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鼓曲萬来

Rock'nRoll My Way ⑮ PEGMO1

PEGMOに至る経緯ですが

村八分~ハルヲフォンと70年代を過ごして、
しばらく、箱に入ってこれからの先の事を考えつつ
毎日を六本木の箱で営業ドップリに浸ってた訳なんだけど
昔の仲間たちは新しいバンドを作って活動を開始していたんだ
富士夫はTEARDROPS
近田はVIBRASTONEといった具合に
 
で、自分はと言えば、そういった箱バン生活だけでは物足りなくなっていたのも事実
何か自分でも生涯現役と決めた以上
そろそろ新しい事を見据えたアルバムでも作りたいと言う事で
僕は仲間に声をかけてバンドを結成していく事になる.
時代的には和太鼓で西野に巡り会った頃、
そして毎晩六本木のROCK'N ROLL HOUSEで演奏して暮していた頃にね
 
四人囃子

ハルヲフォンで活動中、特に仲が良かったのは四人囃子だ..
初期の頃から交流が有って、互いに縁があった..と言うか、
一緒にステージで共演した事も多かったし、
何より業界で言う所のバーターなんて荒技も、
困った時はお互いさまで小林は森園の代わりに演奏した事もあるし、
その森園は一時ハルヲフォンのギタリストでもあった。
なにより昔の僕の営業バンドのドラマーは岡井大二だったし、
奴は根っからのデイブクラーク5ファン、
リヴァプールサウンドを中心によく一緒に演奏したものだ。
 
そうそう.大二と初めて会った時の話に戻らなきゃこの話は進まないね
 
奴と初めて会ったのはまだハルヲフォンがレコードデヴューする前の話なんだ
新宿にスカイラウンジロイヤルというバニーガールがいる店がビルの5階にあってね
そこに近田と高木の3人で
デユーク柏淵とビブラトーンズというバンド名で
ピアノトリオとして月極の仕事に入ってたんだ
 
デユーク柏淵って誰?って話だけど
これは近田の芸名、ちなみに俺は和厳法螺銅弁、凄い名前だろ
芸名どうするって近田が聞いてきたから
歌舞伎町で演奏する以上
「なんか喧嘩が強そうな強豪な名前がいいな」って答えたら
近田が考えて来たって訳さ
 
今でもこの頃を知ってる奴らは俺の事をドーベン或いはベンちゃんって呼ぶのは
こういった理由からなんだけど
高木は玉事喜八朗って事で
黒のスーツ着て毎晩演奏してた
 
これはピアノトリオらしく、
演歌とかスタンダードのバンド名って事でそう付けたんだけど
そうそう、その後の近田のバンドはビブラにスを付けたり
ビブラ ストーンズになったり
この源流(デユーク柏淵とビブラトーンズ)は後々受け継がれて行く事になる
 
 
まあ、そんな或る日、なんかの用事で高木が休みという事になって
誰かベースのトラ入れなきゃって事になってね
そこにマネージャー同士が知り合いという関係で連れて来られたのが大二だったんだ
 
長髪、そしていかにもアマチュアの人って感じだったから
いきなり近田がかましたわけさ
 
「あのさ~、君、弾かなくていいから、そこにベース持って立ってて!」
ちゅうことで.....演奏はドラムとピアノのヂュエットで始まった
「ボラーレ」とか「恋はフェニックス」とかやって「蜜の味」になった時かな
弾くな!って言ったのに、ベースの音が聞こえてくるんだよね
 
其のときの気持ちというか
なんていうのかな....普通はこういった立場の奴は大体言われた通り
業界で言うところの「たちんぼ」に徹するのが当たり前なんだけど
弾くかこの場合....良い根性してるわ
だけどね、反面正直なところ「面白い奴だな」なんて思ったんだ
 
で、休憩時間に楽屋で話になってね奴が言うには
「今度、近くの新宿GoGoアシベでやるんです、近くだから見にきてくださいよ」
まあ、先輩に対して生意気な奴だなとは思ったけれど
そういう奴は嫌いじゃないから
二人で数日後そのバンドを見に行ったわけさ
 
そしたらふざけた話でね
べースは見知らぬ奴が弾いてて
あいつ何処にいるんだって探したら
ドラム叩いてるわけさ
「なんだ、あいつ本当はドラムなんじゃん!ふざけた奴だな!」
これがその時の印象だった訳です
やる曲はピンクフロイドww
当然お客は全然踊れないわけでww....。
 
