城陽人のフォトアルバム

季節の移ろい、日々の情景、目に映る景色、町並みの風情や、カメラに映った画をそのままに貼り付けてゆきたいと思っております。

西国三十三ヶ所遍路旅<第八回>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第8回を2014年9月19日に行ってきました。

今回は前回予告通り、第8回の札所・三ヶ寺を巡りました。


今回打ち始めは兵庫県宝塚市安産祈願のお寺として有名な
第二十四番札所紫雲山中山寺


この山門は家光により再建されています
 
 

  

豪壮な楼門の裏には獅子が一対。元々弁柄漆で仕上げられていたのを現代の漆職人の手により美しく復元されております


ウコン色の壁に石畳の参道を進みます

参道の両側には院が有り寶蔵院には「弁財天」「大日如来」「延命地蔵尊」がお祀りされています


華蔵院には「毘沙門天」「阿弥陀如来」「水子地蔵尊」がお祀りされています


成就院には「大聖歓喜天」「虚空蔵菩薩」「布袋尊」がお祀りされいます


観音院には「普賢菩薩」がそれぞれお祀りされています


石畳の突当りは階段になっておりましたが、案内に右にエレベータとエスカレーターとあり、足の悪い方でも楽にお参りできるようです
 

階段を上がった所に袴を履いた鐘楼堂が建っています


右手にはお堂の横になにやら文明の利器が見えます


こちらにも階段を登らず側そばにエスカレーターが設置されています


そしてそこはもう本堂です
仲哀天皇の妃・大仲姫の夢のお告げにより、聖徳太子は紫雲の立つ大柴谷の3つ峰の真ん中の峯に中山寺と名付けお寺を立てたと伝えられます

 
腰をひねった本尊「十一面観音像」はシュリーマーラー(勝鬘夫人)の等身大像と伝えられ、太子が女人救済のため建立されたとも伝えられます


また、わが国最初に観世音菩薩を本尊とした寺ともされます
本尊十一面、両脇持も十一面で合わせて三十三観音と云われます

 

天平勝宝二年に栄えていた堂宇は落雷により焼け、その後の兵火にも遭い、荒木村重の乱後の慶長年間に秀頼によって多くの堂宇が再建されました

 

江戸初期、卜部左近と云う人が西国三十三ヶ所の観音様が中山寺に集まるのを感得し、星が舞い降りてくるように見えたことにちなんで8月9日の星祭が行われるようになったようです


堂の裏側に掛かる「三十三ヶ所の観音様の額」
星祭の日にお参りすると4万6千日参篭したと同じ功徳が戴けると云います


世継ぎが生れなかった淀君に、秀吉が祈願すると秀頼公が授かりました。それ以来安産祈願の寺として名声が広がりました

 
これ等の彩色装飾は阪神淡路大震災で受けた被害を平成19年の「大願搭」落慶にあわせて修復され、慶長の再建時のようなあでやかさをとり戻しました
 

ぐるりと境内を巡りその様子やお参りをして行きましょう
元の多宝塔が「大願搭」として400年ぶりに再建されました


唐破風屋根の宝蔵


宝珠を戴いた「子授け地蔵」


寺の北の奥に建つ「弘法大師堂」
慶長時代に「大師堂」「阿弥陀堂」「開山堂」などが秀頼によって、また、「山門」は家光によって再建されています
 

多宝塔(大願搭)は鎮守社を前にして建っています
 

中山寺を守る鎮守社です


秀頼再興の「阿弥陀堂」・彩色は平成19年のものです


大黒堂裏に建つ10体の「亥の子地蔵尊」
毎年旧暦10月亥の日に「亥の子まいり」が行われます

 
「寶憧菩薩」
箒にて地蔵尊を掃き清めて後に、自身を加持すれば頭痛・肩こり・腰痛・痛風・リュウマチ等に功徳があると言われています


何のお堂か不明・六角の裳輿や蛙股、彫刻もあり江戸末期あたりの再建か?


お堂の全景は写っていませんが、「大黒堂」です。大黒さまを本尊として脇持が千手観音となっています
何故観音さんが脇持に?


「寿老人堂」・単独でお堂があるのは、大黒堂と共に珍しいですね

 

失礼してお姿を撮らさせていただきました
左)勢至菩薩  右)寿老人

 
今までに見たことがなかった「五百羅漢堂」・羅漢さんは普通境内で見かけますが、こちらはお堂の中です


中央に釈迦如来、脇持・左)阿難 右)大迦葉


天井には中心に「大日如来」ほかに「阿弥陀如来」「虚空蔵菩薩」「不動明王」等の仏を表す梵字が書かれています


ずらり800体並んだ壮観な五百羅漢さん達


大黒堂脇に「石の唐櫃」と呼ばれる石棺がありました
中山寺古墳と呼ばれ6世紀後半の横穴式古墳です


大仲姫の墓との伝承もあり、また、西国三十三ヶ所巡礼では長谷寺の徳道上人が閻魔大王から授かった宝印を納めた所だというのが一般に伝わっています。其れを掘り起こし三十三ヶ所巡礼を再興されたのが花山院法皇でした


こちらは「安産の手洗い鉢」と伝わっています
どんな難産の人も観音様に願いを込めて、この手水鉢で身を清めめれば安産疑い無しとの伝承が生まれ「安産の手洗い鉢」と呼ばれるようになりました



舟形石棺で古墳時代のものです
仲哀天皇のの妃の大仲姫は2人の王子がおり、、香坂皇子は「狩り占い」で不慮の死を、忍熊皇子はの妃・神功皇后との戦に破れ、身を湖中に投じられました。この石棺(舟形石棺)は忍熊王のものと伝えられています

先に境内の参道両脇の院に祀られている仏さんたちについて書きましたが、改めて帰りに立ち寄ってみました

 
 
中央に「大日如来」右が「弁財天」様か?お地蔵様もいらっしゃいました
 
 
子供をさらって食べていたと云う「鬼子母神」、智慧の文殊で知られる「文殊菩薩」、京都醍醐寺・五大力さんで有名な「五大力不動明王」、七福神」の「福禄寿」、生を受けなかった子供を供養する「水子地蔵」など現世利益を願う仏様たちが並んでいます


迷いを除き強い心生き抜く力を与えてくださる観音の化身と言われる「不動明王」


聖徳太子に始まり、現代の震災をも乗り越え安産祈願など人々の願いで脈々と続いてきた歴史のあるお寺だったとの思いで、山門まで戻ってきました



山門の前には「花山院道」への道標が、次への巡礼の道が五里半と教えてくれていました

その札所は、八葉の蓮の花の形をした山々にある菩提山と云う標高418mの阿弥陀ヶ峰に花山院はありこれから登ります
 
 
向こうに見えているのは有馬富士です


参道登り口から花山院菩提寺へは八丁(約900m)のコンクリート舗装の急な山道を歩きます
2丁と記された丁石がありました。これからまだ八丁までこの坂道が続きます。

 
途中にはお地蔵様もお祀りされてます


途中にあった「天満(八幡)神社」です

 
お地蔵様と三丁標石


琴弾坂」碑
花山院菩提寺に隠棲した花山法皇を慕い、京の都からきた女官たちが女人禁制のために、ここで琴を弾き慰めたと伝えられています。
登り口の反対側を200mほどの所に、弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の墓と伝わる五輪塔があります。


中間地点の4丁標石と地蔵菩薩石像


5,6丁石はあったのか見逃したのか7丁標石です。必ずお地蔵様と一緒です。こんな坂がずっと続いていました。あと一丁、この角を曲がればすぐです


山門が見え八丁標石、地蔵石像もありました。やれやれ!


