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鼓曲萬来

音際に強い人

病院に運ばれた時まわりの奴らから

「本当に軽くすんで悪運が強いね」とか
「不幸中の幸い」とか言われたけれどww
こういった窮地の中で「火事場の馬鹿力」なんて ものを発揮する
人間の根源的な力の源はどこにあるのかと考える事があるんだ
非常にオカルトチックな事ではあるんだけど
決して偶然ではないような気もする
 
よく野球やサッカー等を見てると「球際(たまぎわ)に強い」なんていう表現があって
ぎりぎりの処の競り合いで、多少芯を外しても強引にヒットに持っていけたり
ディフェンダーの強烈なタックルを受けながらも
しっかりとボールをキープできる
そんな、いわゆる勝負処の修羅場、
ギリギリの場面に強い選手を「球際に強い」と表現する
 
それは多分に偶然性を伴う事も、精神論に傾く事もあるけれど
結果オーライの状況から
相手側にとっては非常に嫌な存在,味方にとっては頼れる選手という事になる
 
何故こんな話をするかといえば
音にも「音際(おとぎわ)」というものがあって
そんな「音際に強い打楽器奏者」を目指してきた
 
そういう表現は解りにくいという方もいるだろうから
わかり易く言えば
「淡白な演奏をしない」
「ギリギリ最後迄あきらめない」
そういった演奏の心構えから派生する強さである
 
まあ、打楽器にしろ、歌も鍵盤もラッパもギター、ベースも
あるいはDJのMCの切れ具合もそうだけど
音際というか離れ際というか、四拍目から1拍目への戻りとか
色々と肝なところは有るんだろうとは思う
 
ところがデジタルな音楽が主流となってからは
そういった際の機器の意思の強さに改めて驚愕する
なにしろ奴らは「気を抜かない」のだ
「集中力が途切れない」のだ
そういった精神論からくる僅かな揺れさえも数値に置き換えて対処もしてくる
そもそも、段取りによって構成されているので
揺れとか歪みとか偶然に対処する等という「際の強さ」等は必要が無い
常に球は芯で捉えるしボールは足元に正確に捌かれる
 
では、お前はそういった感覚を取り入れて
そういった演奏を目指すのかというと、それは違うような気もするし
反対に超アナログ感満載の「あの時代のタイム感」に固執するかというと
それも違う...
 
例えば、僕は60年代の音とかとても好きなんだけれど
あの時代、音とかファッションは革新的でエネルギーに溢れていて
若い奴らがそういう時代の音やムードに憧れるのもよく解る
 
だけど、この国に於いてはそれ以外の60年代ってのは
今よりも偏った偏見と差別感は数倍激しく
しかもそういった気持ちの方達が社会を構成する大半で
簡単に例えて言えば「男のくせに髪なんか伸ばしやがって」等というww
関係する周囲の目線に耐えなくてはならない
そんな何をするにも常に戦っていかねば何も出来ない
革新的な志向等は圧倒的多数決でつぶされるという
本当に納得いかない、虚無感に溢れたそんな時代でもあったのだ
 
だから、音に限らず、あの頃の自分に戻ってはみたいけど
決して「あの時代に戻りたい」等とは思わない
 
ちょっと話はそれたけど
今、自分は改めてドラムという楽器や和太鼓等と言う
超アナログなものに向かって演奏している
集中力が歳のせいで衰えてるなと感じる時や
疲労も以前より早く訪れる時等は
「いっその事、デジタル打ち込みにした方がコンセプト的にも正しくないか?」
と、思う事もあるんだけれど
やはり生の演奏にもこだわりたいのだ
 
実は何か、最近の音に「音際の弱さ」ばかりを感じてしまっているのは事実で
 
なんとか「音際の強い、今の音」
そいつを表現出来たらとは思うのだけど
試行錯誤ばかりで答えは今の処まだ無い。


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