又、バンドやってみよう

話は結成時に飛ぶけど
俺は2曲程オリジナルを作って..大二に電話した
その頃四人囃子自体がバンドとして機能していたかどうかは記憶に無いんだ、
ベースの佐久間はプラスティックスで活動し始めた頃だと思うのだけど..
ピテカントロプスなんて80年代ニューウエーブの店ができたり
大貫憲章はロンドンナイトなんて沢山のロッカーを輩出するイヴェントを始めた頃かな
 
音楽産業もしかりで、
なるべく低予算で高利潤を産める仕組みが出来上がって来ていたし、
制作会社、権利関係..昔に比べればもう格段の進歩、
日本のROCKなんて呼ばれた代物からは想像が付かない程、
ビジネスとしての構造は進歩していった。
 
そんな頃、当然恐竜の滅亡と一緒で、
その変化に付いていけないバンドは淘汰されて行く事になる..
我々が生き残れたかどうか..まあ..それは何とも言えないけれど、
とりあえず海に入れば泳ぐしか無い..
 
いつまでも昔はよかったなんて懐かしむだけじゃ..しょうがないものね。
兎に角大二と話した事は
「コーラス中心のPOPな感じのバンドやろうか..」って感じだったかな..、
(大二はその時どう思ったのかはちょっと解らないけど..
「またつねやんが思い付きで..」位の気持だったんじゃないかな.(笑)。
 
よく解らないけど(笑)構造的には60年代と80年代で70年代無し!
もうあれから何十年も経った今は70年代だろうと、
そんなにこだわりを持つ事は無いと思うし..
いやむしろ今なら通過点として楽に捉えられたと思うけど...
その頃の自分達の心情からすれば..引きずる事は出来ないって
頑に自分に言い聞かせないと安易に流れそうだって気持もあったんだ..。

我々はつまり山口冨士夫、森園勝敏、小林克己と言った70年代に惨然と輝く、
名ギタリストをそのバンドの身内に擁していた訳で(笑)
ギターのLIVEに於ける重用さと反対にどうしても集まってしまう注目度こそ、
70年代の花と位置付けた次第で..
反面此の呪縛を拭い去ってこそ新しい物が作れるのではないか...と、
 
ともかく一応それじゃ..って感じで「デモテープでも作ってみる?」..という感じになって
他のメンバ-はどうするって話になった.
つまりさ..此の時点ではドラマー二人って事なんだよね..
それでも俺は馴染めなかったけど
大二は一生懸命通称「やおや」と呼ばれるROLANDの808を
説明書持ち歩いて勉強してたな
 
まあね、はっきりいえば
この時代は打ち込みなんて作業が中心になっていく訳で
あきらかにそういった物に職を奪われて行くだろうなという予感は
二人とも感じていた訳なんだ。
 
長沢ひろ

流石にドラマー二人
 それじゃやっぱり音にはならない..必要なのはやはりメロディ関係、
「そんじゃさ..キーボードは坂下に俺頼んでみるわ」と大二が言うので
「ベースは?」と聞くと
「ヒロに頼んでみるってのは?」って事で長沢ヒロに僕が電話する事になった訳だ。
 
長沢ヒロは安全バンド..浦和のロックンロールセンター(URC)のメインバンドで、
ハルヲフォン解散後、1人でLIVEHOUSE等に出演していた頃、
よくBASSを弾いて貰っていて、
自身のバンドHEROを解散した頃だったと記憶している)、..
電話をしたら長沢はこう言った「エ~ッ、叉かよ..」..(笑)。

BLUES BROTHERのメンバ-集めじゃないけど..
こういう電話の時の対応は色々ある、まあ..大きな声では言えないけれど..
「まっとうな暮し?」..
つまり長沢は作家としてジャニーズの近藤真彦等の仕事をこなしていた頃だから.
「招かざる客」..つまり私はその系統に当たる訳です。
 
それでも甘いなヒロ(笑)..私の攻撃は数分に渡り..
遂に「メンバ-ー.誰よ?」の一言を引き出した訳です..
「ギターはどうすんのさ..」..もうここまで来ればある程度任務は完了した訳です(笑)..
(まあ..余談ですが..1996年に再び鼓絆に於いて同じ状況が展開される訳ですが、
よく宴会の席でヒロと大二は恒田義見被害者の会を名乗る事があります。)
 

正直言ってその時点ではギタリストのあては無かったんだけど..
「凄いのが知り合いにいる..」等と上手くかわして..
長沢ヒロから「そんじゃ.2,3曲作ってみるわ..」の一言を引き出した訳です、..成功!。

