毎年3月は卒業・入学、そして各種団体の総会、更に企業では年度末と、何かと気ぜわしい月でございます。当連合会も総会や、役員の交代など、多忙な日々が続いております。少し一服ということで、久々に神様のお話でも。
私事ですが、毎年正月2日の我が家の恒例行事として、東京都内の七福神巡りをしていた時期がございました。
近県に住する妻方の伯父夫妻と、幼かった子供たちと6人で寒い冬晴れの日を色紙に朱印を戴いて回る半日は、とても楽しい思い出となっております。
以前仏像が好きというお話の中で申しましたが、今回のテーマでございます毘沙門天は、基本的に仏教の各種原典にも登場致しますが、もともとはインドに根付いた神様(仏教では天部と称されますが)でございまして、神仏混交の中で日本風の神様としても、親しまれております。つまり、お寺にも仏像として(中には本尊として)ございますし、神様としても祀られているところがございますね。
七福神はそれぞれインド、中国、日本に起源をもつ7柱の福神であり、室町時代末期に信仰が確立しましたが、その七福神の一柱であり、戦国時代には戦いの神様。そして江戸時代に勝負事の神様として崇められた毘沙門天についてです。
因みに七福神(紆余曲折はありながら、現在では)恵比寿(日本)、布袋(中国)大黒天(インドのマハカーラと日本の大国主の融合?)、福禄寿(中国)寿老人(中国)毘沙門天(インド)弁財天(インド)となっています。弁財天の代わりに吉祥天の時代もあったようです。
この毘沙門天、日本には四方を守護する四天王の1神 多聞天として最初に紹介されました。
仏教が渡来した直後の用明天皇2年、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の戦いにおいて、14歳の後の聖徳太子(存命中にこの尊称で呼ばれたことは無いにせよ)である厩戸皇子が戦況不利な蘇我軍後方にて、白膠木(ぬるで)を伐って、四天王の形を作り、「この戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔を建てる」と誓願をし、その故か味方の矢が敵の大将物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは蘇我方の勝利に終わりました。その後聖徳太子により建立されたのが、浪速の四天王寺であります。
この毘沙門天は、サンスクリット語でVaisravana 「(viśravas) 神の息子」という意味で、父親の名に由来するバラモン教の財宝神クベーラが前身となります。
音訳してビシャモンテン、意訳で「良く聞くところのもの」から多聞天。日本では四天王の一神として多聞天、単独の神として毘沙門天と呼ばれることが多くなっています。七福神では単独なので毘沙門天。
さて、まずはクベーラ神。インド神話の富と(地下に埋蔵されている)財宝の神ということで、地蔵菩薩のモデルでもあります。所謂ヴェーダ時代にも名前は見えますが、千年の修業がブラフマ神(梵天)に気に入られ、神になりますのはバラモン教よりもヒンズー教になってからという方が正しいようです。
ヤクシャ(夜叉)族の王で、セイロンに住み、ラークシャサ(羅刹)族の王であるラーヴァナとは異母兄弟であり、のちに対立して島を追われてしまいます。
その後はヒマラヤのカイラス山にある都アラカーに住します。
クベーラはローカパーラの一柱として、北の方角を守護しますので、その関係で多聞天は北方の守護神となります。
ローカパーラは「世界を守るもの」の意味で、インド神話における4方位または8方位のそれぞれにある神の総称であり密教における十二天の原型とされています。密教の12天には四天王の内、多聞天のみが北方守護として採用されています。
インド神話から仏教伝説では、インドラ即ち忉利天に住す帝釈天に仕え、八部衆を支配し須弥山中腹で仏法を守護する四天王うち、北方の天散城に住み、北倶廬州を守護するのが多聞天となっています。
そもそも密教の明王と同様に、天と名が付けられている仏教のホトケ達は殆どが後にヒンズー教となるバラモン教や、その他の宗教の神々がそのまま取り入れられて信仰されたものです。この辺りが難しい。特に一神教の唯一神を崇める宗教からは、忌避されかねないお話ですが、明治の(一部には江戸時代の国学者の頃から)廃仏騒動以前であったり、昨今の日本の宗教観からすれば、いずれも信心の対象ということで、それはそれで宜しいかとも思いますのですが・・・
バラモンの神々と仏教との交渉は原始仏教時代から始まっており、初期経典でも釈迦の解脱(成仏)にインドラ(帝釈天)や、ブラフマン(梵天)が祝賀に駆けつけたり、仏教を広めるように説得したりしており、更に釈迦の説法を聴いて教化されて仏法を擁護することになるという形で、取り入れられている訳です。
これらの神々は日本も同様ですが、原始的な自然神から発展して来て、具体的な神格をもっているだけに民衆の心を強く支配してきており、仏教に限らず形而上的な思惟を基盤とする宗教がインドに広範囲な興起を標榜する場合には、これらの神々を無視するよりは取り入れた方が、合理的だったのだと推定します。
同様に日本でも垂迹説に毘沙門天は恵比寿神の本地仏とされるなど(そういう意味では両方ともに七福神にいることになるのだが)、日本本来の神々を積極的に取り入れて、仏教は隆盛を極めていくのではあります。
さて、これらバラモンの神々がインドにおいて仏教に取り入れられた時期ですが、経典では仏伝にて前述のように、帝釈天、梵天などが登場します。
仏像としては紀元前2世紀半ばごろのバールハット塔の周囲に設けられている、石の玉垣や門を守護する神として、四方の門に四天王像が、他の種々な薬叉男女神と並んで合掌した貴人像として作られています。
これらの薬叉神が仏教の天部諸神として、それぞれが解釈されそれぞれへの信仰対象と発展していくのは、仏教の密教化に伴ってであると言われています。
さて、毘沙門天に戻りましょう。
四天王を含む諸天のうち独立して大衆の信仰対象となる最初の武神が、毘沙門天であります。日本では奈良時代の西大寺資財帳に同寺薬師金堂と十一面堂に、それぞれ金銅多聞天像と金銅毘沙門天像が、単独像として安置されていたことが記されています。
私事ですが、以前西大寺を訪れた際に拝観した諸仏像の中で、最も鮮烈な記憶では、愛染明王の像がございます。
さて、閑話休題。毘沙門天信仰は、西域のコーダンで盛んであったことは事実であります。須弥山に擬せられたヒマラヤ山系の北側にあることから、毘沙門天がこの地の守護神として信仰されるようになり、更に王城の門を守護する神に転化してきたと考えられます。
時代が下って唐代に敵軍に包囲された安西都護府に、毘沙門天が不空三蔵の祈祷によって出現し敵軍を四散せしめたとの伝説にもよります。
長くなりました。更に中国の封神演義や、西遊記に登場する毘沙門天の一族や、幼少を多聞丸とした大楠公や、自ら化身と称した上杉謙信のお話は次の回(来月になりますが・・・)にさせて戴きます。