拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【中】 旭川<百年>ラーメン物語 ~それは小樽から始まった

2021年09月01日 | 來々軒
「八條は満長」発祥説は ? なのだが

 「八條は満長」に話を戻す。まず、ラーメン博物館の公式サイト「旭川ラーメン」の項からを引用する。
 
 『戦前に、もうひとつの情報として、八条にある「はま長」という蕎麦店で昭和10年からラーメンをメニューに入れていたという「はま長」創業者千葉力衛氏(故人)の話も残っている。もり・かけそばが10銭の時代にラーメンは20~25銭で売っていた。千葉氏は小樽から来た職人にその作り方を教わったという。「はま長」は今も立派な蕎麦店として八条で営業しており・・・』(原文ママ)。

 この記述、例によってこのサイトの記述はメンテナンスがされていない、検証されていない、出典などが記載されていない等、引用するにはまったく相応しくないが、これを読んだ方が出かけてしまないように書いておく。冒頭脚注でも書いたのだが、この店は2015年5月6日に閉店しているから、もう行っても食べることはできない。ちなみに正式な屋号は「はま長」ではなく「八條は満長」。さらに言えば「は満長」の創業者は千葉力衛氏ではないし(「八條は満長」の創業者は千葉氏)、またラーメンを出した年は1935(昭和10)年ではなく、翌年の昭和11年という説が正しいと思われる。

 屋号については補足しておく。まだ営業中だったころの写真が多数ネット上にあって、そこには「おそば 八條は満長」と書いた看板が掛かっているのが見て取れる。旭川市内には今も営業中の「は満長(本店)」がある。「は満長(本店)」と「八條は満長」は距離的にも近い。

  さて、ここで「おかしいぞ」と思った方はおいでにならないであろうか? 
 
 「八條は満長」がラーメンを出した年は昭和10年でも11年でもいいのだが、「支那料理広東軒」はともかく、旭川芳蘭は昭和3年若しくは翌4年にはラーメンを出しているというかなり信憑性の高い記録がある。「八條は満長」に関して言えば、「旭川で初めてラーメンという品書きでラーメンを出した店」という記述があるが、それもおかしい。旭川芳蘭は、日本で初めて(これは異論あり)ラーメンという名を付けて売ったとされる札幌竹家の支店である。札幌でラーメンとして売って、旭川でその名で売らないなどというのはおかしな話である。

 整理してみよう。年表形式にすると分かりやすい。

◆1921(大正10)年12月 大久昌治・タツ夫妻、札幌・北大前にて「竹家食堂」開業
◆1922(大正11)年 春 王文彩、竹家食堂に勤務。「支那料理竹家」創業
◆1924(大正13)年4月 竹家、改装して店を広げる
◆   〃    年5月 王文彩、竹家を辞めて小樽で中華料理店を出す
◆1925(大正14)3月 南三条西三丁目に竹家支店「芳蘭」開業。調理人は神戸から呼び寄せた 李 宏業 。のち、西宮で「桃源閣」開業。
◆ 〃  この年、昌治は横浜南京町に出向き調理人・徐徳東をスカウト。
◆ 〃     11月 王文彩、竹家に復帰。
◆1928(昭和3)年 秋 旭川駅の弁当立ち売り営業が許可される。昌治、旭川駅前通り四条七丁目に小さな店を借りて弁当を作るが、同時に中国料理店「芳蘭」もこの地にて開業。
◆1929(昭和4)年 旭川駅近くの三条七丁目左三号に「芳蘭」を移転させ、本格的に中国料理店としてスタート。
◆ 〃   この年、旭川芳蘭にて蒋義深によりラーメンが提供される(芳蘭移転前か後かは不明)
◆ 〃       旭川駅近くの三条六 に「は満長 本店」開業。
◆1936(昭和11)  旭川市八条七に千葉力衛が「八條は満長」を開店

 ちなみに、移転後の旭川芳蘭とは満長本店とは目と鼻の先の距離で、八條は満長でも移転後の旭川芳蘭とは700メートル弱である。また旭川芳蘭は相当流行ったとの記述がある。

