城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第十一回・後半>

2016年08月27日 | 西国三十三ケ所遍路旅
前半の続きですが・・・

では第11回を2014年6月17日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第5回になります。
と云うのは今回の2ヶ所は通常ならば2014年の11月に行く事になるはずですが、季節的に冬より今の時期に行った方が船の欠航もなく行きやすいからのようです。
バスツアーの都合でこうなりました
 
後半の第三十一番札所「長命寺」に向かいます
 
島を離れてやってきたのは
 

そしてバスでやって来ましたのは近江八幡市にある第三十一番札所「長命寺」です
「是よりくわんおん六丁」の碑が迎えてくれます
昔の巡礼は、丹後から若狭の小浜を経て、今津に出、舟に乗って、竹生島の宝厳寺を詣で、そこから舟で、この長命寺を参詣するのが順路だったようです

参道登り口右側には「日吉神社」

 

左側には「穀屋尼寺」
長命寺の穀物倉庫だったと云われます



開基聖徳太子をお祀りされています

参道入り口から808段もの石段が続きます
手摺りもない自然石の石段が約四丁、しかもかなりきつい急勾配です

昔は宿坊が多くありましたが、この左にある「妙覚院」と



「真清院」のみが現在残っております

参道石段の両側に石仏、供養塔などが所々に見られます

「くの字」に曲がった道辺りが、約3分の1ほど登った所で、三界萬霊・大乗妙典と彫られた石碑があり、比叡山の天台宗に属していた事が分かります

墓碑の横に立つ石仏、苔むしていい趣が感じられます

この奇妙な鳥居を潜れば石段は後半分です

ところでこの形変わっていますね。初めて見ました。こちらのサイトに似たような物を見ました。また、廣田神社(西宮市)・大神神社摂社檜原神社(奈良三輪)・須賀神社(松阪)・神山(松阪)にも似たような鳥居があるようです。何れもかなり古い神社のようですクリックすると元のサイズで表示します

振り返るとこんなに急な石段が続いています。かなり息切れがしましたクリックすると元のサイズで表示します

「禅林院跡」  

禅林坊は善林坊と書かれたようで、宿坊の一つで昔は40ほどの宿坊があったそうです。「信長公記」によると、織田信長が天正六年(1578)の狩りに逗留されたそうです。

禅林院前の祠

四十余りあった宿坊は、石段の左右に名残の坊跡を残すのみで、この少し上にも金乗院跡があるようです

この辺りで四丁ですから3分の2まで来ましたね

「厄除け不動尊」もお祀りされております。この急勾配は登り始めより変わりません。
実を云うと今回参加者は44名で、内18名がこの石段を歩きました。あとの方はと言えば



この左手の駐車場までタクシーで来られるんです
この「聖徳太子礼拝石」から山門までは石段はあと約100段です

そしてやっと山門にたどり着きました。本当にやっとでした。あぁしんど!時間的には僅か20分程度だったのに。

この山門も冠木門のように変わっております

こちらが第三十一番「姨綺耶山長命寺」ですクリックすると元のサイズで表示します

山門はもう一つ左脇に、立派な唐門が控えていました

水盤舎で身を清めてお参りしましょう


クリックすると元のサイズで表示します

後ろ側は「書院」になっておりました

また数十段登りますと、下の写真の右にあるお堂につきます

右手の「三重の搭」を見るだけでほっと落ち着き、疲れた体に安らぎを覚えますクリックすると元のサイズで表示します

本堂に向かいましょう。推測ですがこれは燈籠のあったと思しき台座に載っているのでしょうが一体なんでしょう

こちらが本堂です。やっと着きました。
記紀に日本武尊が物語られる頃、景行天皇二十年にこの地をおとづれた武内宿禰が山の柳の木に「寿命長延所願成就」と記して祈願したところ、300年以上の寿命をまっとうし、五代の天皇に仕えたといわれます。聖徳太子がその柳の木で三体の観音像を刻み寺を建立し、宿禰の長寿譚より「長命寺」と命名したといわれます

下陣は柱の並ぶ荘厳な雰囲気を持ち、内陣には須弥檀が築かれ中央に厨子が置かれ千手観音・左に聖観音・右に十一面観音立像が安置され和仏堂の格調高い建築となっております
ここで御参りを済ませ清清しくなったところで、境内を見てまわりましょうか

