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鼓曲萬来

Rock'n Roll My Way ⑨ ハルヲフォン4

1977
ハルヲフォンレコード

二枚目のハルヲフォンレコードはその頃の俺達のLIVE感を良く現していると思うよ。
 
一枚目はいわば「パーティパーティ」ぐらいで後は結成当時の作品が多かったから、
自分達のいわばハルヲフォンサウンドというのは
この作品で一種の完成型になったと言えるんじゃないかな。
 
つまり構造が完成されてたから、自分自身は何をすればよいか、
各々が各々で理解して演奏する、
従って完成を予想して組み立てて行けば
そこにおのずとハルヲフォンレコードはあるわけだ。
 
楽曲は全曲近田の作品、そして一曲、前述のいきさつから
郷ひろみの「花とみつばち」が「POPSメドレー」として挿入されて来たんだ。

「HULLY GULLY」はBEACH BOYS PARTYの中のヴァージョンが元ネタ、
「DO YOU LOVE ME」はコントアーズがオリジナルで
デイブクラーク5なんかがやってたけど、俺達のはホリーズのヴァージョン、
「ACTION」はフレディキャノン、レンバリーだったかな?
俺達のはポールリビア&レイダースのヴァージョンだったと思う。
 
つまり構造的には50年代の曲を60年代のバンドがコピーして、
それを俺達がコピーするといったものだ、
それに御存じ「花とみつばち」をかきまぜてゴッタ煮にして、
カオスのエンディングを迎えるという手法だ。
此の曲のエッセンスなんかは俺達のLIVEではお得意のパターンだったんだ。

ORIGINALの方の調理法は近田の才気溢れる曲をベースに>
『わからないように無意味な変拍子』>
『今回は転調、それも通常にはあまりない半音下がる転調』>
『一度五度シャープファイブモデルベンチベベンベース』>
『桜田淳子風シンセソロ中華味』>
『ROCKの国からこんにちわギター』>
『ただスピード感だけの、周りは何拍でも俺には関係ないもんね一拍ドラム』を次々に加えて
 
最後に>>『だからどうなのよ?と言われればすいませんとしか言い様のない、
敗者的論理に基ずく考察による、状況解説者風第三者的見解の、
深い意味あいの感じられるような
責任感の乏しい歌詞』を付けて完成、という具合だ。
 

ハルヲフォンレコード 

 

雨の日とカーペンターズ

もしもだよ..もしも此の頃のハルヲフォンのステージがどこかで見られるなら、
俺は30年経った今でも高いチケット代出したとしても絶対見に行くと思うよ、。
 
勿論客としてだけどね。
やる曲もステージングも兎に角オリジナリテイとエネルギーに満ちあふれてたよ。
その上殊に群を抜いていたのは近田のMC、
あんまりうますぎるから、俺達からハンデまで与えられたぐらいだ。
 
(例えば、最初のMCは楽屋でメンバーの一人が
唐突に思い付いた事を紙に書いておくんだ、
それを近田のマイクスタンドにマネージャーが貼って、
それを読んでからじゃないとMCしちゃいけないというルールに決めたんだ。
従って最初のコメントは現場の状況に全くそぐわないこういう感じになる。

近田「えーと....、(読む) 皆なさー! 
雨の日とカーペンターズっていうアルバム聞いた事あるだろー?」
するとファンの娘たちが「聞いた事なーい!」とか「アタシあるー!」とか
口々に大声で叫ぶのだ。
俺達はもう体が震える位可笑しくって、
それ書いたメンバーを心の中で大きな拍手しながら、
下を向いてもう立っていられない位だ。
 
何故って、>近田に雨の日とカーペンターズだぜ、
しかも奴はなんとかそれから話のつじつま合わせをして
ステージを盛り上げなきゃならないんだ。
 
どうするんだろうって、
もう、のっけから死にそうに可笑しいだろ、
だけど近田はなんとか盛り上げるようにまとめちまうんだ、だから奴は凄いのさ。
やがてその才能は「オールナイトニッポン」のパーソナリティーとして
開花していく訳だ。
 
オールナイトニッポン

「オールナイトニッポン」は仕事が跳ねてから、俺や小林と分かれて、
近田とタマは深夜有楽町方面へと向かう訳だ、その内容は皆なが知ってのとうりさ、
まあ、内容はいつも俺達が楽屋で話していた様な事で、
あんなに受けるとは正直言って俺は思わなかったよ。
 