東光山花山院菩提寺」山門到着です

 
 
朱が残る仁王像


山門を潜ると手水洗所、右手を上がると本堂境内に出ます


最後の登りです。お地蔵様に見守られ頑張りましょう


境内は平坦で、手前に「花山法皇殿」が建っています
 
 
開祖がお祀りされた薬師瑠璃光如来を祀る「薬師堂」
この山に白雉二年(651)この播磨、丹波、摂津あたりを紫雲に乗って飛来したインドの僧法道仙人が薬師瑠璃光如来を本尊と仰ぎ修行の場として開山されたのが始まりと云われます


本尊薬師瑠璃光如来と日光月光両脇持と十二神蒋がお祀りされております

 
こちらが花山院が帰依された、西国札所十一面観音様のいらっしゃる「花山法皇殿」
開山後、西国三十三ヶ所観音霊場巡礼を再興された花山法皇が巡礼の途中、ここまでこられた時、東の彼方に八葉の蓮の花の形をした山々を見られたここが、法道仙人が開かれた菩提山だったのです。



巡礼を終えられた法皇は有馬富士を眺望できる美しいこの土地を終の棲家とされました
法皇に感じ入った国守、源頼光が堂塔伽藍を寄進され、法皇崩御後、菩提を弔うために「花山院菩提寺」と号するようになりました


法皇殿の向かいに「花山法皇御廟」があります


京都元慶寺で出家の身に陥れられ、法起院徳道上人の西国霊場再開の遺志を継ぎ、中山寺で閻魔大王より預かった宝印を掘り出し、西国三十三ヶ所巡礼を再興され、この菩提寺で終の棲家と隠せいされ、終焉の地となりました



誰もが思われることと思いますが、質素な御廟で、これが「法皇」と名の付く方の御廟かと嘆かわれることでしょう



晩秋の朝霧が覆う景色を「有馬富士 ふもとの霧は海に似て 波かときけば小野の松風」と法皇の詠まれた歌です


弁財天を祀る
 

薬師堂の横に七体のお地蔵様がいらっしゃいます

 

「幸せの七地蔵」と云われ『家庭の幸せはお地蔵様が差し出す救いの手をしっかりと握り、自分の役割を全うできるようお力を頂戴して下さい』と教えております


子供地蔵の手をしっかりと握り、母親の役目が果たせるようお力を頂いておられました


本堂(法皇殿)左横は花山院の終の棲家・草庵跡だそうです


井戸がぽつんとひとつ残され、400mの山頂にも拘らず今も水を湛えていました



庵の跡には小さな祠と修行大師像が建っていました


その脇には寺の鎮守で、大日如来、文殊菩薩、不動明王の合体神で三面六臂の坐像を安置する「荒神堂」です


中門を潜ったところにある鐘楼は近年に再建されたもののようです

 
「大師堂」です
他の建物も江戸時代に焼失し再建されたものです

 
 
大師堂の像の木端と蛙股です


方丈の唐風屋根の瓦と装飾


お堂に祀られるのが一般的ですが、石に彫られずらり並んだ「十三仏」
十三仏は、十王をもとに日本で考えられた、閻魔大王を初めとする冥途の裁判を本地とされる十三仏です。
また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られます


季節は初秋、そろそろ紅葉が色づき始めていました

 
有馬富士や千丈湖を望みながら下山して次に向かいましょう
 
 

やってきた所は東条湖近く、加東市552mの御嶽山山頂に建つ山門
第二十五番御嶽山清水寺

 

元々は大講堂の下、徒歩参道にありましたが、昭和40年の台風で全壊し、昭和55年にこの地に再建されました
金剛力士像像も修復され朱が塗り替えられています


御嶽山と云う山頂にあり山号が「御嶽山」とされたようです


「大講堂」側面
こちらも先の花山院の開祖と同じく法道仙人でした。ちなみに次の26番一条寺も法道仙人です
自在に空中飛行出来チベット、中国、朝鮮を経て日本へ、播州御岳山に降り、景行天皇の御世、鎮護国家豊作を祈願し開祖されたようです


推古天皇の勅願によりこの「根本中堂」が建てられ、仙人が一刀三礼の自刻の十一面観音を刻み毘沙門天、吉祥天女像を脇持として安置されました


こちらは天台宗ですので、比叡山と同じく根本中堂が建てられています


更に神亀二年(725)聖武天皇勅命で行基が大講堂を建立、自刻の本尊千手観音菩薩像や諸尊像をお祀りされたと云われます
内陣には毘沙門天と地蔵菩薩が脇侍として安置され、外陣からも拝観できます

その後、後白河院が常行三昧堂、祗園女御が大塔(多宝塔)清盛の継母・池禅尼が薬師堂、頼朝が阿弥陀堂を寄進し隆盛を迎えますが、南北朝時代には戦場と化したり、その後の兵火、山火事と言った危機にあいまいしたが、その都度再興されました。現在の伽藍は大正時代の再建です


開祖法道仙人の法力は凄く、祈願されると湧き出たと云う「おかげ井戸・滾浄水(こんじょうすい」があります


清水寺の名前の由来でもあります。水面に顔が映ると3年長生きできると云われます


延暦年間には坂上田村麻呂が本尊千手観音に帰依し蝦夷征伐や鈴鹿鬼退治に勝利したのは本尊の霊験と感謝し偑刀「騒速(そはや)」を奉納されました


池禅尼が寄進された「薬師堂」です
東京芸大薮内教授作の動物の頭のユニークな十二神将が安置されています


再建が待たれるのは、昭和48年に落雷で倒壊した大塔(多宝塔)ですが、ここはその跡です



礎石がそのまま残っています。早い再建が待たれます
現在本堂に祀られている五智如来がご本尊です


保元二年(1157)に祗園女御が建立され、大正時代焼失し、大正6~9年に再建された鐘楼です


大講堂横の弁天池に建つ「弁財天社」です

色々ありましたが現在の建物は観音信仰を初めとして様々な方の力よって再建されたのですね

中山寺が里に近いでしたが、奥深い山頂にある札所でした。次回はどんな所でしょう

西国三十三ヶ所遍路旅<第七回・前半>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第7回を2014年9月10日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第8回になります。
と云うのは以前に第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
今回は前回予告通り、第7回目の札所を巡りました。今回もマイカーになりました
 
 
 京都市西京区にある第二十番札所「西山善峯寺」です。在原業平ゆかりの十輪寺の南西に位置する源算上人開祖のお寺です。一名「花の寺」とも云われています
 
 
元禄五年再建の楼門です。文殊菩薩が安置されています


圧倒するばかりの裳輿に蛙股です


振り返って見ても壮大さを感じます
寺を建立する際、山が険しく困っていたところ、猪の大群が一夜にして岩場を平地に変えたと云う伝説が残っています

 

金剛力士像は源頼朝が寄進したと云われます


入母屋造り本瓦葺の大屋根が見事な「本堂」
恵心僧都源信の高弟であった源算が長元二年(1029)に自刻の十一面観世音菩薩像を本尊として小堂を結び、長久七年(1034)後一条天皇勅願所となり善峯寺の号を授かり、弘法大師作の十一面観世音菩薩像が鷲尾寺から移され本尊となり先の観音は脇立となり、以後朝廷の尊崇篤く白河天皇が諸堂を建立、浄土宗西山派の祖証空上人が住職を勤めその後青蓮院宮が代々住持となり西山宮と称する門跡寺院となりました


室町時代には栄えましたが応仁の乱により焼失、現在の堂宇はほとんど綱吉の生母桂昌院によって復興されゆかりのものが多く残っています
(写真は一部加工しています)


お寺の案内図とおりにお参りしてゆきましょう
貞享二年、桂昌院寄贈の「厄除けの鐘


元禄五年桂昌院建立の「護摩堂」・五大明王をお祀りしています


護摩堂前の樹齢600年の五葉の「遊龍の松
 
 

桂昌院お手植えと伝わっています
こちらは左(北)半分


こちらは右(西)半分の内真ん中部分
右(西)端です
 
右(西)の部分の2枚をパノラマにしています
全長54mありましたが、北側は虫食いで今は約40mとなっています

 
松の前に建つ「多宝塔」
元和元年(1621)賢弘法師再建の桧皮葺で、善峯寺最古の建物です


隣の鉄眼版一切経を納める「経堂」
現在は祈願成就の絵馬奉納所となっています
その側には樹齢400年の「桂昌院しだれ桜」もあります


桂昌院によって貞享二年(1685)建立の「開山堂」


開山源算上人117歳の像を祀っています。元禄五年(1692)建立と書かれています。同じお寺による説明ですが食い違っています


傾斜地に懸崖(舞台)になった建物となっている「幸福地蔵堂」


「自分以外の幸せを願いましょう」と書かれています


一段と高くなったところに明治18年に建立された「釈迦堂」


この釈迦如来は源算上人作と伝わる珍しい合掌姿の釈迦如来で、『明治に住職の霊夢に「汝によって、下山せん」の言葉に従い釈迦岳(釈迦堂の南領)より薬師堂に下ろされたところ、釈迦如来の石造から珠の汗が流れ、霊液であると薬草と共に薬湯として、特に腰痛神経痛に霊験あらたかとして信仰されています。