本堂でのお勤めを終わり、本堂東脇に回ると「武内宿禰の足跡」石があります

同じく裏側の「六所権現影向岩(ろくしょごんげん ようこうせき)」
武内宿禰(西暦84年生)が、祈願し寿命を全うしたと云われる岩です

この西に繋がる「三仏堂」「護法権現拝殿」を含め本堂は回廊により繋がっております

釈迦・阿弥陀・薬師の三仏(いずれも立像)を安置しており、持仏堂形式の重要な遺構となっていますクリックすると元のサイズで表示します

「護法権現拝殿」

入母屋檜皮葺の簡素な建物となっており、三仏堂側の渡り廊下は唐破風、蟇股、兎毛通(うのけとうし)が時代の特徴をよく現しております

「護法権現社」
護法権現は武内宿禰を祀り、社は江戸後期に再建されたようです

元暦元年(1184)源頼朝の下知により、佐々木定綱は戦死した父秀義の菩提を弔うために本堂をはじめ釈迦堂、薬師堂、太子堂、護摩堂、宝塔、鐘楼、二王門などを建立しました。また、この頃天台座主明雲の弟子尊海が來住して延暦寺西塔院別院になったといわれます。

永正十三年(1516)、一山の堂舎は佐々木高頼とその重臣伊庭貞隆との争いによる兵火のため悉く焼失しました。

再興は焼失の翌年より始められ、永正十四年に広く勧進に着手し、6年後の大永二年(1522)本堂の再建、三仏堂、三重搭、護摩堂、鐘楼を再建し子院は19坊を数え、江戸時代を通じ聖徳太子の千手観音・聖観音・十一面観音の3尊にすがれば健康長寿が叶うと多くの人々が訪れました

チョット変わっているなと思ったのは一番西に位置するこの「太郎坊大権現」です

太郎坊というのは大天狗。もとは、長命寺で修行をしていた普門坊という僧で、厳しい修行の結果、超人的、神がかり的能力を身につけ、大天狗になったのだと云われます。ここでは寺を守護しているのだと云われています

向こうに見える拝殿と手前には美しく咲き誇った紫陽花がいいですね

拝殿と由来書き。愛宕山より飛来した石と手水鉢が本殿横にあると書かれています

琵琶湖岸が曲線を画いて美しい景色となって絶景です
(拝殿内側より望む)

拝殿裏の巨岩

太郎権現本殿
古代の磐座の跡と見られます

「太郎坊権現社」
境内の一番奥まった位置にある「太郎坊権現社」。この祠の両脇にも巨石がゴロゴロ。割れ目のある岩は女性とされています

振り向けば拝殿を覆うように被さる巨岩です

その南に、文字通り商売の神様「稲荷大明神」 別名、柁柷尼天尊と云われます

諸堂宇の美しい佇まいです。
手前より「如法行堂」「鐘楼」「三仏堂」「本堂」「三重搭」

その東に建つ「如法行堂」と「鐘楼」 
「鐘楼」は慶長十三年に再建された、入母屋造桧皮葺で袴腰付ですが、柱の配置が他とは違っており興味ある形式で、妻飾りや懸魚の形は禅宗様式を取り入れております

梵鐘は鎌倉時代の古鐘となっています
山麓の三ツ石と呼ばれる岩の間に住む龍女が献じたもので、誰も撞かないのに諸行無常と鳴り響くことがあると云われます

「如法行堂」
勝運将軍地蔵尊・智恵文殊菩薩・福徳庚申尊安置をお祀りされております

直ぐ上に座る「修多羅岩(すたらいわ)」
武内宿禰(たけうちのすくね)大臣の御神体とされます。

右は「宝匡印塔」。ここを下って元の三仏堂へ

手前より「護法権現拝殿」「三仏堂」「本堂」

本堂の向こう、東は「護摩堂」です
天台宗では密教の護摩が焚かれます

宝形造、桧皮葺、丹塗となっております。



この東には「三重搭」
本尊大日如来と四天王がお祀りされております

慶長二年(1597)に再建された。建築様式や屋根の特徴などから、桃山期の特徴が伝わる貴重な建物で国重文に指定されています

搭の風鐸というのは趣がありますね

その前には「閼伽井堂」



閼伽井とは仏前にお供えされる清浄水のことですね

澄んだ清浄なお水が見えます

東側から眺めた長命寺本堂荘厳な感じで身が引締まる思いです

神社にはよく見かけます石を積んだ光景です。何のためなんですかね?!

さてそれでは戻るとしますか。ここまで来ればもう後は半分です。次回はこんな階段があるのかな。下りも足にきました。この後3、4日は筋肉痛でした。お疲れ様!

