このブログでは幾度か日本の神様や神社をテーマにして参りましたが、今回は神社の格付けについてです。
大きな神社には由緒書きや、石柱にその神社の社格が示されていることが多いですね。例えば○○国一の宮とか、旧官幣中社といった類です。更には正一位△△稲荷という幟ですとか。
それぞれに時代や時の権力により神社、そして神様自身も挌付けされておりまして、まず古くからでは式内社と式外社(しきげしゃ)という格付けがあります。
これは平安中期の延長5年(927年)に成立した、延喜式の9巻と10巻(神名帳と呼ばれます)に記載された神社か、されなかったそれ以外の神社かということです。
延喜式自体は律令官制における格式(施行細則と捉えるのが判りやすいかも)であり、醍醐天皇が時の宰相藤原時平に命じて編纂を開始致しました。時平といえば、天神様となった菅原道真のライバルであり、道真大宰府左遷を画策した人物とされており、道真(後天神様)の祟りで39歳(太政大臣)にて病死したとされる敵役であります。時平死後、後に藤原氏主流となり史実として確認される最初の関白となるその弟、藤原忠平が完成させました。お公家さんたち、遊んでばかりかと思いきや、結構仕事もしていたようですねぇ。
これに記載された神社は全国で2,861社、鎮座します神々の数は3,132座でございます。
この式内社にも格付けがございまして、まず官幣社と国弊社でそれぞれ大小があります。
官幣社とは、朝廷で神社などを主管する官である神祇官から幣、即ち幣帛を毎年2月の祈念祭に受ける神社であることを示します。幣帛とは祭祀において神に奉献する神饌以外のものを言います。
具体的には当時貴重であった布、衣服、武具、神酒などであります。
国弊社とは神祇官に代わって国司から幣帛を受ける格式の神社となります。今でいえば国から受けるか県知事から受けるかという違いでしょうか。
現在の感覚からすれば、国幣という方が何となく国立みたいな気もしますが、官は神祇官を示し国は律令の国司をしめすということですね。
時代的にその少し後の平安後期~鎌倉時代に成立したとみられるのが、一の宮という格式でこれは旧国内で最も有力(社格が高い)とされる神社で、各(旧)国にあり場合によっては二宮、三宮まで、場合によっては四宮(相模)という地名に残っているところもあります。
起源としては国司が国内諸神社を巡拝するに当たり一番先に参拝する神社ということのようですが、これは上記の官幣大社のように朝廷や国司が決めたのではなく、諸国の信仰が厚く由緒が深い神社が自然発生的に序列化したもののようです。従って一の宮の祭神が必ずしも記紀等の国の正史に記載の、いわば全国的(当時でいえばグローバル?)に有名な神様とは限りません。
延喜式以降の特別な各付けとして、平安時代中期以降に京を中心に朝廷から特別の崇敬を受け、国家の重大事などに朝廷より奉幣された神社があります。その数は段階的に増え、平安時代後期に22社となりその数が固定され、それら神社の総称を二十二社と呼びました。
格式の高い順から、上七社、中七社、下八社と分けられていますが、全てが式内社ではなく意外に藤原氏のみならず各氏族の関連する神社が含まれているのは、面白いと感じます。
因みに上7社だけ紹介すると当然筆頭は、伊勢の内宮、外宮であり、別格となります。
次が源氏ゆかりの石清水八幡宮、3番目が山城一の宮の上・下賀茂神社で元々は古代賀茂氏の氏神であります。次がお酒の神様で有名な、古代外来氏族の秦氏の神様松尾大社。
元々は平城京にあり桓武天皇外戚部族の神社が、平安遷都に従い京都の平野に鎮座した平野神社。皇太子守護の神社として、また多くの臣籍降下氏族の氏神として有力視されたのでしょう。
次はこれも秦氏の祖霊神が元々のおこりである、伏見稲荷。言うまでもなく全国稲荷社の総本山です。最後にやっと藤原氏ゆかりの春日大社となり、七社となります。
中七社は奈良県(大和)主体となります。
