おしさしぶりに なりましたっ
いつもとなんら 変わりのないワタシです
と 云うことにいたしますので こんばんwa
実は おはようございますだったり
お天気つづきのある日の横浜で 三渓園へゆきました
この横浜 三渓園は 、 国の重要文化財に指定されています
10代にならない頃から papa のお仕事の関係で近所に連れられて
ここの良さを知ってはいたものの
足を運ぶことは一度もありませんでした
日本には 良いところが沢山ありますね
毎日 なんの役にも立たないプライドや 小さな後悔を
“ そんなの必要ない必要ない ” あふらっく
て 想えるほど 緑と音がステキな処でした
三渓園 という名の由来は この土地からきたもの
と思っていたら そうではありませんでした
生糸貿易で財を成した 原 三渓(はら さんけい)の所有地ですが
元はこの 原 三渓が結婚した妻の 祖父( 原 善三郎 )が 広大なこの土地一帯を購入
ふむふむ 、三渓にとって 善三郎は養祖父ということなのですね
その三渓とは改名で 本名は 富太郎 、富太郎自身
生まれは岐阜県 、 代々 庄屋をつとめた青木家の長男で生を受け
幼少から漢学・詩文・絵 ← のちに重要文化財になる引金のもと
と 学び 、とても堪能な人物でした
妻と結婚を( 明治24年に ) して原家に入籍したあとは 家業を継ぎましたが
個人商社だった原家を 合名会社に改組していったそうです
実業家で成功を成し得た三渓は 、 この横浜三之谷へ移居
さまざまな面を持ち合わせた三渓は 、古建築の移築を始めました
明治39年には この三渓園を無料開放して
美術品や陶芸家の支援・育成をされたそうです
また 関東大震災後は 横浜の復興へと力を注いだとのこと
この三渓園に京都ゃ鎌倉から古建築を移築したり
自身で “ 書 ” ・ “ 画 ” をも嗜むので これらはこの庭内
三渓記念館に収納されていました
ちなみにこの横浜 本牧にある三之谷に在する三渓園
明治20代に 原 善三郎が園内に “ 松風閣 ” (山荘)を建てる
そののち 原 三渓(富太郎)は 原家本宅 “ 鶴翔閣 ” を建てる
ここから 善三郎が三之谷の地名を 三渓 と号した
そんな とてーもゆかりがあるなんて
三渓園 てあたり前に呼んでいたけどさぁぁぁ
三渓が深くて 三渓に改名して だから三渓園
なんだか more than いいイイって感動しました
11月になりますと 三渓園でも紅葉がみられます
おデートに いかが ? るんるん ♪
またねん ♪