城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

城陽文化財巡り・P8<<森山遺跡>>

2014年10月22日 | 京都・城陽文化財巡り

シリーズとしてUPして行きたいと思っております

郷土の歴史、史跡、建造物、古き物などは多く存在します

それらを紹介するとともに、自分の知識として、

又、記録として残してゆきたいと思っております。


大きな地図で見る

これが市より紹介されている城陽市の文化財案内図です

平成4年現在ですので変更があるかもしれません

これによると33ヶ所の文化財が存在します。まるで西国霊場の数と一緒です

では巡礼といきますか!?

これだけ回るのに時間は掛かりそうですが、スローライフの事とて急ぐ事はありません。

因みにこれは平成4年現在ですが、現在は55件(平成25年)となっています

まーゆっくりと楽しみましょう

 

P8ページ(8)は東部丘陵に存在する 「森山遺跡」(国の史跡)

紹介します

上の『25』番になります

 

森山遺跡

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城陽文化財巡り・P7<<芝ヶ原古墳>>

2014年03月16日 | 京都・城陽文化財巡り

シリーズとしてUPして行きたいと思っております

郷土の歴史、史跡、建造物、古き物などは多く存在します

それらを紹介するとともに、自分の知識として、

又、記録として残してゆきたいと思っております。


大きな地図で見る

これが市より紹介されている城陽市の文化財案内図です

平成4年現在ですので変更があるかもしれません

これによると33ヶ所の文化財が存在します。まるで西国霊場の数と一緒です

では巡礼といきますか!?

これだけ回るのに時間は掛かりそうですが、スローライフの事とて急ぐ事はありません。

因みにこれは平成4年現在ですが、現在は55件(平成25年)となっています

まーゆっくりと楽しみましょう

 

P7ページ(7)は東部丘陵一帯に点在する 「芝が原古墳」(国の史跡)

及び「芝ヶ原古墳出土品」国指定文化財)

及び「芝ヶ原11号古墳出土品」(城陽市文化財)

及び「芝が原13号墳」(現在は特に特定されていないようです)

紹介しましょう。

上記『9』番及び『8』番等です

 

芝ヶ原古墳にある『案内板』です。敢えて逆さまにしていますが、上が北です

左より近鉄電車、旧24号線、旧奈良街道、JR奈良線(少しカーブしています)が走り、東部丘陵地帯一帯に古墳が散らばって居ります

その真ん中の赤い印が『芝ヶ原12号古墳』で公園として整備されております

 大谷川が東より流れてきて平野部に扇状地が広がっております。その扇状地に古墳が多く造られました

赤丸が12号古墳でその左に1号から11号古墳が、右に13号方墳が見えます

大谷川の北には前方後円墳が2基、円墳が1基見えます

大きいのが『久津川車塚古墳』で小さいのが『芭蕉塚古墳』です。円墳はその名の通り『丸塚古墳』です

 

12号古墳は前方後方形(ぜんぽうこうほうけい)の古墳で、後方部は東西19m×南北21m、前方部は前端部が開いた比較的短い形をしていたと推定されます。後方部の中心には組合式木棺(くみあわせしきもっかん)が納められており、銅釧(どうくしろ)や銅鏡(どうきょう)、玉類などが出土しています。築造時期は、墳丘の形態や出土した土器から3世紀前半と考えられています。

右下は前に紹介した「正道官衙遺跡(しょうどうかんがいせき) 」です(城陽市歴史民族資料館展示模型より)

くどいようですが、古墳は1号から13号までありその総称を『芝ヶ原古墳群』として国の指定史跡となっております

左JR奈良線側より1~13号墳、正道廃寺跡(正道官衙遺跡)、尼塚古墳と並んでおります

現在の久世小学校となっている辺りに1~11号が集中しております

 

「コ」の字形の校舎に囲まれた「9号古墳」

校舎の南、体育館の裏に当たるところに5号、6号、7号古墳があります。写真は左、6号、右、5号と思われます

ここに1号から13号のグループ分けの説明がなされており、13号墳は円墳で一番高いところに離れてあります

 

本来は円墳で丸いのですがかなり削られているようです。(北面と西面)

 

南面道路より高いと云うことは相当削られているみたいですね

こちらは東面で、こちらも削られていますね

それでは整備されている12号古墳を見てゆきましょう。右が全体図になり、北が上です。薄き緑色が平地部で一番手前(整備工事中の張り紙)が最上部で南側になります。公園となっているので黄緑の線は遊歩道です

北側平地部の西端より南、高台部を見ています

平地中央部より南、高台部を見ています

遊歩道、中程の最東端より南西部を見ています

そして遊歩道上部、古墳最上部あたりより、、西より(右)、南を(左)、見ております

こちらが後方部となります

現在地となっている部分が右手の面です(北面)

盛り上がった部分は後方部となり埋葬施設があります

この古墳は『前方後方墳』でした

左(南)が前方部で、現在は西側の道になっています。

こちらは古墳最上部の南側になります。手前が前方部になりますが、失われてなくなっています。

この道は現在は西側の道となっております

現在地と記されているのが前方部になります。この方形に盛り上がった左の低い部分に当たります

上の写真の半島状遺構、溝となっている面がこの写真です。前方部は南に位置し、こちらは今は東側でした

こちらは側面で東側になります

北側の全体の俯瞰になります

古墳といえば埋葬品が気になりますが、一体どんな物が出土したのでしょうか?