下八社を含めて、京都(山城)、奈良(大和)以外は大阪の住吉さん(摂津一の宮)と、近江の日吉神社、兵庫(摂津)の廣田神社だけとなります。
廣田神社の祭神は天照大神の荒魂(あらみたま)であり、平安後期より神祇伯を独占する花山(かざん)源氏の白川家とのかかわりの深い神社です。
さて、上記は神社の格式となりますが、神様にも格付けがあります。神階と云います。
律令で人臣に授けられた位階と全く同じですが、仕組みとしては文位(狭義の位階)、武位(勲位・勲等)、品位の3種類があります。
さすがに人臣のように初位は無く正六位から正一位までの十五階となっており、良く都内など各地で目にする「正一位 稲荷神」という赤い幟のあれです。江戸はなんせ稲荷社が多い。
勲位については、武勲に対する位階で7世紀から11世紀まで神様にも与えられましたが、以降は授与されていません。
品位は、元々皇族に授けられた位階で、例は殆どなく宇佐八幡の八幡神(応神天皇に比定)に一品、その比売神に二品くらいのようです。何ゆえに八幡さまだけが一品なのかは、別にご紹介したいと考えています。
元々は食封や位田を伴い経済的な基盤となっていましたが、権力の移ろいにより朝廷からの給与は滞り、無くなってしまった後は神格よりも社格の方が重視されていくようになります。
さて、政治権力は平安から、鎌倉、室町、桃山、江戸と貴族に代わり武家の時代となりますが、基本的には神社、神祇伯個々の栄華衰退はあるものの、格式を含めて大勢に変化はなく明治になって大きく変化しました。
律令体制とは中央集権が大きなテーマとして、対外(具体的には新羅・唐に対する)的な挙国的軍事態勢が取れるために、兵士としての人民と経済基盤としての税制を支配するために、当時の中国の体制を元に敷かれましたが、明治政府は更に苛烈な中央集権施策により、この宗教界までもが大きな管理の対象となります。
以前にも申し上げましたが、幕末の尊王攘夷エネルギーは徳川幕府を倒しても、更にくすぶり続け明治政府等の官員になれなかった、極端な国学者を中心に廃仏毀釈の大嵐が吹き荒れました。
そのあおりを受け、神仏が習合していた形態は大きく崩れ、中心であった仏教寺院の僧侶は多く神主に代わりましたし、神社自体も大幅に減少し、その一方で尊王攘夷運動で歴史上尊王(勤皇)派と位置付けられた人物(臣下)たちが新たに神となりました。
正式には近代社格制度と呼ばれて、明治政府が新たに神社に格式を与えたものです。言い方を変えると神社は国家による非常に厳しい管理を受けることになった訳です。
それに応じて社格も律令の名称を踏襲して、「官社」と「諸社」に大きく分けられ、官社には97社が選択され官幣社(神祇官が祀り官幣大社、中社、小社に分類)と国弊社(地方官が祀り国幣大社、中社、小社に分類)に分類されます。
諸社は府県社、郷社、村社に分類され、それぞれの、府(東京、京都、大坂)県(北海道、樺太庁を含む)等の地方から奉幣を与えられました。
前述の歴史上の勤皇的人物(臣下)などは、分類外として「別格官幣神社(扱いは小社レベル)」という制度が導入されました。
以前に紹介した楠正成を祀る神戸の湊川神社などがこれに当たります。
更に村社にも列せられない神社を無各社とし、終戦時には官社218社、諸社49,715社、無格社59,997社であったと記録されています。
敗戦によって政教分離による神社の国家管理廃止に伴い近代社格制度は廃止され(昭和21年2月2日)、以降現在に至るまで当然社格は公的には分類されていません。但し、昭和23年に別表神社として神社本庁が包括している一部の神社に特別な扱いをすることとなりました。
実際の効力などは神職の人事に関する規定(宮司に必要な格式だとか、権宮司を置ける条件だとか)のみですが、選定基準は・由緒、施設、常勤神職数、経済状態、活動状況、氏子数などとなっており、当初は旧官国幣社のみだったのが、現在は300を超える神社が対象となっています。