お釈迦様への信仰が書かれています


その上に稲荷社が見え、右の石碑の「出世薬師如来」は右手にあります
桂昌院の両親が祈願したと伝える子宝薬師如来で、八百屋の娘お玉から将軍の生母にまで昇りつめた桂昌院にあやかって出世薬師と呼ばれました
薬師堂のそばにある「蓮華寿院」は青蓮院宮が住まいした美しい庭があります
又、近くに青蓮院親王御陵と祖師のお墓もあります


下ってくると寛文十三年(1673)建立の、徳川家位牌を祀る「阿弥陀堂」一名常行三昧堂があります


御本尊「宝冠阿弥陀如来」像です


白壁が美しい「瑞松庵」
これからの季節一般公開されているそうで、特に紅葉の美しさには定評があり、午後3時頃が見頃だそうです


本坊を塀越しに覗き見


美しい佇まいの「西山宮門跡本坊」


阿弥陀堂から下りたところに本坊があり「善峯寺歴代親王廟」碑が建っております
先ほど紹介した青蓮院親王御陵があります


その右手に「春ははな 秋はもみじの むすび木は この世のしやわせ めでたかりけり」と桂昌院のお詠みの歌碑



境内には他に「地蔵祠」や


弘法大師像を祀る祠も有り


休憩所にも三十三ヶ所のご本尊さんが安置されていました



そばには「鬢頭盧尊」・普通見かけるのは本堂の外の廊下なのですが、こちらは休憩所の三十三ヶ所観音堂でした
 
 
 
また神社ではないのに絵馬も奉納されていました。
 

次は21番札所ですが、亀岡・丹波の国になります
菩提山穴太寺
侘びた風情の山門(仁王門)
 
 
 
赤く塗られた憤怒の形相をした執金剛力士像


境内では写生をする小学生だけの静かで長閑な風景でした

静かに佇む本堂
慶雲二年(705)大伴旅人の甥大伴古麿が開基といわれます


文武天皇の勅命を受け、この穴太地方は飢餓に苦しみ疫病も流行しており疫病退散、五国豊穣を願って、薬師如来を本尊として豊穣の稲穂が付く様に「穴穂寺」として創建されました
武家屋敷風の陣屋造りです
 
 
本堂の外陣上に奉納された現本尊聖観音と薬師如来像
 
本尊が聖観音に移った逸話が残っております
『丹波曽我部の郡司・宇治宮成と云う強欲な篤志家が仏師感世に聖観音を彫ってもらったお礼に、白馬を差し出すが、惜しくなって取り戻そうと、老いの坂で待ち伏せ弓を放ち馬を奪い返し家に逃げ帰った。』
『そこに矢が胸に刺さった出来上がった観音を目にし、白馬の元に帰ると馬はなく、もしやと思い感世の安否を訪うと生きており、帰る途中の事を尋ねると、盗賊に襲われたが何も盗られず弓矢にも当らずこれは観音さまのお陰だ、とのことだった。』

『宮成は自分の行いを深く恥じ観音様の慈悲に心打たれ改心し、観音様を穴太寺に祀るよう夢に見、お祀りし、身代わり観音と呼ばれ聖観音が信仰されるようになったと云うことです』
尚、感世の聖観音は盗難に遭い現在は佐川定慶作の像が祀られています

文化元年(1804)再建の優美な「多宝塔」
本堂は戦火で失い江戸中期再建され、狩野派の天井画が描かれており、中央に薬師如来が、左に聖観音をお祀りするが秘仏となっております

裳輿の白さが美しい多宝塔

 
地蔵堂



大きなお線香立
本尊脇に、明治に天井裏より見つかった「涅槃像」が安置され、けがや病気を治したい人は、涅槃像の同じ部分に触れて、お祈りをしながら撫でると治るといわれる「撫で仏」がおられます


「念仏堂」

クリックすると元のサイズで表示します

「観音堂」
 

三十三ヶ所のご本尊様がお祀りされております

 
脇には千社札が張られた祠があり


中にはお手がなくなった阿弥陀仏が古びた厨子におられました


本堂と本坊は享保の火事見舞いで寄進された回廊で結ばれ、本坊庭園は桃山風の池泉築山式の見事なお庭で多宝塔も望めます


石の大きな地蔵立像もあります


何か不思議な石組みが見えます


こちらは先ほどの観音由来に出てきた「宮成」のお墓です
穴太創建 宇治宿彌 宮成の墓」と彫られています


白壁の美しい「東門」


「稲荷神社」と「多宝塔」

 

帰り際、改めて山門の屋根を見てみると、立派な鯱が載っていました
鯱に見送られて次の札所に向かいましょう
 
と云うところでブログ文字制限の都合上、この後は後半に譲りましょう

西国三十三ヶ所遍路旅<第六回>

2016年08月01日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第6回を2014年8月1日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第7回になります。
と云うのは以前に第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
今回は前回予告通り、6月に行く予定が諸事情により遅れてしまい行けなくなりました第6回目の札所を巡りました。今の所、今回と第7回もマイカーになるかもしれません

 
清水寺門前のお店屋さん清水道です。何時もはごった返している所ですが何故かこの日は静かでした

 
振り返ると階段の上には「音羽山清水寺」朱色の楼門が覆いかぶさるように聳え立っています


伽藍は幾度か焼失し現在の建物のほとんどは徳川家光が再建したといわれます


「本堂」には33年に一度開帳される秘仏十一面千手観音立像と化仏を載せた2本の腕を頭上高く掲げた御前立と28部衆、風神雷神像が並んでいます


奈良時代末、延鎮が夢告に従い、音羽山に金色に流れる水源で観音に化身された行叡居士と出逢い、側の霊木で観音像を彫り、祀るよう託されます。歳月が流れ妻の安産のために坂上田村麻呂が鹿を追って、不思議な流れをたどり延鎮に出会う。寺伝では延鎮の話に帰依し共に延暦二年(798)寺を建て、千手観音を本尊としたとしています。
 

向こうの見えるのは「釈迦堂」です。このときは平成の大修理で阿弥陀堂、堂ノ奥の院、朝倉堂、田村堂、隋求堂など全て覆いに被せられ見ることは出来ませんでした


寺は桓武天皇の勅願所となり、嵯峨天皇の時には鎮護国家の道場となり、観音信仰の高まりにつれ参拝者も増え、その様子は紫式部、清少納言、菅原考標女などの作品にも記されています


本堂東側・本堂は寛永十年(1633)に寝殿造り様式で再建され、


正面左右に入母屋造りの翼部を張り出す舞台となっています

余談)今昔物語に「8月9~16日の千日詣の功徳を、双六に負けた支払に当てた男がいた。観音に誓い証文を書くのなら受け取ろうと相手の男はその通り証文を受けたら、渡した男は牢に入れられ、受けた男は資産家の娘を娶り何不自由なく暮らした」と記されているそうな

 

こちらは舞台から見た泰産寺「子安の搭
奥の院(延鎮住房跡三面千手観音を祀る)を通り、近くで見ると三重搭になっています


本堂内には、聖武天皇の皇后光明子に安産をもたらした十一面観音を祀る


ここからの清水寺の眺めは洛中最高とされています。現在、修理中で朝倉堂、田村堂、三重搭が見られれば素晴らしい眺望だったのに残念です


かの有名な山号にもなった清らかな水の流れ落ちる「音羽の瀧」です


こちらも有名な「清水の舞台(懸造)」です。139本の柱で出来ており、「清水の舞台から飛び降りる」の言葉が出来ました。願掛け満願の日に度々飛び降りる人が出たため禁止令が出されました



清水坂に続く松原通りを西に下って続いてやって来ましたのは、この六道の辻(葬送の地だった鳥辺野の入口)に建つ「西国十七番六波羅蜜寺」碑


右の六道の辻から
 

左の南に向かって建っています


正面入り口は閉ざされており南の門から入ります。都七福神・弁財天が出迎えてくれます
 

本堂横には優しげなまなざしの「縁結び観音像」が見守っておられます

応和3年(963)空也による600巻の大般若経浄写供養と建立法要が営まれ西光寺として創健されました。9年の没後中信が伽藍を整え六波羅蜜時と改称したと伝えられます
寺は幾度も兵火に係り、本堂は貞治二年(1363)から3年かけ勧進元足利義詮により大修営され、又時代を超え秀吉も改修をしています


