■辨麺の発祥は中国で間違いないか
この辨麺、日本で生まれたのでは、という説もあるのだが、そうではなく、やはり中国で誕生し、横浜に伝わったことは間違いないところであろう。定着する前に、あるいは時間の経過とともに、例えばスープ(汁)の量を多少増やすなど、日本人の好みに変えられたということであれば、そういうことはあったであろうが。
中国所在の店で“辨麺(「辧・辦・辨・办・弁」を同一文字とみなす)”の存在が確認できたもののみ紹介しておく。
香港所在の『陸羽茶室』という店。ネット上の大手某グルメサイトのメニュー写真を確認すると、次のような品があることが分かる。
◇鮮菇 生魚辦麵
◇鮮菇 蝦仁辦麵
(筆注・鮮菇=フレッシュなキノコ、マッシュルーム)
この品、Webサイト「80C(ハオチー)」(注6)によれば、『料理の写真を見る限り、とろみあんかけそばといった風情』だそうである。また、同サイト(80C)を見ると、上海に本拠地を置く広東料理店「皇朝」でも、braised noodle、すなわち「煮込み麺」として次のような品があることが確認できる。
◇北菇辦麵
◇叉焼辦麵
◇牛肉辦麵
日本の、横浜を中心とした古い店のごくごく一部の中華料理店にしかない辨麺を、香港や上海の店が“逆輸入”したとは考えにくい。また、「80C」では『香港や広東省では、汁の少ない麺料理に関して、「撈麺(ローメン:極々少量の汁をかけた和えそば)」とバンメンは区別されており、汁の少ない順から多くなるにつれて「撈麵」「辦麵」「湯麵」と分類していると考えられます』としている。
確認は取れていないので断定する気はないが、日本では、つい先日まで我が国“最古の現役中国料理店”であった明治期創業の「聘珍楼 横浜本店」(1884=明治17=年開業、2022年廃業。横浜中華街)や「旭酒楼」(1910=明治43=年開業、横浜。JR根岸線石川町駅近く)などで、かつて「辨麺」があったという証言もある(従業員用の賄い含む)ことから、「辨麺」は、明治期後半から大正期前半にかけて中華街を中心としたその周辺の横浜エリアに伝わったと考えられる。
以下はそれを示す資料となるが、情報の元は『焼きそばの歴史 上・下巻』の著者、塩崎省吾氏からいただいたものである。写真を掲載したいところであるが著作権があるため、引用でご容赦いただきたい。
かつての横浜中華街は南京町と呼ばれていた。その南京町に古くから「成昌楼」という広東料理の店があった。場所は、2022年に廃業してしまったが「聘珍楼横浜本店」の前であったそうだ。創業の詳しい時期は分からないが、1903(明治36)年に書かれた「横浜繁盛記」(注ⅰ)に『又南京料理店は南京町に遠芳樓、聘珍楼、永樂樓、成昌樓などあつて』とあるので1900年ごろからあったことは確かである。また、1929(昭和4)年刊行の「鯖を讀む話」(注ⅱ)にも『横濱山下町に名題(筆注・作品などの”顔”のこと)の支那料理屋である』、と書かれているところからして、著名な店であったであろう。
その成昌楼の1917(大正6)年の品書き(「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」(注ⅲ)による)、正確には”支那輕便御料理定價表”、であるが、そこに以下の品が記載されている。
◇蟹肉辦麵(ハイヨクバアンメン)
◇蝦仁辦麵(ハイヤンバアンメン)
余談であるが、この品書きには「伊府麵」のほか「生碼麺」も記載もあって、生碼麺がその時期から存在していたことが分かり、一部で取り沙汰された生碼麺発祥=聘珍楼が昭和初期から出した、という説を打ち消していると、少々話題になった。
【注記 本稿公開後、「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」を取り寄せ改めて確認したところ、当該二品の品名左側に振られている日本語解説的なルビ(注釈。例示⇒「叉焼」 やきぶた)からすると、この二品は「冷やしそば」であった可能性が高い。すなわち現在提供されている辨麺(温かいつゆそば)とは異なるようである。この書の存在をご教示いただいた塩崎氏も同意見であった。詳しくは2022年のうちにはまとめて、公開する予定である。2022年12月8日・記】
