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あなたのそばに一冊の詩集を
http://blog.goo.ne.jp/chutashigeru
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無関心でいること、忘れ去ること
2014/04/30 水曜日
「たいした問題じゃないが」(行方昭夫編訳、岩波文庫)を読んでいたら面白いエッセーに出会った。翻訳なので原文の英語の味は伝わって来ないが内容は読める。リンド「無関心」と「忘れる技術」の二編が秀逸。
リンドは「我々が日々の仕事をきちんとしようと思ったら、人間的な多くのものと無関係でなくてはならない」とローマの喜劇作家テレンテイウスの有名な言葉「人間にかかわることですべてわたしに無関係なことはない」に対峙して書いている。
テレンテイウスの言葉は、K.マルクスが、娘のラウラの質問に答えて好きな格言に挙げた。それは気楽なお遊びだったのだがマルクスの答えはそれを信奉した者に重く影響した。
イタリアファシズムと闘ったイタリア共産党の創立者のひとりA.グラムシに至っては「わたしは無関心な者を憎む」と書いている。政治的無関心はファシズムの土壌ということになったのだ。
どうだろう。現在の日本では福島原発の爆発に無関心な者はどうなのか。関心の在る者はさまざまな情報をあらゆる角度から検討して仔細に事態を追跡するのかもしれない。しかしわれわれは私有財産制度下の貨幣システムのなかで暮らしている。日々の生活費の獲得のために余念がない。
社会は多くの労働の元で成り立っている。人は仕事をして暮らしているのだ。わたしのように昼間散歩と入浴で一日終わってしまうような馬鹿者とは違う。リンドの言う通り「日々の仕事をきちんとしようと思ったら」無関心であらねばならない。そうでなければ多くの仕事が「きちんと」なされなくなるのだ。社会生活が一日も成り立たなくなってしまう。
無関心であることはおそるべき能力なのかもしれない。地球の裏側でわたしの暮らしに仔細に関心を持つ者などいないのだ。ひとつの仕事をやり遂げるためには多くのことに無関心でなければならないのはリンドの言う通りではあった。
リンド「忘れる技術」も秀逸だ。リンドは「国家は自らが犯した罪は覚えておき、蒙った被害は忘れろということである。言うまでも無く、記憶力はこれと全く逆に働くというのが問題である。通常、我々は記憶したいことのみ記憶するのであり、それは蒙った被害であり、他者に与えた害でない。」と書いている。
ことさら政治問題にかかずらうわけではない。人は自分の人生で起こったことを細大漏らさず覚えているような人もいれば、今朝あったことを夕方にはきれいに忘れ去る人もいる。一般に記憶は世上の高い評価を得るものだが、忘れる能力をあなどるわけにはいかない。人間関係の上で蒙った被害をいつまでも根に持つのはあまり勧めたものではない。忘れることが清潔な精神的能力の場合があるのだ。
覚えていたところで経験値に値しないことがある。さっさと忘れてつぎつぎと展開する日々のできごとに対応した方が対応能力が高い場合もある。
さてここでわたしはなんのことを言っているのだろう。わたしはマルクス主義者だったから「すべてのことに関心がある」のを良しとしてきた。こどものころからほぼ自分が二歳の幼児だったころからの記憶であたまがいっぱいになっている。そしていまや「日々の仕事をきちんと」こなせずポンコツの老体になってしまった。収入も無く妻に養われているのだ。ということはわたしの妻は対極にある。妻は「すべてのことにおいて関心」が無く、今朝あった会話も夕べには忘れ去る。そして日々の仕事をきちんとこなして一家を支える。
どうなんだろう。無関心と忘れ去る能力はあなどるべきことではない。怖るべき能力なのかもしれないではないか。
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詩人の部屋
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0001338113.html
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無関心でいること、忘れ去ること
2014/04/30 水曜日
「たいした問題じゃないが」(行方昭夫編訳、岩波文庫)を読んでいたら面白いエッセーに出会った。翻訳なので原文の英語の味は伝わって来ないが内容は読める。リンド「無関心」と「忘れる技術」の二編が秀逸。
リンドは「我々が日々の仕事をきちんとしようと思ったら、人間的な多くのものと無関係でなくてはならない」とローマの喜劇作家テレンテイウスの有名な言葉「人間にかかわることですべてわたしに無関係なことはない」に対峙して書いている。
テレンテイウスの言葉は、K.マルクスが、娘のラウラの質問に答えて好きな格言に挙げた。それは気楽なお遊びだったのだがマルクスの答えはそれを信奉した者に重く影響した。
イタリアファシズムと闘ったイタリア共産党の創立者のひとりA.グラムシに至っては「わたしは無関心な者を憎む」と書いている。政治的無関心はファシズムの土壌ということになったのだ。
どうだろう。現在の日本では福島原発の爆発に無関心な者はどうなのか。関心の在る者はさまざまな情報をあらゆる角度から検討して仔細に事態を追跡するのかもしれない。しかしわれわれは私有財産制度下の貨幣システムのなかで暮らしている。日々の生活費の獲得のために余念がない。
社会は多くの労働の元で成り立っている。人は仕事をして暮らしているのだ。わたしのように昼間散歩と入浴で一日終わってしまうような馬鹿者とは違う。リンドの言う通り「日々の仕事をきちんとしようと思ったら」無関心であらねばならない。そうでなければ多くの仕事が「きちんと」なされなくなるのだ。社会生活が一日も成り立たなくなってしまう。
無関心であることはおそるべき能力なのかもしれない。地球の裏側でわたしの暮らしに仔細に関心を持つ者などいないのだ。ひとつの仕事をやり遂げるためには多くのことに無関心でなければならないのはリンドの言う通りではあった。
リンド「忘れる技術」も秀逸だ。リンドは「国家は自らが犯した罪は覚えておき、蒙った被害は忘れろということである。言うまでも無く、記憶力はこれと全く逆に働くというのが問題である。通常、我々は記憶したいことのみ記憶するのであり、それは蒙った被害であり、他者に与えた害でない。」と書いている。
ことさら政治問題にかかずらうわけではない。人は自分の人生で起こったことを細大漏らさず覚えているような人もいれば、今朝あったことを夕方にはきれいに忘れ去る人もいる。一般に記憶は世上の高い評価を得るものだが、忘れる能力をあなどるわけにはいかない。人間関係の上で蒙った被害をいつまでも根に持つのはあまり勧めたものではない。忘れることが清潔な精神的能力の場合があるのだ。
覚えていたところで経験値に値しないことがある。さっさと忘れてつぎつぎと展開する日々のできごとに対応した方が対応能力が高い場合もある。
さてここでわたしはなんのことを言っているのだろう。わたしはマルクス主義者だったから「すべてのことに関心がある」のを良しとしてきた。こどものころからほぼ自分が二歳の幼児だったころからの記憶であたまがいっぱいになっている。そしていまや「日々の仕事をきちんと」こなせずポンコツの老体になってしまった。収入も無く妻に養われているのだ。ということはわたしの妻は対極にある。妻は「すべてのことにおいて関心」が無く、今朝あった会話も夕べには忘れ去る。そして日々の仕事をきちんとこなして一家を支える。
どうなんだろう。無関心と忘れ去る能力はあなどるべきことではない。怖るべき能力なのかもしれないではないか。
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