本尊十一面観世音立像は空也自刻の桧の一木造りの秘仏となっております


「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題符」碑
平家一門はこの六波羅蜜寺境内一帯に邸宅があったようで、次の政権北条氏は本堂を中心に「六波羅探題」を置きました
 
 
本堂南には「阿古屋塚」「奉納 坂東玉三郎」とあります
 
 
平家滅亡後を描いた近松門左衛門「出世景清」の名場面「阿古屋の琴責め」の「阿古屋塚」です

平家残党影清を慕った白拍子阿古屋を捕らえ、庄司重忠は所在を問いただし詮議するため琴を弾かせるも、一点の乱れもないことに感動し、所在を知らないのは真実と知り釈放したと云う物語です


これがその塚です。鎌倉時代の作で、台座は石室の石蓋が用いられています


その隣は平家一族の長、平清盛の塚


多くの石の地蔵さんですが、宝物館には、貧しい娘に代わり、病死したを背負って山に運び野辺送りをしてくれたと云う定朝作の「山送り地蔵」または「鬘掛地蔵」と呼ばれているお地蔵様が祀られています


宝物館にはもう一体、元境内にあった運慶一族の菩提寺十輪院本尊の運慶作「夢見観音」が運慶湛慶坐像を両脇時として祀られています


「阿古屋地蔵尊」


この写真は8月8日~10日に行われる「萬灯会」の様子で灯明で大文字が点じられています



「平清盛坐像」写真
娘、建礼門院徳子が解任したときにはこのお寺で安産祈願がされております。
また、一条天皇の皇后定子の葬儀も催されておりこのお寺は朝廷の信仰も篤かったようです


「空也上人立像」写真
醍醐天皇の子であったにもかかわらず、21歳に剃髪し生涯沙弥空也で通し、天暦五年(951)疫病が蔓延した時、金色の十一面観世音菩薩像を刻み、車に乗せ曳き歩き茶と梅干、茗荷を入れた薬湯を病む人々に授け救済したため市の聖、阿弥陀の聖と呼ばれ敬慕されました
この像は鞍馬山中で修行し、殺された鹿を悲しみその皮を衣に、角を杖頭に付けて、念仏を唱えて市中を歩く姿を現しています。いつか教科書で見た気がします


先ほどの六波羅蜜寺の碑の側に「六道の辻(冥土とこの世の境の辻)」碑がありました


辻の角には「桂光山西福寺」さん ・洛陽四十八願所第三十一番禮所とあります
弘法大師が平安時代初期創建したという地蔵堂が前身であると言います。
本尊は阿弥陀如来です


伝空海作の地蔵菩薩で、空海が壇林皇后(嵯峨天皇の皇后)の皇子正良親王のためにこの地蔵尊に病気平癒の祈願をされ、後年仁明天皇として即位されたということから「子育地蔵尊」と呼ばれるようになったそうです


この向かいになにやら古そうな看板が掲げられていました
京都 菱六 元祖 麹種もやし
塩麹の麹をつくる種を種麹と云い、もやし屋(種麹屋)さんは種麹を作られています。ここ「菱六」さんは創業350年くらいと云い、助野社長も何代目なのか、はっきりわかりませんと云う。
全国に10軒足らずしかなく、非常に貴重な存在だそうです
種麹を「もやし」と呼ぶのは、酒造り業界だけとも云います。こんなお店だったんです


そのお隣もこれまた変わったお店です。「幽霊子育飴」とありますが本業は「お茶屋」さん


それにしてもお茶の看板はなくこの看板だけ


「母の愛情が生んだ感動の物語」
昔、女が夜毎に飴を買いに来るようになった。
 女が飴を買った翌朝に、代金を納めている銭箱あらためると、木の葉が1枚入っている事が続いた。不思議の思った当時の店主はある夜、女の後を追った。すると女は墓地のある鳥辺山で姿を消し、土中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。そこは身ごもったまま亡くなった女性を埋めた墓だった。寺に事情を話して掘り返してみると、墓の中には飴をしゃぶった赤ん坊がいた。死後に生れた赤ん坊のために、幽霊となった女が飴を買いにきていたのであり、飴の代金として渡されていた木の葉は、女の墓に供えられていたシキミの葉だったのだ。

 

当時は箸に巻いた水飴となっている。死してなお我が子を思う母の愛情の表れとして400年以上も語り継がれている。その飴は幽霊子育て飴として今も広く人々に愛され続けている。(説明書より)


感動的な良い話の余韻のまま、次にやって来ましたのはそこより北西の方角「六角堂」です
西国十八番霊場 華道発祥の地



「六角堂頂法寺」・千社札が山門一杯に貼り付けられています。それだけお参りの数が多いと云うことでしょうか

 

礼堂及び本堂      「紫雲山頂法寺(六角堂)」
都が開かれる200年前、用明天皇二年(587)聖徳太子がこの地に清らかな水をたたえた池に沐浴するため木に念持仏を掛けた所仏像が離れなくなり、そこで六角の堂を建て安置したのが始まりと云われます
因みにこの右の柳ですが、枝を2本寄せておみくじを結ぶと良縁、所願が成就すると云われる「地ずりの柳」と云われます


唐破風の礼堂、前には邪鬼が支える香炉があります

六角造りの本堂には洛陽三十三観音めぐりの筆頭で、徳太子ゆかりの秘仏如意輪観音像がお祀りされています

弘仁十三年(822)には嵯峨天皇の勅願所に、長徳四年(998)には花山天皇の御幸を得て西国巡礼札所となり、貴族から庶民えの信仰へと、平安後期には巡礼の門前町が作られました


本堂東に掛けられた祀られている名札です
 

ビルの谷間に六角の本堂


その屋根には金色に輝く宝珠が載っています

 
「親鸞堂」
親鸞は建仁元年(1201)29歳の時、毎夜比叡山を下り、この六角堂に百日参籠され、夢中に四旬の偈分を授かり、浄土真宗の開祖となられました


その「夢想之像」と


六角堂参籠の姿を自刻されたと伝える「草鞋の御影」が安置されています


本堂東に太子沐浴の縁起を伝える池に、2歳の太子像を祀る六角の太子堂です


都会の中の境内にしては意外なほど広く「日彰稲荷」や

 

「祇園社」「唐嵜社」「天満宮」などもお祀りされていました


青銅製ですが、聖観音やご本尊と同じの如意輪観音もお祀りされております


こちら又可愛い姿をされていますが、一つだけ願いを叶えてくれると云う「一言願い地蔵」さまです
首をかしげられているのは、どうしようかなと悩んでおられるらしいです
第九番南円堂にも「一言観音」と云うのがありましたね
 

お地蔵様といえばこちらにはもう二つの内、京都御所をお守りするため、北を向いておられる「北向地蔵」様です。北向不動はよく聞きますが地蔵様は知りませんでした


妙なものが囲われています。何に使われるのかは定かではありませんが、昔は六角堂の真ん中にあり、京の中心に当たると云うので要石とか、へそ石とか呼ばれました


ところでここ六角堂は華道池坊は小野妹子が太子堂本尊に花を供える勤めが始まりと云われ、專慶專応の立花の様式が受け継がれてきているようです。
その專応の「專応口伝」書で、「塀に美しい花を挿すこと」を説いた花伝書で、池坊が伝える「よろしき面影をもととする」いけばなとの違いを説いています


花伝書の冒頭部分がモニュメントとされいます
 

ビルの谷から、閑静な寺町通りに面した「霊麀山行願寺(革堂)
開祖行円はある時身ごもった女鹿を射止めてしまい殺生の罪深さに感じ出家、千手陀羅尼経を書いた母鹿の革を衣とし、比叡山横川で修行に励み、革仙とか革聖人と呼ばれ人々を助け仏道を説き、寺は革堂と呼ばれました



元あった「一条加うだう(こうどう)」と彫られています。現在の地に移ったのは宝永五年(1708)の大火の後と云われます


山門を入ってすぐ左には「延命地蔵菩薩」「天道大日如来」がお祀りされています。後は手水舎


皮聖行円が寛弘元年(1004)に一乗小川の一条北辺堂を修復し行願寺と名付けたのに始まります。中世(室町時代以降)には町堂(寺が町の自治組織の集結の場となったもの)として上京の中心となっていきましたが、その後、寺地は寺町荒神口の南へ移り、現在地へは宝永五年(1708)の大火後に移ってきました
現本堂は文化十二年(1815)に再建されたものです
入母屋造りで、千鳥破風の向拝に桧皮葺の軒先がついています