 此処で当時の旭川の様子を記しておく。現在、北海道第二の都市として知られるが、旭川市の公式サイトによれば『明治31年には鉄道が開通、明治33年には旭川村から旭川町に改称され、札幌から第7師団が移駐するなど、産業・経済の基盤が成立し、道北の要としての使命を担ってきた』とある。


旭川陸軍第七師団司令部

旧旭川市役所
(2枚とも「旭川寫眞帳」より。
中村正夫・著、民衆社出版部。1928年7月刊。国立国会図書館デジタルコレクション)

 旭川の発展はこの記載通り、鉄道開通と、札幌にあった陸軍第七師団の旭川移転があった。札幌~旭川間の鉄道は、1898(明治31)年7月に空知太(そらちふと。廃駅。現在の砂川市)〜旭川間が開通した。既に札幌~岩見沢〜空知太の間が開通していたことで、旭川と札幌は鉄路でつながったのである。また第七師団移転は1899(明治32)年に決定され3年後の1902(明治35)年に完了したという。このことで旭川は“軍都”とよばれるようになり、明治末期には相当規模の町となっていく。

 このような町全体の発展は、ラーメンがこの地に根付いたこととは無関係ではないだろう。「FOOD DICTIONARY ラーメン」[13]では『陸軍第七師団・別名「北鎮部隊」が置かれたことから、街は軍隊とともに発展し、北海道北部の物流拠点として多くの人や物資が往来した』『北方警備を担った第七師団の存在抜きに旭川の歴史は語れない。早くから橋や発電所などのインフラが整備され、酒造・醤油醸造業も発展。旭川ラーメンにも影響を及ぼしたと言える』と書いている。




 

 とはいえ、北海道の主要都市の大正後期の人口を見れば旭川は5.5万人弱で、人口規模でみれば14万超の函館の三分の一、10万超の小樽や札幌の半分程度であった(グラフ参照)。だから、ということでもないのだが、新横浜ラーメン博物館(ラー博)公式サイトでも

 『札幌ラーメン文化の元祖である「竹家食堂」が、旭川に「芳蘭」という支店の中華料理店を出したことや、札幌の「丸井今井」[14]で流行った中華そばが、旭川の同店に店を出すなど、戦前は札幌の亜流的な位置づけであった』
と記述されている。ただしこのサイト、先ほども書いたが、ボクは淺草來々軒や高山の「まさごそば」を調べて以降、ラー博のサイト記述は誤りが多いと知り、今ではほとんど信用していない。しかし、この記述に関してはおそらくそういうことであろうと思う。

 『竹家食堂の旭川支店 芳蘭(以下「旭川芳蘭」という)』について書いておく。旭川ラーメンの源流の一つになり得るからである。まず旭川芳蘭の出店時期であるが、いろいろなサイトや書籍によると昭和3年、4年、8年と諸説ある。1928(昭和3)年説を見てみるが引用は「『竹家食堂』ものがたり 北の『ラーメン』誕生秘話」(以下「竹家ものがたり」という)(巻末参照)である。

 まず、芳蘭。屋号自体は、竹家の札幌支店として1925(大正14)年3月、南三条西3丁目として開業した。二番目の支店なぜが旭川なのか。書によると、大久昌治はかつて旭川駅に勤務していたそうで、その当時の同僚であり、駅助役をしていた男を頼り、まず旭川駅での弁当立ち売り販売の許可を取ったという。先に書いたが、旭川は道北の要として発展しつつあり、商売を始めるのには好立地であった。


現在の旭川駅前(2021年8月)

 1928(昭和3)年初秋、昌治は旭川駅前に小さな店を借り、弁当を作りながら、ホールで中国料理も出すことにした。翌1929(昭和4)年には料亭を買い取り「北京料理 芳蘭」を開業、ラーメンを出して、これが大当たりした。冬の旭川はことのほか寒さが厳しく、温かなラーメンは有難がられたという。旭川ラーメン発祥は=昭和3年もしくは4年というのはこのことを指すのであろう。ところが別の本、北海道新聞社発行の「さっぽろラーメンの本」は異なる記述をしていて、複数のサイトではここから引用しているのかも、と想像できる。
 