長さ3m、幅70cmの組合式木管が埋葬され、壷や高杯等が置かれていました。副葬品には銅釧(どうくしろ)、四獣形鏡(しじゅうけいきょう)、勾玉、管玉、ガラス製小玉が被葬者の頭部周辺に置かれ、また、鉄製の釶(やりがんな)、錐(きり)が出土しました

銅釧は全国でも例のない形状の貝輪を模した青銅製の腕輪で貴重なものだそうです

 

 

 

このように出土したのですね

最初にも出てきましたが、ここ城陽には古墳が多く見られます。

この芝ヶ原古墳の上部からは平地が一望出来、「久津川車塚古墳」「芭蕉塚古墳」などが見ることが出来ます

古墳の側をJRが通り、旧奈良街道がそれを挟んでいます。平川廃寺や芭蕉塚古墳も見えています

 

住宅地の開発に保存の後れを取った古墳ですが、今はそれなりに住宅地に憩いと文化の香りをとどめ、歴史を感じさせてくれています。

住民に愛されるように整備され、これからも長く保存されていく事を願いましょう

では失礼して今回はここまで。

上の黄色の柵はどうやらこの模型の工事だったようです。4月3日更新

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城陽文化財巡り・P6<<平井神社>>

2013年10月11日 | 京都・城陽文化財巡り

シリーズとしてUPして行きたいと思っております

郷土の歴史、史跡、建造物、古き物などは多く存在します

それらを紹介するとともに、自分の知識として、

又、記録として残してゆきたいと思っております。


大きな地図で見る

これが市より紹介されている城陽市の文化財案内図です

平成4年現在ですので変更があるかもしれません

これによると33ヶ所の文化財が存在します。まるで西国霊場の数と一緒です

では巡礼といきますか!?

これだけ回るのに時間は掛かりそうですが、スローライフの事とて急ぐ事はありません。

因みにこれは平成4年現在ですが、現在は55件(平成25年)となっています

まーゆっくりと楽しみましょう

 

P6ページ(6)は平川に鎮座する

 「平井神社」「本殿」「若宮八幡社」「鳥居」府登録文化財

 を

紹介しましょう。

上記『3』番です

 

近鉄電車・久津川駅にしに隣接し人通りの多いところに立地します

この左の木は「ケヤキ」で城陽市の名木・古木」に選ばれています 

創建年代は分かりませんが、江戸時代中期の享保十八年(1733)蓮開寺の配下としてには存在していたとのことです。

当時は「神仏習合」と云い神と仏が一緒にお祀りされていました

   

この江戸時代の「明神鳥居」は、1685年(貞享二年)の再興で、右側の柱には「牛頭天王鳥居奉再興山城久世郡平川郷」と、左側の柱には「貞享二乙丑年(1685)九月吉祥日」の造立銘が刻まれていて、江戸時代には疫病に霊験あらたかな牛頭天王社であったことを示す重要な遺品だということで、府登録文化財となっています。

  

 鳥居の脇の「常夜燈」・普通はこの神社のものであれば、ご神前燈となるはずですが、何故か「愛宕」常夜燈となっています。

    

「蓮開寺」・神社の中にお寺があります。江戸時代は神仏習合と云うことでこんな事があったのでしょう。

この寺の創建は明らかではありませんが、享保十八年には存在していたようです。氏神社に付属していた宮寺と呼ばれ平川村の「祈願所」でもありました

江戸時代は神仏習合により、神社に宮寺が併置されていましたが、明治になくなりましたが、ここでは今も宮寺として現存している数少ない例です。毎年2月15日には無病息災と豊作祈願のための「大般若経転読法要」が営まれています。

御神体は薬師如来像一基と仏像二基。大般若経六百巻が納められています

 

面白いのは神社の中に御旅所がありました。同じ境内の内だったら御旅所など要らないはずなのに不思議でした。 

「割拝殿」と奥に見える「本殿」

江戸時代には平川村の産土神で牛頭天王社と呼ばれていたが、以前は古宮(平川廃寺跡)に座したが、火災で焼失後現在地に移転したといわれる

    