本尊「十一面千手千眼観音」は行円自刻の加茂大明神より譲り受けた霊木で造られ秘仏になっています


お勤めを終えて境内を見て周りましょう。恋愛成就や水商売の人の願いを叶える「愛染堂」


都七福神の内、長寿・福徳をもたらす寿老人をお祀りする「寿老人堂」


「一条革堂寿老神堂本尊由緒書」
京都には三つの七福神を尊崇する会があり、何れも寿老人はこの革堂の寿老人を共に拝まれているのは、太閤殿下の霊験殊勝であるからだそうです。また本像は宝物館に納め、中島甚海尼(三十三ヶ所中唯一の尼寺)により西村公朝作の新像を現在は安置されています


鐘楼横には家内安全をお願いされる「鎮宅霊符尊神堂」があります。


この鐘楼も本堂と同じ大工棟梁により文化元年に(1804)造営され、行願寺建築一連の遺構として重要であり、本堂と共に京都市指定有形文化財に指定されています


天女が舞う姿が美しく彫られています


鐘楼のお隣は、十一面観音や如来の石仏もお祀りされています

 
「百体地蔵尊」


そのお隣に出世、財宝のご利益があると云う「出世弁財天堂」と五輪塔(地水火風空)のうち、水輪の石を四角く切り抜いたところに本尊を刻む霊木を譲り受けた加茂大明神を祀ったと伝えられる「五輪塔」

 

又境内は満僕に長くその中ほどに、左)行円上人布教之真影が彫られた碑や
  右)極楽浄土に咲く蓮などが見られました

今回は京都の町の真ん中でお参りしやすかったです。次回は四ヶ寺お参りの予定です

西国三十三ヶ所遍路旅<第五回>パート1

2016年07月31日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第5回を2014年7月1日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第6回になります。
と云うのは前回は通常ならば2014年の11月に行く事になる第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
今回は前回予告通り、5月に行く予定が諸事情により遅れてしまい行けなくなりました第5回目の札所を巡りました。今の所、今回と第6回、それに第7回もマイカーになるかもしれません



今回は第十二番岩間寺⇒第十三番石山寺⇒第十四番三井寺⇒番外元慶寺⇒第十五番観音寺の五ヶ寺の順に向かいます。

今回もマイカーでのお遍路となります
目指すは「岩間寺」です。瀬田川沿いから443mの岩間山山頂を目指し、曲がりくねった山道を登って到着しましたのは駐車場。中千町バス停からは歩いて50分ほどだ様です。お寺までは200mの平坦な道
 

ずらりと並んだ燈籠に迎えられました
 
 
信徒会館の側の鐘楼を横目に見て
 


参道にやってきました。銅製の黒光りした仁王さんに迎えられ



境内へと入ってきました。山頂の閑静な佇まいにすがすがしさを感じました
この「岩間寺」は泰澄大師が養老六年(722)元正女帝三十三才厄年の際のご病気を平癒されたご褒美として創建されました
 
 
「桂の霊木」
天正天皇の勅命を受けこの地を行脚されていた泰澄大師は、桂の大樹より千手陀羅尼が聞え、そこでこの霊木で千手観音を刻み、天皇の念持佛を体内に納め本尊とされました。その霊木の子孫です



「夫婦桂」と呼ばれ3代目だそうです



こちらが「第十二番岩間山正法寺(岩間寺)」本堂
ご本尊は、桂の木で造立した等身大の千手観音は失われたが、元正天皇念持佛と伝えられる秘仏千手観音(金銅佛・約15cm)で、インドのエンブ川で取れた砂金(エンブダゴン)で造られたと云います



先ずはお勤めです
この御本尊は毎夜衆生を救うため136もの地獄を駆け巡り、朝には汗びっしょりになって戻られ所から「汗かき観音」と呼ばれ、病や災いを除く厄除けに霊験があり信仰が篤く、泰澄が桂の木で刻んだ吉祥天と婆蘇仙人像を脇侍としてお祀りされています



この石造は15番札所にあったものですが、ここ十二番・正法寺の千手観音様のお姿です



「稲妻龍王社」
この銀杏の大木に住み雷難や火難を除くご利益があります



後ろの銀杏の木「火伏の銀杏」
かっては遠く鈴鹿峠からも見えたと云う杉などの巨木が多かったと云います



「大師堂」
当山開祖・泰澄大師と宗祖弘法大師をお祀りされています



「不動堂」
平安中期の大日如来の化身・不動明王と二大童子(制吨迦・矜羯羅童子)がお祀りされており、4・5・9~11月の17日には護摩が焚かれております。手前の黒いのは灰(護摩の灰)です
藤原期の薬師如来坐像と阿弥陀如来坐像もお祀りされております
 


その右手上にはお寺の鎮守社である「五社権現社」が祀られています
また、本堂横には「古池やかわず飛び込む水の音」の句を読んだと云われる「芭蕉池」が残っています



「白姫龍神」
泰澄大師が白山麓で修行中、白馬に乗った妙理大菩薩と云う姫神に導かれ山頂の池で祈ると九頭龍王が出現し龍王の本姿、十一面観音を感得したと伝えられるその姫神をお祀りされています
女性が拝むと美人になると伝わっています



この「雷神湧泉」というのは
上の神社からこの石段を下った所にある「雷神爪堀の湧泉」で、度々落雷で被害を及ぼしていた雷神を泰澄大師が法力で鎮め、今後寺に落ちないと誓わせ(雷除け観音と呼ばれる由縁)仏弟子にしました。当時水の乏しかった岩間山に、雷神は鋭い爪で井戸を掘り霊水を湧かせたと云います。別名「長寿水」「厄除け水」といわれ参拝者の喉を潤しています



「西国霊場お砂踏み所」
西国三十三ヶ所の札所のお砂を納めて、お参りしたと同じ功徳を得られるとされています。こちらは残念ながら、2013年9月の18号台風の豪雨被害によりがけ崩れを起こし、すっかり流されてしまいました。一刻も早い再興を願わずにはいられません



会館の側に建つ「ぼけ封じ観音」



この観音像の前に「仏足石」が置かれ、この下には「近畿十楽観音」のお砂が納められており、十ケ寺のお砂を踏み観音様と縁を結び、健康で長生きできるように祈願されます



こちらは四番の霊場で、西国の観音札所が3箇所も入っておりました



このモダンな燈籠様なものは何だと思いますか?
「この石 一願石といふ 一心に観世音に念じ持ち上げ 思いの外軽からは 所願成就に  給ふと言ひ伝ふ」とあります。
私も中の鏡餅様の石を持ち上げましたら上がり願いが叶うのでしょうか?



こちらの道から次の札所「石山寺」へ行けるようです

 
でも車なので暫らくはこの景色を愛でて行くことにしましょう。因みに笠取方面を望んでいます



続いてやってきたのは「第十三番石光山石山寺」
天平十九年(747)聖武天皇の勅願により良辨が開創され、東大寺別当の出先機関として石山寺所が置かれ諸堂が整えられたといい
平安時代の観音信仰の隆盛に伴い京都に近い天皇、貴族、諸民の崇敬により参拝者を集め、いわゆる石山詣でといわれました。特に陰暦10月甲子の日の参詣はご利益大とされます

 

頼朝により寄進され、桃山時代に修復された「東大門」
運慶・湛慶作の仁王像



極彩色が桃山文化らしいですね



門を潜ると石畳の参道が続きます。左右には院や坊が並びます



「宝性院」
石山寺事務所・なにやら可愛いキャラクター「おおつ光ルくん」が並んでいます



「拾翠園」
慶長年間に淀殿寄進によって整備されたお庭です。秋には紅葉も楽しめます



「公風園 白耳亭」
通常は非公開らしいですが、紅葉が素晴らしいようで秋に行って見られては・・



「寶印大黒天堂」
本尊は950年前3人の僧の夢告により湖中より引き上げられたと伝わっています。



「世尊院」
信長が石山寺の一部を利用した石山城の塔頭で、この世尊院に来て、二日間鷹狩りをしたそうです



極楽浄土に咲くといわれる蓮の花・お寺に似つかわしいですね



拝観受付所を入るとすぐの「くぐり岩」



今で云う大理石で、お堂などの体内潜りの様で、池は天平時代からあるようです



「那須与一地蔵尊」
元暦2年(1185)の屋島の戦いで、源義経に従軍し平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした事で有名です



