1 西洋画と墨絵
たとえば西洋画、油絵とか水彩画等に於いては光と影という認識から、
白は白色、あるいは何も描かれていないという認識であるが、
墨絵に於いては白は無色、白色ではなく、余白、つまり空間であり、
ここに風情、緊張感がみなぎって絵が完成されていく。
余白の観念は和太鼓の演奏に於いて重要な部分を持つ、
即ち打音が墨の対象物であるとすれば、
音の出ていない部分は余白と捉え、
打つ姿勢であtったり、表情、雰囲気、
そしてなによりも奏者の生命力を打音だけに留まらせず余白に漲らせていく事が大切となる。
2 一ぬけ二すじ三役者
演奏に当たっては、ぬけ、即ち目に見えない物、心に伝わり届いていくもの、
そういったメッセージであったり、
何をつたえるのか、伝わるのかを第一義として当たることが大切である。
そしてすじは構成力、テクニックであったり、曲を覚えていくといった
日々の練習で習得していくもの、
すじみちであり和太鼓の技術向上を含め学んでいくものである。
三に役者、これは自らの人格を含め人となりが演奏に表れるという事であろうか...
自らの人間力を磨いていく事である。
おおよそキャラクターに頼りがちになったり、
テクニックに溺れるといった事になりがちであるが、やはり1ぬけと自らに言い聞かせて練習に励む事が大切であろう。
3 太鼓打面、皮と胴の認識
演奏にあたっては皮の中心を少しはずして打つことが望ましい、
何故かと言うと太鼓の胴の内側と関係がある。
つまり太鼓の内側は各々の方向にカンナで削られ凹凸が付けられている、
これは皮から出された信号を胴内部で乱反射させるため、
つまり出た打音が胴に伝わり、胴鳴りを引き出さんが為である。
太鼓の内側を見てみますと、これは綺麗に削ってある訳では無く、
鉋等でギザギザに削ってあるのです、(これが他の打楽器とは違う所で)
つまり
皮を打った振動が此の内側のギザギザに乱反射して胴鳴り、
つまりあの独特のドーン!という響きになるのです。
我々長く演奏するものは此の所謂タイムラグとも言うべき(表現しますと
*皮を打つ*少し経ってドン!
此の感じ、身体で把握はしていますが..
曲作り..即ちオリジナル等を作る時にジャストの感覚で
頭の中でフレーズとかを組み立てて参りますと、
いざ演奏の段になって「ありゃ?ちょっとイメージと違うかな?」
なんて感じが襲って来てしまうのです。
4 去る手
皆様の中にもお稽古事や習い事をなさってらっしやる方もおいででしょうし.
.所謂CLASSICというジャンルの方もおいででしょう..
何が言いたいかと申しますと、すべからず、此の伝統という領域には即ち..
「決まり事」と言うものがある訳です..
決まっている事だから変えてはいけない..と言う奴ですな。
和太鼓にも色々とありまして..例えば「右手を中心にして打つ」..
これなぞはやはり西洋音楽の打楽器奏者には不可解な代物とも言えます、
先日も「何故左手はだめなのか?」..と、
まあ..一つ間違えれば差別問題にも繋がってしまう此の問題..
私らも「右手で」と.師からは頂いている訳で、
そう聞かれますと「駄目だから..駄目なの!」としか答えようが無い訳です..、
まあ理由の幾つかは教えて頂きましたが..
例えば左手で打つ、と言うのは「去る手(さるて)」つまり不祝儀を表す、
であるとか.天地陰陽五行の影響から..右手で強く打つのが天!
そして左右で弱く打つのが地!(テレツク)と譜面に使う手と強さまで指定されまして
、(反面これを決まった手で打つと揃って美しい訳ですが)
どうして?もっと楽に打てないか..と考えた事も確かにあった訳です。
更に言えば..その不自然さ..で在るからこそ..
人に非ず(ひとにあらず)..即ち神の領域の一端を表現する事が出来る...とも。
そこでもうちょっと調べて見た所、どうも此の考え方は中国方面から流れて参った様です、..
それまでの我が国は..と言えばどちらかと言うと左優先の在り方だった様ですな..
思想的に。
従って左右の打ち方に関しては根本的には執われる事は無い..と言う事でしょうか。
鼓絆..此の絆と言う解釈、これは我々は「程よい距離感」と解釈しております..
近からず遠からず、..そう言った意味では..鼓絆は今の太鼓..
そのような事に執われる事はございません、
反面、又、伝統の曲もやはり良い距離を保ちつつ
「決まり事だから..それはそれで、きちっと知って行こうじゃないか..」..
と大きく受け入れて行く..そんな太鼓の姿が望ましいかな..とも思いました。
5 起承転結と序破急
およそ邦楽においては序破急の認識が用いられる事が多い。
起承転結が始まりから終わりへと進む直線的なものとすれば、
序破急はいわゆる円運動と捉えていく事が大切である、
始まり終わり始まるといった感覚、
そしてその円運動の中に突如として生まれるものを花と呼ぶ。
花は自らに咲かすものではなく、相手に咲かせようとするものでもない、
自らと相手の間に突如として生まれ出ずるものである。