今回はここまでです

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西国三十三ヶ所遍路旅<第七回・後半>

2016年08月20日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第7回を2014年9月10日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第8回になります。
と云うのは以前に第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
 
前半の続き、第15番穴太寺より
 
 
 
 
やって来ましたのはここ摂津の国・茨木、「第二十二番補陀洛山総持寺
 
 
街の中に忽然と現れる朱塗りの「山門」秀頼再建と伝わる楼門(仁王門)

 
 
朱色が残る仁王像

総持寺は平安時代に藤原高房の遺志によって創建されました
 
 
本尊は亀の背に乗った千手観音様です
『子育て観音』『火除け観音』として毎年4月15~21日に開扉されます


御詠歌「おしなべて老いも若きも総持寺の ほとけの誓い頼まぬはなし」

 
本尊が乗ったと云う亀にちなんだ雨桶に頑張る亀


「弘法大師堂」

 
「金堂・本尊薬師如来」
 
総持寺の創建と観音様についてはこんな由来があります
『大宰府の次官に任ぜられた藤原高房は2歳の子、山蔭と共に大宰府への途中、淀川を下っていると猟師が、信仰する観音の縁日に、大亀を殺そうとしていたのを助け放してやりました』


ぼけ封じ「普慈観音」
 

四国八十八ケ所お砂踏み、西国三十三ヶ所お砂踏みがありました
こちらは第十五番今熊野観音寺や第十二番岩間寺正法寺と並ぶ、近畿十楽観音霊場でした

『継母のたくらみで乳母が山蔭を川に落とし見つからなくなり、観音様にせめてわが子の亡骸に合わせて下さいと祈ると、昨日の大亀がわが子を乗せて現れ、深く感謝し観音造立とお堂の建立を発願しました』

『大宰府で遣唐使に香木の購入を依頼し光を放つ栴檀を見つけたが、日本に持ち出しが禁止されやむなく藤原高房に贈ると彫って海に流しました。高房が亡くなって山蔭が大宰府に赴任したある日、浦に毎夜光る霊木があるとの噂を聞き見ると「藤原高房に贈る」の銘文があり、父の遺志を継ぐことを決意しました』

 
ずらり並んだ八十八体のお四国さんのご本尊の石像と

『帰任の途中茨木で霊木が動かないので必ずこの地にお堂を建てますと祈念し、その後仏師を求め長谷寺に参篭し、「下山途中に最初に逢った者こそ仏工なり」との夢告のとおり、14~15歳の童子が現れ「千日掛けて彫る間は誰もお堂に入らず自分お食事を作ること」と言った』
 

墓石の上に刻まれた弘法大師と

『千日目の朝、お堂に駆けつけると亀に乗った千手観音様が祀られ童子の姿は消えていました。童子が長谷観音の化身であったと知り深く帰依し、山蔭3回忌にあたる寛平二年(890)本堂、五重搭など七堂伽藍が完成したと伝わっています』
 
 
西国札所の観音様達でした
創建当時の建物は茨木の合戦で焼失したが秀頼によって慶長八年(1603)再建されました
 

仏法や伽藍の守護神である「荒神社」


「開山堂」
開祖山蔭は観音を彫り上げる千日間、童子に一度も同じ料理を作ることがなく「中納言の千日料理」と称えられ、料理の名人であった事にちなみこのお堂で山陰流包丁式が本尊開扉の期間行われています


本道裏に包丁塚もあります。このお堂は懸架(舞台)になっています


「不動堂の宝珠」・お堂は修理中でした


他に「閻魔堂」もあり


大黒天・弁財天・青面金剛を祀る「鎮守社」もあり
 

「経蔵」もあり
校倉造りになっていて珍しいですね


「五社稲荷大明神」もあり


「地蔵堂」もあり見所、御参り個所が多くありました


池の中に地蔵堂を設けたり


広い境内は美しく整備されていました

 

十三重の石塔や手前のなにやら不思議な石柱様なものも有り、お寺には見かけない「下馬」標も見かけました


文化元年の庫裏屋根の鬼瓦や


創建当時(平安時代)の本堂基壇の凝灰岩も展示されていました


さらに室町時代の瓦窯跡も見つかり移転保存されていました


よく室町時代のものが残っていましたね。、2基を保存されています。
と言ったところで歴史が一杯詰まった総持寺をあとにしましょう


続いてやってきたのは摂津の国箕面
第二十三番応頂山勝尾寺」・木製の門の側に菊の紋章の入った石柱が立っております


朱塗りの山門に勝尾寺の扁額が架かる

 

真っ赤な朱に塗られた仁王像

 
 
その裏には青く塗られた狛犬が一対


弁天池には弁天島と弁天社が一つ


参道の石橋の下から立ち込める白雲


本堂までなだらかな蹴上がりの低い石段が続きます


こちらは「三宝荒神堂」
日本最古と云われ桓武天皇の異母兄で、開祖の開成皇子の夢枕に鬼が現れ「荒神を鎮祭せよ」とのお告げで、奉祭され1月28日は荒神大祭が行われ賑っております