「割拝殿」には明日10月12日の「お出で」で準備の出来た神輿が飾られていました。

「本殿」は、1645年(正保二年)建立の一間社流造、鉄板葺きの建物です。

 

明治に造られた狛犬

 

2枚の由緒案内(どの画像もそうですが、クリックしますと拡大したオリジナルの写真が見られます) 

    

拝殿前の燈籠には「天保三年」の銘・「ガン封じの守り神」・「がん封じの神木」

元の神社の名前を取った「牛頭庭園」

  

摂社・「大国主神社」      摂社・「天満宮社」

 「若宮神社」本宮も府登録文化財です

  • 「若宮神社」は江戸時代初期の建立で、一間社流造、正面の柱に桃山時代風の彫刻がされております
  • ご祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)がお祀りされています

  

石垣基壇の上に建ち、屋根は銅板葺です。

 

建築年代は不詳ながら、細部の装飾に本殿との共通性が見られ、本殿と共に屋根の葺き替えが行われた記録が残り、本殿と同時期の建立と考えられています。

拝所の正面

  • 本殿は府登録文化財。正面の柱に桃山時代風の彫刻 が施されています。

 

ご祭神は神速須佐之雄命、八十猛命、奇稲田比命の三体です

 

  

「蟇股」上の実肘木などは慶長年間豊臣氏の造営に用いられた形を用いるなど、桃山時代の様式を伝える建物です

  

海老虹梁で身舎(もや)と向拝をつなぎ、中央に蟇股(かえるまた)が置かれています。これらの細部の装飾は桃山時代の意匠をよく伝えています

  

木鼻は白く塗った象鼻を彫刻し、建物全体に朱を施し彩色されております。

  

裳輿」の彩色が鮮やかで桃山時代の特色を表しています

  

本殿の回りはぐるりと塀が取り囲んでいます

 本殿の裏です

本来は神様や仏様の裏もお参りしたようです。では失礼して今回はここまで。

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城陽文化財巡り・P5<<荒見神社>>

2013年09月11日 | 京都・城陽文化財巡り

シリーズとしてUPして行きたいと思っております

郷土の歴史、史跡、建造物、古き物などは多く存在します

それらを紹介するとともに、自分の知識として、

又、記録として残してゆきたいと思っております。


大きな地図で見る

これが市より紹介されている城陽市の文化財案内図です

平成4年現在ですので変更があるかもしれません

これによると33ヶ所の文化財が存在します。まるで西国霊場の数と一緒です

では巡礼といきますか!?

これだけ回るのに時間は掛かりそうですが、スローライフの事とて急ぐ事はありません。

因みにこれは平成4年現在ですが、現在は55件(平成25年)となっています

まーゆっくりと楽しみましょう

 

P5ページ(5)は富野荒見田に鎮座する

 「荒見神社」「本殿」重要文化財&

「御霊社」府登録文化財&

「神門」「透垣」「中門城陽市文化財

 を

紹介しましょう。

上記『23』番+αです

 

 

「荒見神社」正面南向きに建っております

 旧富野村の産土神で、社伝によれば、大化三年長池の東方山中の元五社ヶ谷にありましたが、室町時代に現在地に遷宮したといわれます

明治21年1月9日に荒見神社と改称するまでは、阿良美五社大明神とか安羅見五社天神宮と称しされていました

古くより宮座があり、西冨野宮座は珍しく今も現存しております。

 

薬医門 ・「神門」城陽市文化財

屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくるため、前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になっているそうです。

薬医門は神仏習合の特徴と云われます

五七の桐の神紋 、菊花紋神紋

頑丈そうな門です。乳鋲も見えます

薬医門の内側

  

棟瓦には鯱   軒瓦には獅子

境内の拝殿、拝所、本殿

荒見(荒海)とは荒水の転訛によるものとみられ、木津川などの水禍を避けるために水神を祀ったといわれます。
 荒見神社には豪族・水主(みぬし)氏(前回の水主神社)が関わったとも云われます。

見つかった棟札によると江戸時代(1604年)、現在の本殿が建立されました。

拝殿正面

「中門」城陽市文化財

こちらにも五七の桐の神紋、菊花紋神紋額が掲げられております

中門全体・透垣に囲まれここより本殿に入ります

側面・股、木鼻、梁、降懸魚棟瓦が見えています

 

 左)木の端は「木鼻」と呼ばれ、こちらの物は雲の形をしています  右)桁を隠すものを降懸魚(くだりげぎょ)と呼ばれ、こちらの物は若葉です

「本殿」重要文化財(元国宝

ご祭神は天火明尊、天香語山尊、天村雲尊、阿比良依姫尊、木花開耶姫尊の五体です

  

本殿正面左右

   

