中国へ行って来ました

3月26日から4月7日までの中国旅行記です

南京

2012-04-22 19:25:37 | 日記
南京



蘇州を出発した私たちは、一路、南京へ。
南京は、昔々、日本人が5千万人殺したと言われてる土地で「日本語しゃべっちゃだめだよ」と、あちこちから釘を刺されていたところ。
さすがに、ほかの土地のように、あからさまに東芝やトヨタの看板は無かったし、日本企業だって解る看板も見えなかった。
人々の暮らしは、上海から離れるに従って、徐々に貧しいものになり、その地域では一番大きい町だと言われている南京でさえ、ほかの土地と比べるとかなり貧しい環境だった。

ここでのメインイベントは、中国を共産党にした孫先生のお墓参り。
彼が、最後の王朝を終わらせて、中国を人民の国にしてくれた偉大な先生。
北京で仕事をしていたのだけど、南京が故郷なのでお墓はこちらに作ったそうな。
階段が、これまた長く、の仏像の階段よりも緩やかだって言うので、せっせと上ってみた。

それもこれも、娘の半分の血は中国人だから、自分の半分をちゃんと見なさい!ってノリなんですが、しかし、きつかった。
幸い、帰りは、待ち合わせ場所からバスまでシャトルバスで送ってもらえたので助かった。
あれ以上は歩けない。。。

南京のもう一つのイベントは、毛沢東の像がある、南京長江大橋。
ここは、道路と線路がダブルデッカーになっている橋で、その橋の麓に完成記念やってきた毛沢東の像を置いて観光地にしている。
もちろん、お土産やさんつき。
買う気が無いから、結構、疲れる。

南京の古い繁華街を自由に散策しながら、ディナータイムを待っていた。
通りには運河があって、川の上にボートを浮かべて、中国のダンスをしていた。
さすがにユニクロは無かったけど、中国のブランドがいっぱいあって、その地域で一番の大都市だと言われるだけあるなぁ。。。と思った。

バスの窓から外を眺めて気づいたのは、軍隊が多いということ。
軍隊専用のガソリンスタンドや、軍事施設など、結構、多かった。
私は、今でも南京大虐殺の意味が分からない。
こんな内陸の田舎町を、日本軍が欲しがるとは思えない。
四方から囲まれたら、あっという間に壊滅させられるような地形を欲しがるとは思えない。
実際に南京に来てみて、本当にそう思った。

ここの人たちは、のんびりとした大陸系の人たちで、おおらかで自由人。
道沿いにいすに座っている女性が居たので、ガイドさんに何をしているのか聞いてみたら、ただ、車を見ているのだという。
なんとフリーダムな。
あらゆることが許されるということは、それだけ多様化した街になっているわけで、乞食からベンツまで同居してるのが中国だけど、南京は平均して貧しく、おおらかで豊かな人たちだった。
もし、この人たちを殺さなくちゃいけない理由があったとしたら、彼らが戦争を反対して軍にたてついたからじゃないか?と思ってしまう。
それくらい、この界隈は、人民解放軍が多かった。




南京最後のイベントは、翡翠のお店に立ち寄ること。
ここで、かなり時間を費やし、早いお昼ご飯を食べたあと、一路、上海へ向かった。
上海に到着したら、また、翡翠のお店。
私たちは英語を話すので、英語のガイドさんがついたのだけど、お義母さんが値段交渉をすると、たいてい、お店の人が怒ってしまって、ここでも、誰も何も買わずに終了。

ところが、中国語のガイドのグループは、翡翠のほかに金も見せてもらったらしく、買い物を待つこと1時間。
通りの向こうにあったお店で、あれこれ買って買いぐらいしながら、暇な時間をつぶしていた。

やっとこさ買い物が終了したあとは、行きたい人は上海雑技団の鑑賞へ。
私たちは、近くのショッピングストリートで買い物をすることにしたのだけど、そこで、ユニクロ発見!!
ファミリーたちはユニクロが何か解ってなかったのだけど、私と娘がユニクロ、ユニクロと騒いでいたので、子供4人と私と娘の6人はユニクロに突進!!

いつも、日本で息子の分と3人分買ってくるのだけど、上海でも3人分お買い上げ。
セール品と春物と、ぎゃあぎゃあ言いながら、日本円で3万円ちょっとお買い上げ。
もう良いです。
荷物いっぱいです。
すぐ帰っても良いです。

晩ご飯は、近くのピザショップでピザを。
本当は上海だから、上海レストランへ行きたかったのだけど、ま、いっか。
行きたかったらメルボルンでもあるし、子供たちの行きたいところで楽しんでもらえたら良いなと。

これで、上海からのツアーは終了。
お次ぎは、北京偏。