C E L L O L O G U E +

ようこそ、チェロローグ + へ!
いつまでたっても初心者のモノローグ
音楽や身の回りを気ままに綴っています

遺されたふたつの門 | 柏飛行場と航空教育隊

2024年11月08日 | ぼくのとうかつヒストリア
以前の柏の葉公園の陶器市の記事
「陶器市とバラ園 柏の葉公園にて」(2024/6/10記事)を書き、同地がかつての旧陸軍の柏飛行場であったことを少し書きました。
今回は、その柏の葉公園付近に残った飛行場ゆかりの部隊の営門を見てのまとめです。


柏飛行場
戦時色が濃くなった昭和13年(1938)11月、当時の千葉県柏町田中村十余二(とよふた)に柏飛行場が完成します。コンクリート舗装の長さ1,500m、幅60mの滑走路1本を持ち諸施設を加え、面積は約264ha(終戦時)でした。工事には付近住民や朝鮮人労働者も携わったということです。

まず、立川にあった飛行第5聯隊が移転、その後、数次にわたって入れ替わりがありますが、米軍の日本空襲が本格化した昭和19年(1944)には第10飛行師団指揮下の第70戦隊(二式戦闘機”鍾馗”で編成)及び第18戦隊残置隊(三式戦闘機”飛燕”で編成)でB-29やP-51を迎撃しました。


二式戦闘機鍾馗の当時の絵葉書(同型機)で、下部に「鍾馗 陸軍省航空本部許可済み」と印刷されています。風防の後部が不自然ですが、元の写真を彩色化するときにうっかり消してしまったように思われます。

「鍾馗」は重戦闘機として計画されましたが、直径の大きい爆撃機用のエンジンを装備したため前方視界不良、航続距離不足、整備作業困難などを招来しました。二式複座戦闘機(屠龍)や三式戦闘機(飛燕)とともに帝都上空の護りについていました。戦後の米軍によるテストでは最も優秀な防空戦闘機とされました。
データ 全幅9.45m、全長8.90m、最大速度605km/h、航続力1,296km
エンジン:ハ109、1,450hp 武装:7.7mmx2、12.7mmx2(『日本航空機総集』第5巻:中島篇から抜粋)


旧陸軍柏飛行場(東部第105部隊)営門
広大な土地に舗装滑走路を有していた柏飛行場の入り口がここでした。この飛行場を管轄したのが東部第105部隊でした。その営門がかつての同じ場所に立っています。当時は、この奥に部隊本部の建物が建っていました。
敷地内には、本部をはじめ、兵舎、格納庫、弾薬庫、被服庫等が配置されていました。また、西側には、陸軍航空廠立川支廠柏分廠が配置され、航空機や車両の点検、整備にあたっていました。さらに南には航空機の技術教育のため、第4航空教育隊(東部第102部隊)がありました。


第105隊の営門全景。(門の左には高田原交番、奥の鉄塔は航空自衛隊柏送信所) 柏市十余二(とよふた)


質実剛健な軍隊の門に相応しいと言うべきでしょうか。後述の第102部隊の門と比べ剥落など劣化が激しいのは、門を通過する車が多いことに加え、前面の県道47号線(守谷流山線)の交通量、特に大型トラックの通行が影響していると思われます。40年前はもっときれいで剥落などはなかったように記憶します。

 
左:上部(笠木部分)にわずかに装飾らしきものが施されています。その上の門灯は失われています。
右:門扉も無くなっていますが、金具の一部が残っています。

 
左:向かって右側の門柱で看板を受けるためと思われる金具が認められ、また壁面にもその痕跡が窺えるのですが、説明板の当時の写真を見ると看板は掲げられていません。門柱全体が剥落箇所が多く、状態はよくありません。
右:両端の門(通用門か)に袴状のコンクリート壁が付帯していますが、土手の土留めのように思われます。


柏の葉公園(柏飛行場跡地)
柏飛行場は、敗戦後は米軍が一時占領、その後に食糧増産のため農地となりました。ところが、昭和25年(1950)の朝鮮戦争に伴い米軍に再接収され通信施設が建設されました(柏無線通信所=キャンプ・トムリンソン)。なお、別途、航空自衛隊柏送信所が開設されています。

やがて、軍事技術や米軍の戦略の変化により柏無線通信所の運用は停止、昭和54年(1979)に全面返還されました。
その後、跡地利用について議論がなされ、昭和59年(1984)に土地区画整理事業が公示、翌年には「柏の葉」という名称が決まり、飛行場だった敷地は住宅、公園、病院、大学、学校などに変貌し現在に至ります。


柏の葉公園通りは緑に囲まれた大通りで、80年前の姿はどこにもありません。当時の兵士や関係者の誰がこの光景を想像できたでしょうか。

 
左:入口の石碑。これはいささか淋しい状態です。(2024年9月現在)
右:公園エントランス


ボート池は、軍用飛行場だったとは思えない平和な風景が広がっています。





上の2枚の写真は、1985年(昭和60)頃に撮影したものです。(同じ場所から方角を変えて撮影したように思います。)柏の葉として開発が開始される直前でしょうか。とにかく広大で、迷子になりそうでした。この写真にはありませんが、ところどころに大きなコンクリートの塊が放置されていたのは、舗装滑走路の残骸だったのかも知れません。


柏の葉公園の北側の風景(奥の建物は東京大学柏キャンパスの校舎)


第4航空教育隊(東部第102部隊)営門
第4航空教育隊は、昭和15年2月に高田、十余二にまたがる地域に開隊した航空機のエンジン、武装、通信、写真等航空兵科に関する「特業教育」を施す教育部隊でした。昭和18年には約3,000名、終戦当時は7,000名超の兵員があったそうです。終了者は各地の航空隊に配属されました。



 

その営門が梅林(うめばやし)第四公園に移設されて残っています。元々は、現在よりも西の梅林第三公園付近にありました。第105隊営門同様、門柱本体のみの姿で実用本位の武骨なデザインです。装飾的要素は見られません。前面道路の交通量の違いなのか、保存状態はよい方です。
現在の周辺は、工業団地や住宅地に変貌を遂げ、遺されたのはこの門柱のみのようです。
公園には不似合いにも見える門柱ですが、入り口に立つ姿は子供たちを見守っているようにも見えました。

撮影日 2024/9月26日、10月2日

Nikon D5600 / AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6 G VR II
AF-S DX NIKKOR 10-24mm f/3.5-4.5G ED

主な参考文献
(1) 柏市史編さん委員会編『柏市史;近代編』柏市教育委員会、2000年3月刊.
(2) 市史編さん委員会編『歴史アルバム かしわ;明治から昭和』柏市役所、1984年11月刊.
(3) 上山和雄編『柏にあった陸軍飛行場;「秋水」と軍関連施設』芙蓉書房出版、2015年5月刊.
(4) 相原正義著『柏;その歴史・地理』崙書房出版、2005年3月刊.
(5) 中村勝、染谷博監修『目で見る柏の100年』郷土出版社、2008年2月刊
(6) 野沢正編『日本航空機総集』第5巻:中島篇、出版共同社、1963年2月刊.

このブログの柏市内にある他の戦争遺跡関係の記事です。