「茶丈東池坊密蔵院」
愛と苦悩の傷心した「島崎藤村」を和ませたのは、源氏物語、芭蕉の幻住庵跡であり瀬田の清流だったのでしょう。敬愛する西行や芭蕉のの如く旅をし足を休めたのがこの「茶丈庵」であり、2ヶ月の寄宿生活を送りました



昔このあたりにあったとされる「水車」。脱穀をし、また近年には水車を踏み高い所へ水を上げていた様です



さて本堂に向かいましょう。この66段の石段の先にあります。
足の悪い方は石段左に回りこみ懸下木造つくりの本堂の舞台下からなだらかな石段もあります



石段の途中にある社



登りきると右手に「観音堂」があり、三十三ヶ所の観音様がすべていらっしゃいます



確かに33体の観音様です



その隣は「毘沙門堂」
一重宝形造の堂内には兜跋毘沙門天(重文)、吉祥天、善膩(ぜんにし)童子の3体をお祀りし、造営の方式や特殊な架構・意匠を用いた特色溢れるお堂となっています

反対側には本堂の前に建つ「蓮如堂」
硅灰石の崖にせり出しで建つ懸造の建物。慶長期に「淀殿」により、三十八所権現社の拝殿として建てられましたが、後に蓮如上人が祀られるようになりました。
懸造りの鎮守拝殿の一類型として貴重な建物だそうです

これらの前庭には「硅灰石」の岩山硅灰石の荒々しい岩がごつごつしており、石山寺と呼ばれる由縁となっています

左手「蓮如堂」から正面の硅灰石の岩

正面の硅灰石の岩から右手の「御影堂」

2枚をパノラマにしたもの

硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものですが、石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは大変珍しく、国の天然記念物に指定されています

その前には四方に四国八十八ケ所霊場のお砂を埋め、これを巡ると八十八ケ所を巡ったと同じ功徳があると云う宝篋印塔が建っています

蓮如堂より石段を登ると「本堂」に出ます

本堂内陣に安置されるのは、安産・福徳・縁結びの観音さまとして信仰を集め、聖徳太子の念持仏を体内に納める本尊如意輪観世音菩薩。日本で唯一の勅封の秘仏で、御開扉は33年毎です。

石山寺縁起によれば、東大寺大仏殿造営に際し聖武天皇は金のないことを憂い、命を受けた良弁は金峯山寺に籠り「瀬田の霊山へ行け」との夢告を受けました。瀬田で出合った比良明神の化身の老人に教えられ石山に庵を結び如意輪観音を祀ると、陸奥で金脈が発見され、このとき祀った如意輪観音像が岩から離れなくなったので、この寺を興したと伝わります



この石造は15番札所にあったものですが、ここ十三番・石山寺の如意輪観音様のお姿です



寄棟造りの内陣は平安時代中期の本堂と、慶長年間に淀君寄進の寄棟造りの外陣・礼堂と、その両棟を結ぶ相の間によって構成されており、本尊と同じ岩盤の上に建つ、総桧皮葺の県内で最古の建物です。

裏より見た本堂です。懸造(舞台)がよくわかります
礼堂と相の間は「淀君」の寄進により慶長7 (1602) 年増築されたといわれています

相の間にある、紫式部が『源氏物語』を起筆したことにちなむ「源氏の間」です

また、平安時代以来「蜻蛉日記」「泉式部日記」「枕草子」「更級日記」など文学作品の舞台となりました

人形が置かれいかにも当時の様子を髣髴とさせてくれます

「三十八所権現社本殿」の建つ硅灰石です

「三十八所権現社本殿」

石山寺の鎮守社。一間社流造、檜皮葺で硅灰石の上に建っています。慶長期の伽藍復興時に本堂の礼堂とともに建立されました。(写真撮れず)

本堂横の「経蔵」

16世紀ごろに建立された高床の校倉で、かつては重要な経典や聖教類などが収蔵されていました。頭貫木鼻の意匠は桃山時代の建立と考えられ、数少ない切妻造りの県下で最古の校倉造です。

その床下に「腰掛石」と云って昔よりこの岩に座ると安産すると云い伝えられています

 

その横には「紫式部供養塔」と「芭蕉句碑」

源氏の間を見て詠んだ歌と云われます
「曙やまたむらさきにほとゝきす」

一段高く石段を上ったところに「多宝塔」
源頼朝の寄進で建久5 年(1194) に建立された日本最古の多宝塔。下重が大きく、上重は搭身が細く華奢で軒の出が深い優美な姿で、日本三大多宝塔の一つです。

本尊は快慶作の寄木造り漆金箔張の典型的な鎌倉様式の風格を備えた大日如来です。

その西の奥まった所に見たことのない形の石塔がありました
どうやら「牛塔」と呼ばれるものらしい(長安寺宝塔
ここでは「めかくし石」と呼ばれています。
目隠ししてこの石を完全に抱けば所願成就と云われるそうです

「めかくし石」の後方北側にある「源頼朝」と「亀谷禅尼」供養塔
頼朝は石山寺とは東大門や多宝塔を寄進していることで深いつながりがあります。乳母と言われる亀谷禅尼はどういう関係なのでしょう
亀谷禅尼は頼朝の娘の乳母であり、頼朝に仕える中原親能の妻。また大江広元は弟で、
頼朝とは弟の広元との関係から側近として活躍したというウェブの記事がありました

そこを斜め北に行くと「芭蕉庵」
月見亭の隣にある松尾芭蕉ゆかりの茶室。芭蕉は石山寺に詣で、「曙はまだむらさきにほととぎす」「石山の石にたばしる霰かな」といった句を残しています。

その東側は近江八景「石山秋月」で有名な「月見亭」
後白河上皇の行幸に際して建てられたといい、その後再建や修理を経て現在に至っています。はるかに琵琶湖を望みながら瀬田川の美しい風景を楽しむことができます。

建立時よりの天皇の行幸が記されています

月見亭の北に佇む「心経堂」
花山法皇が西国三十三ヶ所観音霊場を中興されてより千年の間に納められた「般若心経写経」が納めれています

鐘楼に向かう途中に「若宮」があります
壬申の乱で破れた大友皇子をお祀りされているそうですが、確かに破れた地は瀬田の唐橋でこの近くですがその霊地はこの近くに3箇所あります。でも石山寺は知りませんでした。こちらのサイトにも書かれています
只、平成三年に白鳳期の瓦が出土し開創が7世紀に遡る可能性があり、大友皇子(弘文天皇)の霊を祀られたという寺の起源もあり、裏付けとなるのでは?

石段を下って「鐘楼」堂です
多宝塔を下に降りると鐘楼があります。重層袴腰、檜皮葺の入母屋造で、頼朝の寄進と伝わっていますが、様式などから鎌倉時代後期の造営と考えられています。上層に吊るされた梵鐘は平安時代を降らないもので、重要文化財に指定されています。

鐘楼から下る途中に見た「硅灰石」

下った左に建つ「御影堂」

真言宗の開祖弘法大師、石山寺開基の良弁僧正、石山寺第三代座主淳祐内供の遺影を安置するお堂です。単層の檜皮葺で、内部は室町時代初期を降らない様式となっています。

御影堂から出口に向かって帰り道になり、途中にある「大湯屋」

中はどんなになっているのでしょうね

先ほど参道脇に門より見えた「大黒堂」に戻ってきました

石山寺大黒天は万寿元年(950年前)に、ご本尊は3人の僧の夢のお告げにて湖水より出現しました。室町時代(約650年前)には秘仏ご本尊の前にお前立ちの仏様が建立されました。

東大門を外に出ました。北に塀沿いに行くと

「朗澄大徳遊鬼境」と云うものがあります
約八百年前の中興の祖 朗澄律師ゆかりの庭園。朗澄律師は自分の死後鬼の姿になって、石山寺の一切経と聖教を守護し、人々の降魔招福を誓い入寂されました。大きな石に刻まれているのは「石山寺縁起絵巻」に描かれた朗澄律師のお姿です。

