神保町周辺は、中国からの留学生が多く居住し、支那料理屋が数多くあったことは前章のブログに記したとおりである。この事件があった明治37年には、一千人の中国人留学生がいたそうである[26]。この事件があった当時の「神田仲町」は現在の神保町・駿河台下あたりまで1kmに満たない距離に位置する。

 記事の事件どおりとするなら、青柳賢藏氏の「南京蕎麦屋」は、1899(明治32)年創業の「維新號」(神保町)のあと、1906(明治39)年創業の揚子江菜館(神保町)の前、の年には存在していたことにある。

 この記事だけでは「南京蕎麦屋」が、今でいう「ラーメン専門店」であるか否かは分からない。ただ、当時の横浜では「支那料理屋」が相当存在していたのだから、この青柳賢藏氏の店を敢えて「南京蕎麦屋」と呼んだのはそれなりの理由があったと考えられ、この店が千束にあった中華樓という店より前に創業した「ラーメン専門店」であった可能性もある。

いずれにせよ、明治末期、支那料理店とは異なる業態、すなわち「支那そば店」「南京蕎麦屋」があったことは確かであろう。


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[14] 先のブログ 「其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの ~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/29fa0d0e620bbded30724266b78172da

[15] RDB ウエブサイト「ラーメンデータベース」 https://ramendb.supleks.jp

[16] 小菅桂子氏の著書『近代日本食文化年表』 雄山閣。1997年8月刊。

[17] 小菅桂子氏の「にっぽんラーメン物語」 副題は「中華ソバはいつどこで生まれたか」。単行本は駸々堂、1987年10月刊。

[18] 『ラーメンがなくなる日 新横浜ラーメン博物館館長が語る「ラーメンの未来」』 岩岡洋志・著、主婦の友社。2010年12月刊。

[19] 「淺草經濟學」 石角春之助・著、文人社。1933年6月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[20] ヨコハマ経済新聞の記事 2007年1月12日付のWEB版。https://www.hamakei.com/column/140/

[21] 読売新聞の記事が掲載されている ラー博の公式サイトhttps://www.raumen.co.jp/information/news_001083.html での讀賣新聞の記事(とされる)『一日何千人かの客を迎えて居る、實に淺草名物』という一文

[22] 「三府及近郊名所名物案内下巻」 兒島新平・発行兼編纂、日本名所案内社。1918年8月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[23] 「KANDAアーカイブ 百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」http://www.kandagakkai.org/noren/page.php?no=26

[24] 神田仲町二丁目 現在の外神田一丁目の中央通り界隈。秋葉原駅電気街口の先。

[25] 明治3年12月8日(1871年1月28日)横浜で発刊された日本最初の日刊邦字新聞。のち東京に移り「東京横浜毎日新聞」と改題。現在の毎日新聞とは異なる系統である(以上、デジタル大辞泉」などから)。

[26] 一千人の留学生がいた WEBサイト「神田資料室」より。元は「KANDAルネッサンス86号 (2008.06.25) P.6〜7」である。http://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=001997



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