う~ん、ギタ-かあ..、。
 
サーフライダース

寺田十三夫に連絡をとってみたんだ
彼とはやはりハルヲフォン時代に、スケジュールが開くと
京都のママリンゴって店で箱に入ってた
彼等のバンド、アルバトロスにまじって歌なんかやっていた事があって
 
どういう繋がりかというと
そのバンドのギターは小林克己
そして山岸潤史なんかがやっていたから
寺田君はスタンダードな営業物はあまりやっていなかったから
結構俺はなんでも曲こなせるという事で重宝がられたのかもしれない
 
その寺田君に声を掛けてみたら「やりたいね」って事だったので
早速2曲ほどデモのテープを作ったんだ
 
だけど、ちょっと何というか
寺田君には申し訳なかったんだけど
他のメンバーからは「ちょっとうちにはあわないんじゃ...」という声も
 
というのも寺田君のサウンドはウエストコースト系っていうんですか
あきらかに、イーグルスとかを連想する感じで
確かに良いっていや、良いんですけど
そういった感じは70年代にいやという程味わった訳で
もうちょっとギター、ギターしてない感じでやりたかったもので
 
まして時代はCDこそまだ出現してないアナログの最終末期
MTVなんて時代もそろそろって頃
確かにバンドのサウンドも大きく変わっていくそんな頃
やはりいかにものギタリストはどうかとの考えもあったんだ
寺田君にはその旨話をして
更に新しいギターを探す事になりましたんですわ
 
で、そこで提案が大二からあって
「まあ、ギターというよりはコーラスハーモニーがとれてかつギタリストって感じが
この場合良いと思うんだよね....
それでさ、植田さんのところのサーフライダースのギターの人どうかな?」
 
サーフライダーズはビーチーボーイズやジャン&ディーンなんかをよくやっていて
そのギタリストの植村は一番上のファルセットが強力だったのを覚えていたし
競演やゲストでよく顔をあわせていたので
それじゃ皆がよけりゃ俺が連絡とって見るわ
という事で植村に連絡をとってみると
「是非やりたい」という答えが返ってきて
更に「バンドで一緒にコーラスしていた河越もどうでしょうか?」
というオファーもきて
ここにバンドの原型はほぼ完成したといえるんですが
河越もやはりドラマーでして
ドラマー3人を要するコーラスバンドという布陣になってしまった訳ですわ
 
ネ-ミングは「みんな好きなアルファベット一文字書いて
テ-ブルに並べよう裏返しにして」..
せ~の!という事でPEGMOに決まった。
 
で、感じはコーラスハーモニー中心のポップなバンドやろうぜ..と言う事で、
という事でこの6名にて80年代ニューウエーブの海に
船を漕ぎ出した次第でございます。
 
デモの制作に
 
最初のデモテープは赤坂のスタジオで録音した、
段取りは長沢の関係で当時の徳間音工、バ-ボンのディレクタ-がしてくれた....、
 
デモテープも完成したのだから.当然徳間で..と思っていたんだが..
大二が「キャニオンがやりたがってるみたいだけど..どうする?」..そんな話を持って来たのだ。
 
当時四人囃子はキャニオンからリリースしていたから、その関係だったんだろう..
ディレクターにpegmoの話をした処..
「うちでやろうよ」..そんな感じだったのかも知れない..
当然バンド内でミーティングという事になり..話し合いの結果..
それじゃ兎に角もう一度、
キャニオンの仕切りでデモ作る事にしようと言う事に決定した。
 
バーボンの後の処理の件は長沢が処理した..
どんな話をしたのかは解らないけれど..
まあ.義理ってのもあるけど..その分は当時の業界自体が持ちつ持たれつ..で.
.まあ..あまり揉めずにすんなりとキャニオンとの契約に移っていけた訳だ..
もう内定はしていたのだけど..一応しきたり上、2曲のデモテ-プを作成して..
我々は1stアルバムのRECORDINGに入っていった。
 
あっ..と、そうそう..此処で必要なのは所属事務所..と言う事になる訳だが..
これも植村、河超のからみからCM制作会社のMUZACがその任に当たる事となった。
 
MUZACは元フィンガーズの高橋信之さんが社長をしていた会社で、
(幸広のお兄さんね)我々は此の会社のCMをよく手掛けた..
長沢は有能なCMライターになっていったのも
(例えば 赤いきつねと緑のたぬき、こんこんこんぶつゆ、とか
マンナンライフの蒟蒻畑とか)
此の時期の関係がうまく機能したんじゃないだろうか..
担当は山崎信英..我々は通称「やまちゃん」と呼んでいたけど..
彼が窓口となってキャニオンとの話は勧められて行ったんだ。
 
