事件の発端は、狩の使者として業平が伊勢に下向するところから始まります。貞観5年(863年)と推定されます。恬子内親王は斎宮下向後2年目満年齢で15歳。
業平君は左近衛権少将で38歳の男盛りです。
恬子内親王には、母静子から「狩り使いが行くけど、いつもの使いよりも労わってあげてね」ってな文が届きます。まあ静子からすれば、姪っ子の旦那だから宜しく。みたいな感じだったのでしょうか。
親に言われて、結構頑張ってお世話をするわけです。具体的には斎宮というのは、相当大きな組織であり、官人はどうも男女合わせて500人にも及ぶお役所であったらしい。そこのトップである斎宮さまが、個人的にどういったお世話をしてあげたのは、ちょっと想像に余ります。
が、この38歳のプレイボーイ業平君、自分の娘くらいの、しかも妻の従妹であり、絶対的な処女性を求められる伊勢神宮の巫女である、斎宮に懸想してしまうんですね。
この時代から後の光源氏の時代を含めて、妻問婚が基本で和泉式部に例を取るまでもなく、現代から較べても割合にその辺りは自由闊達というイメージはありますが、神に仕える巫女さんしかも伊勢神宮の斎宮の内親王さんはいくらなんでもまずいと思うのは、さえない初老の私のやっかみでありましょうか。
伊勢物語では、寝物語だけで、翌日は狩りの使いが来ていると耳にした、伊勢の守が宴会を催し業平が忍べずに、夜が明けようとする頃恬子内親王が盃の皿に歌を記して渡します。
「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば」
業平がその皿に下の句 「又あふ坂の関はこえなむ」 としるし、夜が明けて尾張の国に向かった。更に「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王(みこ)の妹。
と記されて、終わっております。
伊勢物語では、なまめかしくせつないシーンはてんこ盛りですが、行為には至っていないことと、高階峯緒とみられる伊勢の守の強引な宴による横槍が書かれています。
つまり、証拠隠滅の匂いが芬芬なのは、この伊勢物語の作者が紀氏に連なる紀貫之という説(諸説あり)にも繋がります。
しかし、世間の噂では、このときに恬子内親王が身ごもり、翌年に男子が生まれたことと、伊勢権守の高階峯緒がその子を自身の子息茂範の養子として育てたというのが定説となっております。
峰雄こそ、神祇伯まで登りますが、いわゆる受領階級で以降も地方官主体の高階家ではありますが、この子師尚は父(?)業平同様の従4位右近衛中将にまで昇っております。
これをもって、一条天皇の時代に高階の一族に連なる親王は、伊勢神宮に憚りがあるとて、道長の娘彰子の子後一条天皇の即位の因縁となるのであります。
尤も、この時代に狩りの使者の任命記録が認められないなどの、この説を疑問視する見方もございます。