お隣の「鎮守社」


その又お隣の「開山堂」
開祖開成皇子の木造がお祀りされております


「大師堂」
こちらにもありました「四国八十八ケ所お砂踏場」になっております


ずらり一列におならびになった八十八ケ所のご本尊様たち


彩色が施されております


お大師様の像が後ろに見えております。升目に並んだ「勝ちダルマ」おみくじ


朱塗りが鮮やかな「本堂」
奈良時代末期、神亀四年(727)摂津国司、藤原善仲・善算双子兄弟が山中に草庵を構え、開成が両上人を師とし大般若経600巻写経を完成させ、天平神護元年(765)弥勒寺を開創しました


宝亀11年(780)「妙観」と名乗る比丘と18人の弟子が観音像の造成を願い出て、7月18日から8月18日までの間工房を見ないで下さいと云い、8月18日にお堂に行くと工人の姿はなく、白檀香木の十一面観音像が安置されていました。妙観は観音の化身だったのです


観音縁日が18日と定められたのはこれに由来するようです

やがて平安時代となって、清和天皇が病気平癒の祈祷の勅を出した所、当時の座主行巡上人は12年篭山行のため山を出ることは出来ないと断り、山中で玉体加持により病気平癒の効験を現わした事により、王に勝つ寺「勝王寺」の名号を賜ったが、王の字を控え「勝尾寺」としたと云われます。


大きな香炉
源平の合戦夏焼失し頼朝の命により再建され、以後、秀頼による本堂・山門、足利氏、豊臣氏など各時代の将軍から荘園の寄進を受け、法灯を伝えられています


又、各将軍より戦勝祈願を行う「勝ち運」信仰の寺とされてきました


本堂を中心に堂宇が建ち並んでいます

 
 
こちらは36町南にある西国街道に面して建っている参道の鳥居です。今も8基の町石が見られます


そのほか「鐘楼」


「不動堂」や

 
  

「多宝塔」などの堂宇が


並ぶ大寺です
 

これは「勝ちダルマ」といって戦勝祈願を今風に置き換えた達磨となっています


「一願不動尊」・どうやら一つだけ願いを聞き届けて頂けるお不動様のようです


『諸堂をお参りしその加護を頂いてから、この知恵の輪を歩いてみて下さい。すると心は一層穏やかに、そして晴れやかに、湧き出でる力や良い知恵を頂けるでしょう。
瞑想するもよし、座るもよし遊ぶもよし湧き出でる力を感じさせて頂ける場所である』と書かれています


広い境内で心休まり、穏やかになり後にすることが出来ました

今回は京都西山から丹波亀岡まで飛び、南に下って摂津の国・茨木総持寺を訪ね、箕面・勝尾寺と移動距離の多い札所巡りでした。駐車場からは近く、階段や坂道はこの勝尾寺以外はなく楽なお参りでした。次回は番外を含め三ヶ寺お参りの予定です
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西国三十三ヶ所遍路旅<第二回・後編>

2016年08月12日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。


では第2回を2014年3月21日に行ってきました。
と云っても、実は回数としては3回目です。
第2回に行くところが前後して3回目になったのです
ですから前回は、第3回になります。(バスツアーの都合上です)


今回は京都・竹田駅から出発し第四番施福寺⇒第二番金剛宝寺(紀三井寺)⇒第三番粉河寺の三ヶ寺の順に向かいます。

でもブログにUPするのは三十三ヶ所順にしたいと思っています
 
第2回の前編に続き、こちらは後編になります

やって来ましたのは、三十三ヶ所中1,2を争う今回一番の難所、山道を登ります
「第四番 槇尾山 施福寺」

駐車場そばの「万願寺 不動尊

横の「延命地蔵尊」さま

  

同じく「千体地蔵堂」と「地蔵尊」

それでは覚悟して向かいましょう。
大和王権は大津の港、泉南の港から加古川上流、石生峠を越え、由良川をへて丹波、若狭の海に出、朝鮮半島、中国へと古代交易一大ルートを作り、その航海安全と戦勝祈願の聖地がここでした。その後、欽明天皇の勅願により、仏教公伝(538)頃創建されたお寺だということです

當山秘伝木由来 略」
『當山は七世紀の始めに欽明天皇の勅願により僧「行満上人」が建立開山、全山に八百の僧坊、を有して、数百の学問僧等、常に千人近い僧達が居たと云う大寺も南北朝の戦乱に会い、又、天正五年(1578)早春織田信長の焼き打ちに会い全山消滅す。
創建当時は政変、反乱、謀反、疫病が続発した時代天正五年一月八日(732)に此の秘伝木を建立して国家も天皇と諸民のために七難即滅、七福即生を祈願し、又諸民病難、火難、水難、険難、盗難、起難、受難の消滅を祈願して、此の秘伝木を建立して以来、平成の今日まで途絶える事無く、秘文と書体と字数を違える事無く、毎年一月八日に立て替えて祈念しています』(説明版より)
相当勢力があったお寺のようですね。「秘伝木」とは鳥居の原形とされるものらしいです

 

左・「秘伝木」      門前の十三重の塔

山門(楼門)
弘化二年の山火事を逃れ唯一残ったのはこの山門だけでした
 
 

この仁王さんも相当昔の作でしょうか

ほとんどお地蔵様ですね。燈籠の彫が気になります。文字か記号か、年代は?