 『(竹家食堂初代店主の)大久昌治はまた(中略)昭和八年には旭川に出て「芳蘭」を開店した。旭川の店は割烹と弁当、ラーメンと手広くやっていて評判を取ったが、札幌と旭川の往復は体にこたえるから昭和十六年、旭川の店を閉店、(札幌の)竹家の経営に専念した』。  
 しかし、「竹家ものがたり」では巻頭で昭和4年当時の写真などを掲載していることから、此処では「竹家ものがたり」の記述を正しいとしたい。

 昭和4年以降昭和10年ごろまで、旭川芳蘭でラーメンを食べた人は多かろう。なのに人々は昭和11年に開業した八条は満長が、最初にラーメンを出したとなぜ言い出したのか? 八條は満長と旭川芳蘭の両店の距離もそれほど離れているわけではない。

 すると、こういう可能性はなかろうか。八條は満長が昭和11年にラーメンを初めて出した、というのは明確な誤り、というよりは多くの人の勘違い。千葉力衛は、戦前、のちの「蜂屋」「天金」など、のち旭川のラーメン店の代表格となる店の店主になる人々にラーメンの作り方を教えた、と家族の証言がある[15]。つまり、戦前から千葉氏は、旭川のラーメン界にかかわりを持ち、戦後も強い影響力を持っていたと思われる。その千葉氏が在籍していた(修行していた)、は満長本店で昭和4年の創業時からラーメンを出していたのだ。ただし、それは本格的に品書きに乗せるようなものではなく、もしかすると賄い的な性格のもので、物好きな常連客のリクエストによってのみ、提供されていた。

 そして昭和11年、千葉氏がは満長本店近くに独立した際に、好評だったラーメンを品書きに載せて売った。だから「千葉氏による八條は満長発祥説」が残ったのである。ところが実際は旭川楼蘭ラーメンを出した時期すなわち昭和4年に、同年に開業した「は満長本店」が際(あまり表立ってではないにしても)ラーメンを提供した。だからこそ、昭和4年という同時期に提供を始めたからこそ、旭川芳蘭という”中華料理店発祥説”と、は満長という”日本蕎麦屋発祥説”が残ったのだ。

 そしていつの間に、ラーメン界に影響力を戦後も持ち続けた千葉氏が独立した『昭和11年の八條は満長発祥説』に、話が変わってしまった。そう考えれば、「はま長=日本蕎麦屋発祥説」「旭川芳蘭=中華料理店発祥説」が並んで残ったとしてもおかしくはない。

 もちろんこれは、残された資料や証言などを基にしたボクの想像にすぎない。しかし、可能性の一つとしては十分考えられるのではないか。

 ここで今まで明らかにして来なかった二つの疑問、というか、不明な点を整理しておきたい。

 一つ目。「は満長本店」と「八條は満長」は暖簾分けなどの関係はあったのか? 八條創業者・千葉力衛氏が本店に在籍していなかったのなら、ボクの推論は成立しない。

 二つ目。「は満長本店」にせよ「八條は満長」においてにせよ、千葉力衛氏がラーメン提供に関わったのは確かだ。それでは千葉氏はいつ頃、だれにラーメンの作り方を教わったのか? 先にも書いたのだがラー博のサイトでは教わったのは「小樽から来た職人」とあるが、その根拠は何だろうか?

 それでは一つ目。これを探すのにはちょっと苦労した。ネット上では「八條は満長」は「は満長本店」から暖簾分け「されたようだ」程度の記述がわずかに残るのみ。しかし、「ようだ」では根拠に何らならない。そしてボクはようやく、以下のような記録を見つけた。


旭川「は満長本店」の店舗。2021年8月撮影

-----------------――-------――
■函館:函館麺飲食店組長「巴屋・下町倉蔵」氏、「やぶ源本店・小野源吾」氏
■小樽:小樽蕎麦商組合長「一福・森田哲央」氏
「籔半・小川原昇」氏、「更科・加藤三郎」氏、「三マス支店・宮村一郎」氏
■札幌:札幌麺業組合長「三河屋・平野一三」氏
札幌食堂組合長「八天庵・村田義雄」氏
■旭川:旭川そば組合長「はま長本店・千葉力衛」氏
------------------------------
 