上の重さを支えるための物を蟇股と云い、こちらの彫物は唐獅子と左右は16菊花紋です

『山城国風土記』には荒海の社祇社、御名は大歳の神とあり、穀神(豊穣の神)だったようです。

 

「三間社流造」社殿は間口三間・奥行二間半・屋根は檜皮葺です

 

桃山時代の三間社流造で冨野の有力大工が手掛けたと伝わっています。

 

 棟に瓦、棟飾りの獅子口が二つ据えられ、木鼻は若葉が飾られています

 

柱の間に渡した部分を梁と云い、こちらの物は海老虹梁(えびごうりょう)となっています

本殿裏面

 

 

「透垣」城陽市文化財

 

背面側

 

内側にはがっしりと石柱で支えられています

 

「御霊社」府登録文化財  ご神体は天児屋根命

 

組物、 木鼻は近世のもので本殿と共通しています

 

蟇股は本殿のものより古い室町後期頃の特徴を持っています

 

一間社流造、棟は瓦で総檜皮葺

石橋と掘割

境内全域が森(神社の森-文化環境保全地区)に覆われ、周囲は堀割で囲まれています

 

 

門前の燈籠・天保15年    手水舎、水盤

 

1985年には、神道日垣の庭、菊水の神座、天津新水の真名井が完成しています。

 

「菊水は長命の泉にして、此の水は荒見の神がその身に召します水の衣なり。この水を汲む者真心こめ合掌禮拝すれば身健かに人生豊かとなるべし」

  

門前の常夜燈・天保15年・・     春日社明神御宝前      側面・延宝六年城州久世郡  

   

山城久世郡富野村           側面・享保四年・・            右は中門下の石段の矩面・寛延二年・・

 

「城州名跡誌」に1711年、「天満宮」とされていたようで瓦に梅小鉢紋です。又、巴紋も見えます

左は透垣の屋根の棟瓦・四方に亀が載っていました

 

「式内荒見神社」の自然石碑。『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「久世郡 二十四座 大十一座 小十三座」の「荒見神社」に比定、只、近代になり、久御山町の同社号の荒見神社が式内社として治定されているようです

 毎年干支が変わる絵馬 今年は「巳」でした

皆さんが健康でありますように・・

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城陽文化財巡り・P4<<阿弥陀寺>>

2013年08月26日 | 京都・城陽文化財巡り

シリーズとしてUPして行きたいと思っております

郷土の歴史、史跡、建造物、古き物などは多く存在します

それらを紹介するとともに、自分の知識として、

又、記録として残してゆきたいと思っております。


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これが市より紹介されている城陽市の文化財案内図です

平成4年現在ですので変更があるかもしれません

これによると33ヶ所の文化財が存在します。まるで西国霊場の数と一緒です

では巡礼といきますか!?

これだけ回るのに時間は掛かりそうですが、スローライフの事とて急ぐ事はありません。

まーゆっくりと楽しみましょう

 

P4ページ(4)は枇杷庄枇杷庄に鎮座する

 枇杷庄地区の「阿弥陀寺・木造薬師如来立像

国重要文化財&

木造阿弥陀如来坐像」

 城陽市文化財

紹介しましょう。

上記『21』番+αです

 

前回の枇杷庄天満宮のすぐそば、西に存在します「阿弥陀寺」

浄土宗阿弥陀寺

もとは地蔵院といい、専順和尚が創建した真言宗の寺。その後、江戸時代の寛永4年(1627)に浄土宗に改め、明治12年、付近にあった3寺と合併して現在の阿弥陀寺となった。(京都府観光連盟HPより)

薬師如来はこの収蔵庫にお祀りされています

収蔵庫と燈籠

地蔵尊前手水鉢

吐龍と供養塔

手水鉢ですが何のためかでこぼこが・・・

地蔵堂

しなやかな線で彫られたお地蔵様

国及び市指定の文化財説明版。詳しくは案内書をご覧ください

本尊「阿弥陀如来坐像」鎌倉時代の作・城陽市指定文化財

檜の寄木造り。来迎印を結び、結跏趺坐しているお姿。大粒の螺髪を掘出し、頬と上半身に豊かな肉付を施すのに対し、彫眼の面相は優しく、衣文線は起伏が浅く穏やかである。湛慶の作風に近く鎌倉時代前期の特徴を持った仏像です。

「薬師如来立像」奈良時代~平安時代前期作

元は枇杷庄天満宮社の神宮寺薬師院の本尊として祀られていましが、明治の神仏分離に際し薬師院は廃寺となり、のちに阿弥陀寺に遷されました。現在、収蔵庫に安置されています。

奈良時代から平安時代前期の翻波式衣紋も美しい佳作で、ヒノキを用い、台座の蓮肉まで彫り出した一木造である。国重要文化財に指定されている。(京都府観光連盟HPより) 

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