山門を潜ると足場の悪い階段状の山道です

 

上に行くほど石段が出てきます。右側に槙尾川が流れいかにも山の中のハイキングコースそのものです。流れは清らかでした

 

  登り始めは八丁の道標がありましたが、ここまで来ると五丁になってました。そして「弘法大師御剃髪所跡・愛染明王 弘法大師御自作」の碑がありました



唐から戻られた大師は京に出られる前ここで、春日山岩淵寺の勤操(ごうぞう)を師としてこの愛染堂で得度受戒され、虚空蔵求聞持法を修した虚空堂(女人禁制)、弘法大師堂などがあります。

「愛染堂」と「大師修行像」 

 

いよいよ最後の石段です。その手前は大師の遺髪を納めた「弘法大師遺髪堂」。


約40分かかって本堂に着きました。こちらは西向きです。「十一面千手千眼観世音菩薩」のお姿の像も見えます

本堂の南の広場からは金剛葛城山系が一望出来、大阪湾まで見渡せます

七世紀の始めに仏教伝来の当初、欽明天皇の勅願により「行満上人」が弥勒菩薩像を本尊とし建立したのが始まりと伝わり、その後、役行者が法華経を葛城の峰々に埋め、最後に納経したとの伝承から槙尾(巻尾)山の山号が用いられるようになったと云います。

東大寺を建立した行基も慶雲三年(706)にここで修行し、西国観音で知られる十一面観音は、弟子の法海(中興の祖)が刻んで安置としたといわれます

本堂の中央には弥勒菩薩坐像、向かって左に十一面千手千眼観世音菩薩立像、右に文殊菩薩立像が祀られています
この本尊の謂れが『みすぼらしいが不平も言わず励む僧がいました。業を終え帰る旅費を無心するが断られ叱られ、「僧として恥ずかしい」と云い残し下山しました。これを知って法海は後を追ったが間に合わず、はるか彼方を紫雲に包まれた観音の姿を見、化身だと知り懺悔しこの観音像を造立した』と伝わっています


御詠歌『深山路や 檜原松原 わけゆけば 巻の尾寺に 駒ぞいさめる』に出て来るです
『徳道上人によって創始された西国三十三ヶ所観音霊場を再興した花山法皇が、粉河寺からこの施福寺を訪れていた時、日が暮れ深い山に道に迷ってしまっていると、 馬の嘶きが聞こえそれを頼りに進むと無事寺へたどり着いた』というお話しからきています。



「鰐口」

クリックすると元のサイズで表示します


立派な龍の彫り物と像端

隆盛だった寺も天正五年(1578)早春織田信長の焼き打ちに会い全山消滅します。その後、豊臣秀頼によって再興され、また徳川家の援助を受け江戸時代初期には天台宗に改宗もされました。



境内の階段を上がったところにには「槙尾明神」がお祀りされています

一番高いところに立つ「槙尾明神」祠



こちらは本堂前に立つ「観音堂」・紅梅でしょうか美しい花を咲かせていました

小さなお堂ですが中を見てびっくり・・

何と!!三十三ヶ所の観音様が一堂に会されております

この背の高い観音様はこの施福寺の十一面千手千眼観音様でしょうか

馬頭観音(秘仏)と矢印がありましたので本堂の裏に回ってみました

そこには「不動明王護摩堂」と・・

大師堂

本道の裏です。真ん中に張り紙が見えますが、「馬頭観音」と朱書されています 。
お前立ちですがお姿を拝見する事ができました

 

境内には観音様が5~6体みえます。 右は救世観音さまです



こちらはお地蔵様です

 

経塚跡
施福寺には古来より経塚がきずかれていて、故事にのっとって全国各札所巡礼が終れば最後に当山にお写経を納めるのが習わしのようです。 槙尾寺は納経の寺と云われます。



最後の階段を登りきったところの道標です
「右 ふし井てら 七丁 さかい六里大坂 九里」「左 こかわてら 六里 かうやさん七里」



帰りに階段から見た山門の後姿です。創建当時の隆盛を偲びながら、今回はここまでとします

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西国三十三ヶ所遍路旅<第三回・後編>

2016年08月09日 | 西国三十三ケ所遍路旅

では第3回を2014年2月13日に行ってきました。
と云っても、実は回数としては2回目です
第3回に行くところが前後して2回目になったのです
ですから次回は、第2回になります(バスツアーの都合上です)