 これは、”おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部”のサイト『小樽蕎麦屋ルーツ探訪 小樽の蕎麦屋百年(八) 北海道麺類飲食業環境衛生同業組合』[16]からの引用であり、内容は1967年(昭和42)10月、第14回日本麺類業団体連合会(日麺連)・全麺環連東北北海道ブロック大会に先立って開催された理事会に集まった人々、だそうである。さらに以下へと続く。これは同年同月、『「北海道麺類飲食業環境衛生同業組合」設立について全道各地の代表のもと、協議がもたれた』際の発起人たち、だそうだ。

------------------------------
■発起人代表 札幌麺業組合長「三河屋・平野一三」氏
■小樽蕎麦商組合「一福・森田哲央」組合長、「籔半・小川原昇」氏
■旭川そば組長「はま長・千葉力衛」氏
■函館麺飲食店組長「巴屋・下町倉蔵」氏
------------------------------

 さらに続ける。翌1968(昭和43)年1月25日、札幌市ローヤルホテルにおいて「北海道麺類飲食業環境衛生同業組合設立総会」が開催され、「はま長・千葉力衛氏 副理事長」に選出された、とある。またこの際、『全道の発起人77人のリストを「北海道麺類飲食業環境衛生同業組合設立趣意書」から抜粋し』た中には、

---------- ------------------
46 旭川市そば組合 千葉力衛   旭川市8ノ7        
47 旭川市そば組合 今井 正   旭川市3ノ6 はま長本店
---------- ------------------

 の名が見えるのである。此処に書かれた店舗所在地は、そう、千葉氏の店は「八條は満長」であり、通称「サン・ロク」角にある今井氏の店は「は満長本店」なのである。

 この記録では、千葉氏は「は満長本店」所属ともあり、また今井正氏の店「は満長本店」とは別の所属ともある。しかし、屋号自体はあまり聞かないものであり、両店の所在地が同じ市内で、しかし適度な距離(700メートルほど)ということからして、本店から八條店が暖簾分けされ、かつ千葉氏は昭和42年ごろまでは「は満長本店」にも関わっていたと推測できるのである。

 千葉力衛氏は誰に教わったのか
 
 二つ目。千葉力衛氏はだれに、いつ、ラーメンの作り方を教わったのか。先に書いたが、千葉氏は「小樽から来た職人」に教わったそうだ。

 具体的には誰なのか? それが分かるのか?

 冒頭紹介した旭川大雪観光文化検定公式テキストブックにこんな記載がある。『千葉は開業前にラーメンの作り方を小樽出身の職人により伝授され』た。このテキストブックの紹介記事があるブログには千葉氏の娘さんの敏子氏のインタヴューも掲載されているので、小樽から云々は千葉力衛から敏子氏に伝えられたと解釈していいだろう。

 テキストブックには時期も書かれている。「開業前」だ。文脈からして「八條は満長の開業前」だろうが、具体的にいつ、とは書かれていない。「は満長」開業前と捉えるなら昭和3年あるいは4年と考えてもおかしくはない。

 ただ、「小樽から来た職人に、昭和の初めに教わった」としたら、それには小樽にはそれ以前からラーメンを出していた店があるはずである。残念ながら、そういう店は見つけられなかった。

 小樽では名物の麺料理がある。あんかけ焼きそば、である。調べると昭和30年代に広く認知されるようになったが、遡ると戦前から始まったという説も見れる。小樽はもともと、札幌などより早く開けた街である。函館~小樽間の鉄道も1903(明治35)年から着工され1905(明治37)年8月には開通している(「函館市史」などによる)。ならば、北海道で最も早く開けた函館から、かなり早い時期に小樽へとラーメンは伝わったのではないかと思って調べたのだが、その記録は、ない。

 ただし、蕎麦屋だったら、ある。先に長々と書いたが小樽こそ、北海道の蕎麦屋発祥の地であった。そして、函館は北海道のラーメン発祥の地でもあったと推測されている。大正時代にはもう、函館~小樽間は鉄道が敷設されている。ラーメンがその当時に、函館から小樽に「運ばれて」いたとして、何ら不思議はない。まして、蕎麦屋で出していたというなら、それは相当信憑性が高い。