その頃、小林は四人囃子のギターやアルバトロス、柳ジョージとレイニーウッド、
「小林克己とギターを弾こう」なんて企画で、
ギター教室の先生の道を切り開き始めた。
解散に向かうきっかけが出始めた頃だな。
俺はその年の暮れの「祐也さんのオールナイトコンサート」が終わって、
そのまま京都に向かった。
 
ママリンゴっていうクラブで正月から、
山岸潤史や寺田十三夫なんかとSESSION仕事でVOCALをしていたんだ。
 
そんな感じでメンバーは仕事以外あまり普段顔を合わさなくなって行った、
昔は毎日一緒に遊んでたんだけどね
(TVの仕事なんかが増えてたけど、勿論仕事は皆なきちんとこなしてはいたんだが)。

近田も俺達も此の頃、各々ソロになってやりたいんじゃないか?どうなんだろう?、
そんな雰囲気もすこしずつお互いに感じ始めてはいたんだ。
 
やんしゅうはもういいや

どうなんだろう?このままやっていても
このバンドはセールスには結びつかないんじゃないか?
確かに作品のオリジナリテイには自信があったんだけどね。
 
音楽シーンの状況はといえば、昔の仲間達は次々と解散して行ったんだ、
あれだけブイブイいわしてた奴等がね...。
変わってフュージョンとかフォークに毛のはえたようなROCK BANDが
女々しい歌唄うような
そんな時期でもあった。
 
ところでさ...その頃俺達は自分達の事を「やんしゅう」って呼んでたんだ、
北島三郎さんの歌にあるじゃん..「どうせ..おいらは、やんしゅうかもめ~」あれさ。
簡単に言やさ、男気一本の仕事に生きる男、
お調子もんでさ、頼まれりゃいやとは言えない海の男!
時代は移り変わろうとこのニシンバで一本釣りにこだわります!
そんなイメージを自分達のステージにオーヴァーラップさせてたんだ。
 
プロだからね、仕事の時なんかは、それこそお客様の為ならなんでもやります...
そんな姿勢だからね、客はもっともっとって要求してくるわな..、
営業なんかはもう>「やんしゅう物」一本だよ、昔からそういう曲ってあるだろ、
例えばさショッキングブルーのビーナスみたいな奴さ、
やる方はつまんないけどイントロがかかるだけでウワーッ!てなる奴、
 
それに輪をかけてハルヲフォンの場合は
ストレンジで誰も知らないけど、
私達は知っていますのよ、ホホホみたいな曲もやらなきゃなんない、
売れない上にさ、妹にTVで女子高校生の制服姿のところを見られちゃったんだ、
妹の同級生は原由子(サザンの)でね、クラスメートにもこう言われたそうだよ、
「つねの兄貴さ、昨日女子高生になってたよね?」ってね。
 
渚にて?

今だったらさ、ちょっとオリジナル作る為充電します...
よって少しの間休業!なんて言えたんだろうが、その頃はそうもいかなかった。
 
バンドはね.昔から言わば待つのが仕事みたいな所があってね、
チャンスが来るのを苦しくてもジッと待って継続して行くのがBESTだそうだ。
 
でも俺達は東京生まれの江戸っ子さ
(赤坂生まれよ!、まして30前だぜ、そんな悠長な生き方出来る訳ないだろう、
ダメだったら次ぎ行ってみよう~の方なんだよ、せっかちなのはしょうがないわな)。
 
それでもその頃の俺達のLIVEは
そんな気持ちを吹っ切るようにスピード感に溢れていた、
せんたくばさみを付けた近田のメイクはもう浅草のエノケンのように不気味であり、
カウントとって曲に入る程悠長な素(す)の時など一秒もなかったんだ。
 
まさに>>「エレキギターが砂を噛むような」<<音、
他のバンドの友達からは会うと
「どう、最近ジョン、ジョンしてる?」なんて訳のわからない挨拶をされたぐらいさ、
 
其の位ハイテンションでスピード感のある轟音、
まさに電撃的な生っ粋の東京のエレキバンド、
LIVEでは俺はもうハイハットなんかいらなくなって
セットからはずしてしまっていたんだ。
アンサンブルとかリズムとか、音なんかもうどうでもよくなっていたんだよ。
 
ヴォーカルマイクにスネア、小さなバスドラにシンバル3枚だけ、
アナーキーなセットを思いっきりぶちまけた。
(後年BOWIEのドラムになった、マコトはまだ若くて、
此の頃けなげにも、ROCK FESで俺のバスドラがすっ飛んで行っちまわないように
手で押さえてくれたりしてくれてたんだ、俺は忘れないよ有り難うよマコっちゃん)。

でも水面下では色んな動きがうごめいていたよ、
さあてと次、俺は何しようかな?ってね。
 

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