京都駅八条口を朝8時に出発し第五番葛井寺⇒第八番長谷寺⇒番外法起院⇒第七番岡寺(龍蓋寺)⇒第六番壷坂寺(南法華寺)の順に向かいます
 
前回の第3回前編に続く後編になります
 
 
 
 
お次は第7番を少し北に行った櫻井市にある「第八番・豊山 長谷寺

長谷寺の「総門」で、三間一戸入母屋造本瓦葺の楼門

現在の建物は明治27年に再建されました

 
「長谷寺」額字は、後陽成天皇の御宸筆

 
立派な龍の彫り物が掛けられていました
 
 
 
両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊十六羅漢像が安置されております

朱鳥元年(686)道明上人が天武天皇のために「銅版法華説節相図」を初瀬山西の岡に安置されのが始りとされています

 
登廊( のぼりろう)」
平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造られました
百八間、399段、上中下の三廊に分かれています
 
 
 
両側に寒牡丹が咲き誇っていました
 
 
下、中廊は明治27年再建で、風雅な長谷型の灯籠が吊るされています
この「繋屋」で折れ下、中廊を繋いでいます

 
神亀四年(727)徳道上人(法起院創建)が聖武天皇の勅願によってご本尊十一面観世音菩薩を東の岡にお祀りになり、西国三十三ヶ所観音霊場を開かれ、長谷寺は根本道場とも呼ばれ、長谷詣で長谷信仰は全国に広がったそうです
平安時代は貴族の間に「初瀬詣」が大いに流行し「蜻蛉日記」「更級日記」の作者らも詣で、「枕草子」「源氏物語」にも長谷寺は描かれています
伊勢参詣が盛んになってくる室町時代には、道筋にある長谷寺へも決まりのように初瀬詣は庶民にも広まりました

 
ご本尊十一面観音菩薩は右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩です。現在のご尊像は、室町時代の天文七年(1538)に大仏師運宗らによって造立され、像高三丈三尺六寸(1018cm)の我が国で最も大きな木造の仏さまでお姿はこちら
雨宝童子立像は本尊に向かって左脇侍で初瀬山を守護する八大童子のひとり、また天照大神としても信仰されており、頭髪を美豆良に結って冠飾を付け、裳を着し袍衣を纏っておられます

 
 
徳川家光光の寄進により慶安三年に入母屋造りの正堂(内陣)と礼堂(外陣)をひとつにした双堂と呼ぶ様式で前面に懸造りの舞台が付く建築となっています

 
鐘楼が登り楼の向こうに見えます



紀貫之故里の梅
「人はいさ心も知らず故里の花ぞ昔の香に匂いける」

 
画像はないですが「蔵王堂」・天正五年の創建で、現建物は慶安三年徳川家光公の命により再建されました

 
 
梅心院」・長谷寺六坊の一つで、慶長の頃、参拝の砌り徳川家康の命により建立されました

 
道明上人御廟塔
「銅版法華説節相図」を初瀬山西の岡に安置され、「徳道上人」と共に創建された方です

 
後生車(ごしょうくるま)・丸い石板を一回転させると経を一回読んだこととなるという、マニ車と同じと云われる説と、輪を回し死者に呼びかけたり、吉凶や天気を占ったり、使者への供養や後生の安泰を祈るとされる説があるようです

 
帰りも同じ「登り廊」を下ってかえりました

 
寒牡丹に藁でこしらえた雪除けが掛けられていました
実はH26年、翌2月14日は大雪が降りこの雪除けは大いに役立ったのではないでしょうか
牡丹献木運動を実施しておられます(一口壱千円より)
 
 
次の法起院への道筋の門前通り。昔からの趣が残っていました

 
こちらは奈良漬屋さん

 
長谷寺参道(旧初瀬街道・伊勢街道)のこの左が「番外・法起院」

番外・法起院」・天平7年(735)に長谷寺を造立された徳道上人により創建されました

 

「長谷寺開山徳道聖人廟塔」碑と道祖神でしょうか?

本堂・開山堂
『養老二年、突然の病のために仮死状態にあった上人、夢の中で閻魔大王にお会いになり、悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるように委嘱され、そして三十三の法印を与えられて仮死状態から開放されました。上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、やむなく法印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。二百七十年後の永延二年(988)に、花山法皇がこの法印をお掘り出しになり、今日の三十三カ所を復興なさいました。』(法起院リーフレットより)



「徳道上人お姿」

  

「観音堂」「聖観音立像」
この院は上人が隠棲されたところで、開山堂に上人自作の像を安置し、松の上から「法起菩薩」と化し去ったといわれ、院の名前もそこからつけられました

「地蔵菩薩」「道祖神」など石仏

こちらに「徳道上人御廟」の十三重の塔

「十三重の塔」

天竺招来仏足石

 