【注記 本稿公開後、「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」を取り寄せ改めて確認したところ、当該二品の品名左側に振られている日本語解説的なルビ(注釈。例示⇒「叉焼」 やきぶた)からすると、この二品は「冷やしそば」であった可能性が高い。すなわち現在提供されている辨麺(温かいつゆそば)とは異なるようである。この書の存在をご教示いただいた塩崎氏も同意見であった。詳しくは2022年のうちにはまとめて、公開する予定である。2022年12月8日・記】
さらに1935(昭和10)年ごろの聘珍樓のメニュー(横浜開港資料館所蔵)には
◇辦麵(ばんみん) 金五十五銭
と記されている。
続けよう。日中戦争のさなかの1941(昭和16)年に刊行された、南支那地方の生活を描いた書「生活習慣南支那篇」(注ⅳ)には、『廣東料理に就ては・・・廣東市政府の書記長を勤めてゐる劉マヌチアン氏(原本は漢字)が調べたもの』として次のように紹介されている。要は当時の広東における店の品書き、である。
( )内であるが「かけそばに野菜を添えた物)とある。
おもしろいのは、この書にある品書きの表記は「辨」麵であることだ。それ以前は真ん中が「力」(辦)になっている。塩崎氏は「誤植もしくは著者の転記ミスではないか」としている。おそらくこうして「バンメン」の表記は変遷し、いつの間にか真ん中が「リ」の「辨」麺という表記が定着したのであろう。
塩崎氏からはまた
『ニューヨークのチャイナタウンにある「Delight 28」や、ロンドンの「Imperial China」という中華料理店でもメニューに掲載されているようです。』
ともお教えいただいた。
確かに「Delight 28」では
辨麺類 LO MEIN ◇蠔油北菰辦麺
などとして、「Imperial China」では
辦麵 Braised Egg Noodles ◇ 叉燒辦麵 Cantonese Honey Roast Pork
辦麵 Braised Egg Noodles ◇ 叉燒辦麵 Cantonese Honey Roast Pork
などとして、メニューに記載があるのが確認できる。日本で”絶滅”などといわれるバンメン、辨麺がアメリカやイギリスで食べられるとは驚きである。ボクにあと5年の寿命があるとしなら、是非とも行ってたべたいところである。
(品書きのタイトルと品名が違うのは原文ママ)
話を変えよう。
ラーメンレヴューに特化したWebサイト「ラーメンデータベース」(以下「RDB」という)で、3800回近くのレヴューを上げ、食べた店舗数は2800店近くという数字を残している『ぬこ@横浜』さん(以下「ぬこさん」)という方は、ハンドルネーム(以下「HN」という)のとおり主に横浜中心に活動されているのだが、「ぬこさん」は
『生碼麺(サンマーメン)の伝播と合わせて辨麺が伝播していく中で、生碼麺が「もやしそば」に、辨麺が「広東麺」に何らかの理由で呼称が変化した、というのが仮説の一つ』
と書いておいでだ。ボクもおそらくそういうことだろうと考えている。ただ、理由は多分、名称というか、品名が分かりにくいというごく単純なことなのではないか、と思う。生碼麺、ではそもそもどう読んでいいか分からないし、分かったところでどんな麺料理かも分からない。傍証になると思うので記述しておく。
表1を見ていただきたい。後で触れるが、表1にある長野のいくつかの店に存在する生碼麺と辨麺、拌麺は、大正期後半の同時期に伝わったと考えられる。うち、生碼麺に関しては品書きに「サンマ麺」や「さんまめん」といった表記が見られる。これは教わった料理人が生碼麺の内容をよく理解しないまま長野で料理を出したからであろう。だから次のような意味があることも理解せず、いや、理解していたかも知れないが、『醤油味の、具の中心はもやしという餡かけそばを、生碼麺=さんまめん、サンマ麺などという』的なシンプルな考え方を持って作ってきたのではないか。
◇生碼麺◇『生馬麺の意味は、生(サン)は「新鮮でしゃきしゃきした」と言う意味。 馬(マー)は「上に載せる」と言う意味があります。つまり新鮮な野菜や肉をサッと 炒めてしゃきしゃき感の有る具を麺の上に載せることから名付けられたと伝われているのです』(「かながわサンマ―麺の会」公式サイト。注7)
