京都の河原町に「ママリンゴ」というクラブがあった
しょっちゅう喧嘩や揉め事があるやばい店で
男性だけでは入場不可、必ず女性同伴が規則
逢った途端に見知らぬ誰かと恋が芽生えそうな
そんな感じの店は今皆無だけど
何故か不思議にこの時期の
雪が降りそうな寒い日によく思い出す
亡くなったアイ高野がよく
沖縄での最後のゴールデンカップスの話をしてくれた
なんでも、楽器もなにもかも仕事場の火事で消失してしまい
時さんの「これで....終わったな」という一言で
ゴールデンカップスの歴史も一旦は幕を閉じたそうだ
その時さんが京都で仕事があるという事で
旧知のメンバーを誘って
ママリンゴという名前に変えて再びバンドを始めたのが
ここ「ママリンゴ」という店
メンバーは
時さん(デイブ平尾)
ジョーちゃん(柳ジョージ)
マーちゃん(ルイズルイス加部)
モッチン(アイ高野)
という
案外カップスファンの方でもこのバンドの事を
あまり知ってる方も多くはないと思うのだが
この後ジョーちゃんはレイニーウッド
マーちゃんはリゾートやJ,L&C
そしてモッチンはクリエイションに
活動の先を開げていく訳で
つまり日本のロックがメジャーな路線に乗る前の
その間の本当に僅かな時期
ここにPart1でも触れた
ハルヲフォンに一時在籍したドラムの金澤淳
そしてダウンタウンブギウギバンドを抜けたばかりの
ギターの蜂谷という布陣で演奏していたのだが
入れ替わりも激しくてその都度メンバーも見に行く度に替わっていた
当然こういう時のカップスは
いや、時さんのやり方は
打ち合わせなしのぶっつけで
やれる曲を片っ端からという感じだったけれど
其の分、自由で肩の力を抜いて
自分たちも楽しんでいるというそういう感じだった
しかし、この時のママリンゴのメンバー(ゴールデンカップス)は
全員亡くなってしまったし
となれば実際にママリンゴで演奏したバンドマンはもう極僅かだろうし
あの沢田研二さんの「悪魔のようなあいつ」でしたっけ?
あの劇中の挿入曲「ママリンゴの歌」も
その曲目の意味も段々不明になっていくのだろう
ママリンゴのステージは5人も乗れば一杯になってしまうような
狭いステージだったけれど
フロアは連日、女性客で一杯になっていた記憶がある
村八分をやめて数年後
近田とハルヲフォンをやっていた頃
あれは確か裕也さんのワールドロックが終わった大晦日
ギターの小林とそのまま車を走らせて
翌月1月間の箱の契約でママリンゴに向かった
店長やフロアの名物主任、鶴ちゃんは
村八分の頃から知っていたし
富士夫や青ちゃんとこずかい稼ぎもよくさせて貰った事もある
ママリンゴにはバンドの寮があって
そこからの雪景色や庭の風景が
心底に焼きついていて
寒い日=ママリンゴの図式が出来上がったのかもしれない
其のときのメンバーは
寺田十三夫
小林克己
入江寛(五輪まゆみのベーシスト)
それに
私と、
ギターのサポートに山岸潤史という
そんなメンバーで
そんな中に、時さんやマーちゃんが毎晩遊びに来て
一緒に演奏したのもよく覚えているのだ
ママリンゴが出演していた当時
関西もまだ演奏出来る場所も少なくて
山岸達、関西のミュージシャンやブルースマンも
まだ東京に出てくる前の頃だったと思う
夜な夜な関西のミュージシャン達との交流が盛んに行なわれていたし
時さんやマーちゃんはいつも彼らの中心だった
今は有名な関西のミュージシャン達も連日訪れて来て
時さんはそんな彼らをステージにどんどん乗せて
歌わせたり演奏させたり
また自分も相変わらずの
グラス片手にMOJO WORKING
そして勿論、カップスのステージは彼らの憧れの対象でもあった
その後、関西のバンドが大挙して東京で活躍を始めるのも
表には出てこない事かもしれないけれど
このママリンゴでのセッションや交流で得た影響が
実は大きかったのではなかったのかとも思うのです
ママリンゴの唄
いや、今、こんな雰囲気の店があったらなと
心からそう思う訳ですが
あの時代だったからこそ
いや、デイブ平尾というあの人柄があって
出来た雰囲気なのかもしれません
よく自分の事を
「リードヴォーカルなのに、どうじょ~♪だけなんだ」
なんて言って周りを笑わせて
揉め事や問題があると
必ず、「どおしたの~?」なんて言いながら
丸くその場を納められるような
親分気質の正真正銘のカップスのリーダー
我々後輩にも優しく接してくれた
その時さんがいなくなって大分たつけれど
ママリンゴの扉を酔っ払って
「ひヨウ~!」なんて言いながら
登場する姿を今でも忘れられない
僕たちの夜明け(Dawn of our)/(デイブ平尾)