お釈迦様が「寂滅」になると、もう一度お姿を拝みたいと云う願いが高まり、足を拝むと云う当時の信仰の形から「仏足跡」が刻まれたそうです

徳道上人「沓脱の石
松の木から法起菩薩として化し去られたされた沓脱の跡が残ったと伝えられます
この石に触れると願いが叶うと伝えられているそうです

布袋様のようです

お参りも終わりましたので一寸門前をぶらりと見ましょう
煙出しが見え土壁がむき出しになっていますね。小屋根が年月を経て波打っています
この先に「初瀬街道(伊勢街道)」がありお伊勢さんへと続いています


黒漆器に白い虫籠窓、出格子に、犬矢来、白壁の蔵と、いい風情です

クリックすると元のサイズで表示します

中之橋と譽喜天満宮御旅所
なにやら、この天満宮に「天照大神」が降臨されたとも、長谷寺鎮守聖廟とも、記されていますよ

初瀬川
平安時代に大いに流行した「初瀬詣」や和歌にに良く出てくる川です

今日は13日、明日があの有名な「だだおし」行事の日のようです


 

「連歌橋」と「譽喜山天然記念物暖帯林案内板」
「素盞雄神社」と譽喜山にある譽喜天満宮のへの参道に架かる橋

この道を石段を登ってゆくと「譽喜天満宮」
土壁の古き日本の民家の面影を残す原風景です

初瀬川のせせらぎと長閑な里山の風情といったところでしょうか

今回は五番を除き、山の中で石段あり一寸疲れました。次回はどうなるでしょうか?

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西国三十三ヶ所遍路旅<第十二回・後編>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、
今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第12回を2014年12月11日に行ってきました。

今回もバスツアーで、第12回の札所・第三十二番「観音正寺」、第三十三番「華厳寺」の二ヶ寺を巡りました。

と云うところで、前回は観音正寺で人魚にお別れをしてやって来ましたのは

バスで走ること約2時間、こちらはもう岐阜県揖斐郡揖斐川町になります

山裾の広域農道脇には揖斐茶畑が美しく連なります

そして谷汲山参道へとやって来ました。駐車場から華厳寺まで八丁半(約900m)の道標があります

幸わい雨は小ぶりになりやがて上がりました。参道の一軒の民家に初冬の風物詩・熟した吊るし柿が干されていました

こちらの紅葉もまだ赤く色付き晩秋の趣を残していました。あと六丁半

と思っていたら5日ほど前に降った残雪がありました。冬と秋が同居しておりました

参道は訪れる人も少なく余計に寒さが身にしみる、西国三十三番満願霊場
「願い結ぶいのりの里」でした

参道の両側はずらりお店屋さん、仏具、観音様のお軸等が並んでいました

お土産屋さんに挟まれて常夜燈がすっくと立っていました

向こうの山門が見えてくるとお寺です。右手の行灯のようなものはなんと「消火栓」です

 

山門の一番手前のお店「うなぎ屋」さんですが、実は豊然上人と共に華厳寺を開基した大口大領の子孫が「冨岡屋」と号され、県知事命名の「満願そば」が名物のお店です

「第三十三番満願寺・谷汲山 華厳寺」山門(仁王門・楼門)

扁額「谷汲山」

 

久し振りに見ました2mもあるジャンボ草鞋

 

運慶作と伝わる「あ」形、「ん」形の仁王像

放生池と地蔵堂

観音様に見守られながら燈籠が108基並ぶ参道をまっすぐに向かいます

参道真ん中に「三十三度石」

今までにお百度石、お千度石、万度石は見てきましたが、これは始めて見かけます
西国三十三ヶ所巡礼満願が三十三度と云う意味でこちらに面白いサイトがありました
ご照覧あれ

「法輪院」
何やら画が書かれた額が上がっているのですが、謂れがあるようですが解かりませんでした

参道はまだ続くようです

「豊川分霊吒枳尼天(だぎにてん)」この寺を守護する神祇のようです

伝教大師や道元禅師のありがたい教えのようですが、私にはチョット理解できません

こちらには「百度石」がありました

清流が流れております

この石段を登りきるとようやく本堂のようです
「南無十一面観世音菩薩」の幟が迎えてくれます

3段になった最初の踊り場左には「一切経堂」
この中に六角形輪蔵の書架があり、その教典を回転させることにより功徳を得ると云います


そして2段目の右には「三十三所観音堂」
三十三ヶ所の観音様がお祀りされていてここを参拝するだけで三十三カ所を巡ったと同じ功徳がある云われます

左には  「左 観音菩薩  右 勢至菩薩像」
観音は慈悲を、勢至は智慧を現わすとされています

3段目の更に上に、この最後の石段を登ると「本堂」です
『寺の草創は桓武天皇(737―806)の延暦十七年(798)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。奥州会津の出身の大領はつねづねより十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っており、奥州の文殊堂に参篭して一心に有縁の霊木が得られるようにと誓願を立て、七日間の苦行の末、満願(七日目)の明け方に十四,五の童子(文殊大士と呼ばれる)の御告げにより霊木を手に入れる事が出来ました。霊木を手に入れた大領は都に上り、やっとの思いで尊像を完成させました』