生碼麺ではなく辨麺であるが、“分かりにくいから品名を変えた”、その傍証というにはあまりに面白い話があって、ボクにはそれが忘れられない。それは2016年11月のことだった。
表2-2(次項)の中(No.43)、人形町大勝軒の暖簾分け店である日本橋の、通称“三越前大勝軒”で注文時のことである。ボクはこの店に「辨麺」がないことを知っていたので、品書きにあった「うま煮そば」を注文したのだ。もちろん、「うま煮そばをお願いします」と言って。するとその注文を聞いた店員は、なんとまあ、厨房に向かって「バンメンひとつ」と言ったのである。
その店員に理由を聞くと「うちでは昔からうま煮そばは“バンメン”って呼んでいるんです。理由? さあ?」。
おそらくは、以前はバンメン(辨麺)として品書きにあったのだが、多くの客から「それは何?」と聞かれ続け、面倒臭くなってうま煮そばに変えたのではないか、とボクは考えている。ただ、主人や古くから働いているスタッフは、バンメンという言葉に慣れているので、うま煮そばの注文が入ったら、聞いた店員が勝手になのか、ルール化してあるのか分からないが、”変換”してバンメンと厨房に伝達していたのであろう。
なお、この店は他の人形町大勝軒系列店と同様、もう、ない(2019年9月26日廃業)。ただし、建物の老朽化と周辺の再開発のためという理由であり、いずれ再開するという話を複数から聞いているので、復活しまた辨麺の提供を期待したい。まお、店員が“変換”したエピソードはこちらに詳しい(RDB)。
ちなみに、全く“真逆”の展開であったのが横浜の三渓楼。此処ではボクが「バンメンお願いします」と言ったにも関わらず、注文を聞いたスタッフの女性(娘さん?)は、奥まった厨房に向かって「ウマニそば」と、言ったのである。
それは、2016年12月のことだった。昭和七年か昭和十八年か、創業年次は定かではないが、山手・本牧エリアで小さいながらも確実な存在感を示していた三渓楼も、この秋、つまり2022年の10月末、姿を消した。店主高齢のため、が理由であった。
三渓楼の、そのときの、ボクのレヴュー。
■横浜から生まれて辨麺の系統は
汁ありの麺料理、バンメン、辨麺。中国からまず横浜に伝わった。さて、最初はどこの店だったろうか。表2をご覧いただきたい。この中では華香亭本店が最も古い歴史がある
この店、横浜中華街の南端・朱雀門から直線距離でなら1.5kmほどしかない。もっとも、付近をご存じの方ならお分かりだろうが、10kmほどなら歩くことは苦にならないボクでも、中華街からこの店まで歩いて行こうなどとは思わない。なだらかだけではない、時に急な勾配を含んだ坂道をずっと登る・・・。まあ、坂道の多い横浜だから当たり前なのだが。
辨麺は、明治後期から大正期にかけて、中華街の店に始まり、それが周辺の、現在の地名で言えば山手・本牧、桜木町・野毛、石川町・中村町、伊勢佐木町といったエリア所在の店に広がったことは確かだが、どこが最初の店なぞ、今となっては分かるはずもない。横浜市内以外の神奈川県内、例えば平塚・厚木・小田原などだが、おそらく横浜市内のいずれかの店から伝えられたのだろう。なお、今回は店毎に詳述することはやめておく。
それでは、提供エリア毎に提供店を見てみよう。
- 横浜市内
中華街あたりから本牧・山手、桜木町・野毛、伊勢佐木町、石川町・中村町などの周辺地域に広まった辨麺。便宜上横浜系とするが、以下の、「2.」と「3.(萬来軒系は?だが)」はこの横浜系の流れを汲んでいると考えている。ただし、市内の提供店(だった)の一部については、汁なし系の「拌麺」に近いものを提供している店もあった。明治初期から歴史を刻んできた中華街に提供店は非常に少なく、ボクが食べた店では清風楼と聚英程度。聘珍楼(横浜本店)にもあったというが、その聘珍楼も、そして聚英も廃業してしまった。また、石川町駅近くの旭酒楼でもかつて提供していたという話を聞いて伺ったのだが、スタッフから「そんな話は聞いたこともない」と一蹴されてしまった。このときのエピソードはRDBのボクの2017年11月のレヴューにて記してある。
中華街は、その150年という長い歴史がある割には、100年を超す営業歴がある店が極めて少ないのは二度の大災害があったという理由が大きい。すなわち、関東大震災と太平洋戦争である。さらにこれに令和のコロナも加わって、例えば聘珍楼横浜本店もこの禍に飲み込まれてしまったのは、残念極まりない。