 その店は「は満長」同様、蕎麦屋である。そして大正時代からラーメンを出していたというのだ。しかもその店は現存している。

 ヤマカそば、という。

 小樽市錦町にある日本蕎麦屋である。ネット上の記述をまとめると『夜鷹(よたか)蕎麦屋で、当初からラーメンを販売していた大正年間の創業(1922=大正11年創業説もあり)という』。夜鷹そばは、「コトバンク」によれば『市民にとっても親しい存在で、とくに秋、冬の夜の景物として歌舞伎や文芸にも広く出てくる。この流行は江戸末期からだが、明治になっても引き継がれ、中華そば売りになった』とある。この店が最初からラーメンの引き売りをしていたとしても何らおかしいことはない。

 しかし裏付けが必要だ。見つけたのは、先に触れた”おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部”の公式サイトである。

 この中、「小樽の蕎麦屋百年 04.小樽蕎麥商組合の設立」の項に、業愛会という組織に触れ、『この会は大正中期、「小樽蕎麦商組合」に対抗する組合として組織され、会長は稲穂町・岩崎製粉所の裏手に営業していた屋号「入船」の前田氏という。屋台そば(夜鷹そば)を営む蕎麦屋が中心でヤマ安、ヤマカ、カネ作等が加入していた』とある。大正中期からラーメンを出していたかどうかはともかく、創業はその頃として間違いない。また、同じ項には『三〼(マス) 〇〇(支店名?)』という屋号が盛んに出てくる。現在は1950(昭和25)年創業の「三〼 入船店」のみが現存し、ラーメンを出している。ミ〼自体は明治末期の創業のようであるが、ラーメンをいつ頃から出しているのかは不明だ。

 ヤマカそば に戻る。この店が何らかの形で「は満長」に関わったのだろうか? たった一つ、手掛かりがある。「食べログ」などに映った写真と、「は満長本店」で写したボクの写真を見比べてほしい。

 太いピンクの外枠、そして緑の「の」の字。そう、ナルト、である。それほど珍しいものではないにせよ、いろいろなラーメン店でよく見かけるということでもない。偶然、ということなのかもしれないが。


「は満長本店」のラーメン。ナルトの色に注目

 ここで想像を膨らまそうか。いや、想像というよりボクの妄想、あるいは与太話のようなものかもしれない。

 此処からはボクが作ったフィクションである。本稿で書いてきた中でたった一人、小樽、そして旭川というこの二つの都市を行き来した、ラーメンの職人がいることをおぼえているだろうか?



- - - - - - - - - - - - - - - - - -


[13] 「FOOD DICTIONARY ラーメン」 編集協力・薮田朋子、枻出版。2017年5月刊。

[14] 「丸井今井」 今井藤七が1872(明治5)年5月に創成川畔で雑貨商を開店した後、1874(明治7)年5月、南一条西一丁目に呉服店を開業したのが始まり。1897(明治30)年には旭川に出店。最盛期には道内7店舗を展開し、北海道随一の百貨店グループに成長するも2009(平成21)年に倒産。現在は三越伊勢丹ホールディングス傘下となっている(三越伊勢丹ホールディングス公式サイトなどより)。

[15] 八條は満長の家族の証言 (1)千葉力衛氏の娘・敏子氏の話『ご当地ラーメンブームにより旭川の老舗ラーメン店も脚光をあびることとなりましが、それら老舗ラーメン店の主人らが戦後初めてラーメンの作り方を学んだのも八条はま長の創業者 千葉力衛さんからだった』(旭川市にある学生向けフリースポット「まちこみゅ」のブログ。2011年12月7日付。このブログは現在は更新されていない)。

https://machicommu.blogspot.com/2011/12/blog-post_07.html

(2)2代目の奥さん(注・娘の敏子氏)の話『ラーメンをメニューに加えたのが昭和11年の事。戦後の統制で飲食店が区域認可制となり、食うのに困った飲食店主らにラーメンの作り方を伝授したそうで、教わった店主らの中に天金や蜂屋も含まれていた』(2008年3月2日付)。http://funfunfun409.blog82.fc2.com/blog-entry-4.html

[16] ”おたる・蕎麦屋・藪半 麺遊倶楽部”のサイト 株式会社籔半が経営する蕎麦店「籔半(やぶはん)」の公式サイト。藪半は1954年(昭和29年)12月、小河原昇(あきら)が開業した。公式サイトhttps://yabuhan.co.jp




最新の画像もっと見る

コメントを投稿