本堂縁の下に施された木端の彫刻

『そして京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤蔓を切って御杖にして、御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出しました。途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は立ち止まり』

『「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出しました。 そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時、観音像は歩みを止め、突然重くなって一歩も動かなくなったので、大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、この山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊然上人という聖(ひじり)が住んでいたので、大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました』

ご本尊は十一面観世音菩薩(秘仏で写真もありません)、脇侍に不動明王像と毘沙門天像が安置されています(非公開)

『すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます』

『この話を聞こし召された醍醐天皇(885―930)は谷から湧き出る油を灯明に用いた事にちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされています』

この左に書かれているとおり地下に「戒壇巡り」があります

『また西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三箇所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました』

その三首の御詠歌は本堂と、満願堂と、笈摺堂をそれぞれ詠まれたもので、過去、現在、未来を現わすとされています
(現在) 世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも消えぬなりけり(本堂)

本堂西横の観音様

『文明十一年(1479)の再興までは二度の兵燹に遭い、一時期は衰退を迎えるも、人皇百五代・後土御門天皇(1442―1500)の御宇、文明十一年薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀(どうはじっこく)上人が或る夜夢に当山の観世音菩薩が現れ、「汝は有縁の僧なれば早く来て諸堂を旧観に復せよ」との御聖勅によって海山を越えて遥々尋ね来て、本堂及び諸堂を再興して尊像の御心を安め奉ったのです』(以上説明文は華厳寺HPより引用させて頂きました)

「谷汲山根源由来記」HPより引用した由来が書かれておりました

本堂から満願堂へは「子安観音堂」の前の渡り廊下を通ってゆきます

本尊は子安観音さまで、安産・子宝祈願、赤ちゃんの身体健康を願いお参りされます

さて最後、この三十三段上った石段の先に「満願堂」は建っています

西国三十三ヶ所の最終地はこの「満願堂」でした

 

お堂の周りには「満願」の文字の刻まれた燈籠や、何故か狸の石造が並んでいました
たぬき(他を抜く)と縁起担ぎなのでしょうね

(過去) 万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲(満願堂)

 

ご本尊は十一面観世音菩薩で、納め札は本堂ではなくこのお堂に納めます

そしていよいよ最後、巡礼に使った用品(笈摺、杖、笠など)をこの「笈摺堂」に納めて長かった巡礼の旅は満願となります

沢山の巡礼用品で一杯です

(未来) 今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲(笈摺堂)

花山法皇も笈摺、杖、及び三首の御詠歌を奉納されたのですね。また多数の千羽鶴が奉納されており、千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納されるようです

最後に本堂前の柱にあった物が気になり、戻る途中の本道裏に、丁度観音様の後に仏を守る眷族「四天王像」が祀られていました

その後ろ側には、花山法皇の御詠歌に由来する「苔ノ水地蔵尊」がありました
自分の病や痛いところがあれば、願いを込めて、お札をお地蔵様の同じ箇所に貼り付ければ平癒するそうです。因みに私も腰に貼りお願いしました

戻る途中にあった「持経観音」様です
持経とは、仏の教えを聞いて修行することを象徴していると云われ、勉学・学業の知恵を授かる願い事や合格祈願等にご利益があると云われているそうです

 

こちらが本堂の柱にあるものが、打ちつけられております「精進落としの鯉」と呼ばれるものです
満願した記念に手で触れると精進落としができるとされております。先に本堂をお参りしましたが、手を触れるのは最後の最後になります。私も触れましょう

それでは帰途に着きます前に境内を巡って戻りましょう

本堂横には美しい袴姿の「鐘楼堂」

本堂横背後は階段の上に「不動堂」

天台宗元三大師(慈恵大師良源)堂

右は「内仏客殿」、左は庫裏

ゆったりと、しっとりと驟雨に煙る境内でした

「明王院」内にある「水琴窟」で、「水琴弁財天」がお立ちでした
キンキンと音を奏でる水音を聞かせてもらってきました

 

また天井は奉納画で一杯でした

晩秋と言っていいのか、初冬と云っていいのか紅葉がまだ残っておりました
まだまだ朱に染まっていますよ

そして山門を抜ければお別れです
そして西国三十三ヶ所巡礼札所巡りもお仕舞いです

1年間お付き合い戴きお疲れ様でした
有難う御座いました

今回、第12回で満願となります。僅か1年間であっという間でした
無事終えられ今回はここまでとします
でもまだ「善光寺」さんお礼参りが残っています
あと1回お付き合い下さい

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