石山寺の説明については、石山寺HPを参考にさせていただきました
色々見てきましたが、石山寺に関する詳細はこちらにも紹介されております

 
門の西には史跡「石山貝塚」がありました。知りませんでした



詳しくは説明板をお読み下さい

 
貝塚のモニュメントです
 
 
同じく側には、弘法大師が弘仁二年(811)3ヶ月修行された所縁の「三鈷(金剛杵という法具)の松」です

 
「東海道名所図絵」にも描かれています
 
今回は長くなりましたので、この後は後編にゆずります
 

西国三十三ヶ所遍路旅<第五回>パート2

2016年07月31日 | 西国三十三ケ所遍路旅
四国八十八ケ所遍路旅は平成22年(2010年)に打ち終わっていますので、今度は西国三十三ヶ所を遍路してみようと始めました。
実は「西国さん」は平成10年(1998年)に1度打ち終わっております。今回で2度目を打つことになります。
前回はマイカーで巡りましたが、今回は「お四国さん」を巡ったときと同じように、12回で満行するバスツアーに参加しました。
昔の人は歩いて回られたのでしょうが、現代では到底歩いて巡るのは至難の業です。ですから本当の意味の遍路旅にはなりませんが、取敢えず全行程を回って来ますので、このブログに記録してゆきたいと思っています。

では第5回を2014年7月1日に行ってきました。
と云っても、実は今回は回数としましては、第6回になります。
と云うのは前回は通常ならば2014年の11月に行く事になる第十一回が挟まってしまったからなのです。
バスツアーの都合でこうなりました
今回は前回予告通り、5月に行く予定が諸事情により遅れてしまい行けなくなりました第5回目の札所を巡りました。今の所、今回と第6回、それに第7回もマイカーになるかもしれません

今回は第十二番岩間寺⇒第十三番石山寺⇒第十四番三井寺⇒番外元慶寺⇒第十五番観音寺の五ヶ寺の順に向かいます。
今回もマイカーでのお遍路となります

前半の石山寺を後にして次にやって来ましたのは「三井寺」です。

車で行きましたので駐車場に一番近かったのが「豊饒池」でした。そしてまた観音堂に行くのにはこの池を南に行くのが一番近道です

楼門・仁王門
本当は現在はこの仁王門から入るのが通常ルートなので、先に紹介しておきます
宝徳四年に建立された甲賀・石部の常楽寺の楼門で、後に伏見城に移築され、慶長6年に家康により寄進されました。また、寺の総門は南西、疎水近くにあります

 
池に架かる石橋、その奥は「千団子社」子供の守り神、鬼子母神(訶梨帝母)をお祀りし、5月の祭礼は「千団子さん」で賑う護法善神堂です


拝観受付を通り観音堂への途中にある「水観寺」

御本尊は薬師如来をお祀りされており、西国薬師霊場第四十八番札所となっています。お堂は明暦四年(1655)に建立されています。両脇侍日光月光菩薩の美しいお姿です
 
観音堂への階段の側に建つ「十八明神社」
別名「ねずみの宮」といい太平記によれば当寺の戒壇檀建立の勅許がおりたが、比叡山の強訴により取りけされ、これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩をたき壇上に果ててしまいました。その強念が八万四千のねずみとなり比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと記されています
 
この石段を登ってゆきますが、比較的なだらかで段数も200段なかったかな
左に祠がありますが、この場所は「浄妙坊跡」で三井寺の僧兵中一騎当千中の勇者、筒井浄妙の坊だったそうです
『京都祇園祭の山鉾の一つ「浄妙山」は、橋合戦(宇治川の合戦)において、敵陣に一番乗りをしたい一来法師が、狭い橋の上で奮戦する浄妙坊の頭上を「悪候、御免あれ」といい飛び越えた一瞬の場面を表現しています。また、この場面は先陣争いではなく、一来法師が浄妙坊をかばうために前に出たともいわれています。
 三井寺境内水観寺の側、西国第十四番札所観音堂へと続く石段の登り口には、浄妙坊を祀る祠があります。毎年7月、浄妙山保存会が祇園祭にあわせてここを訪れ、当山僧侶が供養し、山鉾巡行の無事を祈願しています。』三井寺HPより。くしくも祇園祭の時期に来られました
 

石段を登りきった左手に「百体観音堂」

堂内の正面中央に三井寺観音堂(正法寺)本尊と同じ如意輪観音像を奉安し、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所観音霊場の合計100体の観音様がお祀りされており、一度にお参りできてしまいます

ずらりと並んでおられます
 
何故か天井に方位版があります。四国八十八ケ所の三十五番、四十番札所にもありました
 

そしてこれが有名な大津絵「鬼の念仏」です。このお堂に奉納されておりました。
大津絵の画家のお店はこのお堂を長等神社に下ったところにあります
反対側は「鐘楼」です

中に入って見上げると鐘が見えました

この鐘は「童子因縁の鐘」と呼ばれており『昔、梵鐘鋳造の寄進に托鉢を行い、尾花川のある富豪に勧進を願ったが、そんなものにお金を出す気はない。子供なら家にたくさんいるから何人でも呉れてやると悪態をつきました。程なく梵鐘が出きあがったところ、不思議なことに3人の童子の遊ぶ姿が梵鐘に浮かび上がっており、その日にかの富豪の子供三人が行方不明になっていた。かの富豪はすっかり目覚め、それ以来慈悲深くなっ』たという伝説が伝わっています。
 
確かに3人の子供の遊ぶ姿が見えます。この鐘は第2次大戦時に供出され今はありません


百体観音堂の東は大津市が見下ろせる「観月舞台」となっています

  
石山寺にも舞台はありました。こちらははっきりを見る事が出来ました。清水の舞台を思わせます

その舞台から左に境内を見ています

左端は絵馬堂です

2枚をパノラマにしています

 こちらが「第十四番長等山園城寺(三井寺)」観音堂です

 「手洗水舎」で身を清めてお勤めをしましょう

 大きな鰐口の鐘を鳴らして仏様に挨拶をしてお参りです。千社札が多いですね


ご本尊は開祖智証大師円珍作と伝えられる如意輪観音(秘仏)で、向かって右に愛染明王坐像、左に毘沙門天立像が安置されています
また、延久四年後三条天皇の勅願により勅額を賜り聖願寺を建立、後に正法寺または如意輪堂と称しており、山上の華の谷にあったお堂は、文明十三年にこの地に移り、元禄二年再建され現在に至っています

 
この石造は15番札所にあったものですが、ここ十四番・石山寺の如意輪観音様のお姿です
絶対秘仏なのに何故お姿が分かるのでしょう

 本堂前には「水子地蔵尊」
 
 お隣には「宝篋印塔」が3基

 この上に展望台があり途中から振り返った観音堂

 なだらかな石段の先に「大津算盤」の故郷碑

 
江戸初期大津の片岡庄兵衛と云う方が中国風算盤に改良を加え日本算盤を作り全国に普及しました。大津は算盤発祥の地だったんですね

 
こちらの展望台からは大津市内が一望できます。お参りも終わり、綺麗な景色も見たので境内を見て帰りましょう
 
 
来るときに登ってきたなだらかな石段の側に建つ「弁慶引き摺り鐘」への道標
『田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。 
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。 』三井寺HPより

 
順路を逆に取るとやけに極彩色のお堂が現れました「毘沙門堂」です
もともと園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に元和二年(1616)に建立され、現在地に移築され、内部は文様などが描かれ桃山時代の様式です

 
側には「衆宝観音」
三十三観音の一つで、この観音様を信仰すれば、大衆の求めて止まない財産が貯まり、福徳を授けられ出世が出来ると云う有り難い観音様だそうです

 
あの有名な弁慶にちなんだ「力餅(力持ち)」ですね

 
「天台智者大師」
中国天台山で修禅された天台大師で、智証大師はその天台山で修禅し法華円教をこの三井寺に持ってこられた、その報恩感謝を捧げるためお祀りされたようです

 
お隣の「微妙寺」 (湖国十一面観音第一番札所)
 
 
右に折れその先に架かる「村雲橋」
『智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、ふと西の空をご覧になって大変驚かれました。大師が入唐の際、学ばれた長安の青竜寺が焼けていることを感知されたのです。早速真言を唱え橋上から閼伽水をおまきになると、橋の下から一条の雲が湧き起り、西に飛び去りました。
のちに青竜寺からは火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたといい、以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになったと伝えています。』三井寺HPより

 
「唐院」への参道
唐院は開祖・智証大師の廟所として最も神聖な場所で、入唐求法の旅で持ち帰られた経典類を納めています

 
金堂前の「天狗杉」
『室町時代の初め、相模坊道了という僧が勧学院書院で密教の修行をしていたとき、ある夜、突如として天狗となり書院の窓から飛び出し、この杉の上に止まり、やがて朝になるや東の空に向かって飛び去りました。』と云う「天狗杉」です(三井寺HPより)