(広東料理店聚英のメニュー。一番に「かに肉あえそば 蟹肉辨麺」とある。右はその
蟹肉辨麺。あえそばとあるが、ご覧の通りスープもちゃんとある。2017年12月)
2. 横浜市以外の神奈川県内
平塚、厚木、小田原といったエリアに数店舗存在している(していた)が、食べてみれば横浜市内の店と内容的に大きな差異はない。距離的に横浜市内からそれほど離れているわけではなく、横浜市内から伝わって来たと考えて差し支えないだろう。
3. 神奈川県以外の関東地域
東京都内、千葉、茨城(水戸)などで確認できる。都内と千葉県については、以下2系統にて伝わったと考えられる。
Ⅰ 「人形町大勝軒」系の店舗
Ⅱ 「萬来軒」系の店舗
この二つのうち、Ⅱ、に関しては、他のすべての系統と成立過程が全く違う可能性もある。それは後述する。
4. 長野県
松本市内、上田市内に提供店が今なお残る。便宜上、以下のように呼ぶ。
Ⅰ 長野松本系
Ⅱ 長野上田系
長野系統は、今まで書いてきたように大元は横浜系であるにしても、萬来軒系とは違った意味で、他のエリアの店舗とは相当異なる成り立ちを持っている可能性が高い。横浜の関連する店や人間関係など、事実を基にして想像を膨らますと、それはとてもとても面白い、興味深い物語になる。
■神奈川以外の関東の辨麺は二系統が存在
汁あり系の麺料理・辨麺の提供店。神奈川県以外で関東地方所在の店については、水戸所在の大興飯店を除けば、すべて「人形町大勝軒系」か「萬来軒系」の二つに分類できる。なお、水戸・茨城大学近くの『大興飯店』は、店主が横浜中華街での勤務経験があるので、おそらく横浜系として分類して差し支えないだろう。
それではまず、人形町大勝軒系から考察する。
□人形町大勝軒系
考察の前に簡単に「大勝軒」について触れておく。ラーメン界の事情に多少詳しい方であれば、「大勝軒」というブランドは四つの系統に分かれていることをご存じであろう。すなわち、
- 人形町大勝軒系
- 永福町大勝軒系
- 東池袋大勝軒系(丸長系とも)
- 麺屋大勝軒系
このうち、「4.」については歴史も浅く、本稿では触れることがないので割愛する。
- 人形町大勝軒系
1905(明治38)年ごろ、中国出身の林 仁軒 氏と、渡辺半之助 氏の二人で屋台の引き売りを始めたのが最初。1913(大正2)年ごろに人形町に路面店を構えたとのこと。1933(昭和8)年には当時都内、というよりは全国屈指の大繁華街・浅草にも支店を出したほか、暖簾分けにも積極的で、系列店は最盛期には17を数えた。しかし、その大半が個人経営で、後継者不在のため廃業してしまい、2022年11月の時点で営業している店はJR総武線、都営浅草線の浅草橋駅近くにある「大勝軒(台東区浅草橋2丁目。創業1946=昭和21=年)」のみ。茅場町所在の「新川大勝軒(飯店)」(中央区新川1丁目。創業1914=大正3=年)は、人形町系だったそうだが、随分と前に経営者が変わり、今となっては関連がないという。
確認をとれた範囲でのみ、辨麺の有無と、有りの場合の表記について記載しておく(店名は正式な屋号ではなく、便宜的に地名等から表記した)。
◇(廃業)人形町大勝軒本店 提供あり。辨麺。
◇浅草橋大勝軒 提供なし。
◇(廃業)三越前大勝軒 中央区日本橋本町1丁目。1933(昭和8)年~2019年。提供あり。ただし、本稿でも触れているようにうま煮そばと品書きにあり、店員が辨麺に“変換”。筆者実食。
◇(廃業)日本橋大勝軒 中央区日本橋本町3丁目。「日本橋よし町」→「日本橋大勝軒」→「HALE WILLOWS」と変遷。最終的に2019年に廃業。提供あり。辨麺、バンメン。筆者実食。
◇(廃業)横山町大勝軒 馬喰町大勝軒とも。中央区日本橋横山町。1924(大正13)年~2018年。提供あり。バン麺。筆者実食。
(日本橋横山町・大勝軒のバンメン。大正13年創業で、
とての雰囲気のある店だったが既に廃業。2017年8月)
2.永福町大勝軒系
1955(昭和30)年に草村賢治氏が26歳のときに杉並区永福町にて創業。“永福系”の特徴は“煮干し”“鰹節”の出汁が強いスープ、全体的な量が多い、というところにあって、固定ファンは極めて多い。「大勝軒」と屋号になくとも系列(出身)店は数多く、例えば松戸「中華そば まるき」、現在は新宿御苑にある(創業時は幡ヶ谷)「金色不如帰」、三軒茶屋所在「めん和正」等々、人気店も数知れないが、ボクはこの系列店で辨麺に出会ったことはない。