キャニオンでのレコーデイングに関して武岡氏がディレクターになって動き始めた、
武岡氏は紫なんてのを昔手掛けていて、その頃は「姫神」の担当だったかな..
そして吉田氏が宣伝担当に決まり..
一口坂のキャニオンのスタジオでRECORDINGが始まった。
そう。あの通称「たいやきビル」のスタジオをずっと押さえてね
 
此れは当時まだ珍しかったPCMという録音で
それはどういう感じかというとデジタルの走りみたいな録音機材..
で、RECORDINGは難航した..本当に心魂を注ぐ、と言った感じで録音したのだが..
これがね..笑うんだ。
 
RECも中盤に差し掛かった頃,Dがおもむろに「アーッ!」と声をあげたんだ..
で、聞いてびっくりさ..マスターチューニング442で合わした筈が、
メーターが壊れててさ..441になってる、つまり微妙に低く合わせてしまった訳..
もう取りかえしつかないよ..そのまま..続行!(笑).。
 
今聞いてもよく出来てるアルバムなんだけど..
惜しいよな..今でも大二と良く話すんだけど..
「本当に頑張ったけど報われなかったバンドだったよね」..って。
 
つまりそんな機材でマスターを作ってしまったもんだから
リマスターも不可
つまりレコードからCDの時代の変化に
その中間で宙ぶらりんになっちまった次第で
 
まあ、よく今もなんとか録音とか言って
最新の器材なんかを導入したりするけど
まあ、経験からいうと
最新鋭のとかであったとしても、慎重に考えた方がいいかも
あくまでも我々の経験からですが
 
PEGMOの殆どの楽曲はその根底に所属事務所がCM会社だった事もあり、
その内容も商品宣伝に役立つようなシチュエーション.
つまりTVのCMから音が聞こえて来たとき「おっ?」と思えるような言葉と、
サウンドが制作段階の時に頭にありまして、アルバム1枚まるまる11社競合、等と
だいそれた考えも持っていた訳です、
 
ダイエット食品に眼鏡業界、コーヒーSHOPに、HOTEL,介護施設(笑)..
まあ..それは此の次の作業に確かに繋がってまいりましたけれど
 

※そして企画物アルバムを一枚という感じだったような..
つまり、契約通りだと企画物のアルバム1枚作っている筈なんだ..
此れ記憶では物凄く良いコ-ラスと演奏だったような記憶が..
残ってないかな..CYANIONに...
SEE YOU IN SEPTEMBERとかSURFER GIRLとかを歌った記憶が。
 
PEGMOの1STシングルはアルバムからのCUTで恋のけじめに決まった..
 
で、次のやらなくちゃならない事は..つまりLIVEと言う事になる..
普通はLIVEを重ねて..デモテープを作ってオ-ディション受けて..
契約して、レコーディングって図式なんだろうが..
我々は、此の間のLIVE活動がなかった訳で..それじゃ..露出が難しいから、
速急にLIVEのメニューを作ろう、と言う事になって、
全員でLIVE演奏の為の合宿に入った訳です。
 
当時liveはオリジナル以外にも何曲かカヴァー物もやってました
トレモローズの「サイレンスイズゴールデン」とか
カウシルズの「雨に消えた初恋」とか。
コスチュームって程じゃなかったけど、
色は一応アルバムカラーのブルーとイエローで、
コーデイネイトするか?普通。

数回LIVE HOUSEで演奏したんですけれど...これはこれで(笑)、
つまりですな..PEGMOの音を聞いて来て下さる方は
まだそういらっしゃらなかった訳で、
四人囃子のファンだった方はやはりそれらしいものだろう..と期待なさる訳です、
又ハルヲフォンのようにノリ乗り大笑いって感じでもなく..
HEROや安全バンドのようなハードな感じも..無し...男性コーラス(笑)。
 

これはやはり相当強い意志と確固たる自信に裏打ちされていないと...(笑)
いやストイックに徹底致しましたよ..しかしながら聞く方にとっては、
やはり、どう対処していけば良いのかと...そんな感じであったのは事実です。

しかし..もう一つの新しい分野と言う意味では..
我々は70年代には考えられなかった演奏の露出領域にも
少しずつ進出していった訳ですわ。
 
そいつはね...子供達へのアプローチ(笑)..考えられないですわ...
ROCK=アウトサイダーって感じで育ったもので....
いってみよ~!「ひらけ~!ポンキッキ!」....
マア....簡単に言えばROCKのお兄さん達...ってとこですかね...。
 

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