 
「金堂」
ご本尊は千三百年余り前、三井寺創建時に天武天皇から賜わったと伝えられ、絶対の秘仏となっていて、誰一人として仏様を拝んだひとはいません
天台寺門宗の総本山で、飛鳥時代、天武天皇十五年(686)に大友皇子の子、与多王が創建したと伝わります。
建物は淀殿により慶長四年(1599)再建された桃山時代の代表作の一つとされます。
三井寺は山門(延暦寺)と寺門(三井寺)の対立・抗争による焼き討ちまた源平争乱、南北朝の抗争などによる戦火も加わって幾度も堂宇が焼失しましたが、その都度再建復興を遂げています。

 
この左に、天智・天武・持統の三帝が産湯に用いたという三井の霊泉があり、古来より閼伽水として寺の名前の由来となった霊泉があります

 
「堂前灯篭」
天智天皇が大化の改新で蘇我入鹿一族を誅し、その罪障消滅のため天皇自らが左薬指(無名指)を切りこの灯籠の台座下に納めたと伝えられています。そのため「園城寺金堂無名指灯篭」とも呼ばれます


近江八景のひとつ三井の晩鐘で有名な巨大な梵鐘を吊る鐘楼

 
今は2代目で、初代は霊鍾堂に納められている弁慶引き摺り鐘です

 
そして順路を逆に東大門(裏側)の見えるところに戻ってきました

 
門の北側に建つ「釈迦堂」
秀吉による破却の後、清涼殿を移築したものとの伝えもありますが、室町時代に建立されたものと思われます。
「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、この堂も食堂として移築されたものと思われますが、現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。
 

その前の「弁財天社」
学問や芸事の女の神様です

三井寺はここまでです
そして次は、バスツアーでは巡拝箇所には入っていませんが、三十三ヶ所中興の祖「花山天皇」が出家して入られた番外「元慶寺」に向います

山科区の住宅と田圃に挟まれた渋谷街道と呼ばれている通りの北花山交叉点東を北に入ったところに建っています

 
天台宗「番外華頂山元慶寺」
開創は平安初期の貞観三年(868)桓武天皇の孫・僧正遍照が清和天皇の第一皇子誕生を期に発願。翌年、陽成天皇の母・藤原高子が伽藍を建立したのに始まります
陽成天皇9歳に即位し、元慶と年号が変わり「定額寺」となり寺号とした。当初は今の北西に当たる花山山の山際にあったようです

花山天皇は寵愛していた女御藤原忯子(きし)死別とともに出家を考えるようになった。懐仁親王の外祖父であった右大臣藤原兼家は孫である皇太子の即位と自らの摂政就任を早めるために、天皇に仕えていた次男・藤原道兼に対して花山天皇に出家を勧めさせた。
986年6月23日の明け方、天皇は藤原道兼の勧めに従って内裏を出て山科の元慶寺に向かった。兼家は三種の神器を皇太子の居所に移し、内裏諸門を封鎖した。藤原義懐が事態を知った時には既に天皇は元慶寺において出家を済ませた後で、懐仁親王は一条天皇として即位し、道兼の父兼家は摂政に就任した。謀略による政変(寛和の変)です
と云うわけで19歳の若さで出家されました

 
 
山門の梵天像、帝釈天像は京都国立博物館に保管されているため写真でしか見られません

 
観音霊場巡りの出発の寺として平安末期までは寺勢盛んでしたが貴族支配が弱まり、江戸中期には礎石が残る状態までに衰退し、寛政元年(1789)法親王により再興されました
 
本堂は寛政元年頃の再興と見られます
宝珠をのせた宝形造瓦葺となっており、ご本尊は京の七仏薬師の一つ「薬師如来」をお祀りされています
境内には僧正遍照の和歌「天津風雲の通い路吹き閉じよをとめの姿 しばしとどめむ」などの碑もあります
またお墓は南西200mくらいにあります

今回最後の札所はこの「第十五番新那智山観音寺(今熊野観音)」です

 
泉湧寺の参道を今熊野観音の案内板に従い左に折れ、
赤い鳥居橋を渡り
 
 
参道を行くと入り口の門につきました
 
 
手前の道標には「右 三宝大荒神道・洛陽楊貴妃観世音」となっています。この石段を降りて右に曲がっていきますと200mほどで着きます。ここから近道です

 
境内へと入ると、迎えてくれるのがこの「子守り大師」です

 
その後の石段を上がると「本堂」です
嵯峨上皇の命を受け、自ら彫られた十一面観音像の体内に、熊野権現翁より授けられた観音像を納められ、建立されたのが観音寺の始まりです
その後左大神藤原緒嗣が伽藍を整え観音信仰が広まり興隆しました
朝野の尊崇を受けていたが、応仁の乱の兵火により衰退したので、皇室の寺であった泉湧寺の塔頭として再興が図られました

 
本尊「十一面観世音」のお姿です。但し、境内の三十三ヶ所霊場巡りの石造です
日本一の大天狗と頼朝が呼んだ後白河法皇を悩ませた頭痛の持病を、こちらの観音様が枕元に立たれ霊力により平癒したと伝えます。以来頭の悩み治癒、智慧授けの観音様として信仰が広がりました
明治維新以後は修験道から脱却し弘法大師開創の観音霊場として信仰を集めました

 
本堂の右上に見えておりました「医聖堂」

 
医療界に貢献された人々をお祀りする多宝塔形式のお堂です

 
本坊脇に建つ「三重石塔」
創建当時と伝わる平安時代のものだそうです。なんだか重みが感じられます

 
本堂南に立つ「講堂」

 
講堂右横に何処からか集められた四本の道標
山しな(山科)・すぐいまくま(今熊野)・京大仏(方広寺の大仏)・ようきひかんぜおん(楊貴妃観世音)等の文字が見えます
 
 
本堂右のお祀りされた、いづれも観音様でしょう。聖観音でしょうか

 
如意輪観音様でしょうか

 
いづれも蓮の花をお持ちです
脇には他の仏様も

 
その右側には「ぼけ封じ観音」
第十二番岩間寺にもありましたね。ほぼ同じ形をされていて、近畿十楽観音巡礼の第一番札所

 
観音様の足元にすがり付いているのは、子安観音でしたら子供でしょうが、こちらはお爺さんお婆さんでした。

 
その年寄り達がずらりと奉納されております。チョット異様な感じです

 
その後は「弘法大師堂」
平安初期の天長二年(825)頃、東山にかかる瑞雲を見られた弘法大師がこの地を訪れ堂を建立されたのが観音寺の始まりだそうです
護摩修法を行う大師像をはじめ不動明王、愛染明王とともに平安時代基礎を築いた藤原諸嗣像もお祀りされています

 
「五智水」
大師が錫丈で突いた所から湧き出たと云う霊水です

 
境内に山門はなく鐘楼がありました

 
その前には供養塔、でもなんだか変です。多すぎたり足らなかったりしていますね

 
「熊野権現社」
熊野信仰に篤かった後白河上皇は、熊野権現を勧請し院の御所法住寺殿の鎮守とされた。この神社が新今熊野神社で観音寺はその本地堂として新那智山と号し、熊野修験者の本山に並ぶ扱いを受け多くの堂宇が建ち栄え、文暦元年(1234)崩御された後堀河天皇も御陵を築かれました

 
権現社の後ろ側に、医聖堂へと西国三十三ヶ所札所巡りへの道があります

 
休憩所前の「菩提樹」
ご存知、釈迦がこの木の根元に座って悟りを得たという菩提樹です

 
門前の道標にを進むと「来迎院」がありました
三宝大荒神をお祀りされおり、また、こちらの寺で「寺請証文(寺の檀家であると云う証明)」を受けた「大石内蔵助所縁のお寺でもあります。寄進の茶室「含水亭」や念持仏「勝軍地蔵」
など赤穂浪士の遺品が所蔵されております

 
こちらのお寺の近くにはこの泉湧寺やその塔頭・(七福神巡りで有名)、楊貴妃観音など見所の多い所ですので是非立ち寄ってみて下さい

今回はここまで、階段もほとんどなく楽にお参りさせてもらいました
次回は京都市内4ヶ寺です清水さん以外は平坦な所でルンルン気分で行けそうです
それでは乞うご期待!