3.東池袋大勝軒系
「東池(ひがしいけ)大勝軒」、「丸長系大勝軒」とも呼ばれるこの系統は、つけ麺で知られる故・山岸一雄氏によって1961(昭和36)年に創業。系列(出身)店は永福系よりさらに多く、行列店も多数ある。元を辿ると、1947(昭和22)年創業の荻窪の「丸長」、さらに山岸氏も在籍した「中野大勝軒」、「代々木上原大勝軒」へとつながる。ただ、永福町系同様、辨麺を提供している店は聞いたことがない。
こうして、人形町大勝軒系にのみ辨麺は伝わった。「4.」を除く三つの大勝軒はいずれも創業店の営業歴が60年超という歴史のある店舗群であるが、人形町系のみが戦前から存在している。辨麺は現在提供している店や過去提供していた店も含め考えると、横浜に伝わって以降、市内やその他エリアに広がりを見せたのは大正初期から昭和初期にかけての、ごく短い期間であると推測できるため、人形町系のみにしか存在しないというのも頷ける。
なお、「大勝軒」の屋号の由来については、日露戦争(1904~1905、明治37~38)において日本が“大勝”したからと一般的に伝えられており、それも有力な説では違いないものの、
一、年号が「大正」に変わったときだったから
一、乃木「大将」が活躍したころだから
といった説もある(この項、注8記載のWebサイトを参照した)。
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(注6 WEBサイト「80C(ハオチー)」⇒日本橋箱崎町にて1953年に創業した株式会社中華・高橋が運営するWEBサイト。キャッチフレーズは「中華料理がわかるWEBメディア」。バンメンに関するページはhttps://80c.jp/restaurant/20210428-1.html
(注ⅰ 横浜繁盛記⇒横濱新報社著作部・著、発行。1903(明治36)年4月刊。ちなみに横濱新報は、1890(明治23)年2月に創刊した「横濱貿易新聞」を前身とし、のち、現在の「神奈川新聞」となる。
(注ⅱ 鯖を讀む話⇒下村海南・著、日本評論社、1929(昭和4)年8月刊)
(注ⅲ 「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」⇒増田太次郎・著、 ビジネス社、1986(昭和61)年10月刊)
(注ⅳ「生活習慣南支那篇」⇒タイトルとおり、日中戦争のさなかの南支那=広東省・海南省・広西チワン族自治区の3省区=における生活様式を書いた書で約300頁。米田裕太朗・著、教材社、日本出版配給株式会社・配給、1941(昭和16)年11月刊)
(注7 かながわサンマ―麺の会公式サイト⇒『サンマー麺の会は 神奈川県中華組合に所属し、歴史のある美味しいサンマーメンを より多くのお客様に知って頂くため、全国にその名を轟かせようと 日々努力を続けており、料理人として腕に自信を持った有志の集まり』。http://sannma-men.com/index.html)
(注ⅱ 鯖を讀む話⇒下村海南・著、日本評論社、1929(昭和4)年8月刊)
(注ⅲ 「チラシ広告に見る大正の世相・風俗」⇒増田太次郎・著、 ビジネス社、1986(昭和61)年10月刊)
(注ⅳ「生活習慣南支那篇」⇒タイトルとおり、日中戦争のさなかの南支那=広東省・海南省・広西チワン族自治区の3省区=における生活様式を書いた書で約300頁。米田裕太朗・著、教材社、日本出版配給株式会社・配給、1941(昭和16)年11月刊)
(注7 かながわサンマ―麺の会公式サイト⇒『サンマー麺の会は 神奈川県中華組合に所属し、歴史のある美味しいサンマーメンを より多くのお客様に知って頂くため、全国にその名を轟かせようと 日々努力を続けており、料理人として腕に自信を持った有志の集まり』。http://sannma-men.com/index.html)
(注8 人形町大勝軒関連のWebサイト⇒『1913年創業・元祖大勝軒は「珈琲大勝軒」に。後のGHQ専用料理人が生んだ大勝軒のすごい歴史』。東急メディア・コミュニケーションズ発行、デイリーポータル2020年3月11日付特集。